No.2145 エッセイ・コラム | プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『アントニオ猪木』 瑞佐富郎著(新潮新書)

2022.06.29

 『アントニオ猪木』瑞佐富郎著(新潮新書)を読みました。「闘魂60年余の軌跡」というサブタイトルがついています。新潮新書から猪木をテーマにした本が出たのは驚きました。ブログ『猪木』で紹介した本があまりにも名著だったので、正直、本書の内容にはさほど期待していなかったのですが、わたしの知らなかったことがたくさん書かれており、「さすがは瑞佐富郎だ!」と感心した次第です。特に、「1億円結婚式」と世間で騒がれた倍賞美津子との結婚披露宴への猪木の想い、自身の埋葬は「宇宙葬」でやってほしいという猪木最後の願いなどを知り、非常に感銘を受けました。「燃える闘魂」は冠婚葬祭についても燃えるような情熱を持っていたのです!

 著者は愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。シナリオライターとして故・田村孟氏に師事。1993年に行われたフジテレビ「カルトQ・プロレス大会」での優勝を契機に、プロレス取材等に従事したそうです。本名でのテレビ番組企画やプロ野球ものの執筆の傍ら、会場の隅でプロレス取材も敢行しています。著書に『新編 泣けるプロレス』(standards)、一条真也の読書館『平成プロレス30の事件簿』『プロレス鎮魂曲』『さよなら、プロレス』『コメントで見る! プロレスベストバウト』で紹介した本などがあります。また、『証言UWF完全崩壊の真実』『告白 平成プロレス10大事件最後の真実』『証言「プロレス」死の真相』で紹介した本の執筆・構成にも関わっています。

本書の帯

 本書の帯には「アリ戦の真相、馬場との本当の関係、北朝鮮、イラクでの秘話、波乱の人生……」「『魅せる男』の全貌に迫る!」と書かれています。帯の裏には、「●実は判定勝ちだったモハメッド・アリ戦●師の故郷に送った「闘魂」●猪木vs馬場戦に3億円●ジェット・シン「伊勢丹事件」の詳細●巌流島対決と離婚●規格外のストロング小林戦●「国際軍団」1対3ハンディキャップマッチ●IWGP失神事件、もう1つの真実●政治家猪木のルーツ●人生はハプニング!●猪木からの学び」と書かれています。

本書の帯の裏

 カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「なぜ、アントニオ猪木は人を惹きつけるのか――プロレスファンでなくても知っている、その圧倒的存在感と魅力の根源を、これまでの人生から徹底検証する。デビューから60余年、リングの内外で起きた”事件”、世界中の強豪選手を相手に闘った姿、政治の場で示した抜群の行動力……その時々の猪木の行動と発言を精緻に描写する。ひとたび興味を持てば『猪木に魅せられ、心を奪われてしまう』理由が、本書で明解に!!」

 本書の「目次」は以下の構成になっています。
まえがき「『猪木』という一灯」
第1章 VS.世界
第2章 VS.好敵手
第3章 大勝負
第4章 政界
第5章 美学
あとがき「『山師』という原像」
「主要参考文献」

 まえがき「『猪木』という一灯」の冒頭を、著者は「『大人になってからあなたを支えてくれるのは、子ども時代の「あなた」です』児童文学作家で翻訳家の石井桃子の言葉である。確かに、成長期に受けたさまざまな薫陶はその後の自分を形成し、時に助けとなる。そして、ことプロレスというジャンルにおいて、最も人心にそのような影響を及ぼした人物と言えば、やはりこの人になるのではないか。アントニオ猪木である」と書きだしています。素晴らしい名文であり、心から共感できます。

 死に関して、猪木には好きな言葉があるそうです。「ロウソクの言葉」というもので、「私は、もうじき死ぬ。身を削って、苦しみと悲しみの中で、灯りを作り出している。でも、燃え尽きるまで、周りを照らして生きたい」という内容です。ブログ「燃える闘魂ラストスタンド」で紹介した2021年にNHKで放送された猪木のドキュメント番組で知識や情報面で協力したという著者は、「はなはだ微力ながら、拙著が『アントニオ猪木』という一灯を読者が感じられるよすがとなれば幸いである」と述べるのでした。

 第1章「VS.世界」では、「INOKIの名を世界に轟かせた」として、1976年6月26日のモハメッド・アリ戦が取り上げられます。この試合以降、猪木は、アリの幻影を追った感もあったと指摘し、著者は「1986年には、かつてアリに判定勝ちしたボクサー、レオン・スピンクスと闘い、これに勝利している。アリのかつてのスパーリング・パートナーであり、これまたアリにKO勝ちしているラリー・ホームズとは、1985年から何度も対戦に向けての交渉をしていた(試合は実現せず)。異種格闘技戦で2度戦っているプロ空手家、ザ・モンスターマンは”アリからの刺客”という触れ込み。よくよく聞くと、アリのボディガードをしていた経験があるというだけで、こちらは言ってしまえば、ただの煽りだった」

 猪木がアリの幻影を追ったのは、そうせざるを得ない理由があったからです。「今世紀最大のスーパーファイト」と謳われた猪木vsアリ戦はマスコミから酷評された上に興行的にも大赤字でした。そのためこの一戦以降、確実に客の呼べる興行を打たねばならず、猪木は異種格闘技戦を続けざるを得なくなったのです。著者は、「自明ながら、大赤字を負った理由の大きな1つは、劇的な展開に欠ける試合内容である」と述べています。試合翌日、アメリカの「サンデー・ニューズ」は「終了後、記者の間からはこんな声も出た。”わが人生の中で、ジャップどもが犯した2度目のミステークだ”と」と報じました。1つ目のミスは真珠湾攻撃のことだといいいますから、あまりにも強烈です。しかし、著者は「翻って、こうも言えることになる。試合の注目度は全世界規模であったと。そう、アントニオ猪木の名誉を轟かせたのだ。悪名は無名に勝るではないが、猪木という存在を、海を越えて知らしめることに成功したのである」と述べます。

 本書には、猪木vsアリ戦について特集された「週刊サンケイ」1975年7月3日号の内容の一部が紹介されています。75年6月、アリがマレーシアでの試合に向かう途中、日本に立ち寄った際に猪木の代理人が書状を手渡し、そこから「猪木vsアリ」が動き出したのを受けた記事ですが、なんと2年前に猪木と激闘を展開した大木金太郎が「オレの頭突きの破壊力はアリのパンチ以上だ。この頭突きを猪木さんは何十発、顔面といわずどこといわず食っても倒れなかった。彼は打たれ強いんだ」と発言しています。また、極真会館の総裁であった大山倍達が「私が相手をしたプロボクサーは、ヘンリー・アーサーという、ヘビー級のUSチャンピオンだった。(中略)私のナックルと彼のナックルが激突した。それで彼の手の骨は粉々に砕け、使い物にならなくなった。だから、ボクサーはグローブをとって素手でやったら逆にダメなんです。そこに猪木君の狙い目がありますね」と語っています。この年、大木金太郎は大山倍達に挑戦をぶち上げていますが、じつに興味深い両者のコメントですね。

 もう1人、同誌で猪木vsアリ戦について語った人物がいました。大山倍達の拓大の先輩で兄貴分だった柔道家の木村政彦です。木村は、「私の体験では、最も真剣勝負に強いのはプロボクサーですよ。しかも、相手は世界チャンピオンのアリですからね。ボクサーで、しかもヘビー・ウェートのパンチはそりゃ強いよ……。まあ、結果は言うも愚かなことでしょう」と語っています。木村といえば、「昭和巌流島の決戦」で大相撲出身の力道山に敗れたことで有名ですが、後輩だった大山は木村の仇を討つべく力道山に挑戦したとされています。力道山は猪木の師匠ですが、梶原一騎が原作を書いた『空手バカ一代』や『男の星座』などによれば、力道山vs木村戦後のリングに大山が上がって挑戦したことになっています。しかし、一条真也の読書館『昭和プロレス 禁断の闘い』で紹介した本によれば、力道山戦で惨敗した後の木村が宿泊していた神田橋の千代田ホテルの客室に大山が「木村先輩!」と言いながら姿を見せ、「空手でよければ、僕が力道山と対戦します」と盛んに言ったそうです。それを木村は「いいから、いいから」となだめたといいます。これが歴史の真実でした!

 猪木vsアリ戦は、アリ側からのルールの縛りが厳しく、消去法からいって猪木は寝て蹴るしかなかったことは有名です。背景にはこの年の6月10日、すでにアリがプロレスラーと戦っていたことにあったと指摘し、著者は「会場はシカゴのインターナショナル・アンフィシアター。アリはケニー・ジェイ、バディ・ウォルフと戦い、前者とは2RでKO勝ち、後者とは2Rでレフェリーストップ勝ち。1日に2試合もしていることかたわかろうものだが、こちらは余興の域を出ないものだった。ウォルフ戦では、シュミット流バックブリーカーを2度くらい、ジェイ戦ではスープレックスで投げる場面もあった。この2試合はアリの戦歴から完全に抹殺されているが、これによりアリ戦は『プロレスとは、こういうもの』と思ってしまったとしても、不思議はない。事実、決戦10日前に来日したアリとその側近は、通訳のケン田島から猪木戦を『真剣勝負』と聞かされ、仰天してしまい、直後から猪木をルールで縛り始めた」と述べています。

 さて、本書には「決戦2ヵ月前の4月30日、福岡県小倉市(現・北九州市)三萩野体育館大会での試合後、猪木はこうコメントした。『なぜアリと戦うかと言えば、それは、登山家と同じような気持ちでしょうね。アリは、傲然とそびえている山のようなもんですよ』」と書かれています。しかし、小倉市が消滅して北九州市が誕生したのは、わたしが生まれた1963年のことであり、1976年時点ではもう13年も経過していました。こんなケアレスミスを、業界でも特に厳しいことで知られる新潮社の校閲部が見逃したというのは驚きです。それとも、小倉も北九州市もナメられてる? それはともかく、猪木は1964年から始めるアメリカ武者修行の途中、ボクサー転向を勧められたことがあったそうです。ボクシング業界の厳しい内情を知って断りましたが、まさに64年にヘビー級王者になったのがアリでした。猪木派、「もしボクサーになっていたら、当然、アリを目指したことになったでしょうね」と言い、最後はアリ戦について「格闘家としては、やりたいと思うのが、当然でしょう」と結論づけたのでした。

 周知のように、猪木vsアリ戦は、15R戦った末に引き分けに終わりました。しかし、この試合について調べていた著者は、変更後の最終ルールを見て、吹き出しそうになったそうです。あれだけタイトとなったルールなのに、3カウントによるフォールの条項は生きていたのです。そして、もう1つ。「15R終了時には、ジャッジの合計得点が多い方が勝者」という条項を発見しました。著者は、「ジャッジの合計得点を出してみた。猪木が、2ポイント差で勝っていた。急いで知遇を得ていた元『週刊ゴング』のスタッフに連絡を取った。既に2つの『猪木vsアリ』ムックを作っていたスタッフは言った。『本当だ!……ど、どうして気が付かなかったのか……』この真実は、当時発売された書籍でも触れたが、一方で、猪木が何度もこう振り返っているのも事実である。『(あの試合は)引き分けで良かったんだよ』」と書いています。

 引き分けに終わった猪木vsアリ戦で、猪木の勝機とされた瞬間がありました。6Rの1分経過後のことです。猪木の蹴り足を取ろうと接近したアリが、逆に自分の左足首を猪木に取られ、横転したのです。上になった猪木はすかさずアリの顔面に右肘を入れました。肘による攻撃は反則行為でしたので、すぐにブレイクがかかりましたが、猪木はこの瞬間について、「もう少し強めに入れていたら、試合は終わってた。自分の優しさが出てしまったな(笑)」とよく振り返ったそうです。著者は、「反則負けにはなっただろうが、確かにそうすれば、”アリをのした男”としての名を、永久に残せていた可能性も否定できないだろう。1976年12月12日、パキスタンでおこなわれた、アクラム・ペールワンとの一戦で、猪木は相手の左腕をチキンウィングアームロックで骨折させた」と述べるのでした。

 「パキスタンの英雄」であったアクラム・ペールワンを破った猪木に対して、パキスタンのレスリング連盟は「イノキ・ペールワン」と名乗るように懇願し、猪木もこの署名に応じました。決着直後、猪木は勝者として、現地のテレビカメラに向け、「アクラムは素晴らしい格闘家だが、負けは負けとして、認めてくれないと。異議があるというのなら、一族、誰でも相手になります。かかって来いと」と言いました。アクラム戦の翌日には、アクラムより2歳年上の兄、アスラムとの一戦が予定されていましたが、こちらは中止になりました。著者は、「猪木自身の意向もあったが、試合の、希にみる残酷な結果を見れば、適切な判断だったことは否めない。にもかかわらず、ペールワン一族が、先の猪木の挑発を真に受けた」と述べています。3年後の1979年6月16日、猪木とペールワン一族の再戦が行われました。ルールは10分5Rで、決着がつかない場合は3Rの延長。猪木の相手はアスラムの息子、ジュベール・ペールワンでした。

 ジュベール・ペールワンは当時19歳で、身長約190センチ、体重約150キロの巨漢でした。猪木をよく研究していたジュベールでしたが、肝心の決める技術を持っておらず、両者ともに決め手を欠き、5Rが終了。本来なら3Rの延長ですが、猪木が意外な行動に出ました。ジュベールに近づいて、その手を挙げたのです。著者は、「勝利したと思ったジュベールも一族も、飛び上がって大喜び。猪木自身も、うなずきながら、リングを降りた。とはいえ、決着はついていないわけだから、公式の記録は5Rで引き分け。しかし、猪木の行為により、ジュベールは猪木とは互角以上との心証も残った。それは、アクラム戦のまがまがしい空気とは、対極に位置するものだった。猪木と同地で試合をするため、現地入りしていたタイガー・ジェット・シンは、この光景を見て、こう振り返ったとされる。『やっぱり、猪木は、さすがだよ』」と述べています。

 1995年4月29日、猪木は北朝鮮で開催された「平和のための平壌国際体育・文化祝典」(平和の祭典)のメイン・イベントでリック・フレアーと対戦しました。会場のメーデースタジアムには、なんと19万人の観客が集結。この試合について、著者は「白眉は終盤だ。”Oh、No!”と両手を突き出して嫌がるフレアーに、猪木がナックルパートの連打。充分なテイクバックを取っての、まさに弓を引くストレートに、場内は蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。このシーンについて、力道山の空手チョップに日本国民が歓喜した姿とダブらせる記事が一律で並んだ。それは、決して決まり文句などではなく、プロレスを通じた英雄の誕生を、そこに観たからではなかったか。最後は延髄斬りでフレアーを仕留めた猪木。まさに19万人からの喝采がその体を包んでいた。スピーカーから流れるメロディも、その場を彩った。『君が代』であった」と書いています。翌日、ある北朝鮮政府高官は「1日にして、わが国の反日感情は、なくなったと言って良いでしょう」と猪木に言ったそうです。また、この試合を金正日書記(当日)も特別席で観戦しており、「日本のプロレスは凄いなあ。あれは素人には決して真似の出来ない闘いだ。実に素晴らしかった」と語ったとか。

 第2章「VS.好敵手」の冒頭では、「存在を際立たせるライバル」として、著者は「『プロレスは、セックスと同じだよ』アントニオ猪木の至言である。曰く、『波長が合う相手とは、お互い、感じ合って、双方を高めていくことが出来る』その意味で言えば、歴戦を経たライバルとこそ、名勝負は生まれていくということになる。スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ドリー・ファンク・ジュニア、ボブ・バックランド……様々な選手の名前が挙がるだろう。だが、真意本プロレスのリング上で、最もその高まり合いをやり遂げた相手と言えば、やはりこの男ではないか。猪木の終生の好敵手、”狂虎”タイガー・ジェット・シンである」と書きだしています。

 また、著者は以下のようにも書いています。
「他方で、猪木のライバルと言えば、どう考えてもこの人物が先に立つ。ジャイアント馬場である。何せほぼ同時入門に、同日デビュー。必然のライバルと言っていいだろう。しかし、2人は若手時代を除けば、新日本プロレス、全日本プロレスと袂を分かったこともあり、対戦しなかった。つまり、猪木の前言になぞらえれば、もし通じ合う波長の類いがあるにしても、シンと違い、極めて距離のあるそれだった。だからこそ思う。2人の間に他人が入り過ぎていたのではないかと。他のレスラー、関係者、『比較』、『軋轢』、ひいては『不仲』という切り口で両者を報道するマスコミ、そして、それらを目にするファン……。然るに、当人同士はどうだったのか」

 第3章「大勝負」では、1974年3月19日に蔵前国技館で行われた猪木とストロング小林の一戦が取り上げられます。力道山vs木村政彦戦以来の大物日本人対決と話題になった試合ですが、本書には「1万3000人が集まった会場は、掛け値なしの札止め。売るための当日券がなくなり、ポスターの切れ端に次々と『1000円』と書き、多数の立ち見客を入れたのは伝説となっている。それでも3000人以上、入れない客がいたというから驚きだ。高い注目度を示すかのように、著名人たちからの花が並ぶ。石原裕次郎、石原慎太郎、小林旭、高橋英樹など。新日本プロレスから言えば外敵だが、小林とて、元は国際プロレスのエース。猪木に負けず劣らずの声援が飛び、太鼓を叩いて応援する者もいたほどだ」と書かれています。試合は29分30秒、猪木が鮮やかなジャーマン・スープレックスで小林を仕留めました。試合後の勝利者インタビューをリング上で受けた猪木は、「こんな試合を続けていたら、10年持つ選手生命が1年で終わってしまうかもしれない。しかし、それがファンに対しての、我々の義務だと思うんです」と語りました。著者は、「強いか弱いか、どちらがどれだけ技を見せたか、いやそれ以上に観客を満足させ深い感動に浸らせる、稀代の格闘エンターティナーである猪木の真骨頂だった」と述べています。

 第4章「政界」では、1989年の参議院議員選挙で猪木が初当選したエピソードが書かれています。出馬会見で、猪木は「世の中が乱れた時こそ、俺の出番」と語りました。これは幼少期に親族から「世の中が乱れた時こそ、お前の出番」と言い含められていたからだそうです。著者は、「実際、猪木の父・佐次郎は、当時の自由党から横浜の市会議員に立候補している。また、師匠の力道山も政治家転身に色気を見せていて、現に、後の総理大臣である中曽根康弘をその若手議員時代に可愛がり、自身の経営する『リキ・アパート』に住まわせていたほどである。なお、両者の共鳴点は、『首相公選制』。首相を国民投票で選ぶという制度だが、中曽根が標榜していたこのシステムに、当代一の人気者だった力道山が呼応したのはうなずけよう」と述べています。

 政治家としての猪木の最大の功績は、1990年のイラクのクウェート侵攻に伴ってイラクの「人間の楯」となって人質になった日本人を解放させたことです。他の政治家や外務省の圧力の中、闘魂外交がスタート。北朝鮮と同様に「平和の祭典」を開催し、徹夜でサダム・フセイン大統領に手紙を書くなど、猪木は奮闘しました。ついに人質解放の連絡があったとき、猪木は「私はホテルの部屋で1人右手を振り上げ、いつものガッツ・ポーズを決めた」と述べています。イラク国民議会に特別ゲストとして招聘された猪木は、壇上で「平和を愛する世界の声を、イラクの皆さんに届けることが出来たと思っております」と発言。イラクから日本への帰路、行きには「機種がない」とされていた政府手配の日本航空の機内で、1人の男性が「猪木さん! あれ、やりましょう、あれ!」と言い、往路便にはいなかった解放された人質たちを乗せた飛行機の中で、猪木は「1、2、3、ダー!」と音頭を取ったのでした。

 第5章「美学」では、1971年に猪木が女優・倍賞美津子と結婚したときのエピソードが書かれています。2人の結婚式は「1億円結婚式」として大きな話題になりました。本書には、「披露宴会場は、同じ1971年に開業した新宿京王プラザホテル。当時、新宿で最初の高層ビルとして話題になっていた。この5階、コンコードボールルームで、出席者は約1000人。料理が1人、1万5000円。猪木夫妻からの引き出物は、猪木の第二の故郷、ブラジルの蝶の標本と、13代目柿右衛門陶作の皿。セットで1つ、5万円(ちなみに、こちらは今でもネットの類で見かけることができる)。猪木が身に着けた袴は、前年に逝去した人間国宝、甲田榮佑の仙台平で、380万円。倍賞は、打掛、小袖、カクテルドレス等、計5着で、これが2380万円。ウェディングケーキは、卵2000個、砂糖500キロを用いた高さ5メートルの代物で、こちらが約300万円。ホテル側の諸経費については、1500万円という情報があったので、こちらを足すと……まあ1億は軽く超えるし、各数字が多少大袈裟だとしても、かかった費用が1億前後なのは間違いのない華燭の典である。因みに、現在の価値に照らせば、ざっと『4億円挙式』となる」と書かれています。

 この「1億円結婚式」について、猪木は『アントニオ猪木自伝』(新潮文庫)の中で「週刊誌の見出しに『倍賞美津子とアントニオ猪木が結婚』と書かれていた。『アントニオ猪木と倍賞美津子』ではなかった。プロレスはやっぱりマイナーなんだな……と思ったのを覚えている。当時の倍賞美津子は、まだそれほどのスター女優ではなかったのだから、世の中がプロレスをそう見ているなら、超豪華な結婚式をやってやろう。私はそう決めた。それまでの最高が横井邦彦と星由里子の5000万円結婚式だったから、それなら1億だ。(中略)馬鹿みたいなことだが、世間を見直す絶好のチャンスだと私は思っていた」と述べています。著者は、「『波紋を起こせ』『世間を驚かせろ』……猪木がよく発するメッセージである。自らを一種の広告塔とする猪木の第一歩が、この時だったのかも知れない」と述べますが、わたしもそう思います。何事もスケールの大きい猪木は、自身の冠婚葬祭にもスケールの大きさを求めたのです。

 猪木と結婚した倍賞美津子は、結婚式の直後に日本プロレスを追放された猪木を経済的に助けます。新日本プロレスが資金繰りに苦しんだ際も、「これ、アントンには内緒ね」と、300万円、500万円と、フロントの新間寿を通じて何度も振り込んだといいます。残念ながら、猪木と倍賞はその後、離婚します。倍賞は、「離婚した理由は言いたくないんです。一度自分が責任もって好きになった人の悪口は言いたくない」と雑誌のインタビューで答えています。そんな2人は、2002年5月2日、東京ドームで開催された新日本プロレスの旗揚げ30周年記念興行で再会しました。サプライズゲストして登場した倍賞は、戸惑う猪木に花束を渡しました。最後は、倍賞も「1、2、3、ダー!」で、猪木と一緒に拳を上げました。婚姻時も団体旗揚げ時も予想しなかった5万7000人もの大観衆とともに。後に倍賞は、「あのときの私ってきっとすごくいい顔してたと思う。人を一生懸命愛した記憶って、たとえそれが別れにつながっても、素晴らしいことなんだなって改めて思いました」と語っています。著者は、「猪木は2021年1月より、大病で入院。1度の転院はあったが、そこに何度も見舞いに訪れる影があった。倍賞美津子さんだった」と書いています。

 猪木というと破天荒というか、どちらかというと非常識なイメージがありますが、本書では、礼儀正しく真摯な猪木の人物像が語られています。著者は、「素顔は礼儀正しく、紳士――。一流になればなるほど、そういった評判を聞くプロレスラーは多いし、猪木もそのご多分に漏れない」と述べます。猪木の付け人を務めた蝶野正洋は、「ホテルの大浴場で、猪木さん、出て来るの遅いなと思ったら、散らかった桶を綺麗に片づけていたんですよね。泡がついたのには水をかけて。誰も見ていないのに、ですよ」と語っています。また、国際プロレスからフリーとなったストロング小林の自宅に全日本の馬場と新日本の猪木の2人が勧誘の電話をかけたとき、馬場はずっと「小林」と呼んだのに対し、猪木は終始「小林さん」と呼び掛けたそうです。2人とも小林からすれば先輩だったのですが、それを内線電話で知っていた小林の母親が猪木の方に好印象を抱き、息子に猪木戦を薦めたといいます。

 また、後に新日本プロレスの社長を務めた坂口征二も猪木の人柄に惹かれ、新日本入りを決心したそうです。日本プロレスを追われて新日本プロレスを立ち上げた猪木は、新たに日プロのエースとなった坂口と舌戦を繰り広げたことがありました。猪木が「坂口なんて、片手で3分ですよ」と言えば、後輩である坂口は「自分は片手で3分とか、馬鹿なことは言わない。両手で10分あれば猪木さんをKOしてみせます」と言い合ったのでした。しかし、あるとき、猪木と坂口は東京駅のホームでニアミスを起こします。一触即発のムードで現場は緊張感に包まれましたが、日プロに残っていた星野勘太郎が猪木を坂口の元に誘うと、猪木はホームで立ち話を始めました。

 猪木は坂口に「今、テレビに出てるね。俺たちは残念ながら、出られなくて」と言いました。坂口が黙っていると、猪木は「オレたちは苦しいけれど、会場に来てくれる何百人のお客のために、いい試合をしてるつもりだ。でも、君たちはテレビを通じて、何千万人という人を相手にしているよね。だから、君たちにはそれだけ、プロレスに対する責任もあるということを忘れないで欲しい」と言います。絶句する坂口に対して、猪木は「君たちの内容が悪ければ、プロレス全体の人気が落ちてしまう。いい試合が出来るように、頑張ってくれ!」と言ったとか。猪木の言葉に感銘を受けた坂口は、新日プロに合流。以降、新日プロにはNET(現・テレビ朝日)のレギュラー中継「ワールドプロレスリング」が付き、その後の栄華があるのでした。

 1998年4月4日、猪木は東京ドームで引退試合を行いました。前売り券は早々と完売。当日は、プロレスの東京ドーム興行では初めてとなる当日券(5000円)が1500枚用意されました。スタンド席から後方の通路スペースで観る形でしたが、こちらもあっという間に売り切れ。本当に立錐の余地もない観客で東京ドームは埋まりました。ドン・フライとの最後の試合を終え、フィナーレとなる挨拶で、猪木は「最後に、私から皆さまにメッセージを贈りたいと思います。人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に年老いて行くのだと思います。この道を行けば、どうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せば、その一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ。……ありがとーーっ!!」と締め括りました。集まった観衆は、なんと7万人。国内のプロレス興行の史上最多動員記録として、未だに破られていません。

 あとがき「『山師』という原像」の冒頭を、著者は「赤子時代を除けば、猪木が人生で最初の涙を流したのは、14歳の時だったという。引き金は、祖父の死だった」と書きだしています。その後、アメリカ時代の最初の結婚で授かった愛娘が亡くなったときも猪木は涙を流しました。2019年8突き、妻の田鶴子んを亡くしたときも涙を流しました。世界最強のプロレスラーであった猪木ですが、その人生は愛する人と別れて涙を流すというグリーフケアの旅でもあったのです。そんな猪木ですが、2021年1月に入院して間もなく、まさに「死」について語ったとがあるそうです。猪木の特集番組の制作に携わったテレビ関係者によると、猪木は「死んだら宇宙葬がいいなあ」と言ったそうです。「1億円結婚式」で世間の度肝を抜いた猪木がは、今度は「宇宙葬」をやりたいと言っているのです。長年、宇宙葬の実現に取り組んできたわたしは、この事実を知って非常に感動しました。もし、わたしで何かお手伝いできることがあれば、いつでも遠慮なく言っていただきたいと思います。わたしは、「燃える闘魂」のグランド・フィナーレ、人生の卒業式に関わりたいです!

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