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NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』

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No.1408


 『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』佐々木閑著(NHK出版)を読みました。「『見えない力』を味方にする」のサブタイトルがついています。
 著者は1956年福井県生まれ。花園大学文学部仏教学科教授。京都大学工学部工業化学科、および文学部哲学科仏教学専攻卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。米国カリフォルニア大学バークレー校留学を経て、現職。文学博士。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。
 この読書館でも紹介した『無葬社会』において、著者の仏教についての説明を読んでから、「当代一の仏教学者」だと思っています。

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   本書の帯

 


 本書の帯には、以下のように書かれています。


「NHKテレビテキスト『100分de名著』待望の保存版!」「古今東西の名著、その核心を読み解く」「262文字の"呪文"――その全貌を知る」「ブックス特別章〈『私とはなにか』を再考する〉を新たに収載!」

 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。


「『空』とは何か? 『色即是空』のほんとうの意味とは―。日本人にとって最もなじみの深いお経といえる『般若心経』。その実体は、『釈迦の仏教』とは異なり、自らが仏へと至る"神秘力"を得るための重要なファクターだった。最小限の言葉だからこそ、逆に無限大の宇宙がそこには存在する。わずか二百六十二文字に、般若経の神髄を表現したとされる"呪文経典"の全貌を知る」

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   本書の帯の裏


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


はじめに「『日本で一番人気のお経』の新しい見方」
第1章 最強の262文字
第2章 世界は"空"である
第3章 "無"が教えるやさしさ
第4章 見えない力を信じる
ブックス特別章「『私とはなにか』を再考する」
あとがき「読書案内をかねて」

 本書の初版は2014年1月25日に刊行されています。
 はじめに「『日本で一番人気のお経』の新しい見方」の冒頭を、著者は以下のように書き出しています。


「多くの人が心に不安を抱えている時代です。震災の後遺症、長引く不況、高止まりのままの失業率、超高齢化の進行・・・・・・。様々な理由から精神に不調をきたし、うつや引きこもりになる人もあとを絶ちません。そのような状況の中でいわゆる"心のよりどころ"を求める人たちの数も一層増えてきているように思います。そういう流れを受けて、仏教への関心も高まっているのですが、なかでもとりわけ人気の高いのが『般若心経』です。写経する人、音読する人、そして宙でそらんじることのできる人も大勢おられます」

 また、『般若心経』について、著者は以下のように述べています。


「『般若心経』の作者は、釈迦の死から500年以上たって現れた『大乗仏教』という新しい宗教運動を信奉する人たちの中にいます。それがどういう人なのかは全くわかっていません。その大乗仏教という宗教運動には様々な流派があったのですが、そのうちの一派が、釈迦の教えを部分的に受け継ぎながらも、そこに全く別の解釈を加えて『般若経』と呼ばれる一連のお経を作りました。何百年もの間に、『般若経』という名のついたたくさんの新しいお経を作ったのです。そして『般若心経』は、そのたくさん作られた『般若経』の1つです。ですから、『般若心経』が述べていることは必ずしも釈迦の考えではありません。それはむしろ、『釈迦の時代の教えを否定することによって、釈迦を超えようとしている経典』なのです」

 第1章「最強の262文字」では、著者は「『五蘊』はみな『空』である」として、以下のように述べています。


「『般若心経』はある意味、釈迦の教えを否定する経典です。釈迦の時代の教えを『錯覚である』と言って否定し、それを超越するようなもう1つ高次の論理をその上にかぶせ、みずからが釈迦の時代の教えよりも上位に立つことを目指した、そういう経典なのです。
 ではなぜ、そういうことが必要だったのかと言えば、大乗仏教が新興の宗教運動だったからです。仏教に限らずどんな世界においても、後発のグループは先行するグループを超えるために、それまでの常識を覆すような新機軸を打ち出して自分たちの場所を獲得していきます。ですから、大乗仏教の担い手たちもまた、古い教えを刷新し、より多くの人を惹きつけ、多くの人から信奉される魅力的な新しい教えを世に広めていこうと果敢に挑んだのでしょう」

 また、著者は「『釈迦の仏教』から『大乗仏教』へ」として、以下のように述べています。


「そのようにして伝承された釈迦の教えの最大の特徴は何かというと、自分の心の苦しみを自分の力で解決する、『自己救済』の宗教であるということです。これを『自利』といいます。老病死の苦しみや煩悩にさいなまれて、生きていくのが苦しい人が、俗世と別れ、出家して仏道修行一筋に生きようとする。その後押しをしてくれるのが釈迦の仏教なのです。
 『生きるのが苦しい』と感じた人が、自分で選び、自分で努力し、自分で進んでいく道、それが釈迦の仏教なのです。ですから、こちらから町なかに入り込んで教義をPRしたり、信者を増やそうとしたりする布教活動にはさほど熱心ではありません。それは本来の修行とは関係のない活動だからです」

 続いて、著者は以下のように述べています。


「しかしだからといって、布教をまったくしないわけではなく、所有物を捨て、欲望を捨て、利殖行為と縁を切り、仏道三昧に生きる自分たちの姿を世の人に見てもらい、結果的に『私もそんな生活をしたい』と集ってくる人は喜んで受け入れます。こちらから押しつけることはしないが、求める人にはすべてを与えるという姿勢です。ここで、『自利(自己の救済)』が『利他(他人の救済)』に転じるという点に注目してください。いわば"後ろ姿"の救済活動です。この意味で、釈迦の仏教は間違いなく人助けの宗教なのです」

 著者は、タイやスリランカやミャンマーに受け継がれてきた上座仏教(テーラワーダ仏教)を「釈迦の仏教」と呼び、後から発生した「大乗仏教」について以下のように述べています。


「釈迦入滅後数百年の時を経るうちに、釈迦の時代の教えをかなり異なる形で解釈し、独自の路線を打ち出すグループが多数登場しはじめました。時間の経過とともに創始者の教えが様変わりするのはどの宗教でも同じですが、こと仏教に関しては、ある時期に爆発的に多様化したという特別な状況があります。それには理由があって、ある程度宗教的変質がみえはじめた時点で、仏教という大きな枠組みを壊さないために『考え方に多少の違いはあっても、他の集団との協調性を保っているならば同じ仲間として認める』という決まりを作ったのです。普通、宗教というものは教義の違いを容易には認めませんし、それゆえに宗派間、グループ間で過激な闘争が起こったりするのですが、仏教は独特の和の精神をもってこの部分を容認しました。こうして大枠は1つに保たれましたが、「多少の違いはあってもよい」という寛容さが入り込んだため、内部にはかえってすさまじい多様性が生まれたのです。これが大乗仏教が発生した根本原因です」

 続けて、著者は大乗仏教について以下のように述べています。


「このような状況の中、新たな仏教運動を推進した人たちは、それぞれに自分たちの考え方を主張し、それぞれが別個に、たとえば『華経経』とか『維摩経』とか『華厳経』といった大乗経典を作って世に問いました。『般若経』を作ったグループもその1つです。こうして、釈迦の時代の仏教をそのまま守る流れと、その『釈迦の仏教』とはかなり違った仏教を主張する様々な大乗の流派が共存することとなり、それがそのまま、現在の仏教世界へと受け継がれてきているのです」

 また、著者は「『般若経』の精髄」として、以下のように述べています。


「『般若心経』は何度か繰り返し、中国で漢文に翻訳されたのですが、その中で私たちに1番なじみがあるのは、先にも言いましたが、玄奘三蔵法師によって翻訳されたバージョンです。この玄奘という方は、ただ単に中国からインドへ行ってお経を持って帰ってきたというだけの人ではありません。インドでは熱心に仏教の勉強を続け、インドの言葉もマスターし、そして中国に戻ってからは、持って帰った山のようなお経や哲学書を亡くなるまでずっとインド語から漢文に翻訳し続けた方です。インドに行ったことよりも、インドから持って帰った仏典を、見事な漢文に翻訳したところにこそ、玄奘の偉大さがあります。そしてそういった膨大な量の翻訳の中に、この『般若心経』も含まれているのです」

 それにしても『般若心経』は短いです。わずか262文字です。
 『般若心経』の短さについて、著者は以下のように述べています。


「この短さから推測するに、『般若心経』はもともとは『お経』ではなかった可能性もあります。じっさい原典のサンスクリット版のタイトルは『プラジュニャーパーラミター・フリダヤ』といい、『フリダヤ』は『心臓(もっとも大事なもの)』という意味ですから、訳すとしたら『般若波羅蜜多心』です。最後に『経』という語はついていません。作者にとっては、これは『お経』ではなく、『般若経』のエッセンスだけを取り出した、不思議の呪文だったのでしょう」

 第2章「世界は"空"である」では、『般若心経』の中核をなす思想である「空」について説明されます。著者は「五蘊・十二処・十八界」として、「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)という言葉を紹介し、さらに以下のように述べます。


「これが、釈迦の説いた『空』です。一見、『色即是空』ととてもよく似ています。そのため、ときおり、『般若心経』が説く『空』は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。釈迦の時代の『空』と大乗仏教の『空』は同じではありません。ここが重要です」

 では、釈迦の「空」に対して、大乗仏教は何を「空」だと主張したのでしょうか。
 「釈迦の世界観」として、著者は以下のように述べています。


「大乗仏教も釈迦と同じく、『石』や『私』などは、私たちが『ある』と思いこんでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし彼らは、それらを構成している『五蘊』『十二処』『十八界』のような基本要素までも『実在しない』と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも存在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。
 要するに、釈迦が構築した世界観を『空』という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において『空』がことさらに重視された理由です」

 また、著者は「釈迦の主張」として、以下のように述べています。


「何から何まで空ということになると、この世は何の手ごたえもない雲か霞の中のような気がしてきます。しかし、それが『般若心経』の考え方なのです。『般若心経』ではそのように、この世界は人知ではとらえがたい"神秘的"な形で存在しているのだと考えたわけです。
 釈迦は紀元前の人ですが、全体的な思想としては今見てもかなり論理的、理性的にこの世をとらえていると思います。これに対して、大乗仏教の考え方の方は、いわば文学的、情緒的なのです」

 第4章「見えない力を信じる」では、「『唱える』ことに意義がある」として、著者は以下のように述べています。


「釈迦が説く『修行一筋の道』では救われない人たちもいることは確かです。不思議な力に身をまかせ、そこに抱かれることで安らぎを得たいと願う人々、それしか安らぎを得る道が残されていない人々、そういう人たちのために『般若経』が作られたのだと考えれば、むしろ『釈迦の仏教』を否定しているからこそ、そこに確固とした独自の存在意義が生まれてくるということが理解できます」

 続けて、著者は『般若経』が釈迦の教えを否定していることについて、以下のように述べています。


「一番よくないのは、『般若経』が釈迦の時代の教えを否定することによって生まれてきたという歴史的事実から目をそらして、『それは釈迦の教えそのものだ』などと強弁することです。釈迦の教えと大乗仏教が、同じ『仏教』という1つの宗教の流れの中にあることは間違いないのですから、正しい歴史認識の上に立って両者をながめれば、おのずからその共通点も見えてくるはずです」

 『般若心経』はずっと摩訶不思議な呪文とされてきました。
 ラフカディオ・ハーンの『怪談』に登場する「耳なし芳一」の物語では、平家の亡霊に魅入られた芳一の体に墨で『般若心経』の経文が書かれます。「『芳一』を救え」として、著者は呪文としての『般若心経』について以下のように述べています。


「『釈迦の仏教』と対比させながら『般若心経』をみてきましたが、そこに現れてくるもっとも大きな違いは何かと言えば、それは『神秘』です。『般若心経』に充溢しているエネルギーの源泉は神秘の力なのです」

 続いて、著者は「釈迦の仏教」について以下のように述べます。


「一方、『釈迦の仏教』の場合、外部世界に神秘の力はありません。この世は隅から隅まで論理的因果性で動いています。両者に共通点がないとは言いませんが、神秘力に関する立場はまったく対極です。『呪文』だとか『神秘』だとか言うとあやしげなものを想像される方もあるかも知れませんが、そんなことはありません。『般若心経』の注釈書『般若心経秘鍵』を記した、かの弘法大師(空海)は「『般若心経』は呪文である」と喝破して大いに崇めているのです」

 さらに著者は「簡略化のパワー」として、以下のように述べています。


「『釈迦の仏教』と『般若心経』の両者を並べて考えると、『釈迦の仏教』は必要なことを過不足なく述べるという意味で、その言葉は等身大に近いものとなります。一方、『般若心経』は最小限の言葉しか示さないことによって無限大の神秘を表現しようとするので、表現方法が非常に逆説的になります。小さいからこそ、大きなものを表現できるということです。少ない情報によって無限大の効果を狙うことは、大乗仏教の特徴の1つです。『般若経』にも長短様々なお経が含まれていますが、『小さいものほど大きなことを含んでいる』という定則に沿って見るなら、その最小型である『般若心経』こそ、最大の『般若経』ということになります。『最強の262文字』とはそういうことなのです」

 著者は、「名著『般若心経』」として、なぜ『般若心経』が日本人に人気があるのかについて考察し、「1.簡潔であること」「2.短すぎないこと」「3.全体構成の妙」「4.翻訳の見事さ」「5.個人の心を救済する」という5つのポイントを挙げています。
 そして、「『神秘』は心のパワーを生み出す触媒」として、著者は以下のように述べるのでした。


「神秘というのは人間が生きていくうえでとても大切な要素です。必須ではありませんが、用い方によっては、人生をより力強いものにしてくれます。仏教が『心の病院』ならば、神秘は『心のパワーを生み出す触媒』といえるでしょう」

 ブックス特別章「『私とはなにか』を再考する」では、著者は『般若心経』は思考の羅針盤である」として、以下のように述べています。


「『般若心経』の世界観を端的に言えば、『分析の否定』ということになるでしょう。目の前にある存在を、『これはなにでできているのだろう』『これはどういった構造を持っているのだろう』といって区分けして解体し、その要素を知ることで、『これですべて理解できた』と納得する、そういう姿勢を否定しているのです。『般若心経』に従うなら、『そこにあるものは、そこにあるものとしてそのまま理解せよ。しかもその理解はあくまで人の知恵による限定的なものであり、その奥には人智を越えた法則があるということを承知せよ』ということになります。これは、分析を最も基本的な作業だと考える科学的方法と真っ向から対立しますし、釈迦が考えた仏教本来のものの見方とも相違します」

 続けて、著者は「しかし、それもまた貴重な視点です」とした上で、以下のように述べるのでした。


「分析という作業には必ず、『ここで線引きができるだろう』という私たちの予断が入り込んできます。本当に客観的な分析などというものはなく、そこには必ず人間の先入観が含まれてくる、と考えるとき、それを常に是正し、さらなる客観性への道を無限に示し続ける『空』の思想は、大切な思考の道具であり、それをあのような簡潔な文言で私たちに伝えてくれる『般若心経』は、人がものを思考する際のきわめて有効な羅針盤になってくれるのです」