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贈与論』

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No.1216


 フランスの社会学者、文化人類学者であるマルセル・モースの代表作である『贈与論』は1924年に書かれています。ポリネシア、メラネシア、そしてアメリカ北西部のアルカイックな部族たちによって実践されてきた、ポトラッチ、クラなどの交換体系の分析を通じて、宗教,法,道徳,経済の諸領域に還元できない「全体的社会的事実」の概念を打ち出しました。
 かのクロード・レヴィ=ストロースが『贈与論』を読んで、未開社会における女性の交換システムを定式化する大きなヒントを得たことはよく知られています。レヴィ=ストロースは、これによって構造主義革命を旗揚げしたとされ、その結果、『贈与論』の名声も高まったのです。

 モースは1872年ロレーヌ出身で、この読書館でも紹介した『宗教生活の原初形態』の著者であるエミール・デュルケムの甥(姉の子)にあたります。モースは叔父であるデュルケムを踏襲し、「原始的な民族」とされる人々の宗教社会学、知識社会学の研究を行いました。また、パリの高等研究実習院でインド宗教史を専攻し、1902年から30年にかけて同研究院(非文明民族の宗教史)講座、31年から39年にかけてコレージュ・ド・フランス社会学講座を担当しています。この間、26年から39年にかけては、この読書館でも紹介した『未開社会の思惟』の著者であるリュシアン・レヴィ=ブリュルが創設したパリ大学民族学研究所で民族誌学を講じました。さらには、デュルケムの協力者として、アンリ・ユベールとともに『社会学年報』の宗教社会学部門等の編集に携わり、フランス社会学派の開拓に尽くしています。


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   本書の表紙カバー


 本書の表紙カバーには、以下の内容紹介があります。


「贈与や交換は、社会の中でどのような意味を担っているのか? モース(1872-1950)は、ポリネシア、メラネシア、北米から古代のローマ、ヒンドゥー世界等、古今東西の贈与体系を比較し、すべてを贈与し蕩尽する『ポトラッチ』など、その全体的社会的性格に迫る。『トラキア人における古代的な契約形態』『ギフト、ギフト』の二篇と、詳しい注を付す」


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「トラキア人における古代的な契約形態」
「ギフト、ギフト」
「贈与論―アルカイックな社会における交換の形態と理由」
  序論 贈与について、とりわけ、
      贈り物に対してお返しをする義務について
  第一章 贈り物を交換すること、および、
       贈り物に対してお返しをする義務(ポリネシア)
  第二章 この体系の広がり、気前の良さ、名誉、貨幣
  第三章 こうした諸原理の古代法および古代経済における残存
  第四章 結論
訳注
訳者解説―マルセル・モースという「場所」

 「トラキア人における古代的な契約形態」では、オーストラリア、アフリカ、メラネシア、ポリネシア、北アメリカの諸社会で契約が交わされ、富の交換が行われることが取り上げられますが、モースはその冒頭で以下のように述べています。


「集団と集団は、しばしば永続的な連盟関係によって、そしてとりわけ結婚を通じて(というのも、結婚は言葉の十全な意味における連盟関係なのだから)、相互的な義務を負い合うのである。これらの集団と集団がお互いに課し合う相互的な諸義務は、当該集団のすべての成員に等しく課せられるものであるし、隣接し合う複数の世代を包含することもしばしばである。だがそれだけでなく、それはまたありとあらゆる活動におよぼされ、ありとあらゆる種類の富におよぼされる」

 その具体的な実例について、モースは以下のように紹介します。


「たとえば、踊りと引き換えにとか、イニシエーション儀礼と引き換えにとかといった具合で、そのクランが所有するものすべてが交換に出されるし、それにはいつかお返しがなされることになっている。女性であれ子どもであれ、食べ物であれ儀礼であれ相続財であれ、これらすべてのものが集団から集団へと動くことになる。したがって、こうした交換はたんに経済的なだけのものではないのである。むしろその逆なのだ。これこそ、わたしが『全体的給付の体系』と呼ぶことを提唱しているものなのである」

 そして、「トラキア人における古代的な契約形態」の最後に、モースは次のように書いています。


「消費すること、競合すること、与えた以上のお返しをして財を蕩尽する関係を結び合うこと、こうしたことにかかわる儀礼や慣習を、このほかの古代民俗にも見いだすことができれば、それはきわめて興味深いことではないだろうか。そうすればおそらく、こうした諸形態がどのようにして廃れてゆき、たんなる交換的契約へと堕していったのかが分かることだろう。ゲルマンの贈与の研究とか、ケルト文献における交換の研究とかがなされれば、きっと学ぶところの多いものとなるだろう。こうした研究には、わたしよりも専門的な能力がある研究者に従事していただきたいと思う。古代のヨーロッパ民族およびインド=ヨーロッパ語系民族のなかに、協定やら結婚やら交換やら、宗教性と審美性とが混ざり合った給付やらのさまざまな形態を見いだすことができた。そしてそれは、メラネシアや北アメリカについてとほぼ同じことである。すでにしてこれはひとつの進展なのだ」

 「ギフト、ギフト」では、無償の贈与やサービスといったシステムは遅れた社会(未開社会)だけで一般化していると長らく信じられてきたが、じつはヨーロッパ諸社会の古代法の大部分においても存在していたと指摘し、以下のように述べています。


「とりわけ、古代ゲルマンの諸社会を構成するさまざまな集団は、次のようなかたちで相互に結ばれていた。結婚を取り交わし、嫁を得て婿を得て、そこから子どもたちが母方・父方の双方の家系に生まれることによって、また、甥たちや従兄弟たちや祖父や孫息子が、一方が他方を育てたり、一方が他方を養ったり、一方が他方に仕えたり等々することによって。――軍役を務め合うことによって。そして、成人式や戴冠式を催し、また、そうした儀式を機会として饗宴を催すことによって。死者を弔い合い、葬儀で食事をふるまい合うことによって。そして、財を継承し、用益権を定め、財の継承にともないかつて贈与した物が戻ってくることによって。無償で物を贈与したり、借りた物に利子を上乗せして返したり、利子つきで物を貸したりすることによって。物と人とが混然一体となって絶え間なく循環するのだ。さまざまなサービスが恒常的に、あるいは一時的に循環する。名誉が循環し、祭宴は贈与としてなされたり、お返しとしてなされたり、いずれお返しされるものとしてなされたりして循環する。ゲルマニアとスカンジナビアの古代諸民族の社会生活はおおかたこのようなものであったと想像しなくてはならないのである」

 そして、いよいよ「贈与論」です。序論「贈与について、とりわけ、贈り物に対してお返しをする義務について」で、モースは次のように述べています。


「わたしたちの経済組織や法体系に先だって存在してきたあらゆる経済組織・法体系においては、財や富や生産物が、個人と個人とが交わす取引のなかでただ単純に交換されるなどということは、ほとんど一度として認めることはできない。第一に、お互いに義務を負い、交換をおこない、契約を交わすのは、個人ではなく集団である」

 さらにモースは、以下のように述べます。


「それに加えて第二に、これらの集団が交換するのは財や富だけではない。動産や不動産、経済的な有用性のあるものだけではないのである。交換されるのは何よりも、礼儀作法にかなったふるまいであり、饗宴であり、儀礼であり、軍務であり、女性であり、子どもであり、祝祭であり、祭市である。もちろん祭市では物が取引されるし、富が循環するのだけれど、それは契約のさまざまな契機や要素の1つにすぎないのであって、契約それ自体はそれよりもはるかに一般的であり、はるかに恒常的なのだ。そして最後に、これらの給付と反対給付は、贈り物やプレゼントという、どちらかと言えば自発的なかたちでおこなわれるのだが、それにもかかわらずそれは、実際のところはまったく義務によってなされている。この義務を果たしそこなえば、私的な戦争もしくは公式の戦争となったほどである」

 「贈与論」では、ポトラッチが何度も取り上げられます。ポトラッチとは、北アメリカの太平洋側北西部海岸の先住民族によって行われる祭りの儀式です。儀式に先立っては、巨大な丸太を彫刻したトーテムポールが彫られ、これを部族員総出で立ち上げる行事が行われます。ポトラッチの際、裕福な家族や部族の指導者が家に客を迎えて舞踊や歌唱が付随した祝宴でもてなし、富を再分配するのが目的とされています。子供の誕生や命名式、成人の儀式、結婚式、葬式、死者の追悼などの機会にポトラッチが催されました。太平洋岸北西部先住民族の社会では、一族の地位は所有する財産の規模ではなく、ポトラッチで贈与される財産の規模によって高まりました。

 第一章「第一章 贈り物を交換すること、および、贈り物に対してお返しをする義務(ポリネシア)」の4「備考―人への贈り物と神々への贈り物」では、ポトラッチについてモースは以下のように述べています。


「もちろんポトラッチは、気前のよさを競い合う人間に作用をおよぼすし、人間がそこで互いに渡し合う物や、そこで消費する物どもに作用をおよぼす。だが、それだけでなくポトラッチは、そこに立ち会い、それに参加する死者の魂にも、人間がその名前を受け継いでいる死者の魂にも、作用をおよぼす。その上さらに、ポトラッチは自然に対しても作用をおよぼすのである。人間というのは、『名前を継いだもの(name-sakes)』、すなわち霊と同じ名前を受け継ぐものであるので、人間どうしのあいだで贈り物を交換すれば、その交換が死者の霊や神々の諸事物や動物や自然に働きかけて、『人間に対して気前よく』あるように促すのである。贈り物の交換が豊かな富を生みだす、と説明されている」

 第二章「この体系の広がり、気前の良さ、名誉、貨幣」の1「寛大さに関する諸規則。アンダマン諸島」では、結婚の贈り物について以下のように書かれています。


「結婚の結びつきは贈り物によって確かとなる。贈り物によって、新郎の両親と新婦の両親とのあいだに親戚関係が形成される。贈り物をやりとりすることで、両方の『側』に同一の性質が付与されることになる。性質のこの同一性を如実に示すのが次のような禁忌である。それぞれの息子と娘の婚約をめぐる最初の約束を交わして以降、双方の両親は自分たちがこの世を去るまで、もはや相まみえたり、ことばをかけ合ったりすることを忌避しなくてはならないのである。そのかわり、双方はこれ以降ずっと贈り物を交換し合うことになる」

 なぜ、人間は物を贈り合うのでしょうか。
 その問いの答えを、モースは以下のように述べます。


「結局のところ、それは混ざり合いなのだ。物に霊魂を混ぜ合わせ、霊魂に物を混ぜ合わせるのだ。さまざまな生を混ぜ合わせ、そうすると、混ぜ合わされるべき人や物は、その1つひとつがそれぞれの領分の外に出て、互いに混ざり合うのである。それこそがまさしく契約であり交換なのである」

 さて、贈与には名誉ということが深く関わっています。
 名誉の観念はポリネシアで強い影響力を持ち、メラネシアでも恒常的に見ることができます。名誉という観念が、これらの地域では本当の意味で破壊的な猛威をふるっているとして、モースは以下のように述べています。

 

「呪術という観念と同様に、名誉という観念もこれらの諸文明に無縁ではない。ポリネシアのマナにしてからが、各存在者の呪術的力だけでなく、その存在者の名誉をも象徴しているのであって、この語の最良の訳語の1つが権威であり、富なのである」

 第四章「結論」の1「倫理に関する結論」では、返礼の問題が取り上げられ、モースは以下のように述べています。


「招待というのは、されればお返しをしなくてはならないものである。それは『礼』に対して『礼』を返すのと同じである。ここに見てとるのができるものこそ、古くから受け継がれてきた基盤、すなわちかつての貴人たちのポトラッチが、今もその名残をのぞかせるさまなのだ。それと同時にまた、人間活動の基本をなすモチーフがここにも姿を見せているのが分かる。それが、同性の人どうしの競合関係であり、人間にとって『基底的な他者支配への志向』である。それは社会的存在としての人間の基底であると同時に、動物的存在・心理的存在としての人間の基底でもあって、それがここにあらわれている」

 モースは、さまざまなアルカイックな社会について言及しますが、諸々の事象の系列のうちで確証されているのは以下のものであるとして述べます。


「これらの社会においては、価値観念が機能していること。剰余価値が蓄積されており、それは絶対的な尺度から言ってもきわめて多額にのぼること。そうして集められた剰余価値が、たんに喪失するためだけに消費されることがしばしばであり、そこでは比較的盛大な贅沢がなされており、何かを儲けようなどという了見はまったく介在させないでいること。一種の貨幣のような、富をあらわす表徴があって、それが交換されること。けれども、このように非常に豊かな経済システムも、全体としては依然として宗教的な要素に満ち満ちていること。貨幣は依然としてその呪術的な力を有しており、依然としてクランに、ないしは個人に結ばれていること。さまざまな経済的な活動、たとえば市場が、儀礼やら神話やらに浸潤されていること。経済的な諸活動が、儀式的で義務的な性格を保ち、何らかの効力を有していること。経済的活動が儀礼や法的事象で満ちていること。デュルケームは経済的価値という観念が宗教的な起源を有することについて問いを提起したけれども、この観点からすると、わたしたちはこのデュルケームの問いに、すでにして答えを与えていることになる」

 第四章「結論」の3「一般社会学ならびに倫理上の結論」の最後、つまり「贈与論」全体の最後に、モースは以下のように述べています。


「人間の全体的なふるまいを研究し、全体としての社会生活を研究するにはどうすればよいのか、それをここではいくつかの事例に沿って見てきた。同時に見てきたのは、この研究が具体的な研究であって、習俗の科学に通じ、社会科学のある一翼をなすにいたるのはもちろんのことながら、さらに加えて、倫理に関する諸結論を導く可能性があるということである。倫理に関するというのは、古いことばを蒸し返すなら『礼節』に関すること、そして今風のことばで言うなら『市民意識』に関すると、むしろ言うべきかもしれない。実際、このような研究をおこなうことによって、審美的なものや倫理的なものや宗教的なものや経済的なものといった、人を動かす多様な動因、そして、物質的なものや人口動態にかかわる多様な要因に目を向けることができるようになり、それらを測りとったり比較考量したりすることができるようになる。こうした諸々の動因・要因の全体が社会というものを基礎づけており、また共同生活というものを構成している。したがって、これらの諸動因・諸要素を意識して統制していくということが究極の技法(アート)なのだ。ソクラテス的な意味での〈政治〉なのである」

 「贈与論」の最後の最後で、モースは非常に重要なことを述べていますが、彼の言う「ソクラテスな意味での〈政治〉」とは、孔子がめざした礼治社会にも通じるように思います。
 『宗教生活の原初形態』の書評で、わたしはモースの叔父であり師であるエミール・デュルケムが孔孟的であると述べました。具体的には、デュルケムは孔子的であると思います。そして、彼の学問的後継者である「礼」の問題をさらに深化させたモースは孟子的と言えるのではないでしょうか。そういえば、「モース」と「孟子」は音も似ています。

 「贈与論」で、モースは各地のアルカイックな部族たちによって実践されてきた贈与と返礼の習俗「ポトラッチ」に着目しました。そして、それが人間関係や社会そのものを形成する重要な役割を持つことを明らかにしました。またモースは、古代ローマやインドやゲルマンの文献を渉猟し、これらの文化においても似た習俗が存在していたことを示しました。ポトラッチは人類共通の遺産であり、大いなる「返礼」の文化なのです。

 ちなみに、わたしのブログ記事「海難1890」で書いたように、海難事故に遭ったトルコ軍艦エルトゥールル号への日本人による救援と、トルコ人によるイラン・イラク戦争時の在イラン日本人救出という、両国の絆を象徴する二つの出来事を感動的に描いた映画「海難1890」には「完全な礼」が描かれています。というのも、礼は一方的に示されるだけでは不完全であり、返礼を受けて初めて完成するのです。ですから、日本人が示した「礼」を95年後にトルコ人が返したことによって、国境を越えた大いなる「礼」が実現したのでした。

 最後に、本書のアマゾン・レビューにある「穴熊」さんという方の「吝嗇文化に対する処方箋」と題するレビューが秀逸でした。
 まず、穴熊さんは以下のように述べています。


「最終章では、ポトラッチの視点から現代社会の問題が明らかにされている。ポトラッチの特徴は、持てる者には贈与の義務があり、それを受け取った者には返礼の義務があるということだ。その際、返礼は、受け取った物を上回らなければならない。いわば、倍返しの世界なのだ。ここにはある種の競合関係があり、しかるべき返礼をできない者は、名誉や地位を失いかねない。この背景にあるのは、贈与される物には『物の力』があるという信念だ。物は生き物であり、それを一方的に自分のもとに貯め込むことは所有者を害することになる。Giftという言葉が英語では『贈り物』、ドイツ語では『毒』を意味するのは偶然ではない」

 それから、穴熊さんは以下のように述べるのでした。


「この種の信念は、現代人から見ると途方もない浪費に思われるかもしれない。低コストで高収入を得ることが賢いとみなされ、消費は自分や家族のためだけにするのが現代社会の風潮だからだ。しかし、著者自身が最終章で述べているように、『公の場で物を与える喜び、美的なものへ気前よく出資する喜び、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び』といったものは、いまこそ再評価すべきではなかろうか。わが国の吝嗇文化に対する興味深い処方箋である」

 わたしの知り合いで、お世話になった方に中元も歳暮も送らず、年に数回、家族で外食して高級な寿司やステーキを食べることを何よりの楽しみにしている人がいます。そういった小市民的な暮らしは別に悪いことではないのですが、自分や家族だけのためにする消費はやはり虚しいと思います。しかしながら最近では、わが子の結婚式はおろか、親の葬式まで挙げない日本人が増えてきました。「吝嗇文化、ここに極まれり!」と思えますが、すべてを「コスパ」で考えて「礼」を忘れる民族に未来はないと思います。