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死の拒絶
Title

死の拒絶』

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   No.1111

 

 『死の拒絶』アーネスト・ベッカー著、今防人訳(平凡社)を紹介します。

 本書は『唯葬論』の参考文献です。すべての文化や娯楽とは、やがてくる死から目をそむけるための気晴らしであり、気を紛らわせるためのものであるという「唯死論」とも呼ぶべき文化論を展開して1974年のピューリッツァー賞を受賞した本です。

 

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   本書の帯


 

 カバー表紙には、中世ヨーロッパの「死の舞踏」の銅版画が使われ、帯には「キューブラー=ロス絶賛の死を考える名著!」「人はなぜ死を恐れ、それを否認・拒絶しようとするのか? フロイト、ランク、キルケゴールらの思想を手がかりにその意味を追求した〈死の精神分析〉。アメリカ文化人類学者による考察。1974年ピュリッツアー賞受賞!」と書かれています。

 

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   本書の帯の裏


 

 1973年に書かれた本で、日本では1989年に邦訳出版されています。そんな古い本をどうして今頃読んだのかというと、この読書館でも紹介した『死者を弔うということ』に紹介されていたからです。同書の著者サラ・マレーは、1924年生まれの文化人類学者アーネスト・ベッカーが著書『死の拒絶』において、人間行動の背景には死への意識が大きな原動力としてあると説いたと記しています。ちなみに、『死の拒絶』は映画「アニー・ホール」でウディ・アレン演じる主人公がガールフレンドに贈った本だとか。

 

 ベッカーの思想は、その後、ジェフ・グリーンバーグ、シェルドン・ソロモン、トム・ビジンスキーらによって展開されました。サラ・マレーは、以下のように述べています。


「ベッカーの思想を発展させたTMT学派によれば、人は逃れられない実存的恐怖に直面して2つの次元で身を守ろうとする。まずは、現実世界には秩序と意義があり、私たちは無意味な生を送っているのではないという確証となる『文化的世界観』を築く。次に、その特殊な文化的世界観に合致した価値観で生きることで得られる『自尊心』を築くのである。そうして私たちは、ニューヨークマラソンに出場し、選挙に名乗りを上げ、チャリティー活動を通じて飢餓救済に励む―そうすることで、『何か大いなる存在』の一部に属したいと願う」


 これを読んで、『唯葬論』の参考文献を読み漁っていたわたしは「これだ!」と思い、早速、アマゾンで『死の拒絶』の古書を求めて一気に読了したのです。たしかに刺激的な本でした。フロイトの精神分析学の影響を強く受けており、わたしの苦手な「父殺し」とか「近親相姦」とか「肛門愛」などの用語が頻出するのは閉口しましたが、フロイト以外にもユングやマズローの心理学にも言及しており、心理学入門としても面白かったです。


 本書の目次構成は、以下のようになっています。

 

序文
第一章  序論―人間の本性とヒロイックなもの
 
第一部 ヒロイズムの深層心理学

第二章  死の恐怖
第三章  精神分析の基本概念の再構成
第四章  生死をかけた嘘としての人間の性格
第五章  精神分析学者キルケゴール
第六章  フロイトの性格的問題再考


 

第二部 ヒロイズムの挫折

第七章  人間がかける呪文―不自由の絆
第八章  オットー・ランクと精神分析によるキルケゴールの把握
第九章  精神分析の現在の所産
第十章  精神疾患の一般的見解


 

第三部 回顧と結論―ヒロイズムのディレンマ

第十一章 心理学と宗教―ヒロイックな個人とは何か
訳者あとがき
参考文献

 

 まず、序文の冒頭に、著者は以下のように書いています。


「死は人間活動の推進力である―それというのも、人間の活動の主たる仕組みは、死という宿命を避け、何らかの方法で死が人間の最後の運命だということを否認して死を克服することにあるからだ。著名な人類学者A・M・ホカートは、未開人は死の恐れに悩まされることはなく、人類学的な資料を賢明に抽出するなら、死は歓喜やお祭り騒ぎを伴うことが多く、恐れというよりは―アイルランドの伝統的な通夜にも似て―祝いの時であることがわかる、と論じたことがあった。ホカートは、未開人は(現代人に比べて)幼稚で現実をこわがっているという一般的な考え方を払拭しようとした。今日では人類学者は、未開人のこの名誉回復を十分になしとげてきた。しかし、この議論では、死の恐れが人間の条件のまさに1つの普遍的特質であるという事実は手つかずのままである。ホカートをはじめとする人類学者が指摘してきたように、確かに未開人はしばしば死を祝うことはある。だがそれは、彼らが死を、究極的な昇進であり、ある高尚な生の形態へと、何らかの形態における永遠性の享受へと、儀式によって最終的に向上することだと信じるからである。現代の西洋人の大半にとって、もはやこのことは信じがたく、この点にこそ死の恐れが現代人の心理構造で目立つ部分となっている理由があるのだ」

 

 第二章「死の恐怖」の冒頭でも、著書は「まさに現代思想による偉大な再発見の1つを直ちに紹介しよう」と述べ、以下のように書いています。


「すなわち、人間を動かす動員のうちでも主要な1つに、死の恐怖があるということである。ダーウィン以後、死の問題が進化論の問題として前面に出てくると、多くの思想家はそれが人間にとって大きな心理学的問題であることを直ちに理解した。さらに彼らは、シェーラーがまさに世紀の変わり目の1900年に、ヒロイズムはまず何よりも死の恐怖の反映であると書いたときに、真のヒロイズムが何に関するものであるかをすばやく理解した。われわれは死に敢然と立ち向かう勇気をもっとも賞賛し、そのような勇気にもっとも高く、もっともゆるぎのない尊敬を捧げる。そうした勇気にわれわれが心中深く感動するのも、われわれがある人が自分自身の終焉に雄々しく立ち向かっているのを見るとき、われわれは想像できるかぎり最大の勝利のリハーサルをしているのである」


 また、著者は以下のようにも述べています。


「歴史上のあらゆる宗教は人生の終焉にいかに耐えるかというこの同じ問題に取り組んだ。ヒンドゥー教や仏教のような宗教は再生を望まないふりをするという巧妙なトリックを演じた。これは、本当にいちばん望んでいることは望まないと主張するという、一種の裏返しの呪術である。哲学が宗教を引き継いだとき、宗教の中心問題も引き継いだのであり、死は、ギリシャでの哲学発祥からまさしくハイデッガーや現代の実存主義にいたるまで、真の『哲学の霊感(ミューズ)』となったのである」

 

 著者は、デンマークの哲学者であるゼーレン・キルケゴールを高く評価しています。第五章「精神分析学者キルケゴール」では、「キルケゴールは1840年代に執筆活動をしているが、実際にはポスト・フロイト派であり、そのことは天才の不滅の超人性を伝えてくれる」と述べ、続けて述べます。


「キルケゴールの人間観の土台は贖罪の神話、つまりアダムとイヴのエデンの園からの放逐である。われわれが見てきたように、この神話には、人間は自己意識と生理的身体という対立物の結合であるという、いつの時代にも妥当する心理学の基本的洞察が含まれている。人間は下等動物の思考力を欠く本能的な行動から脱却し、自分の条件を反省するにいたった。彼は万物の中で自分が個性的であり、部分的に神性をもっているという意識、つまり自分の顔と名前は美しくユニークだという意識を与えられた。同時に彼は、世界の恐怖と自分自身の死や腐朽の恐怖という意識も与えられた。この逆説は歴史や社会を問わずあらゆる時期の人間に真に不変のものである」


 キルケゴールの思想を追いながら、心理学と宗教の端緒としての実存的逆説を語る著者は、次のように述べます。


「自己意識への転落、自然における心地よい無知から出現したことは、1つの大きな罰を人間に加えた。それは人間に不安を与えた。キルケゴールが言うように、動物には恐怖が見られないのは、『まさしく動物は本質的に精神として規定されていないからである』。『精神』を『自己』あるいは象徴的な内的アイデンティティと読み替えよ。動物はこういうものをいっさいもっていない。キルケゴールは、動物は無知であるがゆえに無垢であると述べている。しかし、人間は『心的なものと身体的なものとの統合』であり、それだからこそ不安を経験する。ここでもまたわれわれは『心的なもの』を『自己意識的なもの』と読み替えなければならない」

 

 第6章「フロイトの性格的問題再考」では、「死の本能」について述べます。


「『本能』としての死という虚構により、フロイトは死の恐怖を、自我の支配が第一次的な人間の問題であるという、彼の公式の外部に置きつづけた。もし有機体が死を本来その過程の中に有しているなら、彼は、死は抑圧されるなどと言う必要はなかった。この公式では、死は人間に普遍の問題ではなく、いわんや唯一の第一次的な人間の問題でもなくて、ランクがごく簡素に述べたように、『歓迎されない必然性から望みどおりの本能的目標へ』と呪術的に変形されるのである。彼は『このイデオロギーの安堵感を与える性質は、長期にわたって論理と経験に耐えることが出来なかった』と付け加えている。ランクが言うには、このようにしてフロイトは『死の問題』に決着をつけて、それを『死の本能』にと仕立てた」

 

 このように専門的で難解な部分もありますが、非常に豊かな内容を含んだ好著でした。さすがに、ピュリッツアー賞を受賞しただけのことはあります。著者のベネットによれば、わたしたち人間はいずれやってくる「死」というピークにむかってゆっくりと登っているローラーコースターに乗っているようなものです。そして、文化はその両側に据え付けられた気晴らしのテレビのようなものだというのです。しかしその気晴らしも完全ではないため、潜在的な焦燥感が「戦争」や「暴力」といった形で開放されるといいます。


 「死」の問題について突き詰めて考えた本書を読み、いろいろと勉強になりました。なお、本書は『唯葬論』(三五館)でも紹介しました。