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NHK「100分de名著」ブックス ブッダ真理のことば』

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No.1409

 

 『NHK「100分de名著」ブックス ブッダ真理のことば』佐々木閑著(NHK出版)を読みました。サブタイトルは、「仏教は『心の病院』である」。

 著者は1956年福井県生まれ。花園大学文学部仏教学科教授。京都大学工学部工業化学科、および文学部哲学科仏教学専攻卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。米国カリフォルニア大学バークレー校留学を経て、現職。文学博士。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。  

 この読書館でも紹介した『無葬社会』において、著者の仏教についての説明を読んでから、「当代一の仏教学者」だと思っています。

 

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    本書の帯

 


 本書の帯には、以下のように書かれています。

 

「NHKテレビテキスト『100分de名著』待望の保存版!」「古今東西の名著、その核心を読み解く」「苦しみを消すには、自分自身を変えるしかない。」「藤田一郎氏(大阪大学大学院教授・認知脳科学者)との対談、読書案内を収載!」

 

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    本書の帯の裏

 


 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

 

「老いや病い、死の苦しみから、人は目を背けることができない。かくも絶対的な苦悩を宿命づけられている私たちが、それでも安らかに生きるにはどうすれば良いか。仏教の始祖ブッダは、世界は原因と結果の因果則でしか動いていないことを悟り、苦しみを正しく受け入れることができるように『自分の心の在りよう』を変えていくことが、苦悩から解放される唯一の道だと説いた。現代における"処方箋"として、『釈迦の仏教』の本質を読む」  


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

はじめ「"苦悩"の時代に読みたい経典」

第1章 生きることは苦である

第2章 恨みから離れる

第3章 執着を捨てる

第4章 正しいものの見方

対談 佐々木閑×藤田一郎「世の中の在り方を正しく見るために」

「読書案内」

「ブッダ 略年譜」

「あとがきにかえて―科学と仏教の接点」

 

 本書は『ダンマパタ』についての解説書です。 はじめに「"苦悩"の時代に読みたい経典」で、著者は『ダンマパタ』について以下のように述べています。

 

「仏教の開祖であるブッダの言葉を短い詩の形にして423句集めたのが『ダンマパダ』です。漢訳は『法句経』と言い、日本では『真理のことば』という題名でも翻訳されています。数ある仏教経典の中でも、とくに古い部類に属するものです。 『ダンマパダ』は、仏教をよりどころにして生きようとする人が、どのような心構えでものを見、ものを考え、悟りへの道を進んだらよいかという基本的な指針を示した経典です。出家の人、在家の人を問わず、広くみんなのために説かれた言葉なので理解しやすく、仏教世界でもっとも人気があります。今では仏教世界だけでなく、他の宗教の国々でも広く読まれています」

 なぜ、わたしたちはブッダの言葉に触れる必要があるのでしょうか。 その理由について、著者は以下のように述べています。

 

「日本では2011年3月の東日本大震災以降、経済的にも精神的にもたいへんな閉塞状況が続いています。文明の発達は人を安楽にしますが、だからといって文明が人の世の苦しみをすべて取り除いてくれるわけではありません。文明の力でも消せない苦しみはたくさんあります。これまであたりまえだと思っていた平和で安全な暮らしが、実はぎりぎりの危うい瀬戸際でかろうじて保たれていたものだということがわかった以上、今までどおりの『文明の力に頼った価値観』で生きていくことは困難です。人が生きていく時、信頼すべき本当のよりどころとはなにか。なにを生き甲斐として日々を暮らしていけばよいのか。今、そういった根源的な問題が、私たちに問いかけられているのです。そしてそんな時期だからこそ、『釈迦の仏教』の本質を考え、その"真理のことば"を読むことは、非常に意味のあることだと思います」

 では、なぜ数多いお経の中で『ダンマパタ』が重要なのでしょうか。 それは、ほとんどのお経は、ブッダが亡くなった後の長い歴史の中で、別の人たちが作ったものだからです。いま、わたしたちの手元に残っているお経のほとんどすべては、ブッダ本人の言葉ではありません。 第1章「生きることは苦である」で、著者は「ブッダが説いた最初の教え」として、以下のように述べています。

 

「『ダンマパタ』などの、ブッダの時代に近い、古い段階のお経をまとめて『ニカーヤ』と言います(中国では『阿含』と呼ばれました)。ニカーヤはすべてパーリ語という古代インド語で書かれていて、今でもタイやスリランカなどの南の仏教国では、一番大切な聖典としてあがめられています。ところが日本の仏教は、ニカーヤよりもずっと後にできた別のお経(大乗仏教のさまざまなお経)をもとにしているため、ニカーヤを重視せず、そのため日本人がニカーヤの教えに触れる機会はほとんどありませんでした。日本人が『ダンマパダ』などのニカーヤ教典に注目するようになったのは明治以降のことです」


 「自分を捨てて」として、ブッダの生涯について以下のように述べています。

 

「みずから獲得した『安穏への道』に確信を持ったブッダは、その道を他の苦しんでいる人たちにも知ってもらいたいと考え、布教活動に出立します。最初にカーシー国のベナレス近郊、サールナートというところに赴き、『初転法輪』と呼ばれる最初の説法を行い、5人の人たちを弟子にしました。これが仏教という宗教集団の第1歩です。 その後、ブッダは『サンガ(僧団)』と呼ばれる組織を作り、たくさんの弟子たちと暮らしながら、マガダ国の王舎城(ラージャグリハ)という街を中心に、約45年、布教活動を続け、静かに息を引き取りました」

 さらに著者は「仏教は病院である」として、以下のように述べています。

 

「仏教を心の病院だと考えると、その有在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張りこもうとはしません。病院の目的は、患者を増やして勢力を拡大することではなく、困ってやって来た人をしっかり受け入れ、その病気を治療することにあります。実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない1つの理由でもあるのです」

 そして、著者は仏教について以下のように述べるのでした。

 

「仏教は布教活動をしたからといって自分が救われるわけではありません。仏教の僧侶が布教する理由は、もっと現実的なところにあります。ひとつは、もし困っている人がいるなら、その人の役に立ちたいという慈悲の気持ち。言ってみれば『お医者様の真心』です。2つ目は、新たなメンバーをリクルートして僧団の人員を維持するため。修行の場であるサンガを維持するためには、ある程度の恒常的なメンバー補充が必要です。そして3つ目は、人びとからの信頼と尊敬を受け、その見返りとしてお布施をもらうためです。仏教の出家者は一切の生産活動を放棄して修行に専念しなければならないので、一般の人たちからお布施をもらわないと食べていけません。そのために法話をして人びとからさまざまな施し物をもらうのです。しかし布教が義務化されてはいないので、昔の立派なお坊さんの中には、布教などせず、ただひたすら修行に打ち込んで一生を終えた人がたくさんいます」

 第2章「恨みから離れる」では、著者は数ある煩悩のなかでもその親分としての「無明」を紹介します。そして「無明の子分たち」として、『ダンマパタ』の「渇愛でがんじがらめになった人びとは、罠にかかったウサギのように這いずり回る。束縛と執著に捕らえられて、永いあいだ、繰り返し何度も何度も苦しみを受けることになる」という言葉を紹介し、「慈愛や仁愛という意味で、他者の幸せを願うぶんにはいいのですが、相手をこちらへ振り向かせたいとか、相手の気持ちが他へ向かぬようにしたいなどと思ったら、それはもう煩悩です。それがかなわぬと、もっと苦しい嫉妬という感情が起こり、『がんじがらめ』になるのです」と述べます。

 また、著者は「諸行無常の科学」として、以下のように述べています。

 

「『釈迦の仏教』の話をする時、もっとも共感してくれるのは、科学者の人たちではないかと私は思っています。実際、私の話を聞いて興味を持ってくれた科学者が何人もおられます。多種多樣な仏教の中でも『釈迦の仏教』は神秘主義がほとんど入らないので、科学の世界の人たちもあまり抵抗なくロジックを共有することができるようです」

 ここで、著者は尊敬する仏教学者として木村泰賢(1881-1930)の名前を挙げ、彼が「映写機」を使った比喩で、諸行無常についてわかりやすく表現したことを紹介します。以下の通りです。

 

「この世の時間の流れは映写機のフィルムのようなもので、まだ見ていないコマが未来で、それがランプの前に来てスクリーンに映し出されたその瞬間が現在、映し終わってリールに巻き取られた部分が過去である―というたとえです。スクリーン上の映像はたいへんな速さで移り変わっていくので、観客の目には1つの存在物が連続して動いているように見えますが、じつは1コマ1コマ区切られた別個の静止物であり、それらが一瞬毎に生まれては消えていく、その連続がこの世の真の姿なのです。この世はこれ以上分割できない短い時間のコマからできあがった集合体である、という考えです。その、『これ以上分割できない短い時間のコマ』、それを仏教では『刹那』と言います。そして、宇宙に遍在しているそのいっさいの事物は、刹那、刹那でうつろっていくと考えます」

 

 著者は、この木村泰賢の比喩について、「これはまさにデジタルな時間概念なので、同じような感覚で世界をとらえる理論物理学の方などはたいへん面白がってくれます」と述べています。わたしも、感銘を受けました。じつに見事な比喩だと思います。特に、映写機を使って説明しているところが素晴らしいですね。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で、わたしは映画の本質について書きました。わたしは映画とは時間をコントロールするメディアであると考えています。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、映画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。その意味でも、「時間」の説明における木村泰賢の映写機の比喩は優れていると思います。まさに映画が生れた頃に活躍していた仏教学者だけに、映写機の正体を見抜いたのでしょう。

 第3章「執着を捨てる」では、著者は「私とは何か」として、『ダンマパタ』の「見よ、飾り立てられた形体を。傷だらけの身体であり、要素が集まっただけのものである。病にかかり、勝手な思わくばかり多くて、そこには堅実さも安定もない」という言葉を紹介します。そして、「ずいぶん冷徹な言葉で表現されていますが、ブッダの考えた人間存在とは、このようなものでした。すなわち人間を、『いろいろなものが集まっただけ』の、要素の集合体と考えたのです。この状態は、よく『車輪』にたとえられます。木でできた、荷車や馬車の車輪です。それは、『回転して荷物を運ぶ』という独自の働きをする、絶対的な存在であるかのようにしてそこにあります」と述べています。

 続けて、著者は「車輪」のような人間観について以下のように述べます。

 

「しかしよく見ると、それはさまざまな構成要素の集合体にすぎません。外枠やスポークや中心の軸受けなど、それぞれ別個の部品が集まって結合したものが、仮の存在として『車輪』と呼ばれているのです。もしその結合が解けて、部品がバラバラになってしまえば、そこにはもう『車輪』は存在しませんし、『回転して荷物を運ぶ』という機能も消滅します。われわれもこれと同じで、肉体を作るさまざまな物質的要素と、精神を形作るさまざまな心的要素が集まって『私』という仮の存在を生み出しているだけで、それらがバラバラに分解されたなら、私という存在はその瞬間に消滅し、私を中心にした世界も消え失せる。それが『私』というものの正体だと、ブッダは言います」

 また、輪廻思想について、著者は以下のように述べています。

 

「ブッダは輪廻思想を信じていましたが、その輪廻というのも、なにか『絶対的な自己』というものがあって、それが永遠の命をもって生まれ変わり死に変わりを繰り返す、といったものではけっしてありません。『不滅の霊魂』などというものはないのです。すべては要素の集合体なのです。肉体も精神も、個々の構成要素が一種の複雑系のような集合体を作り、それが1人ひとりの生命体を形作る。寿命が来て死ぬと、各要素はバラバラに散っていきますが、次の集合体を作る結合エネルギーのようなものは別の生へと引き継がれ、それが次の生まれ変わりを形成する、といったメカニズムです」

 さらに著者は、ブッダの考えにしたがって、以下のように述べます。

 

「人を要素の集合体と見るなら、その人が死ねば、その集合体は雲散霧消して消滅します。仮に輪廻のエネルギーは続いていくと考えるにしても、実際の存在物としては、その人はこの世からいなくなるわけです。ですが、その人が存在していたことの意味は消えません。なぜなら、その人が生きていた時にまわりの無数の人たちに与えた影響は、そのままそういった人たちの集合要素の中に残っているからです」

 そして、著者は死別の悲しみについて、以下のように述べるのでした。

 

「子を亡くした親は、愛しい存在がいなくなってしまった悲しみで心を引き裂かれます。そしていなくなった子が、それでもどこかに以前のままの姿で生き続けているのではないかと考えて、いろいろな死後の在りようを想像します。それは親の情としてあたりまえのこと。しかし、そういった非日常的な神秘世界を考えなくても、子は親の存在そのものの中に生き続けているのです。子を亡くした親が、人の命の尊さを深く感得し、自分と同じ境遇の人たちに共感し、心優しく生きていくなら、それは亡くなった子の存在がそうさせているのであって、子と親は一緒に生きているということになるのです」

 第4章「正しいものの見方」では、著者は「釈迦の仏教」と「大乗仏教」の違いについて、「『空』が分かれ目」として以下のように述べています。

 

「教義の土台が根本的に違っている『釈迦の仏教』と『大乗仏教』の間では、同じ言葉を使っていながら、その解釈や位置づけが全くなるというケースがたくさんあります。たとえば、『空』などが典型的な例です。『空』は『般若心経』の一節『色則是空、空即是色』などの文句で知られ、『仏教の神髄は空の思想にある』といった見解もしばしば見受けられます。たしかにこの『空』という単語は、『釈迦の仏教』でも用いられています。しかし、『釈迦の仏徴』で言うところの『空』は、大乗仏教におけるほど重要視される概念ではありません」

 ここで、再び著者は「釈迦の仏教」と「大乗仏教」の違いに言及します。

 

「『釈迦の仏教』では、この世の出来事はすべて、原因と結果の峻厳な因果関係にもとづいて動きます。自分がなしたことの結果は必ず自分に返ってきます。因果関係を無視してどんなことでもしてくれる超越的な絶対者など存在せず、人は自分の行為に対して、100パーセントその責任を負わねばならないのです。 ところが大乗仏教においては、人が救われるかどうかは、必ずしも原因と結果の法則によりません。その因果則を超えて、われわれを不思議なパワーで仏の境地へと導いてくれる、特別な何かがあると考えるからです。『特別な何か』というのは、『別の世界にいる仏』であったり『一般の因果則を超えたハイパー因果関係』であったり、さまざまなかたちが考案されましたが、いずれにしろ、『釈迦の仏教』が言う因果則では説明できない、神秘的な作用を想定しているのです」

 著者は、多くの著書で一貫して科学と仏教の共通性を指摘してきました。 本書の「あとがきにかえて―科学と仏教の接点」でも「本当の意味での科学と仏教の共通性とはなんでしょうか」として、以下のように述べています。

 

「それは、この世の中が『原因と結果の因果関係だけで動いている』と見る、その世界観にあります。すでに何度も言いましたが、釈迦の仏教では、この世を思い通りに動かす絶対者や、不思議な力で私たちを救いに来て下さるありがたい救済者の存在を認めません。世の中を動かしている根本は法則性です。冷徹非情な法則性がこの世の原動力だと考えるのです。そしてその一点で、仏教と現代科学の世界観は一致するのです」

 続けて、科学と仏教の共通性について、著者は述べるのでした。

 

「科学ももともとは、キリスト教が支配するヨーロッパ世界で生み出されたものですから、宗教的な色合いを含んでいました。『宇宙を支配する物理法則の生みの親は神である。したがって、その法則性を解明することはイコール神の存在を証明することになる。神の存在を論証すること、それこそが科学の目指す道だ』と近世ヨーロッパの多くの人たちは考え、その思いが科学を発展させてきたのです。しかしその結果見えてきたのは、『いくら科学的探求を進めても神の姿は現れてこない。むしろ反対に、探求すればするほど神の存在は薄れていく。この世に神などいないのではないか』という反キリスト教的思考でした。その最先端が現代の科学です。ですから、神の手を次第に振りほどきながら発展してきた科学の世界観は、2500年前にブッダが見ていた世の在り方と一致してくるのです」

 

 わたしも、拙著『法則の法則』(三五館)の「仏教に近づく現代物理学」という章で、科学と仏教の共通性について書きました。 科学がまだ解き明かしていないものに「共時性」や「複雑系」のメカニズムがあります。それらはまだ解明されておらず、それを推測することすら難しいことですが、「共時性」や「複雑系」が、関係性の問題であることだけはわかります。何の関係性かというと、観測者と観測対象の関係性です。 古典的な物理学においては、観測者と観測対象の関係は、主観と客観の関係としてとらえられました。つまり、「固定された一つの観客席から固定された一つの舞台を見る」ということです。しかし、この単純な構造は物理学の発達によって無意味なものとなりました。相対性理論において、「同じ物理現象を観測しても、観測者によって、観測結果が違ってくる」という状況が出てきたのです。

 ここで、「間主観性」という新しい考え方が登場します。 これは、一見バラバラな主観同士の「変換」法則のことです。「間主観性」は、「モノ」という単独で存在する概念ではなく、「コト」という関係性のネットワークの総体としての概念なのです。「共時性」や「複雑系」のメカニズムも、「モノからコトへ」の視点で、いつの日か解明できるような気がします。そして、そこでも鍵となるのは仏教ではないかと、わたしは思います。 科学、特に現代物理学は仏教に近づいているのかもしれません。 仏教に限らず、宗教や神話が量子力学的な世界観と似ていることは多くの人々が気づいています。しかし、科学作家の竹内薫氏にいわせれば、当たり前の話だそうです。なぜなら、目の前に拡がる世界の構造を写し取る人間の脳の精度が変わってきただけのことだというのです。

 

 竹内氏は、著書『世界が変わる現代物理学』(ちくま新書)で述べています。

 

「人類の祖先が宇宙の構造を粗く写し取った結果が神話として残り、その後、何千年かを経て、社会や文化の複雑なネットワークでつながれた人類の脳が、相対性理論や量子論や量子重力理論というかたちで宇宙の構造をより精密に写し取れるようになったのではないでしょうか」

 

 それにしても、2500年前に世界を精密に写し取る高性能デジタルカメラを開発したブッダという人は本当にすごいと思います。そして、数々の「法(ダルマ)」を発見して、人類に説いたブッダは、ニュートンと並んで人類史を代表する「法則王」といえるかもしれません。