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人間と聖なるもの』

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No.1254


 『[新装版]人間と聖なるもの』ロジェ・カイヨワ著、塚原史・吉本素子・小幡一雄・中村典子・守永直幹共訳(せりか書房)を読みました。著者は1913年生まれのフランスの作家、社会学者、哲学者です。神話、戦争、遊び、夢など、多岐にわたる研究・著作を残し、1978年に逝去しました。

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本書の帯


 本書の帯には「《聖なるもの》への憧れと魅惑の根源を求めて禁止と侵犯の理論構築をくわだて、祭り・性・遊び・戦争など共同体の熱狂に関する数多くの人類学的資料に新たな光をあて人間の本質に迫る、若きカイヨワの知的冒険の書」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「第三版への序文」
「第二版への序文」
「初版への序文」
第一章 聖なるものと俗なるものとの一般的関係
第二章 聖なるものの両義性
(1) 聖性と穢れ
(2) 聖なるものの極性
(3) 結合と解体
第三章 尊敬による聖なるもの―禁止の理論
(1) 世界の構成
(2) 聖なる掟と冒瀆行為
(3) ヒエラルキーと王殺し
第四章 侵犯による聖なるもの―祭りの理論
(1) 祭り―聖なるものへの訴求
(2) 世界の再創造
(3) 放埓の機能
第五章 生の条件と死の入口としての聖なるもの
付録1 性と聖なるもの
付録2 遊びと聖なるもの
付録3 戦争と聖なるもの
(1) 戦争と祭り
(2) 戦争の神秘
「原注・付論」
「参考文献」
「ロジェ・カイヨワの年譜と著作」
「訳者あとがき」

 本書は、1939年にP・U・F社から『神話と宗教』叢書の第3冊として刊行された初版に「聖なるものとの関連における性と遊びと戦争についての3つの付論」を加えて出版されています。「初版への序文」には、以下のようにバタイユの名前が登場します。


「最後に、私はジョルジュ・バタイユにたいして感謝の気持ちを表わしておきたい。聖なるものという問題をめぐって、われわれのあいだである種の相互浸透が成立していたように思われる。このような関係においては、何度となく議論がかわされたので、われわれが共同で追求していた研究のどこまでが彼の持分で、どこからが私の持分なのか、私にははっきりと区別できないほどである」

 じつは、カイヨワは第一次世界大戦前の一時期は、反ファシズム闘争などの左翼的政治活動に関わっています。パリの前衛的な知識人とも深くかかわり、36年にはジョルジュ・バタイユを発起人とする社会学研究会にミシェル・レリスやピエール・クロソウスキー、コジェーヴらとともに参加しました。この研究会の運動は20年代に支配的であったシュルレアリスムへの返答でもありましたが、彼はシュルレアリストたちの関心事である個人の「無意識」などには関心を寄せず、「儀式」あるいは「共同体」などに焦点を当てて追究するものでした。カイヨワの人類学や社会学、あるいは「聖なるもの」への関心などがこのアプローチを例示しています。

 第一章「聖なるものと俗なるものとの一般的関係」の冒頭は以下のように書かれています。

「世界についてのあらゆる宗教的概念は、聖なるものと俗なるものとの区分を含むものであり、信者がそこでは自分の関心事に自由に専念して、みずからの救済のためにささやかな活動をおこなっている世界にたいして、もうひとつの領域を対置する。すなわち、恐怖と希望が代わるがわる信者を麻痺させ、深淵の縁に立っているときにも似て、些細な動作のちょっとしたずれが彼をとりかえしのつかない破滅へと導くことになるような領域である」

 H・ユベールは「それ(聖なるもの)は宗教を生み出す根本的観念である」と述べました。著者はユベールの「もろもろの神話と教義は、それぞれのやり方で聖なるものの内容を分析し、儀礼はその特性を利用し、宗教道徳はそこから派生する。聖職者たちはこの観念と一体化し、聖域や聖地や宗教的モニュメントはそれを地上に固定し、根づかせる。宗教は聖なるものを管理する制度である」という言葉を紹介した後、以下のように述べています。

「聖なるものの経験が宗教的生活の多様な形態全体をどれほど生き生きとさせているかを、これ以上力強く示すことはできないだろう。宗教的生活は人間と聖なるものとのさまざまな関係の総体として現われ、信仰はこの関係を外にむかって示し、かつ保証する。儀礼はこの関係を実践において確保する手段である」

 また、著者は以下のように儀礼の機能について述べています。

「一方で、聖なるものの伝染性は、聖なるものが俗なるものの上に注がれると瞬時にして破壊され、何の利益ももたらさずに失われることになりかねない。他方で、つねに聖なるものを必要としている俗なるものは、聖なるものを貪欲にわがものとせずにはいられず、こうして聖なるものを堕落させ、みずからも破壊する危険を負うことになる。したがって、聖なるものと俗なるものとの相互関係は厳しく規制されねばならない。このことがまさしく儀礼の機能である」

 続いて、著者は儀礼について以下のように述べます。

「肯定的・積極的な性格をもつ儀礼は、俗なるものや聖なるものの性質を、社会の必要に応じて変換するのである。反対に、否定的・消極的な性格をもつ儀礼は、聖なるものと俗なるものが不用意に接触してどちらも失われてしまう事態を招かないように、両者をもとのままで維持することを目的としている。前者の儀礼には、聖なるものの世界に人や物を導入する聖別の儀礼と、逆に清浄あるいは不浄な人や物を俗なる世界に返してやる脱聖化あるいは贖罪の儀礼がある。これらの儀礼は聖俗2つの領域のあいだに不可欠な往復運動を創りだして、この運動を確実なものとする。これに反して、禁止はこれらのあいだに同様に不可欠な障壁を打ち立て、2つの領域を切り離して、災厄から保護するのである。こうした禁止は、ふつうポリネシア語の名詞であるタブーという単語で示される」

 さらに著者は、タブーについて以下のように述べます。

「ポリネシア語で、タブーの反意語はノアである。ノアとは、世界の秩序を問い直すことなく、また不幸と災難を引き起こすことなく、いかなる異常な、またとり返しのつかない結果をももたらさないよう自由に行動することだ。その反対に、この宇宙の配置(それは自然と社会の配置でもある)を損なわずには達成できない行為はタブーなのである。侵犯行為がひとたびなされると、全体の配置が混乱する。大地はもはや収穫を生まず、家畜は子を孕まず、星々はもはやいつもの運行に従わず、病いと死があたり一帯を襲う危険が生じるのである。タブーを犯した者は自分自身の身体を危険にさらすばかりではない。彼が世界に導き入れた混乱は、彼の身体の周囲からにじみ出て少しずつ拡大してゆき、もし悪がその拡散の過程で毒性を失わないのであれば、とりわけ悪を封じこめ、悪を償うための手段が講じられ、ただちに実行に移されないのであれば、宇宙全体が変調をきたすことになるだろう」

 「供犠の本性」においては、著者は以下のように述べています。

「個人または国家が、世界の秩序の根拠とみなされる神々や人格的あるいは非人格的な諸力から獲得しなければならないのは多くの恩寵である。そこで、依頼者である社会は、この恩寵の付与をこれらの諸力に拘束するためには、先手をうって自分のほうから贈与つまり供犠をおこなうしかないと思う。すなわち、依頼者に属している何ものかを手放して、あるいは彼が自由に処分できるすべての権利を放棄して、依頼者の費用で聖なるものの領域に奉納し、導入するのである。こうして、聖なる諸力はこの法外な贈り物を拒否できないので、受贈者としての債務を負うことになり、それらが受けとったものに束縛される」

 続いて、著者は供犠の本性について以下のように述べます。

「借りを返さないわけにもいかず、結局要求されたもの、すなわち物質的利益や効能あるいは罰の免除を依頼者にあたえざるをえないのである。このとき、世界の秩序は回復する。供犠によって信者はみずから債権者となり、彼の崇拝する諸力が願いを叶えてくれることによって、彼にかんする負債を返済することを期待する。そうすることで、聖なる諸力は、あらゆる一方的〔片務的〕行為が要求する代償を提供し、計算ずくの気前の良さによってこれらの諸力のために断ち切られた均衡状態を回復させるのである」

 「禁欲と奉納」では、割礼や尿道切開について以下のように述べます。

「よくおこなわれている割礼や尿道切開〔陰茎の下部にそって尿道を切開する割礼〕は、男性を結婚に適合させ、生殖力を増大させること、あるいはただ結婚による結合がもたらす神秘的な危険にたいして、彼の性器に免疫をあたえることを目的としている。こうして、いずれの場合にも、適度な苦痛に耐えることで、人びとは求める利益の代償をあらかじめ支払うのだし、同じように何らかの財や善をすすんで放棄することで、恐れている悪や病いから解放されようとするのである。ポリュクラトゥス〔サモス島の僣主〕は幸運すぎてかえって不安になったので、逆運を方向転換させるために、自分の指輪を海中に投げ捨てる。親族の死は近親者たちの生命に不安をもたらす。死の穢れが今度は彼らにとりついて、彼らを滅ぼしてしまうかもしれない。そこで、彼らは自分の身体を傷つけ、ふつうは指を1本切断して、死の代償を支払う。部分を提供して全体を維持するのだ」

 また、「初物の儀礼」として、「初物〔その年の最初の収穫物〕を聖別〔奉納〕する儀礼も、同じ心理に依拠していると思われる。この場合、部分を放棄するといっても、それは全体を保存するためではなくて、獲得するためである」と述べた後、さらに著者は以下のように書いています。

「最初の項は、当然の権利として神に属しており、最初のものであるというだけの事実によって聖別〔奉納〕される。それが事物の新たな配置を開始し、変化の原因となるからだ。したがって、収穫物が成熟期に達すると、消費に供される前にそれを解放してやることが重要な問題となるので、人びとは刈り取った穀物のいちばん重い初穂を、果樹園のいちばんみごとな最初の果実を、菜園のいちばん大きい最初の野菜を、神々のためにとっておくのである」

 そして、著者は「初物の儀礼」について、以下のようにまとめます。

「あらゆる状態の変化は、この変化の危険を吸収するよう定められた初物の奉納をともなう。結婚の前に、若い娘はその処女性の象徴である初物を河あるいは神に捧げる。結婚のずっと前から処女性を失うことが通例であるような民族においては、新婦が婚礼時に夫と性交渉をもつ以前に、他の男と関係することが義務づけられている場合もある。結婚したばかりの女すなわち新たな社会状態と新たな種類の生活をはじめる人間を最初に抱擁することの危険から、夫を守るためである。
 新築の建造物を取得することも、これに類似した危険をともなう。しばしば、供犠執行者たちの踊りが住居の土地を解放する。呪術師が新築の家に入る者の魂を抜き出して、安全でいられる場所に魂を置くこともある。その者が新築の家の敷居によって示される、これまで越えられたことのない恐るべき境界を越えたとき、呪術師は彼に魂を返すのだ。悪魔が教会や橋の建築に、そこに最初にやって来る者の魂と引き換えに協力するという寓話は、たいへん広範囲にひろがっている」

 「聖なるものの研究」では、著者は「贖罪の儀礼、穢れを追放する厳粛な儀式、洗い清めるためのさまざまな慣行などは、たえず攻撃にさらされている世界の秩序を修復するものだが、それらによって効能が回復しても、それはけっして無垢なものではないし、用心深く取り戻された健康も、まだ病いに冒される前の勝ち誇った無邪気な健康ではもはやありえない」と述べています。

 さらに、著者は「聖なるものの研究」で以下のように述べます。

「自然と社会は、定期的に若返らせて再創造するための予防策を怠るならば老化はさけられず、必ず破滅へと導かれるので、この避けられない老化を何とかしなければならない。こうした新たな拘束は、聖なるものの研究において新たな1章を開くものである。世界の秩序の働きを説明し、聖なるものの諸力がこの秩序の凝集を助けるか、それとも解体を急がせるかによって、吉とも凶とも見なされることを指摘するだけでは十分ではない。その他にも、世界の秩序を維持するための人間の働きのありようと、この秩序が衰退し、崩壊しつつあるときに、人間がおこなう秩序修復のためのさまざまな努力を示しておく必要がある」

 第二章「聖なるものの両義性」の(1)「聖性と穢れ」では、「穢れと聖性にたいする防御」として、著者は以下のように述べています。

「穢れを防ぐのと同種の禁止が聖性をも隔離し、また聖性との接触を防ぐのは注目すべきことである。ミカド型の君主=神は、月経時の女性と同様、大地に触れたり、太陽光線に身をさらしたりしてはならない。こうした例は、日本の天皇ばかりでなく、ザポテク族の最高聖職者や、ボゴタの王位継承者などに見られる。この王位継承者は、16才から暗い部屋で暮らすのである。同様に、ミカドが使った食器も、だれか軽率な者がたまたま後でそれを使って、口や喉がはれたり、発熱したり、要するにそれで毒されるようなことがないように壊される。同時に、神格化された王はどんな穢れからも、自分の神聖なエネルギーのどのような無駄な消耗からも免れていなければならないし、そうしたエネルギーを不意に放出するあらゆる機会からも遠ざけられる必要がある。神聖なエネルギーは、ゆっくりと規則的に放射されることによって、ただ自然と国家の良き運行を保証することにむけられるべきなのだ。ミカドが特定の方向にいくらか力をこめて目を向けると、その視線が強く神秘的な力を『恵み』すぎた地域に、最悪の災禍を解き放ちかねないと考えられていた」

 (2)「聖なるものの極性」では、「聖なるものの二極対立」として、著者は以下のように述べています。

「宇宙には、二極対立を形成しないもの、清浄と不浄のように一対に組み合わされた対立関係の多様な表現を象徴し得ないものは存在しない。生命をあたえるエネルギーと死の力とがそれぞれの側に結集し、宗教的世界において魅惑する極と拒絶する極とを形成する。前者には、日中の光と乾燥が、後者には、夜の闇と湿り気が属している。東方と南方は、太陽を昇らせ、熱を増大させる成長力の座と見なされる。西方と北方は、生命を与える天体である太陽を沈ませ、その光を消す喪失と破壊の力の住まいである。高所と低所も同様に規定される。―すなわち、空は死の入りこむことのできない神々の住まいと見なされ、地下の世界は死が絶対的な支配力を持つ闇の世界と考えられるのである」

 続けて著者は、この読書館でも紹介した『右手の優越』の著者であるR・エルツの研究を持ち出し、「左右の対立について、深く掘り下げている」と高く評価した上で、以下のように述べます。

「左右の対立は、儀礼、占い、習慣、信仰などにおいて、ごく細かいことがらにまで広がっているのが認められる。イスラム教徒は、右足から聖所に入り、魔神が出没する場所には左足から入る。左利きの人間はとかく魔術師や悪魔に憑かれた者とみなされる。ところがキリスト教の聖人たちについては、赤ん坊の頃から早くも母親の左の乳房を吸うことを拒んだと伝えられている。右手は王権、権威、宣誓、善意の手であり、左手は不正行為や裏切りの手である」

 また、左右の対立について、著者は以下のようにも述べます。

「右(droite)手は、器用な(adroite)手でもあり、武器をその目標に、正しく(droit)導く手である。このようにして単に戦士の巧妙さ(adresse)ばかりでなく、彼の正当さ(bon droit)、彼の公正さ(droiture)を証明することによって、右手は神々がこの戦士を守っていることを証明する。中国では、高貴さを試す重要な手段は弓を射ることである。マルセル・グラネが指摘するところでは、これは巧妙さや勇敢さを競う闘いではなく、『バレエのように段取りを決められた音楽的な儀式』なのである。矢を正しい調子で放たなければならない。射手の動きは核心に触れる(toucher au coeur)ものでなければならない。儀礼の規則と、身体の正しい姿勢に結びついた魂の正しい態度も、同様に的の中心を射る(toucher au coeur)ために必要だろう。『このようにして徳性が確認される』と、『礼記』は結論している」


 ここでいきなり『礼記』が登場して驚きました。著者は古今東西の文献を渉猟して、本書を書き上げたようです。

 「清浄と不浄の可逆性」では、以下のように書かれています。


「清浄と不浄とは、ある見地からはそれらが等しく対立している世俗の世界によって同一視され、それらに固有の領域ではたがいに根源的に敵対しあっているが、どちらも自由に利用し得る力であるという共通点を持っている。ところで、力が強烈になればなるほど、その効能が期待できるので、この事実から、穢れを祝福に変え、不浄を浄化の手段にしようとする欲望が生まれる。このために、ひとは聖職者の仲介に頼る。つまり聖性を保持しているので不安なく不浄に近づき不浄を消すことのできる人間に頼るのである。いずれにせよ、聖職者は不浄によって傷つけられることから自分を守ってくれる儀礼を知っている。彼は汚染の有害なエネルギーを善へ向け、死の脅威を生の保証に変える能力を持ち、そのための手段を知っている。

 続いて、著者は「死の穢れ」について、以下のように述べます。

「服喪期間の最後になされる浄化儀礼は、ただ死者の親族を穢れから解放するばかりでなく、死者が、ゆがんだ聖性のあらゆる特徴を伴う、不吉でひどく恐ろしい力から、尊敬と崇拝の念で祈願される守護霊へと変化する時点をも表示する。これと平行して、死体のうちでこの世に残った遺骨は聖遺物となる。恐怖が信頼に変わるのだ」

 (3)「結合と解体」では、「清浄と不浄の社会的配置」について以下のように述べられています。

「王者と死骸は、戦士や月経の血にまみれている女性同様、清浄と不浄の敵対する諸力を最高度に具現している。穢れをあたえるものは死であり、穢れから解放するのは君主である。両者のあいだではいかなる接触も許されない。ポリネシアの首長のように聖性を付与された人間、オーストラリアの『チュリンガス』のように聖性の貯蔵庫と思われる事物は、汚染の源とみなされるすべてのもの、すなわち遺体や月経の血からきわめて厳格に遠ざけられる。この点に関しては古代ローマの大司祭の自由を制限していた宗教上の規則を思い起こさなければなるまい」

 続けて、著者は葬儀に関するタブーについて以下のように述べます。

「死骸に触れるばかりでなく、さらに火葬場に近づくことも、葬儀の笛の音を聞くことも、死者たちに関する儀式で一定の役割を演じる植物や動物の名を口にすることも彼には禁じられている。彼の靴は自然死をとげた動物の皮で作られてはならない。同様に、カフラーリア〔アフリカ南部の非イスラム地域〕の大神官は墓地を訪れることも、死骸が朽ち果てる戦場に通じる小径を横切ることも禁じられている。人が死んだ部屋に入ることも、死者の像がそこに掲げられ、死者が恩恵をあたえる尊敬すべき力となったことが証明されるまでは禁じられる」

 さらに著者は、「死の穢れ」が良き方向へ変換されるさまを述べています。

「月経や出産の際の女性の血の喪失、そしてとくに、死体の腐敗が恐れられる。それは、避けがたい最終的な解体のもっとも雄弁なイメージ、生命体の生存のみならず自然と社会の健全さを徹底的にゆるがす破壊的エネルギーの勝ち誇るイメージなのである。死によって生者たちの社会から切り離された者を埋葬と葬儀が死者たちの社会へ導き入れないかぎり、死者もまたさまよう者、罰を受けている魂である。ひとたび新たな結合状態に組みこまれてはじめて、死者は吉兆の力となる」

 第三章「尊敬による聖なるもの―禁止の理論」では、(1)「世界の構成」の「相互補完的な力」として以下のように述べられています。

「政治は一対の君主によって執行される。すなわち、主権者は『天』の力を体現し、職務の執行者は『地』の力を具現するのである。執行者は主権者に従属するが、一定の年齢に達して儀礼的な試練をくぐり抜けることによって『天』の力を得たのちに、主権者にその地位を自分に譲りわたすよう強いることもできる」

 また、「力=徳の性・季節・社会に関する基体」として、著者は、この読書館でも紹介した『宗教生活の原初形態』および『贈与論』の著者の名をあげて、以下のように述べています。

「デュルケムとモースは、中国の『天』と『地』の概念が、彼らがトーテム社会に関して検討してきた分類項目とたいへん類似していることに、かなり前から気づいていた。実際、『天』と『地』とは男性的な性質と女性的な性質、光と闇、北と南、赤と黒、君主と大衆、等々に対応している。彼らはとりわけ、空間、時間、それに神話上の動物との結びつきを予想し、実際に見出すことになった。すなわち、『天』と『地』の力=徳は『陰・陽』の諸原理の諸相を形象しているが、中国においては社会生活全体や世界の表象までもが、陰・陽の原理によって統括されている。2つの原理によって統括されない対立は存在しない」

 著者は「冬の祭り」を取り上げ、以下のように述べます。

「冬の祭りのあいだ、男たちの家に集まる農夫は、踊ることによって暑い季節の到来を促そうとする。これらの儀式には、『儀式執行者が向かいあう対立』と『種々の動作の交互の繰り返し』とが含まれている。参加者たちは、対立する2つの組に分かれて競いあう。一方の組は太陽・暑さ・夏、つまり陽を体現し、他方の組は月・寒さ・冬、つまり陰を体現する。ところが、女性たちはこれらの祭りから排除されていた。したがって、2つの原理とそれが表象する季節とは、どちらも男性によって表現されることになる。したがってこの場合、少なくとも性の対立は2次的なものへと移行するので、性の対立に代わって役割を果たしている対立の規定を試みる必要がある。グラネは儀式執行者である2つの集団がそれぞれ主人の側と客の側とから形成されていたことを示唆しているので、胞族社会における儀礼的な戦闘や闘争的競技のことが当然想起される。中国の季節の祭りにおける対になって踊る舞踏は、胞族社会の儀礼にちょうど対応しているように思われる」

 「尊敬の原理」についても述べられ、著者は以下のようにトーテム社会に言及しています。

「トーテム社会の組織構造は、権利・義務のシステムとして現われ、それぞれの禁止は相互補完的な義務に対応しており、この義務によって説明される。トーテムの動物を殺したり食べたりすることは、その氏族の構成員には禁じられているが、他の構成員はそれを殺して食べる。一方、前者は後者のトーテムの動物を殺して食べる。自分の氏族の女性との結婚が厳格に禁じられているのは、自分たちが結婚すべき女性の属する氏族の男性のために、この女性たちが取っておかれているからである。万事がこんな具合なのだ。そしてそれこそが、トリントキット族やハイタ族にかんしてスワントンによって定式化された尊敬の原理なのである。儀礼、食料、経済、裁判、婚姻、あるいは葬儀といったいずれの領域においても、各胞族は他の胞族のことを考慮に入れて行動する」

 また、「性に関する給付」として、著者は以下のように述べています。

「性、食料、あるいは儀礼に関する給付はたがいに協力しながら機能し、これらのいわば銀行の口座から口座への人間による振替が途切れることなくからみあうことによって、人間社会の部族を形成する2つの集団の連帯が織りなされる。一方、これらの集団の対立する諸力は、不可視なものの領域において宇宙の有機的な全体性を構成する。この全体性こそは、事物の秩序であると同時に人間の秩序でもあるのだ」

 (2)「聖なる掟と冒瀆行為」では、「維持と創造」として、著者は以下のように述べています。

「力は秩序の内部に存在し、みずからの場所にとどまる。その運命を逸脱することはせずに、許可されたもののなかに位置し、禁止されたものを勝手に処分しないように努めるのである。こうして、宇宙はその秩序の内部に維持される。それは同時に、宇宙に従属している者のためでもある。祭儀の諸規則において宇宙の秩序を維持することこそが、さまざまな禁止の果たしている役割なのである。『礼記』には、『堤防が洪水を予防するように、祭儀は無秩序を未然に防ぐ』と記されている」

 ここでまた儒教の「四書五経」の1つである『礼記』が登場しましたが、続けて著者は以下のように述べます。

「しかし、時の経過とともに、堤防は浸食され、禁止の機構の働きは低下し、その歯車は磨滅する。人間は年老いて死ぬが、子孫において再生する。自然は、冬が近づくとその豊穣を失い、衰弱していくように見える。世界を再び創造し、システムを若返らせなければならない。禁止は、世界の終末が偶発的に生じるのを防ぐことができるだけだ。禁止によっては、世界をその不可避的な破滅、その寿命が尽きることから守ることはできない。禁止は世界の衰退を止めることはできず、ただ引き延ばすだけである。やがて、世界の再創造が必要となる時が到来する。積極的な行為によって、秩序に新たな安定が確立される必要がある。創造のシミュラークルによって、自然と社会とが一新されることが求められるのだ。そのために用意されるのが、祝祭である」

 第四章「侵犯による聖なるもの―祭りの理論」では、(1)「祭り―聖なるものへの訴求」で、著者は以下のように「聖なるものの到来」について述べています。

「祭りは、生彩を欠いた日々の連続と、断続的な感情の爆発を対立させる。祭りは、いつもかわらぬ物質的な関心事にとらわれた繰り返しの日々にたいして激しい狂乱を、各自がばらばらに持ち分をこなしている平穏な労働にたいして共同での熱狂〔=沸騰〕の力強い息吹を、社会の拡散にたいして集中を、無気力な生活の静かな労苦にたいして絶頂の瞬間の熱情を対立させる。さらに、祭りの際に執りおこなわれる宗教儀式が信者たちの魂を揺さぶる。こうした祭りは歓喜の時間であるが、また苦悩の時間でもある。最後にたがをゆるめる前には、かならず絶食や沈黙を守らなければならない。習慣的な禁止は強化され、新たな禁制が課される。ありとあらゆる横溢や放埒、儀礼の厳粛さ、祭りに先立つ制約の厳格さ、こうしたものすべてが、祭りの雰囲気を例外的な世界へと作り上げることに寄与する」

 また、「放埓―衰弱を癒すもの」として、著者は放埓について述べます。

「放埒は、祭りに付きものであるというだけではない。放埒は祭りの喧噪のたんなる付随現象ではない。放埒は、儀式が成功裡におわるために必要とされ、儀式の聖なる力に参与し、儀式とともに自然や社会の再生に貢献する。さしずめ祭りの目的とは、こうした自然や社会の再生にほかならない。時間は疲弊や衰弱をもたらす。時間は老いをもたらし、死へと歩ませる。時間は『擦り減らす』。擦り減らすことが、時間を意味するギリシア語やペルシア語の語源の意味にほかならない。毎年、植物は生え変わる。そして自然と同じく社会生活も年ごとに新しいサイクルを開始する。1年ごとに、存在するものすべてが若返らなければならない。世界の創造をやり直すことが必要なのである」

 続けて、著者は以下のように「世界の掟」について述べます。

「普遍的な秩序に支配され、規則正しいリズムに律されるコスモス(宇宙)として世界は運行される。節度と規則が世界を維持する。万物がしかるべき場に位置し、あらゆる出来事がしかるべき時に起こる。それが世界の掟である。聖なるものは、もっぱら、コスモスの規則性を脅かすかもしれない一切のものにたいする禁止や防止か、あるいは規則性を乱しかねない一切のものにかかわる贖罪や補償として現われるが、そのこともこれで説明がつく。人びとは不動性〔=現状の維持〕を目指す。というのは、あらゆる変化や刷新は宇宙の安定性を危険にさらすからであり、できることなら万物の流転を食い止め、死の可能性を排除することが人びとの願いなのだ。しかし、世界の消滅の芽は、まさしく世界の運行そのもののうちにある。なぜなら、その運行が廃物を堆積させ、メカニズムの衰退を導くからである」

 ここでコスモス(宇宙)が持ち出されましたが、「原初のカオス」として、著者は「実際、祭りには、まるで最初期の宇宙を再現しているかのような印象がある。この太古(Urzeit)、原初の時代は、すべての存在、すべての生命、すべての制度が、伝統的かつ決定的な形態のうちに固定された、すぐれて創造的な時代であった。それは神話に語られている神なる祖先が、まだ生きて活動していた時期にほかならない」と述べています。

 (2)「世界の再創造」では、著者は祭りが果たしている機能を紹介した後、以下のように述べています。

「すでにわれわれは祭りを、創造の時代を現在化するものと定義した。デュメジルの適切な表現を用いるなら、祭りとは『大いなる時代』にむかって開かれた開口部であり、人間たちが生成流転の過程を離れ、原初の時代という、全能でつねに清新な力の貯蔵庫に近づく瞬間である。同様に祭りがおこなわれる神殿や教会や聖所といった場所は、『大いなる空間』にむかって開かれた開口部を象徴している。『大いなる空間』とは、神なる祖先たちが動きまわっていた空間であり、聖なる地点や岩山は、われわれにも知覚できるその目印として、世界を決定していった創造者たちの身振りと結びついている」

 続けて、著者は祭礼について以下のように述べます。

「祭礼が執りおこなわれるのは、季節のリズムの変わり目においてである。つまり、自然が生まれ変わるように思われる時期、誰の目にも確かな変化が自然の中にあらわれる時期であり、寒帯や温帯では冬の始まりと終わり、熱帯では雨季の始まりと終わりである。人びとは不安と期待の入り混じった強い感情にかられて、その昔、神話のなかの祖先たちが経めぐった場所へと巡礼に出かける。オーストラリア人は、敬虔な心で祖先たちの足跡を辿り直し、かつて彼らが休んだところに来て立ち止まっては、入念に祖先たちの身振りを繰り返す」

 著者はまた、「祖先=創造者の受肉」として、祭りにおける神話と儀礼について以下のように述べています。

「祭りは、神話の時空の中で執りおこなわれ、現実の世界を再生させるという機能を果たす。そのためには、植物の再生の時期や、ときによってはトーテム動物の繁殖が進んだ時期が好んで選ばれる。神話の祖先が、自分たちの部族の祖となる生物を作り上げた場所へと人びとはおもむく。部族は、彼らが受け継ぎ、彼らだけがうまく執りおこなうことのできる創造の儀礼を繰り返す」

 続けて、祭りの中の祖先について、著者は以下のように述べます。

「演技者たちは、英雄の行動と身振りを模倣する。彼らは、自分たちを半獣半人の祖先に同一化させる仮面をつける。この仮面という小道具は、しばしばいくつかの側面をもっており、必要に応じて、突然第二の顔をむきだしにし、仮面をつけている者は、そうすることで原初の時代におこなわれた瞬時の変身を再現することができる。つまり重要なことは、創造の時代を生きた祖先たちを現在化し、再び活動させることである。こうした祖先たちだけが、望ましい効力を儀礼にあたえる魔法の力をもっているのだ。さらにいえば『根拠としての神話と現実の儀礼細目』との間には、明確な区別など存在しない」

 著者は、さらに以下のように述べています。

「威光に満ちた祖先たちの豊饒の時代を復活させるために、さまざまな方法が競って用いられる。神話を朗読するだけでこと足りる場合もある。神話とは、定義上、種の創造や制度の創設を語る、秘められた力強い物語なのである。神話は、呪文のように効力を発揮する。神話に記された行為の反復を引き起こすには神話を朗読するだけで十分である」

 ときには、まぎれもない演劇的表象が用いられることもあります。オーストラリアのヴァラムンガ族では、各氏族が自分たちの神話上の祖先の生涯を模倣するといいます。

 著者は、「豊饒儀礼と加入儀礼」について、以下のように述べています。

「豊饒儀礼のほかにも、若者を男たちの社会に仲間入りさせ、男たちの集団のなかに加える目的をもった儀礼がある。すなわち加入儀礼である。加入儀礼は、まさしく豊饒儀礼と比較可能だと思われるが、豊饒儀礼と同様、事物や制度の起源に関する神話の再現=表象化にもとづいている。これら2つの儀礼の間には絶対的な対応関係をみることができる。豊饒儀礼は自然の再生を保証し、加入儀礼は社会の再生を保証する。2つの儀礼は一体となっていることもあれば、別々に執りおこなわれることもあるが、いずれにせよ、両者はともに、神話上の過去を再び現在に復活し、若返った世界をこの過去から導き出そうとする目的をもっている」

 儀礼の意味とは何か。著者によれば、それは原初のカオスへの回帰にあるとともに細部にわたる宇宙秩序の正当性の確立にあります。秩序の世界への到来は、一度にしてなったものではありません。秩序の到来は、それ自体、また順序に従っているのです。

 まずは原初の時代を現在に復活することが重要です。祭りとは、新たに発見され創出された「カオス」なのです。著者は以下のように述べています。

「祭りの季節が細かく分かれ、一年中に散らばっている場合にも、やはり死者たちが生者の社会のなかに姿を現わすことが許される一定の期間がみとめられる。死者たちの侵入に当てられている毎年恒例の期間の終わりには、死者たちは、明確なかたちをとるお祓いによってしかるべき場所に追いやられる」

 (3)「放埓の機能」では、以下のように祭りの本質が述べられます。

「祭りとは全面的な混乱状態としての幕間の時間であり、事実上、世界の秩序が中断される期間として現象する。だからこそ、祭りではあらゆる放埒が許されるのである。そこでは規則に背いて行動することが重要なのだ。すべてが逆さまにおこなわれねばならない。神話時代には時間の流れは逆向きだった。ひとは老人として生まれ、子供として生を終える、とういわけだ。こうした祭りの状況において性的放埒と狂気が勧められるのには2つの理由がある。ひとつは、神話に語られる太古の生をより確実に再発見するために、日常と反対のことをやろうとあらゆる工夫がこらされることである。他方、あらゆる放埒は、来るべき再生の季節に豊饒と繁栄をもたらす活力の増大のしるしである」

 本書で、著者は「祭り」について延々と述べます。つまるところ、祭りとは何か。著者は「浪費と熱狂状態」として、以下のように「祭り」を定義します。

「結局のところ、祭りとは、その十全なかたちをとるとき、社会の熱狂状態として定義されねばならない。そして祭りは社会を浄化し再生させる。祭りが社会活動の絶頂点であるということは、宗教的観点からばかりでなく、経済的観点からも言える。祭りこそは、一瞬のうちに富を循環させる時間、もっとも重要な市場をつくりあげ、蓄積された富を威厳をもって配分する時間なのである」

 続けて、著者は「祭り」について以下のように述べます。

「祭りは集団の栄光を示すとともに、集団の存在を鍛えなおすひとつの全体的現象として現われる。祭りにおいては、集団の繁栄の証拠であり、未来への保証である新しいものの誕生が祝われる。集団は、新たな成員たちに精力を授ける加入儀礼をとおして、彼らを自分たちの内部に迎え入れる。集団は死者に別れを告げ、彼らへの忠誠を厳かに誓う。これはまた、階層化された社会において、さまざまな社会階級が歩みより、おたがいを同胞と認めあう機会となる。また、胞族に分かれた社会においては、相互補完的集団と敵対的集団が混じりあって連帯を立証し、普段は交じわらないよう気をつけているそれぞれの集団に受肉した神秘的諸原理を、創造の営みのために協働させる機会となる」

 さらに著者は、祭りの機能について以下のように述べます。

「さまざまな祭りがどれほど異なるものと想像され、また異なっているように見えようが、また1つの季節に集中したり、一年中に分散していたりしようが、いたるところで祭りは同じような機能を果たしている。祭りとは労働の義務の一時的中断であり、人間の条件であるさまざまな制限や束縛からの解放である。それは、神話が、夢が、生きられる時である。消尽すること、自分の力を消尽すること、それだけが義務となる時間と状態を生きるのである。何かを買うとか買わないとかいった動機などもはや通用せず、ただただ浪費しなければならない。各自が競って自分の富を、食糧を、性的能力や筋力を浪費する。しかし、社会は発展の過程で、無個性化、画一化、階層の均等化、緊張の緩和へとむかってゆく。社会機構の複雑さがきわ立つにつれて、生の通常の流れの中断は認められにくくなる。すべてが昨日と同じように今日も続き、また明日も今日と同じように続くことが必要とされる」

 第五章「生の条件と死の入口としての聖なるもの」の冒頭で、著者は普遍的秩序の維持について以下のように述べています。

「社会と自然は普遍的秩序の維持にもとづいて存続しているとみなされるが、この秩序は諸制度の統一性と諸現象の規則性を確実なものとする多くの禁止によって保護されている。社会と自然の健康と安定を保証すると思われるあらゆるものは、聖なるものとみなされ、それらを危険にさらすと思われるものは、冒瀆的なものとみなされる。両者の混合と過剰〔=放埒〕、改革と変化はひとしく恐れられる。こうしたことがらは衰弱や破滅の要素として現われるからだ」

 続いて、著者は儀礼の機能について以下のように述べます。

「多様な儀礼がそれらを償おうとする。つまり、それらによって混乱した配置を復活させ、それらをこの配置に組みこむのである。そのさい、危険な力は中和される。すなわち、自己保存のみを目的とし不動性のみを保証する世界にこのようなことがらが侵入したというだけの事実によって、有毒性の存在が暴露され、中和される。凝集をうながす聖なるものが、解体をもたらす聖なるものと対立するのはこのときである。前者は俗なる世界を支え、持続させる。後者はこの世界を脅かし、動揺させるが、それを更新し、緩慢な滅亡から救う」

 ここは非常に重要な部分であり、「礼」の力について語っています。 わたしは何度も読み返し、大いに納得しました。

 付論1「性と聖なるもの」では、著者は「宇宙の保存法則」について、以下のように述べています。

「万事がしかるべき時と場所で生じるよう定めた『世界の秩序』でも存在するかのように、すべてが継起している。この秩序が遵守されるのは極度に重要なことである。それは宇宙の保存法則そのものであり、何であれ激しい力をともなう現象は、この保存法則に害をおよぼす。なかでも他界が現世に流入するようなことが生じると、保存法則が侵害させ、均衡が崩れることになりかねず、有害なエネルギーを無秩序に氾濫させ、隔離されたままであるべきものが危険なまでに混入してくる恐れがある。だからこそ、出産と臨終があれほどの恐怖をひきおこすのであり、また、あれほど用心を重ねる必要があるのだ。出産と臨終は混乱をもたらす。とりわけ死の穢れがそうだ。炎によってそれを破壊してもよい。川に流しても、大地の奥深くに追いやってもよい。だが、それにしくじったら、そのときは死の穢れが一切を汚染しようとやってくるだろう。つづいて、微妙で複雑な手順にしたがい、穢れの源を浄め、殺菌する必要があり、そのときようやく万事が落ちつきと秩序を取りもどすことになる」

 著者は「聖なるもの」の顕現の仕方に触れた後、以下のように述べます。

「性と死の暗黒界から発するものであるにせよ、それは生の源でもあり、効験あらたかなもの一切の源であり、すばやく放電し、遮断するのが困難な力、変質することもなく、危険ではあるが欠くことのできない力なのである。この力をとらえ、飼いならし、恩恵をもたらすようにし、その攻撃性が手にあまるようなら骨抜きにしてしまうこと。そのために儀礼がある。この万能で目に見えない電気エネルギーに人間は畏敬の念をいだき、それをわがものにしたいと思う。宗教とは、この段階では、こうした電気エネルギーを制御する役割をはたすにすぎない」

 付論2「遊びと聖なるもの」では、「遊び」について語られます。
 ロジェ・カイヨワといえば、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて執筆した『遊びと人間』が有名です。同書において、著者は「遊び」を4種類に分類して考察しました。すなわち、アゴーン(競争:徒競走など)、アレア(偶然:ルーレットなど)、ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)、イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)です。これは画期的な「遊び」論として有名になり、わたしも大いに影響を受けました。
 『遊びの神話』(東急エージェンシー、PHP文庫)および『リゾートの思想』(河出書房新社)などの拙著でもカイヨワの「遊び」論を紹介しています。

 さて、著者は本書でもホイジンガの「遊び」論を紹介しつつ、「遊びと聖なるものを同一視する」という立場について以下のように述べます。

「宗教についても事情はおなじだとホイジンガは結論する。聖域や礼拝や儀礼は、遊びと似た役割をはたす。閉じた空間は結界をなし、現実の世界や生活から一線を画されている。その内部で一定の時間のあいだ、規則にしたがう象徴的な動作がとりおこなわれ、儀式がすすむにつれ、この動作は神秘的な実体を再現し現実化してゆく。遊びの場合と同様に、この儀式では活力と規律、恍惚感と思慮分別、熱狂的な錯乱と念入りな正確さという、対立しあう諸力が同時にせめぎあい、ついに人は日常生活の外へ運び去られる」

 また、著者は「儀礼の秩序」と「遊びの起源」について述べます。

「儀礼の秩序が単純な取りきめからできているのを認める必要があるのと同様に、つぎのことを認める必要がある。すなわち、儀礼の秩序によって俗世界のうちに厳格な法が支配する特定の場所が画定されること、また、この厳格な法がもたらそうとするのは、それに寄せる信仰心があるかぎりで意味や価値が付与されるにすぎぬ、空想の産物にほかならないこと、これらを認めねばならない。中世の専門家であるホイジンガが民族学的資料にもっとよく通じていたなら、ただでさえ実り多いその論証をさらに豊かにしてくれるような、いっそう多くの論拠を集めることもできただろうと私は思う。というのも、ごく普通の遊びをふくめ、多くの遊びが聖なるものを起源としているからだ」

 付論3「戦争と聖なるもの」では、「祭り―未開社会の発作」として、著者は「儀礼と神話」について以下のように述べています。

「人びとの想像力をほぼ完全に神話が支配する社会では、儀礼のかたちをとった神話が人生においてなすべきことを定めている。そのような社会での神話の役割を考慮するなら、神話が表にあらわれていない社会でも現実には何かがその役割をはたしているにちがいないと確信できる。が、それを暴くのは容易ではない。なぜなら神話のはたすべき役割とは儀礼行動に重みをあたえること、人にそれを信じこませ、必要なもの、あって当然なものと思わせることにあるからだ」

 それでは、神話と祭りの関係はどうなのか。著者は述べます。

「神話と深い関係にあり、折おりめぐってきては未開社会を徹頭徹尾撹乱する沸騰状態、それこそが祭りにほかならない。祭りは持続的、暴力的で、規模の大きな現象であり、より複雑な文明における数えるばかりの束の間の休日とはほとんどくらべようもない」

 (2)「戦争の神秘」では、「持続の節目としての戦争」として、著者は祭りについて以下のように述べています。

「祭りは神々の世界への扉をひらき、人はそこで変容し、超人的な存在になる。祭りは「大いなる時」へと通じ、労働の時を定める。つぎの祭りまではもっぱら停滞した平板な日々がつづく。これらの日々はより印象の強い日付とのかかわりにおいてのみ存在するにすぎない。祭りがその現実味をほとんど失った今日でもいまだに、あれは復活祭のあとだとか、クリスマスのまえだったとか人びとは口にする」

 続けて、著者は戦争について以下のように述べます。

「同様に戦争は持続的な流れを区切る目じるしとなるように思える。戦争は国民の生活の節目となる。戦争はそのたびごとに新しい時代の発端となる。戦争が始まるとき1つの時代が終わり、また戦争が終わるとき別の時代が始まる。あとの時代とまえの時代が区別できるのは目に見えて性質がちがうからである。戦前と戦後では生活はおなじではない。国家が戦争から立ちなおる時期か、戦争を準備している時期かによって一切が弛緩したり、一切が緊張したりする。それゆえ、戦前と戦後が注意深く区別されるのを目にするのである」

 著者は、すべての騎士道的な要素、規律正しい要素が次第に排除されつつあるのを確認できるとした上で、以下のように述べています。

「現代の戦争においては、それらの要素がいわば純化され、完璧な精髄に達する。戦争はその真のありかたとは無縁な外観をすべて剝ぎとられ、遊びごころや競争心との無理な結びつきから解放される。とういのも『まぎれもない犯罪と暴行』である戦争は、まったく逆説的なことではあるが、かつては敵にたいする誠意や敬意を認め、ある種の兵器・策略・作戦行動を採用することを禁じてきた。複雑な礼式や厳密な礼儀作法が慣習化されており、そこでは武勇と豪胆を競うと同時に良き作法を競うことにも関心が注がれていたのである」