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知の操縦法』

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  No.1375

 

 2017年最初の書評をお届けいたします。

 『知の操縦法』佐藤優著(平凡社)を読みました。

 帯には著者の写真とともに、「ヘイト本、安保体制、歴史問題・・・・・・反知性主義が横行するいま求められている知とは何か。」「混迷する世界をとらえるための知の使い方を徹底指南!」と書かれています。

 

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    本書の帯

 


 また帯の裏には「百科事典、ヘーゲル・・・・・・インターネット社会において、体系知をどう使い、どう役立てるのか。佐藤流『知の操縦法』!!」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

 

「まえがき」

第1章 求められている知とは何か

第2章 知の枠組みを身に付ける

第3章 知の系譜を知る

第4章 哲学の知を生かす

第5章 知の技法を培う

第6章 知を実践する

「あとがき」

 

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    本書の帯の裏

 


 「まえがき」で、著者は情報格差について以下のように述べています。

 

「深刻な情報格差は、日常的に電子媒体を用いる人の間で生じている。パソコンしか持っていない、もしくはパソコンとスマートフォンを併用しているが、主にパソコンを利用している人は『読む力』を維持することができている。これに対してスマートフォンしか持っていないか、パソコンを持っていても使わずにほとんどスマートフォンから情報を得ている人の『読む力』が落ちているとの感触を私は得ている。それはスマートフォンを多用する人が、LINEをはじめとするSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、SMS(ショート・メッセージ・サービス)をもっぱら利用することと関係している。SNS、SMSでは、限られた語彙しか用いられず、単文、体言止めが多い。しかも絵文字やスタンプで感情を表現する。ここで用いられているのは話し言葉だ。学校や職場では複雑な日本語を用いていても、日常的には簡単な話し言葉しか用いていないと、急速に『読む力』が退化する。『読む力』は表現力の基本だ。『読む力』以上の『聞く力』『話す力』『書く力』を持っている人はいない」

 また、著者は「まえがき」の最後で以下のように述べています。

 

「現下日本では、客観性、実証性を軽視もしくは無視して自分が欲するように物事を理解する反知性主義が大手を振って歩いている。これに新自由主義の進行による1人1人が孤立化したアトム(原子)的世界観が結びつき、個人の魂がインフレーションを起こしている。そして、肥大した魂からナルシシズムが生まれる。こういう時代状況に歯止めをかけることができるのは、古典的な啓蒙だと思う。ポストモダニズムの流行以後、私たちが軽視していた旧来型の教養を取り戻さなければならない。もっともその教養は、ポストモダニズムの洗礼を受けているので、旧来型の教養とは質的に異なるものである。それを私の言葉で言うと『絶対に正しいものはある。ただし、それは複数ある』ということだ。価値観の多元性を認めつつ、絶対に正しいものを追求することは可能であると私は信じている」

 第1章「いま求められている知とは何か」では、「日本にはびこる反知性主義」として、著者は以下のように述べています。

 

「一般論として、頭に入りにくいのは、新聞記者の書く文章なんです。書くことを生業にしている人たちなので、みなさんは意外に思われるかもしれませんが、新聞記者は短い文字数で要旨を書かなければいけないので、接続詞を飛ばす傾向があり、論理連関がどうなっているかを明示せずに、勢いで読ませる文章になりやすいのです。また、そのニュースにとって重要なこと、結論から書くというスタイルなので、単行本や新書のように長い文章を書かなければならなくなると、息切れしてしまって論理展開が不十分だったり、途中から文体が変化したり、読み手に不親切な文章になってしまうのです」

 また、「高等教育で身に付けるべき知」として、著者は述べます。

 

「高等教育とは、知識には様々な型があることを学び、自分ならではの思考の型を作りあげていくことです。だから最初は、自分が好きだと思った人について学び、その思想の型を身に付けることです。ヘーゲル、カント、マルクス、荻生徂徠、西田幾多郎・・・・・・誰でも構いません。まず1人の思想の型を知り、その人の考え方ではどういうふうに物事を見ていくのかを知って、また別の人の思想の型を身に付けていく。これが正しい学知の学び方です。ひとつの見方が絶対的に正しいと固定的にとらえてしまうと、陰謀論や反知性主義になってしまいます。この社会は一元的ではなく、多元的な成り立ちをしています。知には様々な型があり、他者とのその差異を共有することで新しいものが生み出されていくのです」

 「知のスダンダード百科事典と進化し続けるWikipedia」として、著者は以下のように述べています。

 

「wikiはハワイ語で『素早い』、pediaはギリシャ語で『教育』を意味する語で、Wikipediaは『素早く教育する』を意味しています。つまり、スピードを重視し、つねに新しい情報に更新されて進化し続けていきます。 それに対して、百科事典を意味するencyclopediaはギリシャ語のencycloに由来し、円環をなしているという意味があります。円環であるためには、開かずに、ある段階での知を輪切りにしなければなりません。だから、ある時代の知識の集大成として、閉じています。重版の際にも、数字の修正や追加などの微調整は行いますが、独立した事項の連関性をそのまま保つために、分類や項目立ての編集方針は踏襲し、進化しない。進化しないがゆえに、ひとつの時代の知的な体系を提示することができるんです。つまり、百科事典に書かれている内容を知っていることは、その時代の知のスタンダードを体系的におさえているということを意味しており、だからこそ線引きとして使うことができるんです」

 

 第2章「知の枠組みを身に付ける」では、「人工知能と倫理」として、著者は「私はこれからロボットなどの人工知能を社会に導入するにつれ、倫理的問題をどう処理するかが問題になってくると思います」と述べ、さらに以下のように続けます。

 

「いま、車の自動運転技術が話題になっていますが、事故を起こしそうになって、右か左にハンドルを切らなければならなくなったときに人工知能はどういう判断をくだせばよいのか。マイケル・サンデル教授の白熱教室でも扱われた問題(第1回「殺人に正義はあるか」)ですが、右に1人、左に5人がいた場合、どちらを選べばよいのか。右には高齢者で左には親子づれだったら、右はヤンキー高校の制服を着た学生で左は名門校の制服を着た学生だったら、どちらを選べばよいのか。人間の視界の範囲は200度前後なので、事故の時はとっさの判断ということで済まされてきたことが、人工知能はカメラを付ければ360度見渡すことができるため、事前にプログラミングをしておかなければいけません」

 

 第3章「知の系譜を知る」では、「読む力と伝える力」として、著者は以下のように述べています。

 

『精神現象学』というタイトルは弟子が付けたもので、オリジナルのタイトルは『学の体系』といいます。感覚という原始的な意識から、絶対知という複雑な意識に至るまでを考察しつつも、その考察をしていく過程そのものが体系知になっているという本なので、これまでに述べてきた体系知についての考察も深めることができます。ヘーゲルには他に『エンチクロペディー』という著作もあるのですが、ドイツ語の『エンチクロペディー』は、日本語では『百科事典』という意味です。あらゆる哲学や知を体系化しようと試みた本で、ヘーゲルの著作には、バラバラで整理されていない知識はいくらあっても役に立たない、知は体系化されてこそ役に立つという考えがよく表われています」 ヘーゲルの哲学については、著者は以下のように説明しています。 「今日の哲学を代表するものとして、マルクス主義、実存哲学、プラグマティズムなどがあげられるが、これらはみな多かれ少なかれ、ヘーゲルの影響を受けている。大きくいえば、現代哲学の源流はヘーゲルに在ると言ってもいいほどである」

 

 第5章「知の技法を培う」では、「自己絶対化しないための思考法」として、著者は以下のように述べています。

 

「ヘーゲルの考察は、こういった似非科学や人種主義への強力なアンチテーゼになっています。ぎりぎりまでナンセンスな学説に付き合うからこそ、先に進むことができるのです。意味がないことを明らかにする意味というのが、ヘーゲルを読むとよくわかります。すべてはプロセスであるから、『精神現象学』はくねくねくねくねと長大に展開していきます。私からはこう見えて、別の人からはこう見えて、全体像を鳥瞰しているであろう読者諸君からはこう見えるでしょう、という議論を弁証法的にずっと続けていく未完の体系なのです」

 

 この読書館でも紹介したヘーゲルの大著『精神現象学』の内容は拙著『唯葬論』(三五館)でも引用しました。また、その「くねくねと展開していく」議論の進め方は不遜ながら拙著『儀式論』(弘文堂)の執筆スタイルに通じているように思います。著者は、ヘーゲル哲学について、本書の中で何度も、「私からはこう見える別の人からはこう見える」「読者諸君からはこう見える」と視座を変えるのが、ヘーゲルの特徴であると指摘し、「このヘーゲルの見方を頭に入れておけば、自分の考えを絶対視することにはなりませんし、多数の立場の違う人が関わって複雑化している問題を読み解く際のヒントにもなります」と述べています。

 第6章「知を実践する」では、著者は「歴史に終わりはあるのか?」として、以下のように述べています。

 

「歴史は繰り返さないけれど、類似した構造はあります。ロシア革命を起こしたレーニンは無意識のうちにフランス革命を意識していました。というのも、ロシア革命は西暦では11月、ロシア暦では10月なので十月革命ともいい、これはフランス革命ではジャコバンに対応するし、ケレンスキーたちの二月革命はジロンドに対応するからです。その後、フランスではジャコバンとジロンドが倒れてナポレオンが出てきますが、ナポレオンに対応するのはロシアではスターリンです。こういった歴史の刷り込みも思考の鋳型になるので、人間の認識様式ともかかわっているかもしれません。その意味では、鋳型は過去にあるかもしれないし、いま起きていることが鋳型になることもありえるのです」

 

 本書を読み終えて、著者にとっての「知の操縦法」は、わたしのそれと酷似していると感じました。もともと、わたしも子どもの頃から著者と同じように百科事典が大好きでした。著者が愛用したという『百科事典操縦法』梅棹忠夫・加藤秀俊・小松左京著(平凡社)をわたしもボロボロになるまで読みました。そして、わたしは哲学者ヘーゲルをこよなくリスペクトしています。いつか、ぜひ、著者と「知」について対談したいです!