No.1414 宗教・精神世界 | 死生観 『やがて死ぬけしき』 玄侑宗久著(サンガ新書)

2017.04.12

 『やがて死ぬけしき』玄侑宗久著(サンガ新書)を読みました。
 「現代日本における死に方・生き方」というサブタイトルがついています。 著者は芥川賞作家の禅僧で、拙著『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』に、「月落ちて天を離れず」というタイトルの素晴らしい解説文を書いて下さいました。

   本書の帯

 本書の帯には、著者の写真とともに以下のように書かれています。

「『死の不安』を克服するにはどうする? 日本人の死生観をたどりながら、安心して死ぬための心構えを手に入れる」「『私』から自由になり、もう一度さわやかに生き直してみなせんか?」

    本書の帯の裏

 また、帯の裏には、以下のように書かれています。

「『死ぬって苦しいの?』『死んだら私はどうなるの?』先のことを考えて、不安になることをやめられない私たち―。それならいっそ、『やがて死ぬ景色』をじっくり眺めてみてはどうでしょう。」

 さらに、カバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

「『やがて死ぬけしきはみえず蝉の声』―芭蕉はかつて、短い命を気にすることもなく生きて死んでゆく蝉の見事な姿をこう詠んだ。では私たちは、どのように死と向き合えばよいのか? 商品化される墓や葬儀、大震災と死、がん治療や新薬の登場まで、現代の死の様相を考えるとともに、いろは歌や高僧の言葉に耳を傾けながら、日本人の死生観の変遷を辿る。芥川賞作家の禅僧が語る、安心して死ぬための心構えと、さわやかに生き直す秘訣!」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

第一章 商品化するお葬式
第二章 「死」は誰のもの?
第三章 日本人の死生観の変遷
第四章 平安のターミナルケアに学ぶ
第五章 震災と死
第六章 安心して死ぬために

やがて死ぬけしきはみえず蝉の声

 「まえがき」の冒頭に紹介されている芭蕉の句です。著者は述べます。

「地上に出てからは1週間ほどの短い蝉の命ですが、蝉はそのことを気にする様子もありません。いや、それどころか、死の直前まで蝉はミンミン、ジージーと、変わらず元気に鳴き続け、そしてパタンと急に死ぬのです。なんと見事な生き方か、なんと見事な死に方かと、芭蕉は驚嘆を込めて詠んだに違いありません」

唯虫能く虫たり 唯虫能く天たり

『荘子』を愛読していた芭蕉は、おそらく康桑楚篇の一節も知っていたに違いないと、著者は推測します。そして、以下のように述べています。

「鳥獣や昆虫も含めた動物(虫)たちは、我々と違って先のことを考えないので常に自分らしく、天に直結した生き方ができるというのです。もっと言えば、『私』という複雑な機構が介在しないから、悩まないということでしょうか。ああ、なんと羨ましいことか・・・・・・、荘子や芭蕉の溜息が聞こえてきそうです。私たち禅僧は、基本的には『荘子』伝来の、この態度を学ぶようにしています。知りようのない未来は憂えず、過ぎ去った過去は悔やまず、です。だから『死んだらどうなるの?』と訊かれても、『知らん』というのが大原則なのです」

 第一章「商品化するお葬式」では、「売り出される葬儀」として、著者は以下のように述べています。

「世界的なネオ・リベラリズムの中で、日本のお葬式も確固たる商品として、いろいろな動きを見せています。たとえば、皆さんも聞いたことがあると思いますが『直葬』というものも出ています。何の儀式もせず、まっすぐ火葬場に運んでいくスタイルです」

 続けて、著者は「直葬」について以下のように述べます。

「ここで非常に気になるのは、『直葬』のように、あるやり方に名前が付くと、なんとなく私たちは、『あ、それもありなんだ』と思ってしまうことです。もしも、直葬という言い方が生まれず『まっすぐ火葬場に運ぶこともできますが』などと言っているだけだったなら、ここまで広がることもなかったのではないかと思います。それが、ある段階で、誰かが『直葬』というネーミングをする。これはつまり、『直葬』という商品が売りだされたということです。そこで利用者側も『あ、それも選択肢の1つなのかな』と一商品としてチョイスするようになるということです」

 また、「搾取と隷属の構造」として、著者は以下のように述べています。

「葬儀にしても、商品化され、美辞麗句で売られるものになったとき、特に安さばかり強調してくる場合は、気を付けるべきです。善良か善良でないかを見極めるのはそこだと思います。サービスの内容を詳しく書かず、とにかく『廉さ第一』ばかり書いてある場合、私の経験では儲けしか考えていない会社であることが多いですね」

 さらに、「変りゆくお墓事情」として、著者はお墓についても述べます。

「お墓という場所は、いわば帰属意識の象徴です。『うちは先祖代々この地を源にして出てきた』というような意識があり、お墓はその源に戻っていく象徴的な場所。だからこそ『敬って守っていこう』という意志へつながり、『代々守ってきたのだから、また守っていこう』というふうに受け継がれていきます」

 そして、「個人化する葬儀や墓」として、著者は以下のように述べるのでした。

「お葬式というのは、もともとは帰属するコミュニティが出すものでした。この人はこのコミュニティに属している、そこからの別れということで、葬儀は共同体の仕事でもあったわけです。都市部を除く田舎の地域では、まだそういうコミュニティの力が残っているところがかなりあります。けれども、一部の葬祭業者は、『うちでやりますから、隣組のお手伝いはいりません』という方向性のアピールをし、意識する、しないに関わらず、まだ残っているコミュニティの力をつぶしている感が否めません」

 第二章「『死』は誰のもの?」では、「エンディングノートの功罪」として、著者は「私はエンディングノートで死後のことをいろいろ指図するということに対しては疑問です。なぜなら、死とは『私』のものでしょうか? 私の死は、私のものなのでしょうか。私の死体はどうですか? 遺体の所有者は誰ですか?」と述べています。

 続けて、著者はエンディングノートについて以下のように述べます。

「死んだら、当人は死んでいますから、すでにこの世の人ではありません。ですから、所有者ではないですよね。じゃあ遺体は誰のものでしょうか? 死んでいく人はどう言っていようと、その遺体をどうするかの権利は所有者にあるはずです。まかせられた人が決めてやるしかありません。天皇家であっても『死後どうしてほしい』などということに関する遺言は、必ずしも守られてはいません。守られてほしいと思いながらエンディングノートを書くのは自由ですが、死後のことにまで口出しするのは、相当わがままなことではないでしょうか」

 著者は「死んだら『私』はどうなるの?」として、かつて柳田國男と折口信夫のあいだで繰り広げられた大論争に言及し、以下のように述べています。

「柳田國男は死後も個人というまとまりを保っていると考えました。しかし折口信夫はどちらかというと老荘思想に近い考え方ですが、死後は集団化・集合化する、個性というまとまりはもたない、と考えました。このへんの考え方の違いで死後のいろいろな見方が生まれてくるのだと思います」

 また、日本民俗学を創設した2人の巨人の死後観について、著者は次のように述べるのでした。

「柳田國男にすれば、人は死んでも浄土のような遠い場所に行ってしまうのではなくて、あくまで『あの人』のまま、そのあたりにうろうろしているのですね。それが民衆の感情に近いというわけです。
 一方の折口信夫の考え方は、むしろ民衆の感情の先にある宗教的認識のようにも思えます。たとえば沖縄のニライカナイのような場所での在り方を追求した結果ではないでしょうか。死んでから行く場所は、生まれる前にいた場所にも思えます」

 第三章「日本人の死生観の変遷」では、「死生観」という言葉について、著者は「”死生観”という言葉は1904年に初めて登場した非常に新しい言葉です。加藤咄堂という仏教家の『死生観』という本によって世に出た言葉でした」と説明したうえで、以下のように述べます。

「はじめに、死生観という言葉がまだまったくなかった時代の日本人の死生観を検証してみたいと思います。現存する最古の書籍である『古事記』、あるいは最古の歌集である『万葉集』、これらはともに奈良時代のものですが、眺めていきますと、そこに”死”という言葉は出てきません。では、人が死ぬことをどう書いてあるか。『避難』などという言葉に使われる”避”という字を書いて『避る』と書いてあります。読みは『さる』です。このことから、『ここから避けて、どこかへ行く』というようなイメージが浮かびます。死んでいなくなるというより、どこかへ行ってしまう印象だったことがうかがえます」

 また、著者は「憑依を信じる日本人」として、「元はからっぽである『からだ』という考え方こそ、『憑依』に関わる文化のベースとなります。日本人はどの程度意識的かは別にして、『憑依』の現象を明確に信じています」と説き、さらに以下のように述べます。

「お正月に飾る門松にしても、今ではただの飾り物という認識が主流かもしれませんが、そもそもは歳神さまが降りてくる依り代として置いたものでした。神棚や仏壇なども同様です。神棚に手を拍(う)つのも、仏壇に手を合わせるのも、そこに依り代があるからです。神棚には神体や神札、仏壇には仏像などを置いてそれを拝む。あるいは、故人が宿るお位牌を拝む場合も多いでしょう。間違いなく日本人は、そこに『霊』が宿っていると思うから拝んでいるのです」

 「『往生』を知り『あの世』を知った日本人」として、著者は「あの世」について以下のように述べています。

「日本人なら誰にでも、『あの世』で通じるのです。『あなたもよくご存じなはずの、”あの”世ですよ』という、疑問の余地をはさまずに共通認識として通じるところ。つまり『あの世』とは、それだけで誰もが昔いたなつかしい場所だと暗に示しています」

 続けて、著者は「あの世」について以下のように述べます。

「日本人の『あの世』に対して、通常の宗教が言っている死後の行き先は、なつかしい場所ではありません。キリスト教が言う天国は、まだ誰も行ったことがない。イエスの復活を待って一緒に行こうというので、すでに亡くなった方々もみなじっと待っているわけです。また仏教の浄土も、行ったことがない、はじめての場所です。死んではじめて行ったことのないところへ行くというのは、相当勇気がいります。不安です。これに対して『あの世』は、知っているところ。昔馴染んだ場所。日本人にとっては、死んでどこかに行くというよりは、死というのは『帰る(還る)』ものなのでしょう。
 『あの世』という言い方は、どちらかというと中国的なイメージに近いものです」

 第四章「平安のターミナルケアに学ぶ」では、「ケガレから聖域へ向かう『死』に」として、著者は以下のように述べています。

『日本書紀』にも『治療に坊さんを呼んだ』という意味の記述がありますが、治療と祈祷が坊さんの主な仕事でした。ですから、ある人が具合が悪いというときには呼ばれていって身近にいるのですが、亡くなったら、もう仕事はありませんから、帰ります。当時は亡くなると呼ばれる葬送夫あるいは葬送人などといった、別な人々がいたようです」

 また、死と穢れについて、著者は以下のように述べます。

「死は穢れの代表的な現象です。それを『死はケガレなのではなくて、聖域に向かうんだ』、聖なる大仕事なのだと見方を大きく転換していくのが平安時代であったかと類推できます。『死ぬのも悪くない』。そして、二十五三昧会のように仲間に見送ってもらうことで、より一層、死がまんざらでもないものになっていくわけです」

 それから、「道案内する『チベット死者の書』」として、著者は『チベット死者の書』について以下のように述べています。

『チベット死者の書』は、耳は最後まで聴こえているという考え方を背景にして、お経として唱えられます。いわゆる心臓死といわれる死のあとに、遅ればせながらお経を聞かせて死後のゆくべき道筋を説くのが『死者の書』です。むろん前もって学ぶのが最高ですが、一般の人々にとっては遅ればせながらでもOKなのです」

 死後の魂といえば、いわゆる「心霊」の問題になってきます。

「心霊現象も物理学は解明?」として、著者は以下のように述べます。

「フラクタル構造の中には特定の電磁波が保存できることがわかってきました。信州大学を中心にして、今、電池ではなくて光のエネルギーを蓄える『光池』というものの研究が進んでいます。もしそれが可能だとするならば、『草葉の陰に誰かの思いが』というのは、あり得ることになります。草葉そのものがフラクタル構造ですから、誰かの思いが電磁波の形で飛んでそこに保存される、ということも充分にあり得るのです」

 続けて著者は、東日本大震災について、以下のように述べます。

「東日本大震災は、大津波による被害で行方不明者が大勢出ました。今でも2500人超の行方不明者がいらっしゃいます。私は、行方不明者が多いことと、被災地で幽霊を見る人が多いことには何らかの関連性があると思っています。本当のところは、どうなのか。これからの物理学による解明にも期待がかかります」

 第五章「震災と死」では、「多過ぎる行方不明者」として、著者は「今回の東日本大震災の特徴ともいえるのは、死者の数の多さもありますが、むしろ『行方不明者』があまりにも多いことでしょう」と述べます。たしかに、震災から2年後に2668人だった行方不明者が、ほぼ5年経った2016年2月時点で、2562人もいるのです。

 著者は「死んだという確たる証拠もないのに死んだことにはできない、というのは、おそらくまともな人間の感覚なのでしょう」として、述べます。

「このことにはおそらく、政府による弔慰金の存在も関わっています。政府は今回の震災による死者に対し、世帯主の死亡については500万円、それ以外の死亡については半額である250万円の弔慰金を振り込む決まりにしたのですが、これで片付けたくはない、という気分も、行方不明者の周囲にははたらいたようです」

 わたしも拙著『唯葬論』(三五館)の第12章「幽霊論」で被災地の幽霊について言及しましたが、著者は以下のように述べています。

「行方不明者が多い、つまり死者として確認していない、という事情が、幽霊が出る背景にはあるのではないでしょうか。霊の存在を認めるにしても認めないにしても、『出た』のを『見た』というのは、生きている人々の潜在意識にも関わる現象です。きっちり死を確認していないことが、大きな影響を及ぼしているように思えます」

 著者は、被災地の仮設住宅に出る幽霊の「お祓い」をしたそうです。 「仮設住宅から聞こえる足音」として、著者は以下のように述べています。

「私は例にならい、用意してきた四天王の紙札を祭壇の四方に吊し、まず『般若心経』と『消災呪』を唱え、それから『開甘露門』『大悲呪』というお経をあげつつお施餓鬼の儀式をしたのです」  

 続けて、著者は「お祓い」について以下のように述べています。

「あとで結果を聞いてみると、『あの日から聞こえなくなった』ということでしたから、『効いた』ということなのでしょう。私自身、何がどうなって幽霊が出て、何がどう『効いて』収まったのかは、わかりません。しかし昔から、そういう場合はこうしなさい、という伝来の方法のままに儀式を行なえば、まず確実に収まるのです。その際、私が注意しているのは、私自身があくまでも自信ありげに振る舞うことです。半信半疑で行なっては、どんな儀式も力をもちえません」

 これは、拙著『儀式論』(弘文堂)の主張とまったく同じです。

 著者は、石巻で娘さんが行方不明だという父親の方と会ったそうです。もう震災から2ヵ月ほど経っていたのですが、その父親は23歳の娘の生存を、信じていました。「祈りが膨らませる想像力」として、著者は述べます。

「私は思いきって訊いてみたのです。いったいどう考えたら、今も生きていると信じられるのですか、と。すると50代、つまり私と同世代と思えるその男性は、しばらく黙って虚空を睨んでいましたが、けっしてその場で考えたというふうではなく、きっぱりした口調で答えたのです。『津波に襲われた瞬間に記憶喪失になって、どこかしらねえ浜さ流れついでさ、しらねえ人の世話になって生きてるんでねえが』」

 この父親の言葉について、著者は以下のように述べています。

「きっと、毎日毎晩、彼は娘の無事を祈り、なんとか生きていてほしいと思い続けたことでしょう。それだけでなく、あらゆる可能性の中から、彼は可能性の高い低いは関係なく、とにかく望ましい可能性を選び、そのイメージを具体的に膨らませていたのではないでしょうか。そこには本当の意味での『祈り』があります」

 まだ枯れていない花の花弁が散ることがあります。
 著者は「花供養」として、以下のように述べています。

「花の場合は散った花びらだけを水盤に入れ、水に浮かせてせめて残りの花の生を惜しむ、という鑑賞の仕方をします。
 このことは親しいお花の先生に伺ったのですが、その先生はこれを『花供養』と呼んでいるそうです。人間とはなんと素晴らしい生き物かと、しみじみ感動した覚えがあります。やはり『折られた命』を惜しむ感情は、人間の根源的なものではないでしょうか。
 ネアンデルタール人が仲間を埋葬するとき、遺体の下に花を敷いたことが遺跡から判明し、人間に『供養の心』が芽生えたとされます。しかしその際の花は、無残に遺体の下に敷かれ、押しつぶされたわけです」

 ネアンデルタール人から生まれた「供養の心」については、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)をはじめとする一連の著書に詳しく書きました。

 また、「年忌法要と仏壇とグリーフケア」として、著者は述べます。

「震災にまつわる死者のご家族と接していて、最近特に感じるのは日本で発案された年忌法要の素晴らしさです。もともと上座部の仏教圏では、家族が亡くなると49日ほどは仕事を休み、集中的に供養しました。今でもそうですが、自営業なら店を閉じ、また休ませてくれる会社も多いようです。しかしその期間が過ぎると火葬したお骨を山や川に撒き、あとは何もしません。お墓がないわけですから何もしようがないわけです」

 これも、拙著『永遠葬』(現代書林)わたしが述べたことと同じです。

 年忌法要は、日本人の「供養の心」を満たしてきました。 著者は、年忌法要について以下のように述べています。

「震災後は特にそうでしたが、亡くなったり行方不明だったりする人を、忘れるわけにはいきませんし、実際、忘れられません。しかし忘れていないと仕事にならない、というのも事実です。ならば『忘れる』ことと『忘れない』ことを両立できないか・・・・・・。そう考えると、定期的に集中的に、しかも生きているかぎり永久に供養する、という年忌法要が理想のように思えてきます。五十回忌というのは、故人を知っている人が残っている最後の機会ということです」

 続いて、著者は以下のように述べています。

「実は仏壇もそうですね。あれも朝、お線香をあげて鈴を叩くときだけ故人を憶いだし、それから忘れて会社に出かけます。毎朝拝むから、毎朝忘れて会社に行けるわけですね。 百朝忌という百箇日の別名があるのですが、私たちは朝を幾つも重ねることでゆっくりと悲しみから回復していきます。49日くらい経てば、昼間の間は『いない』ことに慣れてきますが、どうしても夜眠ると、長年馴染んだ感覚のほうが強くなりますから、朝、目覚めて『あ、いなかったのか』と気づくよな朝を、100日くらいは過ごすでしょう、ということです。 『いないこと』の練習がだいたいできました、新しいペースがだいたいできましたというのが『大練忌』(四十九日)、錯覚して目覚める朝を100日ほど過ごし、そろそろ『いないこと』が深い意識にも届いてきました、というのが『百朝忌』です」

 ここで、著者は「祥」という字に注目します。
 一周忌は「小祥忌」、三回忌は「大祥忌」、さらに七回忌は「超祥忌」と呼びます。著者は次のように述べています。

「『祥』という字は不思議な文字で、はじめは『わざわい』という意味でした。羊という生け贄を祭壇に供えるのは、『わざわい』があったからなのです。『羊』は自己犠牲や献身的な回復の努力も意味するのでしょう、そのお蔭で事態はやがて『さいわい』に転じます。つまりこの『祥』という文字じたいの意味が、人の心の辿る変化に従って『わざわい』から『さいわい』に変わるのです。一周忌では『ちょっとだけめでたい』兆しが芽生え、2年後である三回忌には『おおいにめでたい』となり、さらに七回忌は、『めでたいもめでたくないも超えた状態』になりましょうということです」

 これは、まさにグリーフケアの流れに沿っています。 さらに、著者は以下のように述べています。

「毎朝仏壇にお線香をあげ、折々に年忌法要をするという形で、日本人は死者を忘れながら忘れない、しかもお彼岸やお盆にはお墓参りをしてまた深く憶いだす。そんなふうにして死者と共に生きていく方法を完成させたような気がします。今では韓国でも中国でも年忌法要という習慣を採り入れましたが、これは日本人が発明した立派な宗教文化として誇っていいものだと思います」

 そして、「『なつかしむ』文化」として、著者は以下のように述べるのでした。

「思えば日本語には『面影』という翻訳しにくい言葉もあります。『なつかしむ』のもきっと面影です。これはもしかしたら、日本人に特に強い感情なのでしょうか。その辺は、外国語をつぶさに調べてみないと何とも言えませんが、少なくとも日本人の『なつかしむ』感情はとても強いような気がします。別れたはずなのにお盆にはまた戻ってきてなつかしむ。十七回忌、二十三回忌と年忌法要でまたなつかしむ。すべては面影をなつかしむ文化にも思えてくるのです」

 第六章「安心して死ぬために」では、「蝉の自由」として、著者は最後に次のような言葉で本書を締めくくっています。

「今後の人生に長生きは望まないでください。結果的に長生きするのはめでたいことですし、祝福しますが、長生きを目標にしたらそれは『私』の欲望です。『いのち』はそんなこと、どうでもいいのです。蝉にわらわれますよ。第一、長生きを目標にするなんて、下品じゃないですか」

 なお、本書は、著者による次の講演記録をもとにしています。

●2014年11月13日  
 ASIAN AGING SUMMIT 2014  
 宗教家から見る死生観、終末観  
 「『いろは歌』と臨終行儀」
●2015年10月12日  
 第39回日本死の臨床研究会年次大会 特別講演  
 「浅き夢見し酔ひもせす」
●2015年11月10日  
 國學院大學 オープンカレッジ特別講座(渋谷キャンパス)  
 豊かに生きる―納得できる死を迎えるために― 
 「現代社会のなかで死と向き合う」

    玄侑宗久氏と國學院大學の教室で

 わたしのブログ記事「現代社会のなかで死と向き合う」で紹介したように、わたしは國學院大學オープンカレッジ特別講座は実際に受講しました。全互協主催だったのです。葬祭業界について言及された部分で、著者は「善良な葬祭業者とは?」と聴講生に問いかけられ、「少なくとも、葬儀の安さを謳う会社は金儲けしか考えていませんね」と喝破されました。また、「コミュニティが葬儀を出す。一部の葬祭業者は『ウチが全部やりますから』と言って、まだ残っているコミュニティの力を潰してしまう」と、まことに鋭い指摘をされました。これらの発言はまさに「賢人の言葉」であり、業界にとって非常に貴重なアドバイスでした。

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