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神話と人間』

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No.1253

 

  『神話と人間』ロジェ・カイヨワ著、久米博訳(せりか書房)を再読しました。本書は著者が25歳で書いた処女作で、「神話はなぜかくもわれわれの想像力をかきたてるのか」ということをテーマに、古代から現代までを貫く神話化作用の本質を問いつめた本です。著者はフランスの文芸批評家、社会学者、哲学者です。神話、戦争、遊び、夢など、多岐にわたる研究・著作を残し、1978年に逝去しました。

 1913年にフランスのランスで生まれた著者は、子供のころにパリへ移住して名門のリセであるルイ・ルグラン校(中学校卒業後にグランゼコール入学試験へ備えるために進むエリート校)へ入学しました。カイヨワはここで好成績を収めてエコール・ノルマル・シュペリウールへ進学し、33年に卒業。その後、高等研究実習院でジョルジュ・デュメジルやアレクサンドル・コジェーヴ、マルセル・モースといった思想家のもとで学びました。

 第一次世界大戦前の一時期は、反ファシズム闘争などの左翼的政治活動に関わっています。パリの前衛的な知識人とも深くかかわり、36年にはジョルジュ・バタイユを発起人とする社会学研究会にミシェル・レリスやピエール・クロソウスキー、コジェーヴらとともに参加しました。この研究会の運動は20年代に支配的であったシュルレアリスムへの返答でもありましたが、彼はシュルレアリストたちの関心事である個人の「無意識」などには関心を寄せず、「儀式」あるいは「共同体」などに焦点を当てて追究するものでした。カイヨワの人類学や社会学、あるいは「聖なるもの」への関心などがこのアプローチを例示しています。

 著者は39年にフランスを離れ、第二次世界大戦の終わるまでをアルゼンチンで過しました。戦時中は反ナチ文書の執筆者・編集者としてラテンアメリカにおけるナチズムの浸潤と戦っています。戦後の48年にはユネスコで働きましたが、71年にはアカデミー・フランセーズに当選しています。その後もユネスコの創刊した学際雑誌「ディオゲネス」や、ボルヘスやカルペンティエールなどの現代ラテンアメリカ文学作家の作品を翻訳してフランスへ紹介する雑誌「南十字星」(ガリマール書店)の発行人・編集者としての活動も旺盛に行いました。

 

 そして、ロジェ・カイヨワといえば、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて執筆した『遊びと人間』が有名です。同書において、著者は「遊び」を4種類に分類して考察しました。すなわち、アゴーン(競争:徒競走など)、アレア(偶然:ルーレットなど)、ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)、イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)です。これは画期的な「遊び」論として有名になり、わたしも大いに影響を受けました。 『遊びの神話』(東急エージェンシー、PHP文庫)および『リゾートの思想』(河出書房新社)などの拙著でもカイヨワの「遊び」論を紹介しています。

 本書の「目次」は以下のようになっています。

 

「緒言」

1 神話の機能

2 神話と世界

(1)かまきり

(2)擬態と伝説的精神衰弱

3 神話と社会

(1)秩序と帝国

(2)古代ギリシアに射す影の戯れ ―ミノア世界の生活様式

(3)パリ―現代の神話

「結論―単一な精神活動のために」

「訳者あとがき」

 1「神話の機能」では、著者は神話に登場する英雄に注目します。 著者いわく、英雄とは、個人が格闘している葛藤を解消する者であり、そこから英雄の、犯罪というよりも有罪性に対する特権がでてくるといいます。この観念的有罪性の機能は、その有罪性を引き受けることはできませんが、それを望んでいる個人の心理を満足させることにあるからです。しかし、著者は以下のように述べます。

 

「けれども個人は必ずしも、こうした心理的満足だけでおさまることはできず、行為が必要なのであり、換言すれば、個人は英雄との潜在的一本化とか、観念的満足だけに、いつまでもとどまっているわけにはいかないのである。個人はさらに、実際の一本化を、事実上の満足を要求する。そこで神話はほとんどの場合、祭式と表裏をなしている。なぜなら、禁止の侵犯が必要だとしても、その侵犯は神話的雰囲気においてのみ可能なのであり、祭式はそこに個人を導き入れるのであるから」

 続いて、著者は「祭」について以下のように述べます。

 

「ここにおいて祭の本質そのものが理解される。祭とは公認の無礼講であって、それによって個人は劇的状況に入り、かくて英雄となるのである。祭式は神話を現実化し、神話を生きることを可能にする。そのゆえに、神話と祭式はしばしば結びついているのである。実をいえば、両者の結合は不可分であり、事実、両者の分離は常に両者の頽廃の原因であったのだ。祭式を離れれば、神話はその存在理由とはいわぬまでも、少なくともその高揚させる力の、つまり神話が生きられる能力の、最良の部分を失ってしまう。そうすると残るはただ、詩人が後世に伝える際に、復原できないほどに変造し、規格化してしまった、古典時代のギリシア神話の大部分のように、文学しかない」

 祭式は神話を現実化し、神話を生きることを可能にする。そのゆえに、神話と祭式はしばしば結びついているのである。この「祭式」を「儀式」と言い換えてもいいでしょう。 著者は、さらに神話研究について以下のように述べています。

 

「神話研究は心理学的調査研究の方法にもなれる。事実、神話の充足理由はその多元的決定に、換言すれば、神話はもろもろの心理的過程の結び目をなすという事実に存する。その心理的過程が互いに一致することは、偶然でも、挿話的もしくは個人的でもなく(そうしたなら、神話は神話として成功せず、単なるメルヒェンにすぎなくなろう)、さりとて人工的でもない(決定要因はまったく違っており、性格もやはり違っており、したがって機能も違うことになろう)。こうしてそれらを構成しているよこ糸をみつけだすことができ、その方法によって―精神分析がしたよりも有効に―人間の感情の無意識的決定をみつけだせよう。他方、比較生物学はその無意識的決定に対して、もっとも貴重な検証をもたらすはずである。というのは、表象はある場合に、本能にとってかわり、ある種の動物の実際の行動は、人間心理の潜在的性質を解明できるからである」

 2「神話と世界」では、著者は神話的想像力について述べています。

 

「神話的想像力の集団的性格は、その想像力が、社会のために、社会のおかげで存在している社会的実質でできていることを十分に保証している。たしかにそこにこそ、神話的想像力の本来の存在があり、それ独自の機能がある。けれども、いうならばその神経分布は、感情的な本質をもち、基本的な生命の法則によって、そこかしこで生じた根源的な葛藤に関連づけられる。神話は、意識がそうしたい誘惑を感じている行為のイメージを、意識に表象する。この行為が自然以外の場所に存在しているとき、神話はそれが客観的世界に実現しているのをみつけだす」

 「訳者あとがき」では、多くのフランス現代思想を翻訳した哲学研究者の久米博氏が、以下のように述べています。

 

「著者がここで論じる『神話』とは、宗教的経験に関わる狭義の神話のみならず、現代の神話とか、国家の神話といった、人間の神話化作用によって生じる広義の神話をも含んでいる。各論考を通じてカイヨワが追求するのは、神話の解釈よりも、神話の機能や神話発生の機制の解明である。神話が想像力をかきたててやまないのはなぜか、神話はどのような感情の欲求にこたえようとするものか、カイヨワのいわゆる『感性の投資能力』がいかに神話を発生させるのか、というのがかれの問題意識の核をなしている。要するに『想像力の一般現象学』の確立を、カイヨワはみずからの課題とするのである。しかしカイヨワの思考は常に、いわば複眼的思考であって、神話の内部にとざしてしまわない。神話は感性の欲求という内的要因と、歴史的、社会的与件という外的要因、この2つの決定要因の収斂する点に位置するのである」