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NHK「100分de名著」ブックス ブッダ最期のことば』

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No.1410

 

 『NHK「100分de名著」ブックス ブッダ最期のことば』佐々木閑著(NHK出版)を読みました。「正しい教えは滅びない」のサブタイトルがついています。著者は1956年福井県生まれで、花園大学文学部仏教学科教授。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。 ブログ『無葬社会』で紹介した本で、著者の仏教についての説明を読んでから、わたしは「当代一の仏教学者」だと思っています。本書は、この読書館でも紹介した『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』『NHK「100分de名著」ブックス ブッダ真理のことば』に続く3部作の完結篇です。

 

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    本書の帯


 本書の帯には、以下のように書かれています。

 

「NHKテレビテキスト『100分de名著』待望の保存版!」「古今東西の名著、その核心を読み解く」「ブッダが『最後の旅』で説いたもの―それは2500年受け継がれる「組織のあり方」だった」「書き下ろし特別章「二本の『涅槃経』」を収載!」

 

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    本書の帯の裏


 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

 

「自分自身とブッダの教え、この二つだけを拠り所として生きよ―。ブッダの遺言集として死後に編纂された『マハーパリニッバーナ・スッタンタ(涅槃経)』には、ブッダの「最後の旅」の様子がストーリー仕立てで描かれている。ブッダが自らの死によって示した『人間のあり方』とは何か? そして2500年もの間、連綿と形を変えずに受け継がれてきたサンガ(僧団)の仕組みに『組織のあり方』の極意を見る」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「はじめに―仏教という宗教の本質を説く経典」

第1章 涅槃への旅立ち

第2章 死んでも教えは残る

第3章 諸行無常を姿で示す

第4章 弟子たちへの遺言

ブックス特別章「二本の『涅槃経』」

「読書案内」

 

 「はじめに―仏教という宗教の本質を説く経典」の冒頭を、著者は以下のように書き出しています。

 

「日本は今、少子高齢化や正規雇用率の低下など、解決すべき多くの問題を抱えています。全世界的に見ても、各地で凶悪な暴力事件や紛争が頻発し、心の重くなるニュースばかりが耳に入ってきます。これほど文明の進んだ21世紀の世の中で暮らしているのに、私たちの胸の内は暗い閉塞感で一杯です。こういった状況の中、今注目されているのが、「自分の力で自分の生き方を変えていこう」という自己鍛錬の重要性を説く原始仏教、すなわちブッダの教えです」

 本書で取り上げるお経は『涅槃経』です。これには「釈迦の仏教」の流れを汲む古い『涅槃経』と、大乗仏教で新たに作られた『涅槃経』の2種類があります。両者は同じタイトルでありながら、書かれている内容は全く異なっています。本書では、古いほうの『涅槃経』が主役となります。一般の日本人にはあまり馴染みのない経典ですが、タイやスリランカなどの南方仏教国では、今も基本経典の1つとして大変重要視されています。

 古いほうの『涅槃経』について、著者は以下のように述べています。

 

「このお経には、80歳でこの世を去ることになったブッダの『最後の旅』の様子がストーリー仕立てで描かれています。旅先で起こった出来事や、旅の途中でブッダが弟子たちに残したメッセージ、ブッダの死を嘆き悲しむ弟子の様子、そしてお葬式の顚末などが書かれていて、一般的には『ブッダを追慕する経典』と捉えられています。しかし私は、このお経には別の重要な意味が潜んでいると考えています。それは、ブッダが作り上げた独自の『組織論』です。仏教の本質を捉えながら読み解いていくと、このお経はブッダの死をノンフィクション風に綴りながら、そのじつはブッダ亡き後の仏教僧団をどうやって維持・管理していけばよいのか、その基本理念を説いたものだということが新たに見えてくるのです」

 第1章「涅槃への旅立ち」では、「口伝から文字へ、お経のはじまり」として、著者は以下のように述べています。

 

「ブッダは、悟りを開いてから亡くなるまでの間、各地を旅しながら様々な教えを説いてまわりました。とはいっても、決して全体としてまとまった1つの哲学や思想を語ったわけではありません。困っている人、悩んでいる人が訪ねてくると、その人の状況に合わせて個別 に教えを説いたのです。つまり、人生相談のように時に応じて対面で説法したのです。したがって、本来のブッダの教えというものは、短い、断片的なものだったはずです。当時はまだ文字に書いて記録するという文化はありませんでしたので、そういったブッダの言葉は、聞いた人の記憶の中にだけ保存されていました」

 続けて、著者はお経について以下のように述べています。

 

「ですからブッダが亡くなって人々の記憶が失われてしまえば、その段階でブッダの教えも永遠にこの世から消滅してしまいます。それを恐れた弟子たちは、ブッダが亡くなるとすぐに皆で集まって、聞き覚えているブッダの言葉を、その場の全員で共有することにしました。伝説によると、アーナンダ(阿難)というお弟子さんが1番たくさんブッダの言葉を覚えていたので、彼が500人の仲間の前で自分の覚えているブッダの言葉を口に出して唱え、それを皆で一斉に記憶したということです。これによって、500人の弟子が、同じブッダの言葉を頭の中に覚え込んだことになります。そして彼らはインド各地へと散らばっていき、それぞれに、口伝えの伝承で次の弟子、次の弟子へと 教えを受け渡していきました」

 さらに続けて、著者はお経について以下のように述べます。

 

「やがてブッダの死後、3、400年がたつと、文字で書き記すという文化がインドにも定着します。それで当時の弟子たちは、記憶の中にあった教えを文字にして残すようになりました。紀元前1世紀ぐらいのことです。ブッダの教えが、ヤシの葉や木の皮に文字で記録されるようになったのです。これが『お経』というものの源流です。こういった動きの中で、本来は断片的であったはずのブッダの言葉も次第に編集され、長いお経や、複雑で高尚なお経も作られるようになっていきます。素材は間違いなくブッダの教えなのですが、それがのちの人の手によって立派な『聖典』として整形されていったのです。その数は大小とりまぜて5000本にものぼります」

 また、著者は「釈迦の仏教と大乗仏教」として、2つの仏教の違いを説きます。 まずは、「釈迦の仏教」について以下のように述べています。

 

「『釈迦の仏教』では、『出家して修行する』という生き方を最重要視します。人は出家してひたすら修行し、心の中の煩悩を消し去ることで、真の安楽に達することができる、という修行中心の生き方です。ここで言う『出家』とは、ブッダが作ったサンガという組織に入り、あらゆる生産活動から解放され、僧侶として朝から晩まで四六時中修行に励む、そんな生活へと人生を切り替えることを意味します。ですから『釈迦の仏教』にとっては、サンガという組織は、修行生活を維持するために絶対不可欠な要素です」

 続いて、著者は大乗仏教について以下のように述べます。

 

「これに対して大乗仏教では、外部に我々を助けてくれる超越者や不思議なパワーがあると想定して、それを救いの拠り所と考えますから、必ずしも修行が第1とは言いません。もちろん修行を無視するわけではありませんが、主たる目的は自己鍛錬というよりも、不思議な存在との間にしっかりした関係を構築することにあります。例えば瞑想修行によって不思議なパワーの存在を感じ取り、それを原動力にして『今の生活の中に生きる意味を見いだしていく』といったスタイルです。したがって大乗仏教は、出家して修行しなくても日常生活の中で心がけ正しく生きていけば、いずれはブッダと同じ境地にまで達して自分がブッダになることができる、と言います」

 当然ながら、修行のための専門組織であるサンガの意義も大乗仏教になると重みがなくなってきました。著者は、以下のように述べています。

 

「大乗仏教も最初はサンガの中から生まれてきたのですが、次第に『出家していなくてもよい』『在家者でも悟りの道を歩むことは可能だ』という思いが強くなり、在家と出家を併せ呑む形態へと変わっていったのです」

 「二度と生まれ変わらない死=『涅槃』」として、著者は「涅槃」について以下のように述べています。

 

「『永遠に再生を繰り返します』と聞けば、うれしいように思えますが、『生きることは苦しみである』と考える仏教の立場から見れば、それは永遠に苦しみが続くということを意味します。『生まれ変わっても苦しみしかない』のなら、二度と生まれ変わらないことが最上の安楽ということになります。『もうこの先二度と生まれ変わらない』という確信を得た時、人は真の安楽に身をゆだねることができるのです。そしてそのような状態に入ることを涅槃と言います。輪廻を止めて涅槃に入ることこそが、仏道修行者にとっての究極の終着点であると考えられていたのです」

 では、輪廻を止めるには具体的になにをしたらよいのでしょうか。 これについて、著者は「ブッダは次のように考えました」として、以下のように述べています。

 

「我々を輪廻させるのは業のエネルギーである。それを取り除かない限り輪廻は止まらない。では業のエネルギーを作り出す原因はなにか。それは我々の心の中にある『悪い要素』、すなわち煩悩である。煩悩が作用すると業エネルギーが生み出され、我々は自動的に輪廻してしまう。したがって我々が為すべきことは、自力で煩悩を断ち切って、業エネルギーが作用しないようにすることだ。そのためには精神集中のトレーニングによって心の状態を正しく把握し、煩悩を1つずつ着実につぶさねばならない。それが修行の意義である」

 ここで、著者は『涅槃経』には組織論が説かれていると指摘します。 「サンガを守るためのお経」として、著者は以下のように述べます。

 

「組織論について書かれた経典というと、書店ではやりのリーダー論や、帝王学などをテーマにしたハウツー本の類を連想する方がいらっしゃるかもしれません。しかし『涅槃経』には、たとえば『論語』のようにビジネスの役に立つ要素はほとんどありません。なぜならサンガのコンセプトは『拡大』ではなく『維持』にあるからです。仏教は修行の宗教ですから、修行の場としてのサンガをできるだけ長く、平穏に保っていくことを第一義に考えます。そのため、成長や利益拡大のヒントはそこには見つかりません」

 また、著者は「ブッダがあえて言葉として語らなかったところに、最も重要な条件が潜んでいるように思えます」として、ブッダの組織論について以下のように述べています。

 

「ブッダは最初に『すべてのことは会議を開いてみんなで決めなさい』と民主的な組織づくりを提唱していますが、これは裏を返せば『特定のリーダーや権力者を作るな』というメッセージにも読みとれます。自分というリーダーがいなくなった後、組織をそのまま同じ形で存続させていきたいと考えるなら、『私に代わる立派な指導者を選んで、その人に従って生活しろ』と言ってもよかったはずです。にもかかわらず、ここでブッダは『リーダーに従え』とは言わず、『全員で運営していけ』と指示しているのです。言葉には出さずとも、おそらくは『リーダーを置かないことが大切だ』と考えていたのでしょう。そして本当に、仏教のサンガはリーダーなしで運営され、それが2500年も続いてきています。『涅槃経』が語る組織論は、実際にサンガを2500年間も維持してきたという実績を持っているのです」

 第2章「死んでも教えは残る」では、「人に貴賤はない」として、著者は以下のように述べています。

 

「ブッダは王家の皇太子だった人ですが、そのような社会的地位には本質的価値はなにもないと考えて出家します。悟りを開き、多くの弟子や信者が集まってきても、決して自分をなにか特別な存在であるとは考えず、あくまでサンガのリーダー、修行の先輩という立場で一生を終えました。最後まで住まいも持たず、あちらに1ヵ月、こちらに2ヵ月と、布教の旅に明け暮れて、そのまま死を迎えます。その最後の旅が、この『涅槃経』なのです」

 また、「自らの寿命をコントロールできたブッダ」として、著者は『涅槃経』に出てくる「自分自身を島とし、自分自身を拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない。ブッダの教え(法)を島とし、ブッダの教えを拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない」という言葉を紹介します。 そして、その上で、この言葉を著者は以下のように解説します。

 

「『自分自身とブッダの教え、この2つだけを島として生きよ』と言っています。島というのは川の中の島、つまり中洲のような場所を指します。洪水にあって流された人が必死でもがいている時、川の中洲(島)につかまることができれば、それを頼りにして命拾いすることができます。島とは、『苦しみの洪水に流され続けている私たちが、そこから逃れ出ることのできる唯一の拠り所」を意味しているのです。 その島が『自分自身』と『ブッダの教え』の2つだけだ、と言うのですから、ここでブッダが語っているのは、『私が死んだ後にお前たちが拠り所とすべきものは、私がこれまで語ってきた教えと、そしてお前たち自身の努力だけだ』ということになります。この遺言こそが、『自洲法洲』と呼ばれる、仏教世界で最も有名な教えのひとつです。洲は島のことですから、『自分と法を島にせよ』という文字通りの意味を表しています」

 そして、著者は「仏教」という宗教について以下のように述べるのでした。

 

「仏教とは、ブッダを神のようにあがめる宗教なのではなく、1人の人間としてのブッダが説き残した、その言葉を信頼する宗教であり、しかもその言葉を単に床の間に飾っておくのではなく、言葉の指示に従って自分自身で努力していかなくてはならない宗教だ、ということなのです。仏教の本義は、自分の努力で自分を変えていく『自己鍛錬の道』だということをきわめて明確に示しているという点で、『自洲法洲』の重要性はいくら強調してもしすぎることはありません」

 第4章「弟子たちへの遺言」では、「出家者は遺骨の供養に関わるな」として、ブッダの高弟であったアーナンダが、ブッダが亡くなった後のお葬式の方法や遺骨の供養について質問したことを取り上げます。アーナンダの「亡くなった時、ご遺体はどうしたらいいのでしょう?」という問いに対するブッダの答えはどうだったのか。 まずお葬式ですが、それは「伝説の大王(転輪聖王のお葬式と同じ方法で行え」と命じます。具体的に言うと「まず、遺体を新しい布で包む。それを綿で包む。その上からさらに新しい布で包む。この手順を500回繰り返す。それを鉄の油槽に入れて、さらにもう1回、別の鉄の槽で覆う。それをあらゆる香木を含んだ薪の山に乗せて、火葬にする」のだそうです。「鉄のお棺にいれて燃えるのかしら」と不思議ですが、ともかくすごく立派なお葬式であることは間違いありません。火葬した後に残った遺骨については「街道が交わる四つ辻に仏塔(ストゥーパ)を造って、そこに納めよ」と指示しています。

 このブッダの発言について、著者は以下のように述べています。

 

「ストゥーパとは遺骨の祈念碑、日本でいえばお墓です。このストゥーパが中国で『卒塔婆』と音写され、それが一文字に略されて『塔』という言葉になりました。『卒塔婆』も『塔』も、日本ではよく使う単語ですが、もともとは『遺骨を祀る祈念碑』という意味なのです。さらにブッダは、『その遺骨のストゥーパを拝む人は誰でも、死んだ後、よいところに生まれることができるであろう』と告げます」

 著者によれば、ブッダの言葉は、出家、在家という二重構造で成り立っている仏教の、それぞれの立場の人たちに別個に語られていることが分かるといいます。著者は以下のように述べます。

 

「サンガの弟子たちに対しては、先にも言ったように、『修行こそが本分であるから、修行を続けよ。それが一番の私への供養になる』と言っています。しかし世俗の幸せを望む在家信者に対しては、『最高の葬儀で用い、遺骨を祀り、それを拝め。そうすれば皆、天に生まれることができる』と言うのです。最高の葬儀をするからこそ、その善行の果報も大きくなるという理屈なので、精一杯の葬儀をすることを勧めているのです。一見矛盾するようなブッダの言葉も、仏教の二重構造が分かっていれば理解できるのです」

 お葬式で供養を受けたお坊さんは、遺族になにかお礼をしなければなりません。でも、お坊さんはなにも財産を持っていませんから、品物では返せません。では、どうするのか。著者は、以下のように述べています。

 

「そこでその場でお経を読んだり、ブッダの教えを分かりやすく話したりするようになりました―これがお葬式のルーツです。日本のお葬式のように、お坊さんがいわゆる導師として、亡くなった人の未来に全責任を負うという形式は、『釈迦の仏教』にはありません。むしろ、本来のお葬式のスタイルは、日本では葬式よりも法事に受け継がれていると思います。みんなでお坊さんを呼んでご飯をご馳走して、有り難い仏教の話をしてもらっておみやげを渡して帰ってもらう――あれが本来のお坊さんへの処遇の仕方なのです」

 最後に「仏教と科学の未来」として、これまで「100分de名著」ブックスで取り上げてきた『般若心経』、『ブッダ 真理のことば』、そして本書『ブッダ 最期のことば』の3冊について、著者は以下のように述べるのでした。

 

「それぞれが違った立場で仏教を語っていましたが、すべてに共通するのは、生きる苦しみをなんとか安楽な状態に転換しようとする強い意志です。『生きることは苦しみだ』と知った時から、人は他者の苦しみが本当に理解できるようになり、そして深い智慧を働かせることができるようになります。苦しみの自覚が深い慈悲と智慧を生み、それが自己救済への道を開いていく。これが3本の経典に共通する原理であり、仏教という宗教の本筋です。それをこうやって皆さんにご紹介する機会をいただき、心から感謝しています」

 

 わたしは、現代日本人はブッダの本当の考え方を知るべきだと思います。 わたしたちは、大きな危機を迎えています。戦争や環境破壊などの全人類的危機に加え、日本人は東日本大震災という未曾有の大災害に直面しました。想定外の大津波と最悪レベルの原発事故のショックは、いまだ覚めない悪夢のようです。そんな先行きのまったく見えない時代で、必要とされる考え方とは、地域や時代の制約にとらわれない普遍性のある考え方であると思います。普遍性のある考え方といえば、ブッダの思想がまず思い浮かびます。わたしなりにブッダの考え方をわかりやすく紹介した『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)もご一読下されば幸いです。