No.1580 宗教・精神世界 | 神話・儀礼 『天河大辨財天社の宇宙』 柿坂神酒之祐、鎌田東二共著(春秋社)

2018.08.07

 『天河大辨財天社の宇宙』(春秋社)を読みました。「神道の未来へ」というサブタイトルがついています。共著者の柿坂神酒之祐氏は、 昭和12年奈良県吉野郡天川村に生まれ。現在、大峯本宮天河大辨財天社第六十五代宮司。天河神社の掃除人。鎌田東二氏は、昭和26年徳島県生まれ。上智大学グリーフケア研究所特任教授。京都大学名誉教授。

   本書の帯

カバー表紙には天河大辨財天社奥宮遷座祭、裏表紙には神代鈴(五十鈴)の写真が使われています。帯には「”神道の心”とはなにか。はたまた”修験の心”とは。不可思議と豊饒の世界へ!」と書かれています。

本書の帯の裏

 また帯の裏には、以下のように書かれています。

「この『ふとまにかがみ』のメッセージと、『まほろば』のメッセージがどのようなむすびを生み出したか、その三十四年の流れの一端を本書で示しながら、日本文化と神道の潜在力と未来を構想したい。・・・・・・天河大辨財天社は芸能・芸術の女神をお祀りした神仏習合の神社であるが、その天河神社自体がアートである。そして、そこに奉仕する天河大辨財天社の柿坂神酒之祐宮司は類稀なるアーティストである。そして、その天河神社はアート神道としての未来モデルを示している。柿坂神酒之祐宮司はアートプリーストとしての神職の未来モデルを示している。・・・・・・(本書より)」

 さらにアマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。

「〈神道〉とはいったい何か。神仏習合の一大拠点、謎の奈良吉野・天河大辨財天社をめぐって、〈神道の心〉と、これからの〈宗教〉の未来を展望する。柿坂神酒之祐宮司と鎌田東二教授の絶妙のコラボが開く、〈神道〉と〈修験道〉と〈神仏〉の不思議の世界とは」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

はじめに(鎌田東二)
第1部 神道のこころ(柿坂神酒之祐・〈聞き手〉鎌田東二)
第一章 神道のこころ
    お掃除の精神
    太占のこころ
    神主道
    霊的和解
    神社は宇宙ステーション
第二章 お掃除に生きる―わが半生の記
    「ごんた」の子ども時代
    「ごんた」の青少年時代
    天河神社の掃除人となる
    最初のご祈祷体験
    円空仏の発見
    神業者と言霊
    春日体験
    掃除哲学
    登校拒否児を預かって
    昭和五十六年のご開帳
第2部 新・神仏習合の一大拠点―天河大辨財天社考
(鎌田東二)
第一章 新・神仏習合文化の実験場・天河大辨財天社
第二章 宗教の未来―神仏習合文化と修験道が問いかけるもの
おわりに(柿坂神酒之祐)

   『遊びの神話』(東急エージェンシー)

 本書の共著者である柿坂神酒之祐宮司に最初に出会ったのは、神社ではなく、奈良の近鉄・八木駅でした。1990年の12月18日、わたしは鎌田東二先生を八木駅でお待ちしていました。天河大辨財天社を一緒に訪れるためです。その前日、わたしは伊勢市で講演をしました。当時、プランナーとして翌年に伊勢市で開催される「世界祝祭博覧会」のイベント企画の仕事をしていました。拙著『遊びの神話』を読まれた伊勢市市議会議長(後に伊勢市長)の中山一幸氏のお声がけによるものでした。その流れで講演の依頼も受けたわけです。同じ日に、鎌田氏も京都の国際日本文化研究センターで「日本神話における他界観の形成」というテーマで研究発表をされることになっていました。そこで互いに、それぞれ伊勢と京都での所用をすませて、どちらから来るのにも都合がよく、また天河への経由地に当たる八木駅で落ち合うことになったのです。

   天河大辨財天社(撮影:一条真也

 八木駅で待っていたら、鎌田氏がもう1人の連れの方と現れました。わたしが「誰だろう?」と思っていたら、なんと、その方が柿坂宮司だったのです。聞くと、京都駅で鎌田さんと偶然出会い、そのまま二人で来られたとのこと。柿坂宮司は、長らく天河にいるけれども、こういう奇遇はないと驚かれていました。わたしたちは、なんだか「未知との遭遇」に直面しているような不思議な浮き立つような気分のまま八木駅前からタクシーに乗り込みました。大きな峠を2つ越えて、途中で丹生川上神社に立ち寄って参拝し、1時間あまりで目的の天河大辨財天社に着きました。

   柿坂神酒之祐宮司(撮影:一条真也

 その夜、しんしんと降る雪をながめながら、3人で夜中の3時過ぎまで酒を飲み、語り合いました。鎌田氏は今ではお酒をまったく飲まれません。しかし、その当時は想像を絶するほどの大酒飲みでした。鎌田氏と柿坂宮司の会話は、本当は人間が空を飛べるとか、満月の夜は気が満ちすぎていて滝に打たれると怪我をするとか、とにかく大変刺激的な内容でした。わたしは、当時26歳で、今から考えると若造でした。しかし、わたしは自分のやっているリゾート開発の話題に触れ、「乱開発はよくない、特に木を切ることはよくない、日本人の心である『国体』というソフトを守るためには、まず『国土』というハードを守る必要があるのではないか」といったようなことを述べた記憶があります。
 柿坂宮司の声はとてもソフトというかマイルドというか瞑想的で、その声を聞いているうちにたまらなく眠くなりました。宮司の声には催眠効果ならぬ誘眠効果があるようです。古来、すぐれた宗教家というものは、みな美声の持ち主であったとか。天河大辨財天社とゆかりの深い空海などが代表格とされています。柿坂宮司の声にも、何か人の心の奥底に入り込む秘密があるような気がします。
 また宮司は、とても懐の深さというか、包容力を感じさせてくれる方です。
 その人柄を慕ってか、全国から「宗教」や「スピリチュアル」に関係のある人々が天河にたくさん集まってきます。中には世間を騒がせた新興宗教の元信者なども来るようですが、宮司は相手が誰でも分け隔てなく接し、彼らに道を説くこともしばしばだそうです。

 さて、本書『天河大辨財天社の宇宙』の「はじめに」の冒頭を、鎌田氏は以下のように書き出しています。

「今から34年前のこと。1984年4月4日、清明の日にわたしは初めて天河を訪れた。以後34年、間断なく、300回近くも天河に通うことになるとは思いもかけなかった。大げさに言えば、この日、わたしは運命の曲がり角を曲がったのだった。天河縁を結び固めることになる・・・・・・」

 また、鎌田氏は以下のようにも書いています。

「高野山や熊野にも山深く通じる、この日本のシークレット・ゾーンの要に当たる天河に来たのはほかでもない。天河大辨財天社の参拝はもちろんのことであったが、それ以上に、三島由紀夫の『霊界通信』をどう『審神(さにわ)』るのかを確かめたかった。このとき、わたしを天河に向かわせたのは三島由紀夫の『霊』だったのだ」

 いきなり三島由紀夫の「霊界通信」という言葉が登場して当惑する読者もいるでしょうが、鎌田氏は以下のように説明します。

「1983年の年の暮れに、わたしは心霊研究家の畏友梅原伸太郎氏から数冊の和綴の本を見せられた。それは、横浜に住む30代の主婦に『霊界』から三島由紀夫が送ってきたという通信を記したものだった。自動書記で書かされたというその和書は書き直しなどまったくない端然とした書体で、日本を『真のまほろば』にせよというメッセージが記されていた」
「まほろば」とは、『古事記』の中で、ヤマトタケルノミコトの詠った国偲びの歌に出てくる古語で「うるわしい土地・場所」を意味します。

 ヤマトタケルは、三重県鈴鹿郡能煩野の地に至り、亡くなる前に故郷の大和を望郷して、「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し うるはし」と詠ったのでした。「わがふるさと大和は、この国の中でも本当に一番すばらしいところだ。周囲が何層もの山々で囲まれ、とても心休まる落ち着いたところ。その美しい大和が懐かしく想い出される」という意味ですが、鎌田氏は以下のように述べます。

「ヤマトタケルノミコトの辞世の歌とも言えるこの歌のキーワードが『まほろば』である。『真秀呂場』。美しく素晴らしい優れた処。そんな処に日本を造り変えよ、というのが三島由紀夫の『霊界』からのメッセージなのだった。以来、35年、この『日本まほろば化』プロジェクトはわたしの中で燠火のように燃え続けている」

   『リゾートの思想』(河出書房新社)

 横浜に住む30代の主婦とは太田千寿氏であり、彼女が三島由紀夫から受けとったという霊言は、『三島由紀夫の霊界からの大予言』という本にまとめられました。同書を一読したわたしも大いに感ずるところがあり、「日本まほろば化」プロジェクトに身を投じました。わたしは勤務していた広告代理店を退職し、自ら「ハートピア計画」という企画会社を起業しました。そして、『リゾートの思想』を上梓し、自分なりの「理想土」=「まほろば」のビジョンを描きました。また、拙著『ロマンティック・デス~月と死のセレモニー』では、『三島由紀夫の霊界からの大予言』の内容からも引用しています。

   『天河曼荼羅~超宗教への水路(チャンネル)』(春秋社)

 1994年7月に『天河曼荼羅~超宗教への水路(チャンネル)』という本が春秋社から刊行されました。天河に縁を受けた人々が、天河の危機に立ち上り、それぞれの天河体験を語りつつ、「宗教」の形をとらない精神・霊性の道を探るシンポジウム記録集で、鎌田氏と津村喬氏が編者でした。同書にはわたしも寄稿しており、「まほろば」というキーワードを使って以下のような文章を書きました。

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心のリゾートとしての「まほろば」

一条真也(プランナー・ハートピア計画代表)

 鎌田東二氏に誘われて初めて天河を訪れたのは、1990年の暮れだった。天河大弁財天社には以前から一度行ってみたいと思っていた。奥吉野の山中という秘境にありながら年に一回の御大祭において、実にバラエティに富んだアーティストたちが参加し、音楽を奉納する。そのために宿泊施設もろくにない山奥に数千人という人間が集まってくる。そんな話をいろんな人々から聞いていたからである。イベントやリゾートにおける人集めのプランを毎日のように考えていた私にとって、「テンカワ」はとても気になる場所だったのである。
 天河を訪れてみて、私は、この場所こそが日本人の真に求めている心のリゾート=ハートピアであると感じた。私は当時、数多くのリゾートつくりに関わっていたが、ハード先行のリゾート開発に強い疑問を抱いていた。本来、癒しの場所であるはずのリゾートが自然環境を破壊し、エコロジーと敵対するのは間違っていると思っていた。私はリゾートの本質を、理想の土地、すなわち「理想土」だと捉えている。「理想土」は人々の病んだ心身を癒す生命力の基地として「気地」でなければならない。そして、その「理想土」「気地」のイメージは「まほろば」という言葉に集約される。天河こそ「まほろば」である。
 「まほろば」のキーワードとして注目すべきものに「芸術」や「遊び」がある。芸術とは、神に対するわざおぎに他ならない。天河は芸術の神・弁財天をまつられているが、「まほろば」の具体的なイメージは芸術村に近いと言えよう。真に美しい場所とは、美しい自然というハードに、美しい人間というソフトが兼ねそなわった場所だろう。美意識こそ人間の根本にあるものだ。自然との出会い、そして神との出会いによる深い感動、それはそのまま創作意欲へとつながっていく。すべての人間は、潜在的にアーティストなのである。そこに生まれるアートは「神遊び」と名づけるのがふさわしい。神との遊び、これこそ「まほろば」で営まれるアートであり、また「芸術」本来の姿なのだと思う。芸術の神をまつる、神遊びの聖地・天河。美しい地球の雛形としての「まほろば」・天河。われわれ日本人の、いや、宗教や民族を超えた地球人類にとってかけがえのない心のふるさとである。

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 『天河曼荼羅』と同じ春秋社から刊行された『天河大辨財天社の宇宙』の第1部「神道のこころ」の第一章「神道のこころ」では、鎌田氏を聞き手とした柿坂宮司の語り言葉が紹介されています。
 その中で、以下の言葉がわたしの心に残りました。

「夜の山道では、全体が真っ暗で懐中電灯を持っていないといけないのに、持っていない。けれど、星の光の明るさがぱっと照らしてくれるような、そんな状況になる。明けの明星、宵の明星が光のようにぱっと差してきて、先導してくれるような。そんな不思議な思いを何度もしました。
 そして、ふと、ここだと思ったら、光りとか鹿とかが現れて。不可思議なことがいくつも起きてくるんです。そんなことを、私は崇敬者にも霊能者にも一回も話したことはなかった。自分がそんな状況にあるというのは、またそれが誤解されたら困るので、自分の中にだけ納めていました。
 しかし、鹿が案内してくれるなんて。普通だったら逃げるでしょう。弥山の上まで案内してくれたんです。現実の鹿ですよ。そのとき、役行者もこういうことがあったんだろうなと思いました」

「どうして辨天さんは修験道と関係するのか、不動明王を前にして護摩の火を焚くのに、なぜ不動明王を本尊にしないのか。この辨天信仰というのは、非常に古い信仰ではないでしょうか。この水の信仰というのは。
 そして、そのときには、儒教、道教、仏教というのが日本に入ってくるわけです。空海の先生筋は道昭(どうしょう)でしょう。そして、道邃(どうすい)は最澄の先生なんですよ。ところが、一般には、道昭とか道邃という先達の名前を挙げることをしないから、私は不思議でしようがない。空海のことは言っても、道昭のことを言わないのはおかしい。最澄もしかり、教えの親がいて、その後に続いて、流れができてくるんですから。
 だから私は高野山のお坊さんたちに言うんです。道昭さんを勉強しなさいと。道昭さんの影響を受けているのが空海なんだから。道昭は橋も架けたり、いっぱいしているんですよ。空海が橋を架けたり、建設事業をしたと言っているけれど、道昭さんが教えた道をきちっと勉強している。道昭の姿を見て勉強してきた。その前には師匠がいるはずだ。その師を尊ぶということが非常に大事なことではないか。いま、真言宗は空海、天台宗は最澄が開祖ということになっているけれども、宗教的にはそれでは不自然なんですね」

「これからは、経営も大切なことはよく理解しているんですよ。神主に経営の力がないとできないこともよく分かっています。
 私は、肉体は滅びたとしても、魂は永遠に生きると思う。もちろん肉体は時がたったら、年齢を取れば大地に帰っていく。しかし精神は自分が歩いてきた足跡だと思うんですよ。魂は天界から降ってきたわけだから、天界に帰っていく。いつも見守っているのです。その信念さえ持ち続けたら何の心配も要らないのではないか、というのが私の考え方です。
 天川のような寒村は、東京から来るのも距離的に遠い所ですよね。東京というところは人口がどんどん増えていく。ほかが減っても統計学的にそうなっている。東京という言葉がよく出てしまうんだけれども、天川に来るには距離感が非常に遠い。遠いということは経費もかかるということです。洗練された人たちがやってくるには、100年たっても煌々と輝くようなものでないと、通常の神社であっては、とうてい祀る人もいなくなってしまうだろうと。その考えがいま必要なんだと私は思います。100年先にどう生きるかを考える時です」

 また、柿坂宮司は、「私は自分に定めているのは、この世の中の一番の大ばかやろうものだと。あほの大ばかやろうものになり切っていく以外にないと。それが私の本当の信条なんですよ。ばかかと言うときもありますよ。でも、憎くて言っているのではない。だから、大ばかやろうものになっていくしかない。平和を求めるのも、大ばかやろうものになったら、相手の心と通じていく。パレスチナもそうです。その問題もみな両方とも賢すぎるから。やはり原理を話すと、どうしても対立になりますから」と述べています。
 「どうやったら大ばかやろうになれるんでしょうかね」という鎌田氏の問いに対しては「まことごころですよ。それしかない。そんなところに和解の神様もはたらく感じがします。水の神様の弁天さんのはたらきと力のように」と喝破します。

 それを聞いた鎌田氏は「そうかもしれませんね。水の力というのは、全て清めていく。全てを循環させていく、一番もとのもとですから、水で清め流すことができれば、溶かすことができますね」と述べますが、柿坂宮司は「できます。水はあらゆるものにかたちを変えられる。液体、気体、固体にもなる。だから、水の力と水のあらわれはヒントになる。水はばかにもなれるし、賢くもなれる。だから水は泥にもなって、津波のような、真っ黒な波にもなれば、本当に清流の流れにもなって、すべてを清めていくわけです。それが、いのちのもと。水がなかったら、いろいろ生き物が生きていけないではないですか。その『水の心』が天河の精神であり、それがお掃除であり、太占であり、探湯盟(くがたち)ですね」と述べるのでした。これは、わたしにとって、とても説得力があり、腑に落ちる言葉でした。

 そして、「神社は宇宙ステーション」という興味深い言葉が紹介されます。両者の間で以下のような対話が交わされます。

〇鎌田 今年、平成30年(2018)は、平成元年(1989)にご造営なって30年目となる節目の年です。そのご造営の前に、丹波の元伊勢の伝承を持つ大江山の皇大神社内宮から土を運んで、そこにさまざまなご神宝類を埋める「玉鎮め」の神事を執り行いました。その神事の祝詞の中で、宮司さんは「神社は宇宙ステーションなり」と朗々と奉唱されたのですよ。びっくり仰天すると同時に、そうだ、その通りだと、膝を打ちました。

〇柿坂 玉鎮めの神事の宝物は、一万年たっても腐らないもの、さびないもの、純なものです。プラチナとか純金とか。全部で千五百何点かを奉納埋蔵しました。そのとき、祝詞で「神社は宇宙ステーション」と言ったということですが、まあ、宇宙ステーションのように思いましたね。神奈備(かんなび)で、宇宙から降ってくるのだから。まるで、宇宙ステーションですよ。それは神社の本質ではないですか。神霊の中継点。お神輿の渡御(とぎょ)と巡行は、宇宙船の運行です。神霊の旅路に仮宿泊する御旅所は、まさに宇宙ステーションそのものですね。

 第二章「お掃除に生きる」では、自らを「天河の掃除人」と呼ぶ柿坂宮司に対して、鎌田氏が次のように述べています。

「宮司さんが掃除が非常に好きだというか、大事だというのは、私が最初に天河弁財天社に参拝に来たのが昭和56年のご開帳の3年後の昭和59年(1984)4月4日でしたが、そのときにも大変印象深くうかがったお話でした。そのとき、私は太田千寿さんの霊界通信のことをお訊ねしたのですが、宮司さんに『審神(さにわ)って何ですか。どうするんですか』と聞いたときに、『審神は掃除から始まる』ということを言われた。そしてそれが『太占(ふとまに)』であるとも。
 ふと掃除をしているときに表れてくる現象や出来事がある。それが自分にとって審神になる、というようなことを言われたんです。太占と審神と、それからお掃除との関係ですね。心を清めるということにも通じるんですが、感覚を磨くというか、無心になって物事に対処する、その心。それがお掃除の中にある、と。考えてみれば、それは、神道の根本をなす禊とか誠とか正直・清浄に、全部通じていくと思ったんですね。そのことを改めて思い起こしました」

   わたしの写真に不思議な光の玉が!(撮影:柿坂神酒之祐)

 わたしのブログ記事「天河大弁財天社」に書いたように、わたしは3月26日に天河大辨財天社を20年ぶりに訪れました。翌27日の早朝、鎌田氏が吹く法螺貝の音で目を覚まし、6時からの朝食前に宿泊している民宿から歩いて天河社へ参拝に行きました。早朝の天河の山頂には霞がかかり、神域には清々しい気が充満していました。ちょうど、鳥居のところで箒を持って掃除をされていた柿坂神酒之祐宮司にお会いしました。わたしが写真を撮っていたら、柿坂宮司が「写してあげましょう」言って下さり、なんと柿坂宮司にわたしの写真を撮影していただきました。まことに恐縮しました。後で写真を見てみたら、光の玉がたくさん写っていて、ビックリ! なんなんだ、この光の玉は?!

 本書には、柿坂宮司の以下の言葉が紹介されています。

「光の写真とか、いっぱいあるでしょう。あれは完全に私は科学だと思っているんです。科学的な現象なんだと。物理現象だと。よく昔の本を見たら、開祖たちがこういう光が出ていたとか、それに憧れて皆、興味を持つんだけれども、それがいま、デジタルカメラで無数に撮れていくような状況があります。ここにもそんな写真を皆さんが奉納してくれます。その写真は全部残して、きちっと箱に入れて、保存してあるんですけれども。そんなふうなのは、私はまったく興味がないんですよ。昔からないんですね。それは科学的な現象で撮れた写真だから、それを神様に引っ掛けたら失敗するという考え方がどうしてもあるんです」

 うーむ、なるほど・・・・・・光の玉は科学的現象なのですね。
 くれぐれも、「オーブ」などと言って騒いではいけませんね。

 第2部「新・神仏習合の一大拠点――天河大辨財天社考(鎌田東二)」の第一章「新・神仏習合文化の実験場・天河大辨財天社」の冒頭では、1「『精神世界の六本木』天河」として、鎌田氏が以下のように述べています。

「昭和50年代の中頃、1980年代の初め頃から天河は注目をあびてきた。そして、平成元年(1989)のご造営後、それはいっそう広がりを見せた。雑誌やテレビや新聞や映画で取りあげられる機会も急激に増え、それにつれて、天河を訪ねる人々も急増し、とりわけ自由とスピリチュアリティを求める若者の参拝が増えていった」

 鎌田氏は、その天河大辨財天社が今日のように注目をあびるようになったプロセスを以下の3つの段階に分けて、示します。

(1)霊能者たちの天河「発見」の時代
(2)アーティストたちの天河「感応」の時代
(3)若者たちの天河「探遊」の時代

 鎌田氏によれば、第1段階の「霊能者たちの天河『発見』の時代」は、「霊媒」(medium)による天河発掘の時代でsitaが、第2段階以降の「アーティストたちの天河『感応』の時代」以降、彼らがかかわっている各種「媒体」(media)に天河の情報が乗って多様な方向へ伝わっていったといいます。情報のフローという観点から眺めると、天河大辨財天社は「霊媒(ミーディアム)」から「媒体(メディア)」へと情報回路をシフトしてきたといえるかもしれないというのです。

 3「神仏習合の再生」では、鎌田氏は社家の柿坂家について言及し、以下のように述べています。

「柿坂家は役行者に仕えた鬼童の一人・前鬼の子孫だと伝えられる。そのため、毎年二月の節分祭では『鬼は外、福は内』とはけっして唱えず、『福は内、鬼は内』と唱えるという。
 また、宮司家ではその夜、『鬼』を迎えるための神事を行なう。座敷に『鬼』の寝所を設け、枕元に握り飯と箸とお茶を置き入口には水を張った手桶を置いておき、神主は一晩中寝ずの番をする。明け方、寝所をあらためると、『鬼』が来訪した証拠に盥(たらい)の中に土や砂が混じっているという。もしその痕跡がなかったならば、「鬼」は訪れなかったということであり、そのとき宮司は神を祀る資格を失い、宮司職を降りるという。
 この民俗行事がいつごろからつづいているか、定かではない。しかし奥吉野の山中でこのような「鬼」を迎える儀式が今なお行なわれているのはたいへん興味深い。折口信夫ならばこの行事を見て、『マレビト』の『オトヅレ』だと自説を唱えるであろう。あるいは他の民俗学者は、能登に伝わる『アエの事』の神事との共通性を指摘するかもしれない。いずれにしても、この『鬼』迎えの行事は、春の訪れを告げる神霊をお迎えする儀式としての特徴をそなえていることは確かである」

 また、「霊能者による天河発見の時代」が描かれます。
 それは、蜂須賀弘澄、浜本未造(橘香道)、新海史須江などによって、これまで神仏分離令以降、封じ込められていた天河弁才天を再発見し、また再発掘しようとする過程でした。昭和28年、新海史須江は「これからこの世を救うのは天の河というところに祀られている弁才天である。この神しか世を救うことはできない」という弘法大師の啓示を受け、天河を訪れました。昭和41年、蜂須賀弘澄は「龍宮城はここですか」とたずねて来ました。昭和45年には浜本未造(橘香道)が訪れ、天河弁才天と玉置神社を世に出す動きを行いました。昭和46年には前田将博が参拝し、この年、天河大辨財天社は決定的に世に開かれることになります。この年に、参拝に来た霊能者のなかから南朝慰霊祭を行う話が持ち上がり、7月16日、17日の例大祭の時に南朝慰霊祭が執り行われたからです。

 また、鎌田氏は以下のようにも述べています。

「天河大辨財天社の魅力と潜在力は、明治元年に制定された神仏分離令以来忘れられてきた『神仏習合』の世界をきわめてラディカルに現代によみがえらせた点にある。『神仏習合』のみならず、宇宙論、UFO、オカルティズム、気、霊学、神秘主義、エコロジー、フェミニズムなど、『精神世界』や科学とも貪欲に結びつく創造的シンクレティズムを果敢に押し進めた点にある。それには柿坂神酒之祐宮司のキャラクターやパーソナリティにあずかる点が多い。しかしながら、それとともに、天河という場所が日本の習合文化の一拠点であった歴史も忘れてはなるまい。むしろこの歴史と地場があってこそ柿坂神酒之祐宮司のパーソナリティも存分に発揮できた。歴史と場所と人の三位一体が天河の面白さを引き出した源泉である」

 霊能者の「神集い」(参拝・集会)の中心者の1人であった新海史須江は、浜本未造に本を書けとの「言霊」(啓示)を出し、昭和48年に浜本は『万世一系の原理と般若心経』を上梓します。同書は「産経新聞」の文化欄で取り上げられ、天河社が世に知られはじめるきっかけとなりました。そこには、『古事記』の世界とユダヤ教とムー大陸伝承と『般若心経』の世界との奇妙なアマルガムが語られています。たとえば、浜本は『般若心経』について以下のように書いています。

「般若心経は、何万年も前に、ムウ大陸の王が、月読命に託して、末法の時に全人類を初めあらゆる生きとし生けるものが、次の世界に渡る時に一切空になって、生れ変わる為に用意された秘文なのであります。月読命は、アフガニスタンにその原文を残して、代々その子孫に伝えて来たのですが、年を経るに従って、その真意が失われ、ただ言葉だけが伝えられて、秘義は忘れ勝になっていました。(中略)それを今から三千年前に、玄奘三蔵法師が霊覚して、アフガニスタンにその原文を探しに行ったのですが、これが今日西遊記の物語として伝えられているのです。印度に渡った玄奘三蔵法師は釈迦族に、これを伝えたのであります。シッタ太子(釈迦)は、この経文の真理に打たれ妻子も王位も城も捨てて、般若心経の秘義を極めたのです。そして万巻の教説として、衆生を救いの道に導いたのであります」

   『般若心経 自由訳』(現代書林)

 ここには、学問的な常識とされ、歴史的事実とされている観点からすれば、驚くべき奇想天外なことがらが記されています。『般若心経 自由訳』(現代書林)を上梓したわたしもビックリ仰天の内容です(もっとも、わたしは天河とゆかりの深い空海の『般若心経秘鍵』を基に自由訳を行いました)。鎌田氏も、「いったい、どこで『古事記』の月読命とムー大陸と『般若心経』が結びつくのか。筆者は『般若心経』を『何万回も唱えて、何千枚も書写している間に、自然に経文の秘義が理解出来て来る』という。この『秘義』の『密教』的解釈を解き明かしたものが右の書物だというわけである」と述べます。

 浜本未造は続いて、『終末世界の様相と明日への宣言』、さらには『人類は生き残れるか』を出版し、啓示に基づき、神道とユダヤ教とムー大陸伝承と仏教とのミックスした独自の習合思想を展開しました。浜本によれば、日本―神道―天照大御神(太陽)―フトマニ・言霊の波動と、インド―仏教―月読命(月)―慈悲・謙虚の波動と、イスラエル―ユダヤ―キリスト教―須佐之男命(地球)―繁栄・生命躍動の波動・戒律との3つの流れが統合された時に、千々に分かれた原初の「ムー文化」が再統合され、「岩戸開き」が起こるといいます。これについて、鎌田氏は「中世の吉田神道の説いた神道(日本・日の国)が種子・根本で、儒教(中国・星の国)が枝葉、仏教(インド・月の国)が花実であり、仏教が日本に東漸・伝来するのは、その種子が花となり実となってもとの根に帰ることであるという『根本枝葉花実説』にもよく似た主張である。中世的な金胎両部不二和合の思想が、ここでは天地月・神仏基和合・習合として説かれることになる。天河の地場と歴史には、こうした一見荒唐無稽ともみえる、異質な思想や流儀のアマルガム的習合化を可能にする不思議なエロス的力がある」よ述べています。

 「霊能者による天河発見の時代」に続いて、「アーティストによる天河『感応』の時代」がありました。鎌田氏は以下のように説明します。

「宮下富実夫、細野晴臣、美内すずえをはじめ、多くのアーチストや芸能人が天河を訪れているが、そこでは現代の不思議物語が拡大生産され、幻視的シンクレティズムが拡大深化していっている。そこにはいうまでもなく柿坂宮司のパーソナリティが関与しているが、そればかりでなくやはり天河という場の歴史的伝統と特性が強くはたらいているといえるであろう。音楽評論家の湯川れい子は天河のことを『強い磁場を持つ霊場』と評しているが、天河は現代日本の聖地・霊場としてはきわめて特異な性格をもっている」

 「若者たちの天河『探遊』の時代」では、柿坂宮司の霊界体験が紹介されています。昭和59年2月16日の午前11時55分から翌2月17日にかけて、柿坂宮司は「霊界入り」の体験をし、それによって自分が決定的に変化したといいます。それまでのすべてを懺悔し、神に不敬を行なってきたことを心の底から詫びたあと、ストンと「向こうの世界」に入ったというのですが、そのあとの体験はおおよそ次のとおりです。

「黄金の階段を下っていくとステーションがあって、ここから宇宙へ飛び立っていくのだということがわかった。駅の後側はダークグレイで暗い。先祖や皆はどこへ行ったのか? 探そうとするが誰もいない。しかたなくそこから飛び立って地球を何周もした。ふと気づくと午前10時で自分の家にいた。それからいろいろなものが見えるようになり、九州の湯布院に渡った。そこで三島由紀夫との交信に入った。三島は「富士神界を治めてくれ!」と叫んだ。「佐藤がおる」と答えたが、あちらへ行きそうになるので怖くてしょうがなく、眠ることもできない。その後、天河に戻ると『ペントハウス』の記者が太田千寿さんを連れてきて天河に入っている。彼女の自動書記の中に私が霊界で見てきたのと同じ内容のことが書かれていた」

 柿坂宮司によれば、このとき自分は死んでおり、葬式を出そうかという話まであったといいます。柿坂宮司は臨死体験を持ったのでしょうか。鎌田氏は、「柿坂の体験のとの部分が三島由紀夫の霊界通信と共通するのか定かではないが、おそらく三島が日の本の中心的磁場である富士神界を守り『真秀呂場(まほろば)』をつくるように伝えたことが共通しているのであろう」とし、さらに「『霊界を見てきた』と語る柿坂宮司の話で興味深いのは、まるで宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のなかに出てくる『銀河ステーション』を連想させる点である。河合隼雄は、ジョバンニの『銀河鉄道』の旅の体験が臨死体験だと指摘したが、私もそのとおりだと思う。柿坂宮司の『宇宙ステーション』は、『銀河鉄道』とは異なり、地球軌道であるが、それにしても霊界参入が宇宙体験であったという点が興味深い」と述べています。

 4「習合文化としての天河文化」では、鎌田氏は天河再興の背景と特質として、以下の5つの点を挙げます。

(1)高度経済成長をひた走る日本社会の深層に潜む埋蔵文化を発掘し見直そうとする、アンダーグランド運動の存在。
(2)神仏習合文化の再発見
(3)奉納芸能の豊富な拡がり
(4)柿坂神酒之佑宮司のキャラクターやパーソナリティ
(5)天河社の地縁・地統のユニークさ、面白さ

 この中で特に興味深いのは(5)です。鎌田氏は述べます。

「天河社には本殿下に巨大な磐座があり、その磐座の中心には穴があいていて地下水脈に深く通じているとか、そこには八大龍王が住んでいるとかの伝承があったが、本殿の建て替えに際してこの磐座と龍穴が露わになったときは一同大いに驚いたものである。これほど立派な磐座が本殿下に隠れているとはほとんどの者が知らなかったから。天河社の地形・風水を見ると、まさに金胎両部、男女冥会・陰陽和合の地であることが誰の目にも明らかである。これほど意味深長な地名・地統をもつところも少ないのではないか。『坪の内』という地名も壺中天の話を連想させるが、河合い、谷合いの地にある天河坪の内はまさに壺中天の小宇宙と呼びうる場所である。それを柿坂宮司のように、『宇宙と大地をつなぐ場所』とも『宇宙船』とも言ってけっして過言ではないであろう」

 続けて、鎌田氏は以下のように述べています。

「森、川、山、風、星・・・・・・、自然の調和協働という事態をこれほど素直に実感させる場所は今はそれほど多くはない。そのことが、霊能者の『テンカワ探し』やアーチストの『テンカワ感じ』や若者たちの『テンカワ遊び』を引き出し誘導してきた原由ではないか。そしてそこが弁才天に仕える『十五童子』の磁場であることを私は興味深く思うのだ。確かに、天河は『童心』に還ることのできる場である。
 こうして、1980年代から大きな注目を集めてきた天河大辨財天社は、平成元年(1989)のご造営以降、平成30年(2018)の現在に至るまで、アニミズムとシャーマニズム、自然信仰もしくはディープ・エコロジーとハイテクノロジー、神道と仏教と諸宗教、ニューエイジ・サイエンスと芸能と宗教が渾然一体となって融合した、きわめてファジーでカオスモス(カオス+コスモス)な習合文化の一大拠点であり、実験場といえるのである」

 第二章「宗教の未来―神仏習合文化と修験道が問いかけるもの」では、二「日輪天照弁才天と吉野熊野中宮」が圧巻です。平成20年(2008)7月16日午後7時より天河大辨財天社例大祭宵宮祭が行われました。この年は特別に60年に一度御開帳となる秘神「日輪天照弁才天」が御開帳となりました。鎌田氏は以下のように述べています。

「天河大辨財天社の本殿には三座の神々が祀られている。中央の座には、伝空海作とされる、右手に宝剣、左手に宝珠を持つ八臂の弁才天像と十五童子と吉野権現(蔵王権現)・熊野権現の諸像が祀られ、西の座(向かって左)に円空作の大黒天像と後醍醐天皇像が祀られ、東の座(向かって右)に今回御開帳の「日輪天照弁才天」像が祀られている。今回西の座から中央座、そして東の座と、そのすべてを拝することができた。百回を超える参拝を重ねてきたが、すべての神像を拝することができたのは今回が初めてである」

 そして、その秘神「日輪天照弁才天」像は、仏像とか神像とかの概念を吹っ飛ばすほどの迫力があったそうです。鎌田氏は述べます。

「わたしは度肝を抜かれ、言葉を失い、腰を抜かしそうになった。唖然・呆然・愕然・陶然、どんな形容詞も無力だった。それほど、その秘仏・秘神の存在感とパワーは圧倒的で、すべてをなぎ倒すエナジーに満ち満ちていた。ある子どもは、この秘神の前で頭を下げて見上げたとたん、秘神像を指差して、『オバケ~!』と叫んだという。子どもは実に正直である。この子にとっては、『オバケ~!』というほかないほど、この世の形態を越えた何者かだったのだろう。わたしの脳裏には、『縄文のヴィーナス』、『地母神』、そして、『日本のお母さん』という言葉がめまぐるしく駆け巡った」

 また鎌田氏は、秘神「日輪天照弁才天」像について、こう述べています。

「まことに神秘不可思議な伝承と神像が天河大弁財天社に伝わっているのだ。そしてそれが今年御開帳となったのである。今回の御開帳は、60年に一度の御開帳とは別に、前の造営(遷座)から20年の節目を記念してというが、おそらく柿坂神酒之祐宮司の心魂にこの荒れ果てた時代を建て替え立て直すきっかけとして秘神『日輪天照弁才天像』を御開帳せよという啓示が下ったのだろう。昭和56年(1981)の辛酉の年に御開帳となっているので、本年は27年目に御開帳になったことになる。そしてこの後33年後の2041年に次の御開帳となる。そのときにはわたしは生きていたら90歳である。生きて再びこの秘神像を拝せるかどうかわからないが、生きている間にもう一度拝したいと熱望する」

 さらに、鎌田氏は以下のように述べるのでした。

「この神像を見る前と後とでは、自分の中の何かが変わったような気がする。脳天を断ち割られ、頭の芯から尻の先まで心棒を突き刺さ、肝を入れ替えられ、あたまぐるぐるにされ、バク宙を30回くらい連続でやらされたような、眩暈する感覚がある。『神秘体験』などという言葉が陳腐凡庸に思えるくらい圧倒的な感覚である。
 富士山七合目で光の玉の出現を目撃したとき、また、春分の日に富士山山頂から差し昇ってきた朝日と富士を取り囲む大円周の虹を見たときにも匹敵する圧倒的な現前、ヌミノーゼ的な感覚の沸騰なのだが、それが単に神聖であるばかりでなく、とてつもなく庶民的で、底抜けで、愉快な笑いの感覚の愉悦につらぬかれているところが、前2回の体験とは大きく異なるところである。わたしは、千載一遇のチャンスに巡り合せたと心から感謝の気持ちが湧き起こってきた。その『日輪天照弁才天』の神像が今も、幽体離脱のようななまなましさで、目の前に立ち現れてくるのである」

 うーむ、ここまで言われたら、その秘神「日輪天照弁才天像」を何が何でも見たくなるじゃありませんか。次回の御開帳の2041年にはわたしは78歳です。これはぜひとも90歳の鎌田氏とともに天河詣でをしなければ!

 三「天河と神道」の未来では、この読書館でも紹介した『葬式は、要らない』『無葬社会』に言及しながら、鎌田氏は「おそらく寺院消滅や神社消滅の危機は日本の伝統文化や共同体の構造を大きく変化させる要因となるだろう。全国に約八万社ある神社本庁傘下の神社と約七万近くある仏教寺院が、日本の地域共同体の自然・文化・社会的な安全・安心の拠り所となることができれば日本社会の安定に寄与すること測り知れない」と述べています。この意見に同意しながらも、わたしのブログ記事「コミュニティセンター化に挑む!」や同じく「葬祭ホールをコミュニティセンターに」などで紹介したように、わたしは全国にあるセレモニーホールがコミュニティセンターに進化して、神社や寺院の役割・機能を補完しながら、「日本の地域共同体の自然・文化・社会的な安全・安心の拠り所」になるのではないかと予測します。

 そして、この読書館でも紹介した『アップデートする仏教』に言及した鎌田氏は、仏教の閉塞状況を突破していく試みとして、最近、仏教サイドから仏教の未来展望について新しい問題提起がなされているとして、以下の「仏教3.0」の議論を紹介します。

(1)仏教1.0(檀家制度に支えられた葬式仏教・コミュニティ仏教として形骸化していった日本の大乗仏教)
(2)仏教2.0(瞑想修行の実践的プログラムと実修を具体的に提示したテーラワーダ仏教)
(3)仏教3.0(テーラワーダ仏教による批判的吟味を踏まえて仏教本来の瞑想修行を取り戻した大乗仏教)

 そして、鎌田氏はなんとこの論法で神道を読み解き、次のような三種神道を示すのです。

(1)神道1.0(天皇制を頂点とした律令体制以降の神社神道や近代のいわゆる国家神道)
(2)神道2.0(天皇制以前から存在してきた神祇信仰や自然崇拝を中核とした自然神道や古神道)
(3)神道3.0(自然神道を核とし国家神道を内在的に批判突破した神神習合や神仏習合や修験道をも内包する生態智神道)

 これには唸りました。つねづね、わたしは鎌田氏のことを「超一流のコンセプター」であると思っているのですが、まさに、その面目躍如であります。

 しかも、それにとどまらず、鎌田氏はこう述べるのでした。

「さらに大風呂敷を広げておけば、天河大辨財天社は、真言密教の『即身成仏』思想や『草木国土悉皆成仏』を謳った天台本学思想を止揚した四次元仏教の確立と実践を『仏教4.0』として展開しているともいえるし、また『生態智神道』を止揚した『惑星神道(地球神道、Planetary Shinto)を『神道4.0』として未来創造している、その生成の最中にあるともいえる。南方熊楠の神社合祀反対運動や宮沢賢治の羅須地人協会の活動とも共鳴する思想と実践が1980年代以降の天河大辨財天社にはある。
 天河大辨財天社と柿坂神酒之祐宮司の思想と実践は『草木言語』生態智神道に基づいた惑星神道へのビジョンを練磨してきた。そこには、地道な宗教間対話と宗教間相互理解に基づく、統合止揚された新神仏習合神道ないし新神仏習合諸宗共働のはたらきが息づいている。この50年近くわたしは日本の神社や神道を見てきたが、奈良県吉野郡天川村坪ノ内に鎮座する、60年に一度御開帳される『日輪天照弁財天』を秘神として祀る『天河大辨財天社』はそのような未来神道(神道4.0)の1モデルであると確信している」

 「生態智神道」のみならず、「惑星神道」、そして「神道4.0」!
 いやあ、鎌田節が炸裂しまくって、わたしは嬉しくなりました。

 「おわりに」では、柿坂宮司の次の言葉が心に響きました。

「太陽は坦々と何の見返りも求めず照らし続け、月は水の力を与えて下さり、大地は我々の肉体を培って下さる。米は春に種を撒けば秋には稔る。大自然の働きの中で、果物なら桃栗三年柿八年といわれ、樹木ならばおよそ百年の時を待たないと大きくは育たない。時間を惜しむことなく、このように百年先のことまで思い描いて今を生きることが大事なことであると思うようになりました」

「今宇宙を研究している学者の間では、宇宙は縮小ではなく膨張していると考えられているようです。宇宙創成以来戴いている人間の智慧と意識を拡張、膨張させていく事ができるならば、この先訪れるであろうAIの世界とうまく調和していける事と思います。ロボットに支配され科学が神となってしまう世界が訪れないよう、心して我々人間が、美しい惑星地球の一員であり、大いなる天地自然の中で生かされている事への深い理解と感謝ができるよう、日々広く深く冥想して行くことが何より大切だと思います」

 「おわりに」の最後に、柿坂宮司は「天地(あめつち)の 産巣日(むすび)の業(わざ)に感謝(いやび)して ただ一言(ひとこと)に ありがとうのみ」という歌を詠んでおられます。この歌の意味を噛み締めながら、わたしは今から28年前にわたしを天河大辨財天社に連れて行って下さった鎌田東二先生、そして若造のわたしに真摯に神の道を説いて下さった柿坂神酒之祐宮司に心からの感謝の念を抱きました。本書を読んで、天河大辨財天社が「神道4.0」はおろか「仏教4.0」までを内包した無限の可能性を持った聖地であることがよくわかりました。これは、「冠婚葬祭4.0」としてセレモニーホールのコミュニティセンター化を図るわが社にとっても、大きなヒントになります。近いうちに、ぜひ天河詣でをしなければ!

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