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コメントで見る! プロレスベストバウト』

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No.2116


『コメントで見る! プロレスベストバウト』瑞佐富郎著(マイウェイムック)を読みました。カバー表紙には「プロレスは人生劇場だ! コメントは試合を飾るファンファーレ」とあります。プロレスラーとは肉体を駆使するだけでなく、言葉も駆使する存在する。試合を終えた後、その試合内容を振り返るだけでなく意味深なコメントを発し、ファンの幻想を刺激します。プロレスラーだけでなく、関係者や観戦者も印象的なコメントを残すことがあります。本書には、そんなコメントが40集められています。

 

 著者は愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。シナリオライターとして故・田村孟氏に師事。フジテレビ『カルトQ・プロレス大会』優勝を遠因に、プロレス取材等に従事したそうです。本名でのテレビ番組企画やプロ野球ものの執筆の傍ら、会場の隅でプロレス取材も敢行しています。著書に『新編 泣けるプロレス』(standards)、一条真也の読書館『平成プロレス30の事件簿』『プロレス鎮魂曲』『さよなら、プロレス』で紹介した本などがあります。また、『証言UWF完全崩壊の真実』『告白 平成プロレス10大事件最後の真実』『証言「プロレス」死の真相』で紹介した本の執筆・構成にも関わっています。

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」

第一章 「二十世紀 プロレスが娯楽の王だった」

第二章 「二十一世紀 プロレス再建」

「プロレス大賞一覧」

 

 本書には昭和・平成・令和の日本におけるプロレス(異種格闘技戦を含む)40試合とそれに関連するコメントが紹介されていますが、最初に登場するのは1976年6月26日のアントニオ猪木vsモハメド・アリでした。「世紀の一戦」と呼ばれたこの試合は15ラウンド引き分け。プロレス的展開に欠ける試合内容に、「スーパー茶番劇」「真昼の欠闘」「世紀の上げ底ショー」など報道は酷評の嵐でした。クローズド・サーキットも大不振に終わり、新日本プロレスは約30億円ともいわれる借金を背負います。著名人からも「単なるお金儲け」(張本勲)、「格闘技としてもショーとしても最低」(東海林さだお)など辛辣な意見が続出しましたが、唯一、この試合を評価した男がいました。屈指の日本人俳優としてハリウッドに乗り込み、アメリカの大物俳優たちと堂々と渡り合った「世界のミフネ」こと三船敏郎でした。彼は、こう言ったのです。

 

アリをリングにのせ、

引き止めておけただけで

‟世界の猪木"になったと思う

(三船敏郎)

 

 アリと引き分けた後、世界中の格闘家を連破したアントニオ猪木は「格闘王」と呼ばれますが、猪木に続いて「新格闘王」と呼ばれたのが前田日明です。ショー的要素の少ない格闘プロレスを目指した(第一次)UWFが活動停止となり、不本意ながら前田たちは古巣である新日本プロレスのリングに逆上陸します。UWF戦士たちの容赦ない攻撃、特にキックボクサーさながらの鋭角的な蹴りは新日本のレスラーたちに敬遠されました。猪木でさえ前田との対戦を避けたほどですが、そんな中、敢然と前田の前に立ちはだかったのが当時の新日本のナンバー2であった藤波辰爾でした。藤波と前田の試合は1986年6月12日に行われましたが、前田の縦回転のニールキックが藤波の目を直撃し、大流血。それでも死力を振り絞った藤波が、前田のニールキックをレッグラリアットで迎撃し、試合は両者KO決着となりました。同年のプロレス大賞を受賞したベストバウトとなりました。後に「K-1グランプリ」を立ち上げた男は、この試合を観戦して魂を揺さぶられたといいます。

 

「自分もこんな格闘技を

 立ち上げたい」と考えた

(石井和義)

 

 長州力への蹴撃事件によって新日本から追放された前田は第二次UWFを立ち上げますが、真っ先に合流したのが前田の弟分だった髙田延彦でした。新生UWFは「社会現象」と呼ばれるまでのブームを起こしますが、あえなく崩壊。髙田は自身をエースとするUWFインターナショナルを立ち上げます。師匠である猪木の異種格闘技路線を踏襲して、髙田はプロボクシング世界ヘビー級王者のトレバー・バービックを撃破しますが、これはいわゆるブック破りでした。もう1つのブック破り試合とされているのが、1992年10月23日の北尾光司戦です。元大相撲横綱でプロレス界のトラブルメーカーだった北尾に右ハイキックを放って、髙田は3ラウンドKOします。その後のUインターの宣伝動画の類に、北尾がKOされるシーンはふんだんに使われましたが、ある瞬間からバタッと見られなくなりました。理由は、当時のUインターの取締役だった男が語っていました。 

 

試合が終わってしばらくしたら、北尾サイドから連絡が来たの。「あの、ハイキックで倒れた映像、あんまり使わないでいただけますか?」って

(鈴木健)

 

 UWFインターナショナルは旗揚げ2年目の1992年から新日本プロレスといがみ合ってきました。同年の8月には新日本の常連外国人だったバッドニュース・アレンを二重契約の形でインターがリングに上げ、2ヵ月後には、当時、G1-CLIMAXを2連覇した蝶野の「髙田さんとも戦ってみたい」という発言を雑誌で見つけて一方的に対戦要求。以降も、新日本のトップ外国人選手だったビッグバンバン・ベイダーやサルマン・ハシミコフらをUインターのリングに上げ、髙田が撃破。その後、Uインターの山崎一夫が新日本に参戦して、その軋轢はピークに。そんな中で開催されたのが1995年10月9日の「新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面対抗戦」でした。メインイベントでは武藤敬司と高田延彦がエース対決。試合は髙田の蹴り足をとらえた武藤がドラゴンスクリューからの足4の字固めで完勝。当時のUインターは赤字続きで崩壊寸前であり、この試合の結果もプロレス的な政治的駆け引きが反映されていました。試合後の武藤のコメントがそれを見事に表しています。

 

いやあ、新日本プロレス。凄い会社です。この会社の一員であることを、誇りに思いますね(武藤敬司)

 

 1999年1月4日の東京ドームで行われた新日本プロレスの橋本真也とUFOの小川直也の一戦は「セメントマッチ」として大きな話題となりました。小川がコーナーに橋本を追い詰めて、コツコツとパンチを打ち込みます。その戦い方は、プロレスというより「バーリ・トゥード」でした。橋本はプロレスの試合をしようとしますが、小川は付き合いません。マウントを取って、上からパンチを繰り返します。橋本は何とか「プロレス」で試合を終わらせないといけないと思ったのでしょう。レフリーを巻き込み、「反則負け」で終わらせようとしますが、それに対して小川が反則裁定をさせないように阻止。あくまで、プロレスで終わらせようとする橋本。セメントマッチを止めようとしない小川。最後は無効試合で終わりますが、結果的に橋本のプロレスラーとしての価値は暴落しました。試合後、リングスの前田日明から連絡があったことを橋本が明かしています。

 

リングスの前田さん。「なにも気にすることはない。よかったらウチにこいよ」と言って下さった(橋本真也)