No.1535 小説・詩歌 『苦海浄土』 石牟礼道子著(講談社文庫)

2018.02.13

 12日は小倉でも雪が積もりました。寒いです。
 この日、『新装版 苦海浄土 わが水俣病』石牟礼道子著(講談社文庫)を再読しました。著者の石牟礼道子氏が今月10日に熊本市内の介護施設で亡くなられたことを知ったためです。90歳でした。

    「毎日新聞」2月11日朝刊

 石牟礼氏は1927年熊本県天草郡生まれ。69年に『苦海浄土』を刊行、水俣病の現実を伝え、魂の文学として描き出した作品として絶賛されました。70年には第1回大宅壮一賞に選ばれますが、受賞を辞退しています。73年には、「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞。93年、『十六夜橋』で紫式部文学賞受賞。2002年、朝日賞受賞。同年、新作能「不知火」を発表。03年、『はにかみの国―石牟礼道子全詩集』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています。

 作家の池澤夏樹氏が個人編集した『世界文学全集』(全30巻、河出書房新社)には『苦海浄土』3部作が日本人作家の長編として唯一収録されています。夏目漱石でも川端康成でも大江健三郎でも村上春樹でもなく、池澤氏は日本作家の代表として石牟礼道子を選びました。池澤氏は「辺境から近代化に抵抗し、水俣にとっても、人類にとっても、石牟礼さんがいたことは『幸運』だったかもしれない。翻訳されても価値が減じず、訳された先でも価値が広がっていくような普遍性のある世界文学でした」と評しています。

 また、40数年前に石牟礼氏から水俣病患者の家を案内してもらったという社会学者で東京大学名誉教授の見田宗介氏は、石牟礼氏について、「現代日本の優れた文学者、思想家だった。水俣病患者との交流を通して文学がさらに深まり、近代とは何かを掘り下げていった」と述べています。
 さらに、2014年9月に石牟礼氏へのインタビュー経験のある宗教哲学者で京都大学名誉教授の鎌田東二氏は、『古事記』『平家物語』『苦海浄土』を「日本の三大悲嘆(グリーフ)文学」と位置づけています。
 これほど評価の高い『苦海浄土』ですが、講談社文庫版のカバー裏表紙には以下のような「内容紹介」があります。

「工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った。本作は、世に出て30数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。末永く読み継がれるべき〈いのちの文学〉の新装版」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

第一章 椿の海         
   山中九平少年     
   細川一博士報告書     
   四十四号患者     
   死旗
第二章 不知火海沿岸漁民     
   舟の墓場     
   昭和三十四年十一月二日     
   空へ泥を投げるとき
第三章 ゆき女きき書         
   五月     
   もう一ぺん人間に
第四章 天の魚     
   九竜権現さま     
   海石
第五章 地の魚     
   潮を吸う岬     
   さまよいの旗     
   草の親
第六章 とんとん村
       
   春     
   わが故郷と「会社」の歴史
第七章 昭和四十三年     
   水俣病対策市民会議     
   いのちの契約書     
   てんのうへいかばんざい     
   満ち潮
「あとがき」
「改稿にあたって」
解説「石牟礼道子の世界」(渡辺京二)
解説「水俣病の五十年」(原田正純)
[資料]紛争調停案「契約書」(昭和34年12月30日)
[地図]八代海(不知火海)沿岸地域
「水俣病患者の発生地域」

 水俣病は、熊本県の八代海に面した水俣市の漁家において、昭和29年頃から34年頃にかけて多発した公害病です。原因がチッソ水俣工場の排水に含まれる有機水銀であることは今では明らかですが、当時はなかなか断定されませんでした。そこには患者自身のチッソへの遠慮もありました。
 新興コンツェルンの1つであった野口遵創立のチッソは、一方で貧しい陸の住民や漁師の子息たちに「会社ゆき」を生み出してくれている「水俣草創の志」でもあったからです。昭和36年度の水俣市の税収2億1060万円のうち、チッソ関係だけでなんと約1億1560万円を占めていました。つまり、チッソを糾弾することは市の死活問題にもつながることを意味しました。事実、ストの暴動などを機に一般市民と患者互助会との間には確執が生まれました。

 それでも本書を読むと、冒頭から水俣病の悲惨さに胸が痛みます。
 第一章「山中九平少年」には、胎児性水俣病の子どもたちについて、以下のように書かれています。

「誕生日が来ても、二年目が来ても、子どもたちは歩くことはおろか、這うことも、しゃべることも、箸を握って食べることもできなかった。ときどき正体不明の痙攣やひきつけを起こすのである。魚を食べたこともない乳幼児が、水俣病だとは母親たちも思いあたるはずもなく、診定をうけるまで、市内の病院をまわり歩き、その治療費のため、舟や漁具を売り払って借財をこしらえたりしていた」

 また、子どもたちについて、以下のようにも書かれています。

「いくらか這いまわったり、なまじよろりと立つことのできる子の方がむしろ、配慮を要した。コタツやイロリの火の中に落ち込んだり、あがり框から転げ落ちたりせぬよう、そこらを這ったり立ったりできるほどのゆるみを与えられて、背負い帯などで、柱に、皮脂のうすいおなかをつないでおかねばならない。それでも堀りゴタツに落ちてしまったりして火傷し、縁からおちた打撲など、多少の生傷は、たいていの子どもが持っていた。コタツに落ちても、おおかたの子が助けを呼ぶことはできないのである」

 続けて、著者は以下のように書いています。

「この子たちのうちには、やはり水俣病で父や姉や兄をなくしている子もいるが、父や兄姉のことはおろか、自分が生まれもつかぬ胎児性水俣病であることを、まったく自覚することもできないのである。しかし、兄弟が学校にゆき、親たちが漁や畠に出はらい、がらんとした家の内に、ひとりで柱と体を結びあって暮さねばならぬことは、子どもたちにとって本意ないことである」

 「四十四号患者」では、亡くなった山中九平少年の姉さつきが取り上げられます。じつは著者は、山中さつきと同い年でした。著者は、「その青年団の踊りの晴れ着の写真を、彼女とおない年であると名乗った私に、母親はいつもとり出してみせるのである。頬のゆたかな唇のあどけない、けむるようなまなざしをした漁師の娘の青春をわたくしはおもいみる」と書いています。

 夫を失い、娘を失った母親は、家族が水俣病であるとわかったときの様子を以下のように回想するのでした。

「コレラのときのごたる騒動じゃったもん。買物もでけん、水ももらいにゆけんとですけん。店に行ってもおとろしさに店の人は銭ば自分の手で取んなはらん。仕方なしに板の間の上に置いてきよりました。箸ででもはさんで、鍋ででも煮らしたじゃろ。あのときの銭は。七生まで忘れんばい。水ばもらえんじゃった恨みは。村はずしでござすけん」

 まさに、水俣病は「人間の尊厳」というものを根底から奪ったのです。

 「人間の尊厳」といえば、葬儀と深い関わりがあります。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも述べたように、葬儀こそは「人間の尊厳」を守る最後の砦であるからです。いわゆる「村八分」においても、火事とともに葬儀は別でした。「死旗」には病死した水俣病患者の葬列が紹介されています。

「私のこの地方では、一昔前までは、葬列というものは、雨であろうと雪であろうと、笛を吹き、かねを鳴らし、キンランや五色の旗を吹き流し、いや、旗一本立たぬつつましやかな葬列といえども、道のど真ん中を粛々と行進し、馬車引きは馬をとめ、自動車などというものは後にすさり、葬列を作る人びとは喪服を晴着にかえ、涙のうちにも一種の晴れがましささえ匂わせて、道のべの見物衆を圧して通ったものであった。死者たちの大半は、多かれ少なかれ、生前不幸ならざるはなかったが、ひとたび死者になり替われば、粛然たる親愛と敬意をもって葬送の礼をおくられたのである」

 『唯葬論』で、わたしは「問われるべきは『死』ではなく『葬』である」と訴えました。『苦海浄土』では、著者が水俣病患者の女性患者の遺体解剖の様子を描いた場面で、「死」について以下のように書かれています。

「いかなる死といえども、ものいわぬ死者、あるいはその死体はすでに没個性的な資料である、とわたしくは想おうとしていた。死の瞬間かた死者はオブジェに、自然に、土にかえるために、急速な営みをはじめているはずであった。病理学的解剖は、さらに死者にとって、その死が意志的に行なうひときわ苛烈な解体である。その解体に立ち合うことは、わたくしにとって水俣病の死者たちとの対話を試みるための儀式であり、死者たちの通路に一歩たちいることにほかならないのである」 わたしには『儀式論』(弘文堂)という著書がありますが、石牟礼道子氏が水俣病患者の遺体解剖に立ち会う営みはまさしく儀式であると思いました。また、ここまでされる石牟礼氏に心からの敬意を抱きました。

 第四章「ゆき女きき書」、第五章「天の魚」には、水俣病患者たちの魂の叫びが満ち溢れています。第五章「天の魚」の「九竜権現さま」では、江津野杢太郎という9歳になる水俣病気患者の少年の祖父の一人語りが圧巻です。祖父は著者に向かって語りかけます。

「あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。
 こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眩ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん。何ば思いよるか、わしゃたまらん」

 この祖父の発言は本書の中でも最も有名な文章ですが、解説「石牟礼道子の世界」で、著者の思想的同志でもある作家の渡辺京二氏が驚くべき内容を明かしています。渡辺氏は「実をいえば『苦海浄土』は聞き書きなぞではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことをいっているのではない。作品成立の本質的な内因をいっているのであるあって、それでは何かといえば、石牟礼道子の私小説である」と書いているのです。

 渡辺氏は本書の取材方法について、以下のように述べています。

「私のたしかめたところでは、石牟礼氏はこの作品を書くために、患者の家にしげしげと通うことなどしていない。これが聞き書だと信じている人にはおどろくべきことかも知れないが、彼女は一度か二度しかそれぞれの家を訪ねなかったそうである。『そんなに行けるもんじゃありません』と彼女はいう。むろん、ノートとかテープレコーダーなぞは持って行くわけがない。彼女が患者たちとどのようにして接触して行ったかということは、江津野杢太郎家を訪なうくだりを読んでみるとわかる。彼女は『あねさん』として、彼らと接しているのである。これは何も取材のテクニックの話ではない。存在としての彼女がそういうものであって、そういうふれあいの中で、書くべきものがおのずと彼女の中にふくらんで来たことをいうのである」

 渡辺氏も最初は『苦海浄土』を聞き書だと考えていました。しかし、あることから渡辺氏はおそるべき事実に気づいたとして、こう書いています。

「仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答をつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。『じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも・・・・・・』すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。『だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの』。
 この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている」

 これを読んで、わたしは著者が第1回大宅壮一賞を辞退した理由がわかりました。大宅賞はノンフィクションに対する賞ですが、『苦海浄土』は基本的にフィクションだからです。また、鎌田東二氏が『古事記』や『平家物語』といった日本を代表する古典と本書を並べて「日本三大悲嘆(グリーフ)文学」と位置づけた理由もわかりました。それは水俣病で亡くなった物言わぬ死者、苦しみを口にすることができない患者の想いを代弁する鎮魂の書であるからです。

 著者は自身のことを「高漂浪(たかされ)き」と呼んでいたといいます。本書にも登場する「高漂浪き」とは「狐がついたり、木の芽どきになると脳にうちあがるものたちが、月夜の晩に舟を漕ぎ出したかどうかして、浦の岩の陰に出没したり、舟霊さんとあそんでいてもどらぬことをいう」とか。魂が身からさまよい出て諸霊と交わって戻らないさまをいう方言ということですが、まさに著者はシャーマンのような人だったのでしょう。

 「毎日新聞」2月11日朝刊に掲載されたコラム「余禄」では、本書を水俣病の患者らの話に引き寄せられて始まったその魂の漂泊であったとして、以下のように書かれています。

「『こやつぁ、ものいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす』。胎児性水俣病で口のきけぬ少年の祖父はそう語っていた。人、苦しみを語れぬ人との魂の交感を言葉に紡いできた石牟礼さんの旅である。海と山のおりなす自然と暮らしの中で狐や舟霊、人から抜けた魂が行き交ったかつての水俣だ。その小宇宙を人間ともども破壊した近代産業の罪科を、過去の世界からさまよい出た魂のまなざしにより描き出した『苦海浄土』だった」

 また、同コラムには、「ものが言えないからこそ魂は深くなる。惨苦を生きる人にこそ聖なるものが宿る。深い悲しみから生まれる美しさがある―『物が豊かになれば幸せになる』という近代文明の傲慢と恐ろしさを胸に染み入らせた石牟礼さんの文業だ。東日本大震災この方その文学が再認識されたのも、富や力の左右する世界しか見えぬ昨今の精神の貧血状態からの揺り戻しではないか。石牟礼さんの旅立って行ったあの世が古き良き水俣に似ていればいい」とも書かれています。

 鎌田東二氏は、わたしとのWEB往復書簡である「ムーンサルトレター」の第130信で、以下のように述べています。

『苦海浄土』で知られる石牟礼道子さんは、本質的な意味の『詩人』です。本質的な意味での『詩人』とは、この世のものならざる声や隠れたもののつぶやきに耳を傾けて深く聴き取り、それをこの世につなぎ心に深く食い入る形で伝える通訳者であり媒介者であるということです。その『詩人』は、『草木言語(くさきこととう)』、つまり草木も磐根も森羅万象すべてが言葉を発しているという、古代的なアニミズム感覚に根ざして成立してきます。詩歌は飢えた子のお腹を満たすことはないと言われます。でも、間違いなく、詩歌は心と魂を満たすことにより、『透き通った本当の食べ物』(宮沢賢治)になる力(言霊)を秘めています」

 この「透き通った本当の食べ物」という言葉を、鎌田氏は拙著『唯葬論』に寄せて下さいました。本を書く人間にとって最大級の賛辞であり、まことに光栄の至りですが、鎌田氏は石牟礼氏に対するインタビューの中で以下のように語っています。

「水俣病のことが大きくなってくる昭和30年代に、石牟礼さんが書かれている言葉は、ぐさりと胸に突き刺さってきました。その詩の中で、自分はみんなのための泉を掘るというふうなことを書かれていて、石牟礼さんがされている取り組みとは、まさに泉を掘って、みんなに命の水をもう一度飲んでもらう。そして、終わりかけている何ものか、命の最期のあえぎみたいなものを看取りに行っている。そういう感じを強く持ちました。詩としても、すごく胸に迫るものがありました」

 その鎌田氏の言葉に対して、石牟礼氏は「そんなふうに読んでいただけるとはありがたいですね。約50年間、脇目もふらず、間に合わないと思って無我夢中で書いてきました」と答えています。わたしは、この「間に合わないと思って無我夢中で書いてきました」という言葉に魂が揺さぶられるような感動を覚えました。わたしも、「葬式は、要らない」や「無縁社会」といった世の流れに強い危機感を覚えました。水俣病と同じく、葬式無用論や無縁社会も「人間の尊厳」を脅かすものだからです。それで、わたしも「間に合わない」と思って無我夢中でさまざまな本を書いてきました。その代表的著作が『唯葬論』『儀式論』なのですが、経営者という本業をやりながらの作家業ですので、もどかしい思いをすることが多々あります。しかし、本というものは基本的に「間に合わないと思って無我夢中で」書くものなのだと考えます。『苦海浄土』という普遍的な世界文学が1人でも多くの人類に読まれることを願ってやみません。最後に、石牟礼道子氏が向かわれた浄土に「苦」がないことを願って、心より御冥福をお祈りいたします。合掌。

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