No.1103 民俗学・人類学 | 神話・儀礼 『祖先崇拝の理論』 マイヤー・フォーティス著、田中真砂子訳(ぺりかん社)

2015.08.21

「勇気の人」こと東京大学医学部大学院教授で東大病院救急部・集中治療部長の矢作直樹先生から丁重なメールが届きました。メールには、わが最新刊である『永遠葬』(現代書林)と『唯葬論』(三五館)の2冊に対する丁寧な感想が綴られており、まことに過分なお言葉を頂戴しました。その詳しい内容を書くことは控えますが、「一条さんの博識となにより尊い現場感覚が裏打ちしているという圧倒的な強みが説得力を生んでいると思います」という一文が嬉しかったです。人にはそれぞれ役割がありますが、わたしには「葬」の意味と重要性について語る役割があると思っています。

『唯葬論』の参考文献として、『祖先崇拝の理論』マイヤー・フォーティス著、田中真砂子訳(ぺりかん社)を読みました。著者は、イギリスの著名な社会人類学者です。西アフリカのタレンシ族を調査したことで知られます。本書は数多い彼の論文の中から、わたしたち日本人にも関心の深い祖先崇拝に関する論文を4篇集めて一冊としたものです。

カバー裏に書かれた推薦文

本書のカバー裏には、以下の2つの推薦文が寄せられています。

■東京都立大学名誉教授 馬淵東一
祖先崇拝に関するフォーティスの諸論考が、彼の学説のよき理解者である田中真砂子女史によって訳出されることに祝意を表したい。今まで日本人が漠然と考えていた祖先崇拝に、新たなる検討を促すことになるであろう。

■駒澤大学教授 桜井徳太郎
日本人は先祖の供養に異常な熱意を示す。そこで祖先崇拝はわれらの特権であるかの印象を抱く。それは大変な誤解で、アフリカの祖霊信仰を人類学的に分析する本書は、短絡的な先入観を打破する貴重な文献となろう。

本書に収められている4つの論文は、それぞれ、1959年、1961年、1965年、1976年に書かれています。日本のオリジナル・エディションである本書の刊行は1980年です。そんな古い本をどうして今頃読んだのかというと、哲学者の柄谷行人氏の『遊動論』の中で紹介されていたからです。

現代日本を代表する思想家である柄谷氏は「死者が祖霊になるのに一定の時間がかかり、また、そのためには子孫の供養が必要だという考えは、どこでも共通している。だから、子孫が不可欠なのである」として、本書『祖先崇拝の理論』の内容を以下のように引用しています。

「タレンシたちにとっても、人生における最大の不幸は、自分のために葬式を営み、出自に基づいて家系を継いでくれる息子を残さずに死ぬことで、この不幸に比べれば、死そのものなど問題にもならない」

「葬式は両親を祖霊に変身させる最初のステップであり、そもそも祖先崇拝は本質的に孝行の宗教化に他ならない」

柄谷氏は引用したフォーティスの言葉がわたしの心に突き刺さり、早速アマゾンで古書を求め、読みました。なかなか読み応えのある本でしたが、当時執筆中だった『唯葬論』の参考文献として丁寧に熟読しました。本書の目次構成は、以下のようになっています。

「日本の読者への序文」
1 西アフリカの宗教における「エディプス」と「ヨブ」
a.フレーザーの運命論
b.範例としての「エディプス」と「ヨブ」
c.西アフリカにおける運命観
d.タレンシ族―その親族組織と祖先崇拝
e.ライフ・サイクルとエディプス的宿命
f.よい宿命・祖霊・両親
g.父系先祖の優越性
h.正義・責任・祖先崇拝
i.社会構造と「運命」
j.まとめ
2 祖先崇拝におけるPietas
3 アフリカの部族社会における祖先崇拝について
4 W.H.ニューウェル編『先祖』への序文
編訳者あとがき
参考文献

「日本の読者への序文」で、著者は人類学について述べています。

「ごく一般化して申しますと、人類学者の目的は、社会組織や、慣習、価値観、行動についての普遍的問題を、いわば、特定文化・特定社会というレンズを通して検証することいえましょう。ここで前提とされているのは、すべての人間社会は、人類社会に共通の普遍的構成要素を、独自のやり方で組み合わせ、構成してゆくものだという考え方であります」

そして、人類学者としての著者は以下のように述べます。

「タレンシ族の祖先崇拝の研究において、私はそのような信仰や行事に見られる社会的関係のあり方に特別の注意をはらってきました。その結果、祖先崇拝は広い意味での死者崇拝とは異なること、祖先崇拝は、崇拝される先祖の実際の子孫、又はそれに準ずる者のみの権利義務として継承されるもので、たとえば婚姻などは厳密に除外されるということがわかってきたのです。私は又、祖先崇拝の中心的要素は、親と子という隣接世代間の関係に必然的にともなう両義性だということを示すことが出来たと思います。更に、祖先崇拝という形にドラマ化された信仰や価値観や道徳的原理を考察することによって、私はそれらがどのように人々の社会的、宗教的、そしてさらに重要な意味で、法的慣習や制度などの一般的枠組に合致するか示そうと努めました」

そして議論を重ねながら、著者は以下のように結論づけます。

「私は、タレンシ族の先祖は恩恵ではなく、超自然的権威の所持者として概念化されていることを示しました。つまり、実際生活での子の親への従属を聖なる領域に永遠化し、それを親の超自然的―神秘的―力へと向けさせるのです。したがって、親は死んで超自然的祖先の権威へと昇化するのですが、それは基本的には、親権の中の法的次元であって、これが有効であるのは、こうした宗教組織が、出自集団や全体的政治組織と呼応しているからなのです」

本書の白眉は、3「アフリカの部族社会における祖先崇拝について」です。
祖先崇拝がアフリカの宗教システムの顕著な特徴の1つであることは多くの学者たちが指摘していましたが、著者もこれまでの論文で、祖先崇拝がガーナのタレンシ族の社会生活全体に、広く浸み込んでおり、この点は中国や古代ローマの社会とも比肩すると主張してきました。タレンシ社会に限らず、アフリカの社会すべてについて同じことが言えるとして、著者は次のように述べます。

「祖先崇拝が行なわれているどの社会でも、この信仰が、家族・親族・出自といった社会的関係や制度に根ざしているという点に異論はあるまい。ある学者は、祖先崇拝は親族や出自の関係を超自然の領域に延長したものであると言い、また他の研究者は、祖先崇拝はそうした社会関係の反映、それも宗教的・象徴的に表現された反映であると思う」

また著者は、祖先崇拝について以下のように述べています。

「もしも祖先崇拝が死者崇拝の一部であるに過ぎないのなら、祖先崇拝の意味は、死・たましい・死霊・霊・後生などをめぐる慣習化した信仰や行事の中に求められるはずである。
しかし、民族誌や歴史上の事例を見れば、死霊・たましい・幽霊などとの宗教的交わりが、真の祖先崇拝ではないことは明らかである。こうした霊の存在や、その超人間的性格は生から死への変化にかかわるもので、このことは葬送儀礼の中にははっきり見てとることが出来る」

偉大な人類学者に、タイラーやマリノフスキーがいます。
タイラー説に従う人々は、儀礼、信仰、慣例などの内容を祖先崇拝の主な現象と考え、祖先崇拝を死についての考え方や霊魂観の産物として解釈しようとします。他方、マリノフスキー説に従う人々は、肉親を失った動揺や死滅することに対する恐怖を情緒的に和らげ、安堵させるために祖先崇拝が必要なのだと説きます。このような説明が祖先崇拝を全体的に分析するために無用ではないと認めた上で、著者は次のように述べます。

「祖先崇拝は因果関係を説明する機能を果たしているばかりでなく、宗教や道徳哲学の一部門であることを、私は忘れてはいない。ただここではっきりさせておきたいことは、この論文の主題である祖先崇拝の構造的模型と、祖先崇拝に用いられている信仰や価値やシンボルなどの法則とは、分析的に全く別々の局面だということである。このことは、そせんとしての身分を獲得するために死は必要な条件ではあるが、充分な条件ではないことを考えれば、明瞭であろう」

そして、著者は葬送儀礼について以下のように述べます。

「葬送儀礼はいかにも死者を人格化するかに見える言葉や儀礼の形をとって行なわれるが、実は死者を超自然界に送りこみ、霊的存在としての資格を得させるためではなく、彼らを現世の社会組織から引き離すために行なわれるのである。また、個人的レベルでいえば、葬儀は死により惹き起こされた混乱を解消し、死別の悲しみを和らげる。しかし、死や葬儀は先祖になる前に必ず通過しなければならないにしても、それ自身、祖先としての身分を賦与するものではない。先祖になるためには特別の儀礼が必要である。死者が先祖に昇格するためには、まず『今一度現世につれもどさ』れて、葬送儀礼によって家やリネージ内に再確立されなければならない。それでもまだ、子孫の生活の中に顕れ、祀られるまでは、祖先としてのしかるべき儀礼奉仕を受けることは出来ない」

特定の死者は、つねに特定の個人です。
そして彼が先祖として社会に復帰できるということは、彼がしかるべきカテゴリーの子孫を残したあらであるとして、著者は「彼の先祖としての復権は、彼が社会的に重要であり続ける、それも亡霊としてではなく、生前の生涯や経歴のいわば結果として、子孫も引き続き社会関係や諸行事を調整するかなめとして、重要であり続けることを保証する」と述べています。
「先祖」というものの本質を考える上で気づきを与えてくれた本でした。

Archives