No.1251 哲学・思想・科学 | 神話・儀礼 | 経済・経営 『呪われた部分』 ジョルジュ・バタイユ著、生田耕作訳(二見書房)

2016.05.22

 『呪われた部分』ジョルジュ・バタイユ著、生田耕作訳(二見書房)を再読しました。『ジョルジュ・バタイユ著作集』の1冊です。この読書館で紹介した『呪われた部分 有用性の限界』の内容は本書の草稿原稿でした。同書を読んだ後、20年ぐらい前に読んだ本書を読み返したくなりました。当然ながら両書の内容は重複していますが、完成原稿だけあって本書はよく文章がまとまっています。哲学の言葉で経済を語っています。フランス文学者の生田耕作の訳も躍動感があって、読みやすいです。

   本書の帯

 本書の帯には「浅田彰氏推薦」として、浅田氏の言葉が以下のように書かれています。

「バタイユは燃え上がる。この彗星は、今夜もまた、ヘーゲルとニーチェの巨人の間で微妙な振動をくりかえすその軌跡をたどることから、現代思想のすべてが始まるだろう」

   本書の帯の裏

 また、帯の裏には「《エロティシズム》と双璧をなす代表作」と書かれ、以下のように続きます。

「《呪われた部分》とは戦争や生殖や奢侈に多様されるべく運命づけられた過剰エネルギーであり、本書はこうした非生産的消費を通して人間の内奥を探る!」

 本書の「目次」は以下のようになっています。

「緒言」
第一部  基礎理論 
 [一]普遍経済の意味
 [二]普遍経済の諸法則
第二部 歴史的資料(一)消費社会 
 [一]アステカ族の供犠と戦争
 [二]対抗的贈与(「ポトラッチ」)
第三部 歴史的資料(二)軍事企業社会と宗教企業社会
 [一]征服社会―イスラム教
 [二]非武装社会―ラマ教
第四部 歴史的資料(三)産業社会 
 [一]資本主義の起源と宗教改革
 [二]ブルジョアの世界
第五部 現代の資料 
 [一]ソヴィエトの産業化
 [二]マーシャル計画
消費の概念
「訳者あとがき」

 「緒言」で、著者は「経済学の著書」を書く苦労について述べます。

「富の『消費』(蕩尽)が、生産に比して、第一目標となるような『普遍経済』の原理をわからせようと努めてみたが徒労に終った。書名をきかれると、わたしはますます弱るのだった。呪われた部分、これでは興味はひけても、とらえどころがない。がそれならそれでわたしはもっと徹底すべきであった。この表題が暗示する呪詛を取り除くことがねらいであるとはっきり主張すべきであった。確かに、わたしの構想は遠大すぎたし、遠大な構想の表明は常に裏目に出るものだ。驚天動地の発言を準備しているなどと言い出せば誰だって滑稽にならざるをえない。実際に顚覆させることこそ、問題なのだ」

 わたしもどちらかというと「遠大な構想」の本を書きたいと思う人間なので、この言葉には大いに共感できましたが、さらに著者は以下のようなスケールの大きなことを述べています。

「地球上のエネルギーの動きを考察するそれぞれの専門分野―社会学、歴史学、生物学をあいだにはさんで、地球物理学から経済学に亙る―が提出するすべての問題の鍵でありながら、未だしかるべきかたちで提起されなかった一問題に、この最初の試論は個々の専門分野の埒外で取り組むものである。心理学も、一般に哲学も、経済のこの根本問題から切り離せるとは考えられない。さらに芸術や、文学や、詩歌に関して言えることも、わたしが検討の対象として取り上げた運動と重大な関連をもっている。すなわちそれは生命の沸騰として表出された、過剰エネルギーの運動である。従ってあらゆる人々と係わりあるこのような書物は、反面またなんぴととも係わり合いがないとも言えそうだ」

 「緒言」の中で、著者は突拍子もないことも述べています。

「時間の中での性行為の在り方は、空間の中での虎の在り方に等しい。この対比は詩的幻想を容れる余地のないエネルギーの経済学的考察から発している。しかしそのためには普通の計算とは相反する、われわれを支配する諸法則に基づく力作用の水準に置かれた思考が必要である。結局、こうした真理が姿を現わす視野の中においてこそ、より普遍的な次のような命題が意味を帯びるのだ。すなわち生物や人間に根本的問題を突きつけるものは、必要性ではなく、その反対物、『奢侈』である」

 第一部「基礎理論」の「[二]普遍経済の諸法則」には、「生化学エネルギーの過多と、成長」として、以下のように述べられています。

「原則として生物は生命を確保する作業(諸機能の活動、および動物にあっては、欠くべからざる筋肉の行使、食物の追求)にとって必要な以上に多くのエネルギー資源を行使する、このことは成長や繁殖といった機能からみても明らかである。植物や動物が常に剰余を行使するのでなければ、成長も繁殖も可能ではないだろう。エネルギー消費を必要とした、生命の化学作業が、剰余の恩恵に浴し、またそれを創造するのは、生命体の原理そのものに基づくのである」

 また、「成長の限界」として、著者は以下のように述べています。

「われわれの富の源泉と本質は日光のなかで与えられるが、太陽のほうは返報なしにエネルギーを―富を―配分する。太陽は与えるだけでけっして受け取らない。天体物理学がこの絶え間ない浪費性を計測するはるか以前に人間はそれを感じ取っていた。それが収穫物を熟させるのを見て、それに所属する輝きを、与えるだけで受け取らぬ人物の振舞になぞらえた。この機会に倫理的判断の二重起原について注意をうながす必要がある。むかしは非生産的栄誉にたいして価値が認められたが、これに反して今日では価値は生産に準じてもたらされる。消費よりもエネルギーの獲得が優先するのだ。栄誉すらも栄誉ある事例が有用性の領域に影響をもたらすことによってはじめて正当化される。しかし実用的判断によって―またキリスト教的倫理によって―曇らされているとはいえ、原始的感情は未だに生きている。それはとりわけブルジョア的世界に対立する浪漫的抗議の中に見出される。経済の古典的概念の中でしかそれは自らの権利を完全に喪失してはいないのである」

 著者は、圧力の効果としての「浪費あるいは奢侈」を述べます。

「生命外の活動(気候現象、或いは火山現象)以外に、生命体内部での圧力の不均衡がもとで成長の前には絶えず死の置きみやげである間隔がひらかれる。それは新たな空間ではなく、生命を総体として眺めれば、実際にあるのは成長ではなく、全体的体積の維持である。換言すれば、成長が起りうるのは行なわれた破壊にたいする一種の補償としてに限られている。
 総じて成長があるのではなく、ただ単にありとあらゆるかたちでの贅沢なエネルギー浪費があるにすぎないという事実を、強調しておこう。地球上での生命の歴史はもっぱら狂おしい充溢の結果である。すなわちその主要な事件は奢侈の発達、次第に経費のかさむ生命形態の産出にほかならない」

 著者は「自然の3つの奢侈。食、死、および有性生殖」について以下のように述べています。

「食物の摂取には死がともなう、ただし偶発的なかたちで。宿命的な仮借ないかたちで訪れる、死こそ、ありとあらゆる奢侈のなかで、まさしく最も高くつくものだ。動物の肉体の脆さ、その複雑さは、すでにその贅沢な方向を露呈している。だがその脆さと贅沢さは死の中で頂点に達する。空間の中で、木の幹や枝が光に向かって葉叢を幾層にも積み上げていくのと同様に、同じく死は時間の中で諸世代の推移に区切りをつける。それは新生児の到来に必要な場所を絶えず残すのであり、それなくしては自分たちが存在しないものをわれわれはまさしく不当に呪詛しているわけである」

 続けて、著者は以下のように「死」について述べます。

「実をいえば、死を呪うとき、われわれは自分自身を恐れているのに過ぎないのだ。死は他ならぬわれわれの意志であり、その厳しさがわれわれを慄え上がらせるのだ。われわれは自らがその尖鋭な形態に他ならない豪奢な過剰運動から逃れることを夢みて自分を欺くのだ。いやもしかすると最初自分にたいして偽るのは、やがてそれを意識の厳しい頂点まで高めることによって、その意志の厳しさをよりよく感受するために他ならないとも言えそうである」

 第二部「歴史的資料(一) 消費社会」の「[一]アステカ族の供犠と戦争」では、「供犠あるいは蕩尽」として、著者は以下のように述べています。

「人間は己れの用途のためにものに変えねばならなかった動植物を、供犠は厳密な意味で破壊する必要はない。せいぜい事物としての範囲内で、もの化した範囲内で、破壊すればよいのだ。破壊は人間と動植物とのあいだの功利的関係を否定する最良の手段である。がそれは全燔にまで高まることはめったにない。供物の喫食、すなわち聖体拝受は、食物の共同摂取に還元しえない意味を持つだけで用を足す。発動機が燃料を使用するような調子で供犠の生贄を消費するわけにはいかない」

 続けて、祭儀の効果について、著者は以下のように述べます。

「祭儀の効果は、奴隷的用途が途絶えさせた奉納者と生贄とのあいだの内的参与を取り戻すことである。労働に従属し、他人の所有物と化した奴隷は、労役用のけだものと同格のものである。その囚人の労力を使用する人間は自分と同類を結びつける絆を断ち切ることになる。彼が同類を売り渡す日も遠くはない。しかし、所有者は、ただ単にこの所有物を、一個のものに、一個の商品に替えただけではない。奴隷、すなわちいま一人の自分をものに変える人間は、己れが内奥においてそうであるかたちから同時に乖離せざるをえず、己れにもものとしての制限を加えざるをえない」

 著者は、宗教についても以下のように述べています。

「宗教とは、その幾久しい努力であり、その苦悩に満ちた探究である。常に目指すものは、現実の次元から、ものの貧しさから引き離し、崇高な次元へ戻すことである。人間の使用する(まるでそれらが人間のためにのみ価値を有し、それら自体としては無価値であるかのごとくに)動植物は、内的世界の真実に戻される。それらから人間は聖なるお告げを受け取り、そのおかげで今度は彼が内的自由に戻される」

 この読書館でも紹介した『呪われた部分 有用性の限界』の書評でたっぷり紹介しましたが、アステカやメキシコでは奴隷を生贄とする供犠が行なわれていました。著者は「生贄とは有用な富の総体のなかから取り除かれる一種の剰余である」と定義し、以下のように述べます。

「生贄にそそがれる配慮ほど胸打たれる光景はない。ものである以上、それを縛りつけている現実の次元からそれを真に引き離すためには、破壊がものとしてのその特性をそれから剥奪し、その有用性を永久に除去する以外に方法はない。聖別されるや否や、そして聖別から死までのあいだ、それは奉納者たちの祭典の中で、歌い、踊り、彼らと共にあらゆる快楽を享受する。それにはもはや奴隷らしいところはない。武器を受け取り、戦うことさえ可能である。それはお祭り騒ぎの中に巻き込まれる。そしてまさしくその中で、命を失うのだ」

 「[二]対抗的贈与」(「ポトラッチ」)では、著者はマルセル・モースの名著『贈与論』に触れつつ、以下のように述べています。

「マルセル・モースの『贈与論』の発表以来、ポトラッチの制度はややもすると取りとめのない興味の対象にされてきた。ポトラッチは宗教的行動と経済のそれとのあいだに横たわる一種の関連に気づかせる。とは言え前者の行動のうちに経済のそれと共通する諸法則を見出すことは不可能だろう―経済という言葉を、その還元しえない動き、すなわち普遍経済の意味に受けとらず、ただ人間の一群の活動だけを指す場合には。じじつ、予め普遍経済によって定められた観点を設けることなく、ポトラッチの経済的側面を考察したところで、無益であろう。もし、全体から見て、終極的問題のかかわるところが有用な富の獲得であって、その消尽でないならば、ポトラッチは成り立ちえないだろう」

 第四部「歴史的資料(三)産業社会」では、「[一]資本主義の起源と宗教改革」において、著者は「中世の教義と慣行における経済」として以下のように述べています。

「宗教活動―供犠、祭礼、豪奢な設備―は社会の超過エネルギーを吸収する、だが効果的な諸行為の関連を断ち切ることが第一義であったものに第二の効用が付与される。そこから宗教的領域にみなぎる大きな後ろめたさ―誤謬の、欺瞞の感情―が生まれる。五穀豊穣といった、卑俗な成果を目指す供犠は、宗教が行使する神的なものの、聖なるものの尺度からは俗悪なものに感じられる。キリスト教の救済観は原則として宗教生活の目的を生産活動の領域から解放する。だがもしも信徒の救済が彼の功徳の報償であるならば、己れの営みを通じてそれに到達しうるとすれば、実用的労働をみみっちく思わせる一連の経過を彼はより身近なかたちで宗教の領域に持ち込んだにすぎないわけだ」

 「消費の概念」では、以下のように「損失の原理」が述べられます。

「人間の活動は生産と保存の過程にことごとく還元されるものではなく、支出もはっきり2つの部分に分けられるべきである。第一の部分は、還元可能であり、一定社会の個々人にとっては、生命維持および生産活動の継続のために必要な、最小限の品物の使用という行為によって代表される。従って、問題になるのはひとえに生産活動の基本的条件のみである。第二の部分はいわゆる非生産的消費によって代表される。奢侈、葬儀、戦争、祭典、豪奢な記念碑、遊戯、見せ物、芸術、倒錯的性行為(すなわち生殖目的からそれた)などはいずれもみな、少なくとも原始的条件のもとでは、それ自らのうちに目的をもつ行為を代表している」

 また、祭式や生贄についても、著者は以下のように述べています。

「祭式は生贄になる人間や動物の血腥い浪費を必要とする。生贄は、語源的意味では、聖なるものを生み出すことに他ならない。
 そもそも、聖なるものは損失の働きによって形造られるように見受けられる。なかんずく、キリスト教が成功したのは、人間の苦悩をはかり知れぬ損失と失墜の表現にまで高める神の子の不名誉な磔形(はりつけ)というテーマが功を奏した結果と見てよいであろう」

 さらに、芸術についても著者は以下のように述べています。

「消費の観点からすれば、芸術の製作は二大カテゴリーに分けられるべきであり、その第一は建物の構築、音楽、および舞踏からなる。このカテゴリーは実質的消費を伴う。しかしながら儀式や上演における場所の利用は言うに及ばず、建築自体の中に彫刻や絵画が第二のカテゴリーの原理を、すなわち象徴的消費の原理を持ち込む。同じく音楽や舞踏も外からの意味を託しやすい」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「文学と演劇は、第二のカテゴリーを構成するが、その主要形態のもとでは、悲劇的損失(失墜、或いは死)の象徴的表現を通じて苦悩や恐怖を喚起する。副次的形態のもとでは、その構造は似ているが、ある種の魅惑的要素を取り除いた表現を通じて笑いを喚起する。詩の語法は、損失状態の表明の、最も堕落していない、最も理屈化していない形態に適用されるもので、消費の同義語と見なしてよい。まさしく、最も的確なかたちで、損失を通じての創造という事実を具現するものである。従って、その意味は、供犠の意味と隣接する」

 最後に「生産、交換、および非生産的消費」について述べます。

「物々交換という人為的概念に反対して、交換の原始的形態をモースは、その最も顕著な典型をもたらしたアメリカ北西部インディアンからの借用語である、ポトラッチの名称のもとに識別した。インディアンのポトラッチに類する諸制度、もしくはその痕跡は、ごく広範囲にわたって見出された。
 北西部沿岸のトリンギト族、ハイダ族、チムシアン族、クワキウーツル族のポトラッチは、19世紀末からすでに詳しく研究されてきた(しかし当時は他の諸国の原初的交換形態との比較はなされなかった)」

 続けて、著者は以下のように述べるのでした。

「これらのアメリカ土着民族のうち最も未開化のものは成員の境遇の変化に際して―成人式、婚礼、葬儀など―ポトラッチを行なうが、より進化した形態のもとでも、それは常に祭礼と不可分であり、祭礼のきっかけをなしたり、その機会に行なわれたりする。出し惜しみを一切しりぞけ、一般に、競争相手を辱しめ、挑発し、負い目を負わせる目的で勝手に富を進呈する豪勢な贈物のかたちをとる。贈与の交換価値が生じるのは、受贈者が、その恥辱をそそぎ、挑戦を受けとめるために、後日さらに莫大な贈物で応じることによって、すなわち過分に返報することによって、受贈の際に負わされた負い目を返さねばならないところからである」

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