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日本人とはなにか』

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No.1135

 

 『日本人とはなにか』柳田国男著(河出書房新社)を読みました。
 「日本民俗学の父」である著者の全集未収録文集です。
 わたしは著者のほとんどの著作を読んでいますが、初めて読む作品の数々にスリリングな体験をすることができました。

 

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   本書の帯


 

 表紙カバーには神社の御神木のような写真が使われ、帯には著者の顔写真とともに、「柳田民俗学の本質がここにある!」「日本の文化は日本人でなければ研究出来ないと思う。」新生日本のために、まず日本人の特性を見つめ掘り下げた、柳田学の核心部を一冊にまとめる。」「戦後70年記念出版・全集未収録文集」と書かれています。

 

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   本書の帯の裏


 

 本書には、以下の論考が収録されています。


「考えない文化」
「日本の笑い」
「処女会の話」
「離婚をせずともすむように」
「うだつが上がらぬということ 家の話」
「日本人とは」
「家の観念」
「日本における内と外の観念」
「私の仕事」
「無知の相続」
「日本人の来世観について」
「私の歩んだ道」
「柳翁新春清談」
「次の代の人々と共に」

 

 それぞれ個別のエッセイのようなものですので、わたしの興味を引いた箇所を抜書きして紹介したいと思います。まず、「処女会の話」というのが大変面白かったです。著者は、以下のように書いています。


「私などの見たところでは、女が望み通りの結婚をし得るということが、最初からそう容易な事業ではなかったのである。ちょうど男子の立身出世の願いに失望が多く、その成功率はいつも小さかったのと同様に、いわば自分の力にかなうものより、二歩か三歩かさきを目ざすのが望みだったからである。以前は家族が大きく主婦の地位が少く、それを得かねて一生を送るものが多かった。今日はもうそういう失望はなくなった代りに、もう少しおもわしい口がありそうなものだという歎息は、当人はもとよりのこと、まわりの人たちからも始終洩らされていた。意見のちがうということがもしありとすれば、たいていはこの見切りのつけかたにあったかとおもう。一方は今日までの多くの見聞によって、あてもなく高望みをしていたものの、いたずらに佳期を逸した先例を経験しており、他の一方はそれをまだあまり知らないのである。いわゆる身を知り人を知って、外目にも公平な判断をさせることは、年若なものには無理な注文であった。そうして一方かの村々の特殊夜学校においては、他にいろいろのいやなことがつきまとうていたとはいいながら、少くともこれだけは一つの必修科目だったのである」

 

 また、処女会や若者組について言及した後、著者は次のように述べます。


「古いやや粗野なる若者組、もしくは娘組の経験を回顧することは、この場合において意義がある。現在の日本では『友だち』という言葉が、すこぶる散漫なる内容をもつことになっているが、これと知人とは元来は2つ別なものであった。この思想もまだはっきりと地方では跡づけられるが、友だちは元来性も年齢も同じであって、小さいときからいっしょに育ったというだけでなく、数が多ければその中から若干をえらみ合って、死ぬまでつき合おうという仲になっているもののことであった。もとはいっさいの生活の悩み悦びをともにし、互いに心の奥底までを知り合っているのが当然と考えられ、それがまた今でも大きな力になっている。男女2つの組の成立にも、これが実際の基礎であった。親にもうち明けられぬような問題といえば、恋と婚姻とがその主たるものである。時代が変遷して仮りに昔のままの機能はもたれぬとしても、この団体がこれに働くのは自然だとおもう。だからこれからの1つの解決としては、親も長者もともどもにこの関係を理解して、小さいうちからこれを守りたてて行くようにしてはどうかとおもう」


 ここで「友だち」という言葉が取り上げられていますが、わたしは現在の日本人において最も誤用されている言葉の1つが「友だち」であると思っています。言うまでもなく、フェイスブックのことです。いま、「フェイスブック疲れ」とかの言葉も流行しています。わたしは思うところあってフェイスブックをやりませんが、よく「フェイスブックで友達申請しました」などの言葉を聞くたびに、違和感を感じます。
 「友達」の定義はいろいろとあるでしょうが、わたしは最低限でも相手が亡くなったら必ず葬儀に参列する関係であると思っています。SNSだけでの薄っぺらい関係を「友達」と呼ぶなどとは笑止千万であると思います。

 

 「葬式は、要らない」とか「無縁社会」といった妄言が蔓延る現代の日本において、「友だち」という言葉も漂流しているように思えてなりません。無縁社会といえば、「無縁社会を克服し、有縁社会を再生する」ことがわたしの大きなテーマの1つですが、柳田ほど重要な思想家はいません。本書には彼の「離婚をせずともすむように」という、何とも親切心に溢れたというか、ご近所の「お節介爺さん」のようなエッセイが収録されています。その冒頭を著者は以下のように書き出しています。


「今でも婚礼の席上で、双方の親類が取りかわして居る挨拶の文句に、このたびは不思議な御縁でという言葉を、稀ならず聴くことがあるだろう。縁ははたしてその様な不思議なものか。又そう思って居てよいものかどうか。それを諸君は一ぺんは是非とも考えて見なければなるまい」

 

 さらに続けて、著者は以下のように述べています。


「広い世間に必ず一人、一生の友となるべき人が居る筈なのだが、それが話のきまる瞬間まで、誰であるかを誰も知らない。そうして愈々確定してしまうと、親よりも兄弟姉妹よりも、もっと身に近いうちわの人になるのである。この急激の変化こそは不思議であって、それを指導なされる神が出雲にあり、或は月下氷人と称して、前以て帳面に付けて持って居る役目の者が、隠れた世界に居るかの如く、想像するようになったのは無理はない。それほどにも始めて与えられる選択の自由が大きく、そうして又だしぬけのものだった。果して誤りなく良い判断が出来るかどうか。まわりの人たちは勿論、自分にも決して自信はもてなかったのである。希望註文はたしかにもって居るのだが、急げば急ぐほど見当が付かない。目に見えぬ有力者の親切が、もし信頼し得られるならば、それにまかせてしまう気持になり、又時として祈願をしようとしたのも、人間の常の情であって、日本人の久しく抱いて居た祖先神の信仰なども、実は隠れたる根柢を斯ういう実際的な生活面にもって居たのである」

 

 そして、本書の白眉は「家の観念」と題された論考です。
 「日本人にとって家とは何か」を追求した柳田の真骨頂というべきエッセイです。その中の「世間と学問」では、彼が日本民俗学を創設した意図などを含め、以下のように述べられています。


「一般的にいって、ここ数年来の日本人というものは恐ろしくなるほど質は低下し、粗雑になってきているのである。したがってそういうおおぜいの中にも、あせた秋の落葉のような、見たところ姿のかんばしくなく、また将来の楽しみの非常に少ないものがあるので、それを気づかせる人をひとりでも多く作り育てていくために、ちっとも気を弱めずに進んでいける学問が一つ起っているのである。われわれが民俗学という小さな学問の区域に割拠しておりながら、なお日本全体を背負って立つようなことをいう理由はそこにある。ことに日本人はある少数の学者だけにその教えを仰ぎ、彼らのいいなりに、至極ごもっともだといいながらついてきたのであるが、その人たちのちっとも顧みなかった隠れた日本の興味ある新事実が今は発見せられる。いってみればわれわれが無学であったということのために、新たに知ることの多かったことを喜び、かつは泣いたり悲しんだりしている人たちを少しでも救うことのできるほうに、この学問をまず応用してみたいというのが、われわれの主旨であった」

 

 また「家と女性」では、以下のように日本における「血縁」および「地縁」について言及しています。


「元来農村には法律の適用される機会が少なく、たとえば子供を残して親が死亡した場合のような制度は、成文化された法律こそなけれ、日本の長いあいだの慣習で、そのめんどうは周囲の共同責任に課されていた例は多かった。だいたい一族縁者がこの降ってわいた不幸の始末は引受けていた。租税なども昔は村全部の共同負担であったために、働き手のいなくなった家庭があったとしても、その所有地は一時的にも手の余っている者に小作をさせながら、自分の子の成長を待つような仕組みは、近世300年ばかりの歴史の中では常道とされていた。それが農村の協同体制が次第に希薄になり、分化するに従って、小利口な、そして悪質な隣人が多くなり、安心して子の成長ばかりを気長く待っていられないような、せちがらい世の中になってしまったのである」

 

 続いて、著者は以下のように「隣人」について言及しています。


「孤児の世話をする縁者の者も、家と家の利害関係の利のほうが次第に薄れてくると、事ごとにめんどうな場合が多くなり、数軒の家が申し合わせて1月とか半月とかを食べまわるような、いってみれば一部は人情から、一部は今までの行きがかりというふうなことから発した仕組みであった。こういう子供が成長したのち、幸福な人間になれる気づかいはまずなく、不完全な人間として世間から指をさされる人の大部分は、こういう暗い生活の歴史をもった人が占めていたのである。しかし幸いなことには、こうした例は実ははなはだ少なく、かりに夫婦ともにその子を残して死ぬことがあったとしても、あるいは病気や出産で田畑の作業ができなかったりしても、大部分の家はそれほど大きな負担を負わずに済んだのは、日本の村の生活における特性であった。それがまず村が町になり都会になるにしたがって『隣は何をする人』かわからぬような、見も知らなかった外来者ばかり多くなり、さしせまった事情が起っても安心して依頼もできず、だからといって社会の保護も十分に望めぬようになった都会が、まず最初に不幸をもたらしたのである」


 わたしは「血縁者のいない人には地縁者を」という発想で、「隣人祭り」のサポートなどを行ってきましたが、日本における地縁史にはこのような暗い一面もあったことを知りました。

 

 著者はまた、以下のように「家の信仰」について述べています。


「とにかく日本には、それでも平和無事の家というものは多く、家のために生れ替って、また働いてくれるものがあるという信仰は絶えなかった。われわれにいわせると、そういうものがお盆の魂迎えのような形になって残っているのだと思う。もちろん盆の魂迎えは古いことではなかろうけれども、先祖の祭が寺院の管轄になったために、仏壇の管理を仏教徒にゆだねてしまって、その結果、日本の神とはおよそ縁もゆかりもないものにしてしまった。今でも快く思えないことの1つは、寺で行う施餓鬼の意味で、施餓鬼とはその名の示すように飢えた鬼のことを意味するもので、地獄にも極楽にもいけずこの世にさまよっている鬼、すなわち祭る人のない仏のために供養するものであった。幸か不幸か多数檀徒にとっては、文字も意味も解し難かったがために、それでも親切に自分たちの先祖を祭ってくれると思い込んでいるのは、あまりめでたい話ではなかった」

 

 そして以下のくだりなどは、柳田の真骨頂であると言えるでしょう。


「家というものは、自分の利害、環境を一にする者同士が集まって生活しなければ不安であった時代があって、次第に生活の安全保障ができてくると、そういうことも無用になって、忘れ去られてしまうような例はいくつもあった。たとえば本家のオカミさんというものは、いばってばかりいるように今の人たちはかってに思い込んでいるが、おそらく汗水流して野に働く者とほとんど違いのないような辛苦を、一族の和合と統一を計るために感じていた」

 

 さらに著者は以下のように続けます。


「その苦労は家の主も同じであった。共同生産されたものを、一族の長なり一家の主なりが独占して、甘い汁ばかり吸っていたように考えることは大きな誤りである。関東地方にも古くから主人夫婦とか子供たちのためにとか、特別に食物を調理することすなわちコナベダテは罪悪のように考えられてきた。これはおそらく全国とも同じ傾向をもっていて、一家はすべて1つの大なべで煮ていっしょに食事するのが常で、それであったからこそ一家一族の団結は堅く親密なまた平等なものであったのである」

 

 「日本における内と外の観念」も面白かったです。
 「観光」は今や時代のキーワードですが、著者の以下の文章などを読むと、その奥深さがよくわかります。


「私が旅行している頃、『どうもあの村は人気が悪い』とか、『一番人気がよかったのはどこですか』などとよく言われた。一番普通なのは、茶店とか、宿屋とかで、目に見えてこすいことをすると、『人気が悪い処だ』と言った。そして一般に街道筋は、往来がしげく、小さな奥まった淋しい処とは違って、よく『人気が悪い』と言われた。だから『人気』というのは、こうすればこうなって自分の方がいくらか得になるという肚の中の勘定の進んでいる度合いらしく、『人気が悪い』というのは、一般に利口になっていることと同時に、陰口をきいたり、困っている人に親切が足りぬとか、そういう不道徳ということでもあった。近頃は、『人気』といえば、気に入ったとか、気にいらぬという俳優の評判と心得ているが、私が旅行している頃のそれは、明らかに土地の紹介であった。
 『風儀』というのは、これと違って、男女関係のことである。だから、『人気はいいけれど風儀が悪い』とか、『風儀はいいけれど人気が悪い』ということがあった」

 

 柳田民俗学といえば、日本人の先祖観の研究がメインテーマの1つです。
 「日本人の来世観について」はまさにその論考ですが、「一.両墓制」の冒頭に著者は以下のように書いています。


「今やっている問題で一番興味あるのは、両墓制ということである。両墓制というのは、土地ごとに違った呼び名があり、それぞれ参り墓といけ墓、あるいは上墓と下墓といったりしているが、要するに、遺骸を埋めた墓はまいる墓ではないのである。まいる墓は大体お寺にあずけて、石塔が建ててある。近来それがだんだん乱れてしまったが、ことに東京など一番みだれてしまった。何しろ、墓を2つ作ることは場所をとるので、まいる墓は先祖代々の墓1つで間に合わせることも出来たわけである」

 

 両墓制とは何か。著者は以下のように述べています。


「田舎では2通りの墓があって1つは忘れてしまう墓である。私なども、私が生れる2年ほど前におばあさんがなくなっていたが、5つ位の時、お盆に墓詣り行くと、7、8年前のおばあさんの墓がどこだかはっきり覚えているものがいない。それはつまり終いにはわからなくなってしまうが、それを覚悟で土葬にしたのだ。一方では頼りがないから、墓を作る時、墓の土をわずかもって来たり、髪の毛を残して埋めた形にするが、元来はそうではない。わからなくなるのが本意で、これが三昧というものである」


 それでは、墓とは何か。著者は次のように述べます。


「墓という観念からいっても、遺骸のあるところが墓である。遺骸のあるところには霊が宿っているというのでそこを大事にする。それは当然だが、死体のない墓をまいるというのは、どういうことだろう。要するに霊魂を信じなければ、そんな慣習はないわけである。単に人間の死骸があるから、身体が追慕の目的物であるならば墓を2つ作ることはないわけである」


 わたしは『墓じまい・墓じたくの作法』(青春新書インテリジェンス)で、これからの日本人のお墓についてのヴィジョンを描きましたが、その根本には日本民俗学における「墓」についての研究成果があります。

 

 そして、著者は両墓制を説明する上で、古代エジプトを取り上げます。


「両墓制の意味を知るのには、エジプトを考えて見るとよくわかる。エジプトはあの大きなピラミッドを作るのさえも、ミイラを保存するためである。遺体というものを非常に大事にして、遺体のある所にもう一度霊魂が帰ってくるような気持もあって、あれだけの大きな石をもってしている。そうでなくとも、屍体保存ということは世界の大勢だ。支那なんかでも、生活程度には不似合なくらい立派な材木をつかって作った木棺に入れ、埋めるためには儀式に大した金がいるものだから、貧乏な家では、死んでからしばらく、放たらかしていつまでも何もしないで忘れてしまうものもずいぶんある」


 「日本人の来世観について」の「二.死後の生活」では、日本ではかなり顕著な特徴があるにもかかわらず、アフター・ライフの問題を今日まで人が問題にしないことを指摘しつつ、以下のように述べています。


「日本では広く弔い上げという慣習がある。弔い上げはだいたい33年である。33年までには、翌年、3年、7年、13年、17年、23年の年忌がある。その年忌ごとにお寺に頼んで塔婆を書いた。私の家では23年をやった。それから急に飛んで、33年になり、それを弔い上げといって、人間の死を弔う最終である。お寺に参って、いよいよ弔い上げでおしまいであると礼を言って、寺に頼んで塔婆を書いてもらって上げる」

 

 また、著者は仏教と先祖供養の関係について、以下のように述べます。


「日本では、神と仏との差別がわからなかったが、仏教は簡単にいえば、死んでから33年かぎりであって、それから先は、寺と縁が切れて、家々できれいな祭をするということが想像されていた。それだけではまだ歴史家は安心がつかずにいた。ところが、3、4年前まで知らずにいてびっくりしたのだが、沖縄は日本人と手を分ってから久しくなるにもかかわらず、まだ行われている。沖縄には一時禅宗のお寺を幾つか作った時代があったが、今でも仏教はない。それにもかかわらず、弔い上げをやっている」


 この死後33年を機に、仏から神に移行するというのはよく理解できます。
 『永遠葬』(現代書林)にも書きましたが、葬儀によって、有限の存在である"人"は、無限の存在である"仏"となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。
 また、日本仏教の本質は「グリーフケア仏教」であると思います。例えば、年忌法要というのは実に良くできていると思います。年忌法要そのものが日本人の死生観に合ったグリーフケア文化となっています。

 

 その日本仏教について、著者は以下のように述べています。


「仏教は、今は始めから終いまで世話をするようになっているが、それは仏教の方の解釈の拡張で、日本に仏教が入って来たときは、33年まであずかってもらう心持であった。霊魂が動揺して迷っている間、ことに幽霊になって出かねない時期だけ救済するので、極楽浄土とか、十万億土に行くという信仰は、初めから日本人には信じられなかった。日本人が仏教の恩恵をうけ、もしくは仏教の救済を要求したのは33年までの間である」

 

 続けて「弔い上げ」について、著者は以下のように述べています。


「弔い上げの考え方はお寺にとっては不利益である。有力な旦那に逃げられては困るので、過去帳というものを作って、どこそこの八十回忌、百回忌と書いていつまでも寺と縁の切れないようにしている。仏教というものは、魂がこの世の記憶に残って、浮動している期間中禍いをする、それをなだめる心持で未完成の霊魂の管理をやっておったということが、ごく具体的に現在残っている慣習からわかる」

 

 この「日本人の来世観について」は口述筆記ですが、その最後に著者は以下のように述べています。


「日本人は特殊な生活、特殊な精神経験というもの、霊魂経験というものをどこにおくか、日本人は死んでから後にどういう世界に、どんな状態に移っていくかということをきめる場合にも、人種的なちがい、歴史の相違というものを勘定に入れなければならない」

 

 「柳翁新春清談」も非常に興味深い内容でした。
 「週刊読書人」1962年1月8日、15日、22日号に掲載された談話ですが、著者とさまざまな人物との交友についてなどが語られています。たとえば、泉鏡花については以下のように述べています。


「泉鏡花とは大学の寮でいっしょの部屋に入ってから長い間交際をしていた。後に泉君は牛込横寺町に紅葉が住んでいた時、そこで玄関番をやっていたが、ある日、私が学校の部屋の外を通ったとき、畔柳芥舟君だったかが、『おい上らないか』と呼んだので、私は窓に手をかけて一気に部屋に飛び込んだ。その時、部屋の中に居合せていた泉君がそれを見てすこぶる爽快に感じたらしい。泉君の『湯島詣』という小説の中に、窓から身軽にとび上る学生のことが書かれてあるが、あれは私のことである」

 

 さらに、これは意外でしたが、森鷗外の名前も登場します。


「いろいろなことを思い出すが、少年時代から青年時代にかけて最も私が影響を受けた人といえば、森鷗外氏である。森さんは、医者で歌をやっていた私の次兄(井上通泰)の親しい友人であって、その兄が岡山へ帰る時に、私のことをいろいろと頼んでいってくれたのであった。子供だった私は、森さんのお宅に伺うとお菓子が食べられるので、よくお訪ねしたものだが、森さんはいつも快くあってくれた。
 森さんは年の若いものに対しても、少しも年齢差を意識しないで『あれは読んだかね』とか『あれは面白かったから是非読みたまえ』とかいってくれるのであった。私はそういってもらえるのが本当に心良かった。森さんは『君は若くて分らないだろうが・・・・・・』などということは一度もいわない人であった」

 

 本書の最後には「次の代の人々と共に」が掲載されています。
 1957年(昭和32年)10月に刊行された『國學院大学日本文化研究紀要』第一集に掲載されたものですが、そこで当時82歳であった著者は以下のように述べています。


「昭和20年の8月過ぎに、私の処へ元気のよい若い青年が沢山やってまいりまして、『貴方は戦争の原因は何処にあると思うか』ということを尋ねますから、『そんな事を今尋ねた処で判るものか、是は100年経ってからだ』と言ってやりました。もう10年も経て居りますから、そろそろ戦争の原因というものを、探ってよいのではないかと思います。我々のように年を取って、生き残りといわれるような者は、それをせずに、やれ何とか平和などという事は、辛棒出来ないのであります。日本の良い所については、屢々書物で表わされて居りますが、我々の気付かない弱点、然かも痛い弱点というものは、今まで言われなかったけれども、是も詮索して、将来再び斯くの如き禍に陥らぬようにするために、どうしても究め尽くさねばならないのであります。
 今日我々の一番憂いて居りますことは、矢張り国の姿であります。この間も、或る女の代議士の団体から、『今日何が一番必要な問題であろう』と言われましたので、私は早速『親子心中を無くする策を研究するのが一番大きな問題である』と返事をしてやりました」


 さらに親子心中について、著者は以下のように述べています。


「親子心中に至る事情を、周囲で知って居りながらも、それに対する設備が非常に不完全なのであります。病院ではベッドが足らぬといい、育児院では栄養が標準以下だという状態で、何も設備が満足に具わって居らないのは、ゆっくり手落ちのないように考えて、もう少し先々の施策を適宜にしなかったからであります。それは甚だ露骨な言葉ではありますが近世史というものを、史学者が粗末にしたからだと思うのであります。近世史というものは、日本のように長く続いた国では、上代史の結果であります。中世史の結果であります。然しながら、時代によって事情が変るということを顧みないで、昔は斯うだったから、今は斯うだという見方をするのは、歴史にも何にもなっていないのであります」

 

 この著者の発言を読んで、わたしは非常に感動しました。
 著者が創設した日本民俗学は「祭」とか「先祖」とか「家」の問題などを研究しながら、日本人の血縁や地縁の意味を問うていく試みでした。それゆえに「無縁社会を克服し、有縁社会を再生」するヒントの宝庫であるわけですが、さらには「親子心中をなくす」といった志さえ込められていたのです。
 偉大なり、柳田国男! 壮大なり、日本民俗学!
 結局、柳田国男という人は、「日本人の幸福」というものを生涯考え続けた人なのでしょう。『日本人とはなにか』という本書の書名は『日本人を幸福にする方法とは何か』という意味なのです。

 

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   「國學院大學と私」

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   國學院大學で特別講義を行いました


 

 わたしは現在、全国冠婚葬祭互助会連盟の会長を務めています。
 冠婚葬祭互助会の使命とは、日本人の原点を見つめ、日本人を原点に戻すこと、そして日本人を幸せにすることです。結婚式や葬儀の二大儀礼をはじめ、宮参り、七五三、成人式、長寿祝いなどの「冠婚葬祭」、そして正月や節句や盆に代表される「年中行事」・・・・・・これらの文化の中には、「日本人とは何か」という問いの答が詰まっています。
 わたしのブログ記事「終活を考える」で紹介したように、昨年11月11日、わたしは柳田ゆかりの國學院大学で特別講義を行いました。これからも、柳田の遺した偉大な学問に触れつつ、日本人を幸せにするお手伝いがしたいです。

 

 『和を求めて』にも書きましたが、日本人はもともと平和を求める民族です。日本文化の中には、人々が平和に暮らし、幸せに人生を送るヒントがたくさんあります。その宝庫こそ冠婚葬祭であると思っています。
 最後に、著者の表記は「柳田國男」にすべきでした。「柳田国男」という人は存在しなかったので、河出書房新社は本名表記にしてほしかったです。