No.0961 小説・詩歌 | 幸福・ハートフル 『かもめのジョナサン完成版』 リチャード・バック著、五木寛之創訳(新潮社)

2014.08.04

 『かもめのジョナサン完成版』リチャード・バック著、五木寛之創訳(新潮社)を読みました。
 伝説のベストセラーへ新たに最終章が書き加えられた完成版です。わたしが最初に『かもめのジョナサン』を読んだのは、たしか小学3年生でした。カモメの写真のページがたくさんあって、子どもでも簡単に読破でき、「大人が読む本を読んだぞ」という満足感を得たのを憶えています。オリジナル版では、「飛ぶ歓び」「生きる歓び」を追い求め、やがて精神世界の重要さに気づくジョナサンの姿が気高く描かれていました。

   本書の帯

 本書のカバーには、白く輝くカモメが青い空を飛びます。帯には、「NHK、朝日新聞等で話題、忽ちベストセラー!」「世界で4000万部突破のベストセラー、新生! 完成版」の文字が踊り、「40年ぶりに封印を解かれた最終章を読んで、わたしは胸のつかえが下りた気がした。今こそ、この結末が必要なのだと感じた」という五木氏の言葉が紹介されています。

   本書の帯の裏

 また帯の裏には、「刊行直後から米国のネットで大好評&大共感!」として、「新しく加えられた最終章はすごくクールで、僕の思考を刺激する」「この40年で何度読み返しただろう。今度は子供たちにも読ませよう」「人生や日常に疑問を感じていない人こそ、読むべきだ」「あなたが何歳であろうと関係なく、意志さえあれば、この本は可能性を広げてくれる」との読者の言葉が紹介されています。五木寛之氏は、氏の写真とともに「リチャード・バックは、この最終章を書きたくて、『かもめのジョナサン』を創ったのだな、と納得するところがあった」と述べています。

 さらにカバーの前そでには、以下のように書かれています。

 「1970年に発表されてから、しばらくはまるで反響がなかったが、数年後から爆発的に読まれ始めた伝説の作品『かもめのジョナサン』。飛ぶことの歓びを追求したために、仲間から追放された一羽のカモメが、やがて・・・・・・というこの物語は、全世界で4000万部以上、日本でも260万部を超える大ベストセラーとなった。
 長い歳月ののち、著者R・バックが自家用飛行機の事故で九死に一生を得たことをきっかけに、新たな最終章が加えられ、「完成版」が刊行された。そのPart Fourは驚愕の内容を持つが、断固として未来を語り、”自由を求めよ!”と我々を深く励ます」

 1970年に『かもめのジョナサン』がアメリカで出版されたときは、当時のヒッピー文化とあいまって、口コミで話題となり、大ヒットしました。アメリカの出版史上最大の発行部数を示した『風と共に去りぬ』を軽く抜いて1500万部、日本でも120万部の大ベストセラーになっています。73年には映画化もされ、こちらもヒットしました。主題歌をニール・ダイヤモンドが歌っています。

 この物語は、いわゆる寓話とされています。同じ寓話としてよく比較されるのが『星の王子さま』です。たしかに、謎めいた寓話である2冊は似ているようにも思えます。しかし、『かもめのジョナサン』を創訳したという五木寛之氏は、1974年版あとがき「ひとつの謎として―『かもめのジョナサン』をめぐる感想―」で以下のように書いています。

 「現代の『星の王子さま』みたいな本だと人づてに聞かされて、手に取ってみると、かなりこれは違った種類の本だった。たしかにサン=テグジュペリも、『かもめのジョナサン』の作者のリチャード・バックも、プロの飛行機乗りで、いわゆる作家らしくない作家とはいえる。『星の王子さま』と『かもめのジョナサン』とが、寓話のかたちをとった作品であることも似ているといえばそうだ。しかし、両者の間にはどこか異質のものがあって、その違った部分を掘り下げて分析して行けば、かなり厄介な仕事になるだろうという気がしないでもない」
 かつて『涙は世界で一番小さな海』(三五館)で、『星の王子さま』について大いに述べたわたしとしては、五木氏の言う「かなり厄介な仕事」に挑戦したい気もしますが、もちろん、自分にはそんな時間はありません。(涙)

 『星の王子さま』は、『聖書』や『資本論』に次いで人類に広く読まれた大ベストセラーでもす。この物語には、ブッダ・孔子・ソクラテス・イエスのいわゆる「四大聖人」の思想のエッセンスが詰まっているというのがわたしの考えです。四大聖人共通の思想を簡単に表現すれば、まず「水を大切にすること」、次が「思いやりを大切にすること」だと思います。「思いやり」というのは、他者に心をかけること、つまり、キリスト教の「隣人愛」であり、仏教の「慈悲」であり、儒教の「仁」ですね。

 「花には水を、妻には愛を」というコピーがありましたが、水と愛の本質は同じではないかと、わたしは『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)などに書きました。『星の王子さま』には、「水は、心にもいいのかもしれないね」という王子さまの言葉が登場します。この本は、偉大な人類の教師たちの教えを凝縮したような、ものすごい本だったのです。
 そして、『かもめのジョナサン』という物語は、まさに偉大な教師=聖人についての物語であると言えます。この物語の中でジョナサンは弟子のカモメたちから神格化されます。それが次第に「教えの形骸化」へとつながっていくさまは、聖人は肯定しても教団は否定しているという見方もできるでしょう。実際、多くの人々がジョナサンにさまざまな聖人を重ね合わせたようです。

 新たに発表された部分を読んで、五木氏は法然を連想されたそうで、完成版あとがき「ゾーンからのメッセージ」で次のように述べています。

 「法然は、12世紀から13世紀にかけて、専修念仏を広めた僧である。日本における聖フランチェスコのような存在といってもいいだろう。親鸞は終生の師として、法然を仰いだ。世にいう悪人正機の思想は、この法然から親鸞に受けつがれ、深められていく。(中略)しかし、法然の死とともに、その偶像化がはじまる。死せる法然は、生ける仏として崇拝されることになる。残された人びとは法然が自然に老衰死したことを認めようとはせずに、その死に特別な奇瑞を加え、伝説をつくろうとする。盛大な法会がいとなまれ、やがて偶像化がすすんでいく」

 五木氏はジョナサンに浄土宗の祖である法然の姿を重ねましたが、多くの人はこの物語に禅の香りを嗅いだようです。ということは、ジョナサンは道元や栄西でしょうか。それとも、達磨? さらに遡って、仏教の開祖であるブッダその人と見ることもできるかもしれません。また、多くのアメリカ人たちは当然のようにジョナサンをイエス・キリストのメタファーだととらえました。たしかに、ジョナサンはブッダのようでもあり、イエスのようでもあります。また多くの弟子を従えて教えたところは孔子も連想させます。

 しかしながら、わたしはジョナサンはブッダでもイエスでも孔子でもないと思いました。ならば、誰か。わたしは、ずばり、ソクラテスであると思います。ジョナサンは餌を食べません。「あんたったら、まるで骨と羽根だけじゃないの」と言う母親に対して「骨と羽根だけだって平気だよ、かあさん。ぼくは自分が空でやれることはなにか、やれない事はなにかってことを知りたいだけなんだ。ただそれだけのことさ」と語ります。
 カモメが飛行するのは食べるためです。しかし、ジョナサンは腹の足しにもならない空中滑走に夢中になります。古代ギリシャの哲人ソクラテスは、「生きる」ではなく「よりよく生きる」ことを選びました。「痩せたソクラテス」であるジョナサンも、「飛ぶ」ではなく「よりよく飛ぶ」ことを選んだのです。

 もっとも飛行の神髄を体得したジョナサンは、限りなくスピリチュアルな世界に近づきます。老師チャンは、若きジョナサンに次のように言います。

 「よいか、ジョナサン、お前が真に完全なるスピードに達しえた時には、お前はまさに天国にとどこうとしておるのだ。そして完全なるスピードというものは、時速千キロで飛ぶことでも、百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。なぜかといえば、どんなに数字が大きくなってもそこには限りがあるからだ。だが、完全なるものは、限界をもたぬ。完全なるスピードとは、よいか、それはすなわち、則そこに在る、ということなのだ」

 ジョナサンの飛行は、空間も時間を超越するようになります。そんなジョナサンの飛び方に憧れたカモメたちの間にはジョナサン教が生まれます。五木氏は「ゾーンからのメッセージ」に次のように書いています。

 「いつの頃からかスポーツやビジネスの世界で、『ゾーン』とか『フロー』とかいわれる奇蹟的な時間体験が語られるようになってきた。その時間に遭遇すると、あらゆるエゴやこだわりが消え、真の自由が訪れる。個人の技倆を超えて、自然に滑らかにすべての物事が進行するというのである。私はまだ体験したことがないが、そういった現象が確かにあるのかもしれない、と思うときがある。念仏するなかで、人が光を感じたとしても少しも不思議ではない。しかし、親鸞はきびしく神秘化を否定した。ゾーンは1つのことに歓びをもって純粋に没入できたときの結果であって、目的ではないような気がするのだが、どうだろうか」

 「1つのことに歓びをもって純粋に没入できたとき」といえば、わたしにとっては読書や執筆の時間がそれに当たります。ネタバレにならないように注意して書けば、最後に時空を超えたジョナサンが出現します。わたしも『論語』を熟読しているようなとき、ふいに孔子が目の前に現れたような錯覚にとらわれることがあります。キリスト教徒ならば『聖書』を読んでいるときにイエスが、哲学の徒ならば哲学書を読み耽っているときにソクラテスが時空を超えて立ち現れるという気がすることがあるはずです。

 ということは、この物語における「飛ぶ」というのは「読む」、さらには「学ぶ」ということのメタファーのように思えます。そして、読書の先には執筆があります。「書く」という行為は、わたしにとって「読む」の先にある場所に到達しうる飛び方なのかもしれません。いつか、わたしも『かもめのジョナサン』や『星の王子さま』のような寓話を書いてみたいものです。

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