No.0518 児童書・絵本 | 幸福・ハートフル | 死生観 『星の王子さま』 サン=テグジュぺリ著、河野万里子訳(新潮文庫)

2011.12.22

 『星の王子さま』サン=テグジュぺリ著、河野万里子訳(新潮文庫)を再読しました。

 わたしは、かつて『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という本を書きました。
 そこで、『人魚姫』『マッチ売りの少女』『青い鳥』『銀河鉄道の夜』『星の王子さま』の5つの物語は、実は1つにつながっていたと述べました。

 『星の王子さま』は、世界中の人々から愛されるファンタジーです。日本人の多くは子ども向けの本だと思っていますが、本当は大人のためのメッセージ・ブックです。
 じつにさまざまなシンボルやメタファーに満ちており、子どもにはちょっとわかりにくいのではないでしょうか。わたしも、小学校3年生ぐらいで初めて読んだように記憶していますが、何か不思議な話だなとは思いつつも、この物語のメッセージをほとんど読み取ることができませんでした。

 作者のサン=テグジュペリは1900年6月29日に生まれ、1944年7月31日に亡くなりました。44歳の生涯でした。ほぼ同時代人である日本の宮沢賢治は37歳で亡くなっていますから、賢治よりは長生きしたものの、やはり短い人生であったことに変わりはありません。夭折はたしかに人を神格化しますが、彼の名前が今でも不滅の輝きを放っているのは「若死に」のせいなどではありません。彼が残したメッセージが広く人類全体の心に響いたからです。

 フランスの伝統ある貴族の家系に生まれたがゆえに名前に「Saunt(サン)」が冠されましたが、英語ではそれは「聖」を意味します。1940年、彼の友人だったチャールズ・リンドバーグの息子が母親に「この人、フランスの聖人なの?」とたずねたそうです。その前年にサン=テグジュペリと知り合ってすっかり彼に心酔していたリンドバーグ夫人は、「そうね、ある意味ではね」と笑いながら答えたそうです。しかし、それから3年後に書かれた『星の王子さま』によって、彼は本当に20世紀の聖人となったのでした。

 サン=テグジュペリが死の直前に書いた『星の王子さま』は世界中の言語に翻訳され、信じられないほど多くの人々に読まれました。
 なんと、『聖書』や『資本論』に次いで人類に広く読まれた大ベストセラーであり、ロングセラーでもあります。これにイスラム教の啓典である『コーラン』を加えた4冊を、わたしは「世界の四大ベストセラー」と呼んでいます。

 『星の王子さま』とは、それほどすごい本なのです。何度も繰り返しキリスト教徒は『聖書』を読み、イスラム教徒は『コーラン』を読みます。マルクス主義者に関わらず、社会や経済や哲学に関心のある人は『資本論』を何度も読むでしょう。
 そして、それらの本は読むたびに新しい発見を与えてくれるといいます。優れた文学作品もまた同じ性格をもちます。ファンタジーの名作である『星の王子さま』は、まさにそんな何度も繰り返し読むべき本なのです。

 ある日、サハラ砂漠に飛行機で不時着した「ぼく」が出会った不思議な男の子。
 それは、小さな小さな自分の星を後にして、いくつもの星をめぐってきた「星の王子さま」でした。7番目の星である地球にたどり着いた王子さまは、「ほんとうのこと」しか知りたがりませんでした。質問ばかりを繰り返す王子さまと「ぼく」の交流は、初めおかしくやがて哀しいといった常套句そのままに、次第に哀切感を増してゆきます。この哀切感が作品の執筆背景と関わっていることは有名です。

 当時、作者サン=テグジュペリの母国フランスはナチス・ドイツの占領下にありました。彼は亡命先の空軍パイロットとして戦争に参加する立場だったのです。『星の王子さま』は、故国に残してきたユダヤ人の親友レオン・ウェルトの身を案じる思いから、彼を励ます目的で書かれたとされています。

 この物語をよく読むと、当時の国際情勢のメタファーが随所に描かれています。たとえば、冒頭に出てくる有名な絵は、誰もが「帽子」と思います。
 しかし、本当はゾウを飲み込んだウワバミです。
 「ぼく」は、6歳のときに『ほんとうにあった話』という本で、1匹の獣を飲み込もうとしているウワバミの絵を見たことがあったのです。その本には、このように書かれていました。

 「ウワバミというものは、そのえじきをかまずに、まるごと、ペロリとのみこむ。すると、もう動けなくなって、半年のあいだ、ねむっているが、そのあいだに、のみこんだけものが、腹のなかでこなれるのである」

 この半年という期間については、塚崎幹夫氏が『星の王子さまの世界』(中公新書)で興味深い分析をしています。すなわち、

1937年7月7日・・・日本、中国侵略戦争を開始
1938年3月10日・・・ドイツ、オーストリアを侵略併合
1938年9月29日・・・ミュンヘン協定。ドイツ、チェコからズデーテン地方略取
1939年3月15日・・・ドイツ、チェコを解体して、ボヘミア、モラビアを併合
1939年4月7日・・イタリア、アルバニアを占領
1940年4月9日・・・ドイツ、デンマークおよびノルウェーに侵入

 このように、ドイツを中心とした軍事行動がほぼ半年周期で起こっているというのです。ウワバミとは、ナチスドイツのことだったのです。
 では、ゾウとは何か。仏教やヒンドウー教の世界では、ゾウは神であり、または神の乗り物です。または「地球」のシンボルでもあります。ウワバミは、地球そのものであるゾウを丸ごと飲み込もうとしているのです。これは、世界征服をめざすナチスドイツの野望を表わしているのです。

 それから、『星の王子さま』には3本のバオバブという木が登場します。この木は、人間の「欲」や「得」とかいった悪い感情を象徴しています。サン=テグジュペリの祖国フランスでは、バオバブもウワバミも偶然ながら「ボワ」と発音するのですが、それが意味する内容も同じでした。3本のバオバブは、ドイツ、イタリア、日本のことなのです。塚崎氏の見方を受けて、童話作家の吉田浩氏は、『「星の王子さま」の謎が解けた』(二見書房)において述べます。

 「イタリアで芽吹いた〈ファシズム〉という独裁主義は、世界各国に広がり、他国を侵略して領土を広げたいと思っていた日本の<帝国主義>と結びつきました。そして、独裁主義のドイツ〈ナチズム〉が、イタリアと日本と組んで三国同盟を作りました。バオバブの芽はイタリアから飛んできたのです。ヨーロッパの国々は、バオバブの芽を摘みとらずに放っておいたため、成長してしまったのです。サン=テグジュペリは、3つのバオバブの芽を摘みとりたかったのです。〈ヒツジ〉に食べさせたかったのです」

 ヒツジとは<従順な市民>を表わします。「小さいバオバブの木はヒツジが食べてくれる」という一文が出てきますが、これには独裁者の登場を許さない民主主義への大きな期待が込められているようです。このようにサン=テグジュペリは、徹底してナチスドイツとその同名国を批判したのでした。吉田氏は、「『星の王子さま』は表向きは、子ども向けのファンタジーですが、その背後に脈々と流れる思想は、政治批判、軍事批判、人間批判だったのです」と述べています。

 しかし、サン=テグジュペリの思想は単なる批判精神を超えて、はるか宇宙的視点とでも呼ぶべき巨大なスケールをもっていました。それは、彼が飛行機の操縦士であった事実と関係しています。身の危険を冒して飛行機の操縦桿を握り、大空から地球と人間を観察する。そして、それを文学にする。これまで誰もできなかったことでした。
 これまでの多くの思想家たちが頭で考えていたことを体全体で感じ、思考した人物こそ、サン=テグジュペリだったのです。

 彼は、飛行という極限状態にあって、どこまでも自由な思考を得ました。山本武信氏は、著書『星の王子さまからの警鐘』(共同通信社)に次のように書いています。

 「枠を破ったとき、飛躍がある。大空へ飛翔するという物理的な行為によって、思想の営みは根本的に変わることになった。地上から天上を見上げて創造主を夢想していた時代は遠ざかり、天上から地球を見下ろし、人間の営みを全体として見つめる時代が始まった。大地から肉体が離れることにより、思想そのものが大地の束縛から離陸し、飛行し始めた」

 飛行というのは一種の臨死体験であると、わたしは思います。飛行機とは肉体から飛び立つ幽体そのものであり、天上から見下ろす地球とは幽体離脱後の肉体なのです。
 ましてや現在でこそ飛行機はそれほど墜落しなくなりましたが、サン=テグジュペリが乗っていた初期の飛行機は墜落をはじめとした事故が日常茶飯事でした。事実、サンテックス自身も何度も飛行機事故で死にかけていますし、その最後も敵軍のパイロットによる撃墜死でした。いつ死んでもおかしくない飛行機とは「死」のシンボルであったといっても過言ではないでしょう。ですから無事に地上に着陸したときは、離脱した幽体が肉体に戻ることができたような深い安堵感があったのではないでしょうか。そして、多くの臨死体験者が蘇生後に人類愛のような普遍的な感情を得るのと同じようなメカ二ズムがサン=テグジュペリの心に働いたのかもしれません。

 もっとも、飛行機に乗ったのはサン=テグジュペリが初めてではありません。彼の前には、かのライト兄弟やリンドバーグもいました。
 しかし残念ながら、ライト兄弟には文才がありませんでした。リンドバーグには『翼よ、あれがパリの灯だ!』という有名な著書がありますが、あくまでもノンフィクションの古典とされる手記の類であり、サン=テグジュペリのように飛行体験を文学体験、あるいは哲学的思考にまで高めたわけではなかったのです。山本氏は述べます。

 「もちろん、古代中国の『荘子』のように豊かな想像力によって地上の束縛を脱ぎ捨て、大空に飛翔した物語はいくらでもある。しかし、実際に空に飛び立って新たな世界像を提示したのはサン=テグジュペリが人類史上初めてである」

 大空から見た大地には、当然のことながら国境などは存在しません。国家も民族も言語も宗教も超えた「地球」、そしてそこに住む「人類」をサン=テグジュペリは天上から見てしまったのです。

 サン=テグジュペリは、後の宇宙飛行士たちが得た宇宙的視点というものを20世紀の初頭に獲得していたのです。しかも、メーテルリンクや賢治はおそらく幽体離脱という神秘的方法によって宇宙的視点を得ましたが、サン=テグジュペリは飛行機によって幽体離脱のテクノロジー化に成功したのです。このことは、人類の意識の歴史というものを考えたとき、非常に重大な意味をもつと思います。

『星の王子さま』に戻りましょう。
 この物語は、日本の宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と同じく、さまざまなシンボルに彩られた星をめぐる物語です。また、メーテルリンクの『青い鳥』も同じく、子どもがいろんな世界をさまよった末に家に戻って幸福を見出す物語です。
 ファンタジーの糸でつながれたメーテルリンクとサン=テグジュペリには、現実の世界でも不思議な縁がありました。サン=テグジュペリと結婚したコンスエロにはゴメス・カリヨという前夫がいましたが、その最大の親友がモーリス・メーテルリンクだったのです。
 ゴメス・カリヨは事故死し、メーテルリンクは親友の未亡人であるコンスエロの相談相手となりました。そして、メーテルリンクは彼女の新しい恋人が書いた『夜間飛行』を大絶賛し、サン=テグジュペリは作家として認められたのでした。

 サン=テグジュペリは、メーテルリンクのおかげで彼女と晴れて結婚できるはこびとなったわけです。バラのエピソードをはじめ、『星の王子さま』の内容が彼女との結婚生活を抜きには成り立たない事実を考えると、興味深いものがあります。
 すなわち、コンスエロと結婚することによって、サン=テグジュペリは『星の王子さま』を書くように運命づけられていたのです。『青い鳥』の著者が、この世に『星の王子さま』が誕生する用意をしたのです。当然ながら、愛する妻の相談相手であり結婚の恩人でもあるメーテルリンクの『青い鳥』をサン=テグジュペリは読んでいたはずです。そして、その内容が『星の王子さま』に影響を与えたことは明らかだといえるでしょう。

 サン=テグジュペリがある紙面で「飛行士としての名声、特に不時着事故を文学に利用している」との批判を受けたとき、友人のレオン・ウェルトは、「彼にとっての飛行機とは、空間の秘密・人間の秘密を発見するための道具であり、偉大な夢をはぐくむ道具なのだ」と反論し、全面的にサン=テグジュペリを擁護しました。そのことがあってからサン=テグジュペリは自分の文学の最高の理解者はウェルトであることを知り、『星の王子さま』での献辞につながったとされています。

 現在とは違って、当時のパイロットは死ぬ確率が非常に高く、危険な仕事として嫌われていました。しかしサン=テグジュペリは、けっしてパイロットという仕事を軽く見てはいませんでした。それどころか子どもの頃から憧れ続けた仕事であり、心からの誇りをもっていました。郵便物を配達する路線飛行士となったとき、彼は「どんなことがあっても郵便物を無事に運び、けっして時間に遅れないこと」をモットーとしました。あらゆる職業には意味があるのです。この考えは、『星の王子さま』に出てくる点灯夫のエピソードにつながると思います。

 王子さまは、自分の星を出てから6つの星を旅しました。
 訪ねた星を順番に並べると、王さまの星、うぬぼれ男の星、呑み助の星、実業家の星、点灯夫の星、そして最後に地理学者の星でした。これら6つの星の住人たちは基本的にナルシストで他人のことなど気にせず、自分自身に酔っています。
 王子さまは彼らと友だちにはなりたくないなと思いますが、1人だけ例外がいました。夜と昼のめまぐるしい交代に合わせて休み泣く街頭の灯を点けたり消したりする点灯夫です。『星の王子さま』には、こう書かれています。

 「点灯夫が街灯に灯をともすとき、それはまるで彼が新しい星や一輪の花を誕生させたかのようです。彼が街灯の灯を消すときに、その花も星も眠ります。これはとても素敵な仕事です。素敵だから本当に役に立つのです」

 わたしはこの言葉が大好きでよく社員にも話します。わが社は接客サービス業ですが、お客さまに接する現場のスタッフも、総務や経理などの現場を裏でサポートするスタッフも、ともに本当に役に立つ素敵な仕事をしているのだということを説明します。王子さまも、役に立つ素敵な仕事をしているから点灯夫に好意を抱き、友だちになってもよいと思ったのです。

 でも、この点灯夫のエピソードには注意点もあります。
 もともと彼の仕事は役に立つ素敵な仕事だったのですが、仕事を自分の中で義務化してしまい、自分で自分をどんどん忙しくしていきました。
 そして、ついには、意味もなくめまぐるしく灯りを点けたり消したりするようになってしまいました。彼は自分を見失ってしまったのです。点灯という仕事からは意味が失われ、単なる目的と化してしまったのです。わたしたちの周囲にも、しなくてもよい仕事や意味のない仕事に取り組んで勝手に忙しがっている人はいないでしょうか。
 また、点灯夫は労働者のシンボルですが、完全に管理された存在であり、自ら考える暇を与えられずベルトコンベアー式の労働に従事させられているという見方もできます。
 これは、チャールズ・チャップリンが「モダン・タイムス」で人間を疎外する機械文明を批判したことに通じます。チャップリンは、ヒトラーを批判する「独裁者」という映画も作っていますが、これもウワバミやバオバブでナチスやヒトラーを風刺したサン=テグジュペリの精神と共通します。

 わたしは、ヒトラーこそは20世紀最大の魔人であり、彼の魔術とは「呪い」としての黒魔術だったと思っています。その黒魔術の蔓延を防ぐために多くの白魔術師たちが登場しました。それが、サン=テグジュペリであり、チャップリンであり、シュタイナーであり、経営学者のドラッカーなどでした。彼らはいずれもナチスを批判し、「呪い」を打ち消す「祈り」「癒し」「笑い」「信頼」などの白い魔術を駆使し、人類社会を善き方向へ導きました。

 その中でも、特にサン=テグジュペリとチャップリンは大物でした。面白いことに2人ともアメリカでは冷遇されました。世界的ベストセラーである『星の王子さま』もアメリカでは最初、黙殺されています。
 なぜなら、点灯夫はもとより実業家を風刺する描写がアメリカに象徴される大衆資本主義そのものへの批判であると受け取られたからです。 チャップリンもアメリカから追放されるという経験をしています。

 さて、王子さまの星には、1本の美しいバラがありました。王子さまはそのバラを、この世界で1本しかない珍しい花だと信じていました。
 しかし、地球で同じバラの花が5000本も咲いているのを見て、ショックを受けます。王子さまが珍しいと思っていたバラは、地球ではありふれた花だったのです。王子さまは、最初は自分の星のバラをつまらない花と思い、そんなつまらないものを大切にしていた自分に自己嫌悪さえ抱きます。
 でも、その考えが間違っていたことにやがて気づきます。
 王子さまのバラは、やはりたった1本のかけがえのない花だったのです。なぜなら、それは王子さまが面倒を見たバラだったからです。唯一、王子さまだけが面倒を見て、心を寄せた花だったからです。そして、そのバラの存在によって、王子さまもこの世で「唯一の存在」であり「かけがえのない存在」になれるのです。王子さまも、バラも、両者の絆によって互いに、この上なく価値を帯びてくるのです。

 重要なのは数の多さではありません。5000本のバラより、王子さまにとって大切なのは絆のある1本のバラです。会社の経営者も同じです。たとえ数万人単位で従業員の数が増えたとしても、その1人ひとりとは絆がなければならない。そして、できれば、その1人ひとりの名前、顔、人格を心に刻んでいなければならない。青臭い意見だといわれることを承知で、わたしはそう思います。

 もちろん人数にもよるでしょうが、できうるかぎり経営者は自分の従業員、上司は自分の部下の名前と顔をおぼえているべきだと思います。わが社には1500名近い社員がいますが、わたしは今のところ、彼らの名前と顔をおぼえています。そして、その全員の誕生日に直筆のバースデーカードとプレゼントを贈っています。この地球上に何十億人の人々がいようとも、やはり社員のみなさんはかけがえのないバラの花なのです。

 さて、職業の話の続きをしたいと思います。
 『星の王子さま』の全体に流れるメインテーマは「かんじんなことは目には見えない」です。わたしは、いま、これをサービス業に携わる者の心得として、いつも社員に話しています。自分たちの仕事は、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といった目に見えない大切なものを扱う素敵な仕事なのだと語りかけます。
 『星の王子さま』に登場するわがままなバラのモデルはコンスエロだというのが定説です。バラは、この物語においてきわめて重要な役割を果たしています。たった1人で小さな星に暮らしていた王子さまの幸せな生活を邪魔する存在がバラの花でした。
 バラは無邪気なのですが、わがままで、ウソつきで、依存的で、無秩序な存在で、自分の要求だけを突きつけるのです。一緒にいるとお互いに傷つけ合うと思った王子さまは、自分の星から飛び出してしまいます。
 さまざまな星をめぐった王子さまは、地球でバラの花を見て、泣き出してしまいます。
 あんなにも自分が大切に育て、あんなにも自分を困らせたバラは、5000本の中のたった1本でしかなかったのです。このとき、王子さまは生まれてはじめての大きな喪失感を覚えました。自分は、この広い宇宙の中でなんと小さな、なんと意味のない存在であるかということを思い知るのです。でも、王子さまが面倒を見たたった1本のバラの花があることによって、王子さまは「意味のある存在」になります。
 自分とバラの花はお互いに強い絆で結びついた「唯一の存在」であることに気づいた王子さまは、再び、5000本のバラの花を見に行きます。そして、「あの1輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりもたいせつなんだ」と語るのです。

 砂漠で会ったキツネから「めんどうみた相手には、いつまでも責任があるんだ。まもらなきゃならないんだよ、バラとの約束をね・・・」ということを教わった王子さまは、自分だけの1輪のバラが待つ小さな星へ還っていきます。
 王子さまにとっての1本の守るべきバラとは何でしょうか。それは、フランスに残してきた妻のコンスエロだというのが定説ではありますが、他にもニューヨークにいた不倫関係の恋人であるとか、故国フランスそのものであるとか、いろいろな説があります。でも、わたしは、きっと彼にとってのバラとは、妻であり、恋人であり、故国でもあったのだと思います。バラは、すべての「かけがえのない大切なもの」のシンボルなのだと思います。バラの花の存在によって、王子さまは愛を知り、愛したものに対する責任を学びます。
 気まぐれにペットを捨てるばかりか、わが子さえ捨てる人もいる昨今、王子さまのメッセージはわたしたちの心に突き刺さります。
 親ならば子に対して、夫ならば妻に対して、経営者ならば社員に対して、教師ならば生徒に対して、わたしたちは愛と責任を持たなければならないのです。
 職場でのコミュニケーションがうまくいかずに悩んでいる人もいるでしょう。
 離婚を考えている人もいるでしょう。親の介護をしている人もいるでしょう。
 わたしたちは、すべてつながっているのです。
 わたしたち人間は一人では生きていけません。
 重要なのは「人間」ではなく、「人間関係」なのです。
 サン=テグジュペリは、名著『人間の土地』に次のように書いています。

 「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ」

 パイロットだった彼はサハラ砂漠に墜落し、水もない状態で何日も砂漠をさまようという極限状態を経験しています。そこから、水が生命の源であることを悟り、『星の王子さま』に「水は心にもいいものかもしれないな」という名言を登場させたのです。

 わたしは、『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という本を書きましたが、その本で、ブッダ、孔子、老子、ソクラテス、モーセ、イエス、ムハンマド、聖徳太子といった偉大な聖人たちを「人類の教師たち」と名づけました。彼らの生涯や教えを紹介するとともに、8人の共通思想のようなものを示しました。
 その最大のものは「水を大切にすること」、次が「思いやりを大切にすること」でした。「思いやり」というのは、他者に心をかけること、つまり、キリスト教の「愛」であり、仏教の「慈悲」であり、儒教の「仁」です。そして、「花には水を、妻には愛を」というコピーがありましたが、水と愛の本質は同じではないかと、わたしは書きました。
 まさに『星の王子さま』に出てくるバラのエピソードは「花には愛を」であり、水と愛が同じであるということを証明しているのです。

 また『星の王子さま』には、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」という王子さまのセリフが出てきます。心の奥底に「思いやり」という水にあふれた井戸をもつ人は美しいのです。
 もっと深読みをするならば、王子さまが降り立ったサハラ砂漠の地下1000メートルには、太古に形成された巨大な帯水層が存在するといわれているそうです。
 砂漠に封印されたこの「水の化石」の面積は、じつに50万平方キロメートルにもおよぶとか。もしかすると、サン=テグジュペリはこのサハラが隠している太古の水のことを知っていて、王子さまに謎めいたセリフをはかせたのかもしれません。
 そして井戸といえば、サン=テグジュペリの祖国フランスでは、きわめて重要な役割をもっていました。そこは社会的な交流の場であるとともに、巡礼者がのどの渇きを癒しに訪れる場所でした。さらには、結婚の宣誓を行う聖別された場所でもあったそうです。
 つまり、人と人とが結びつく人間関係の聖地、それが井戸だったわけです。

 最後に、『星の王子さま』のラストシーンについて見てみたいと思います。地球上での王子さまの最後をサン=テグジュペリは次のように描写しています。

 「王子さまの足首のそばには、黄いろい光が、キラッと光っただけでした。王子さまは、ちょっとのあいだ身動きもしないでいました。声ひとつ、たてませんでした。そして、一本の木が倒れでもするように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした。あたりが、砂だったものですから」

 この美しい王子の最期について、出版社はとても反対したそうです。アメリカの出版社だったことも関係があったかもしれませんが、読者は救いのない悲劇よりもハッピーエンドを好むものであり、王子を無事に自分の星に帰すようにサン=テグジュペリを説得しました。幼い子どもの死など絶対にタブーだったのです。
 しかし、アンデルセンの熱心な愛読者であったサン=テグジュペリには、すでに『マッチ売りの少女』という幼い少女が死ぬ物語が存在することを知っていました。
 また、『星の王子さま』に直接のインスピレーションを与えた『人魚姫』も最後は命を失いますが、天国で永遠の命を得る物語でした。サン=テグジュペリは断固として、王子さまを死なせないようにという出版社側の要求を拒否しました。

 王子さまは自分の星に帰るため、最後は毒蛇にわが身を咬ませて昇天します。蛇は『旧約聖書』の「創世記」にも登場してアダムとイブを誘惑する存在であり、ナチスを象徴するウワバミでもあります。いずれにしても、王子の最期は自ら悠然と毒を飲んだソクラテスの死、さらには十字架上のイエスの死をも連想させます。
 そう、多くの人々にとって王子さまとは幼い聖人であり、『星の王子さま』とはその言動を記録した福音書であったといえるでしょう。塚崎幹夫氏は、著書『星の王子さまの世界』で王子の死について述べています。

 「王子の死そのものはあっという間に終わる。王子はほんとうに死んだのかどうか、確言できないほど瞬時にである。飛行士は体がなかったことを強調し、体を持っていけないといっていた王子のことばを不確かにし、その地上での死を信じていないかのようにひたすら見せかける。飛行士としては当然である」

 サン=テグジュペリは、死のベールの向こうに「王子さまは、自分の星に帰ったのかもしれない」という希望を置いたのです。地上の死はあくまで肉体の死です。そして、天上では肉体を超えた永遠の命へとつながる道が開けています。
 そして、大切な人が亡くなっても、その人を思い出すたびにまた会える。この『青い鳥』にも見られるモチーフを込めたことによって、『星の王子さま』は深みのある物語となりました。

 ラストシーンでやさしく鳴り響く鈴の音も、この上なく物語に深みを与えています。鈴は仏教の無常観を表わしているのかもしれません。『星の王子さま』の最後には、王子さまがこの地球上に姿を見せ、また姿を消した砂漠の風景を描いた絵が紹介されています。「ぼく」にとって、「この世の中で一ばん美しくって、一ばんかなしい景色」だそうです。そして、この美しくも悲しい物語は、次のような一文で終わっています。

 「もし、あなたがたが、いつかアフリカの砂漠を旅行なさるようなことがあったら、すぐ、ここだな、とわかるように、この景色をよく見ておいてください。そして、もし、このところを、お通りになるようでしたら、おねがいですから、おいそぎにならないでください。そして、この星が、ちょうど、あなたの頭の上にくるときを、おまちください。そのとき、子どもが、あなたがたのそばにきて、笑って、金色の髪をしていて、なにをきいても、だまりこくっているようでしたら、あなたがたは、ああ、この人だな、と、たしかにお察しがつくでしょう。そうしたら、どうぞ、こんなかなしみにしずんでいるぼくをなぐさめてください。王子さまがもどってきた、と、一刻も早く手紙をかいてください・・・」

 王子さまはイエス・キリストのように復活するのかもしれません。
 それとも、鈴の音とともに生まれ変わってくるのかもしれません。いずれにしても、『星の王子さま』のラストは、王子さまとの再会への期待にあふれています。
 これまで、人類は大切な人の死を受けとめるために、さまざまなファンタジーを生み出してきました。「天国」も「復活」も「生まれ変わり」も「千の風」もみんなそうです。そして、それらのファンタジーに再開への希望を託してきました。

 考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
 これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
 でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。

 ファンタジーの世界にアンデルセンは初めて「死」を持ち込みました。
 メーテルリンクや賢治は「死後」を持ち込みました。
 そして、サン=テグジュペリは死後の「再会」を持ち込んだのです。

 一度、関係をもち、つながった人間同士は、たとえ死が2人を分かつことがあろうとも、必ず再会できるのだという希望が、そして祈りが、この物語には込められています。
 わたしたちは、大切な人との再会の日までこの砂漠のような社会で生きてゆかなくてはなりません。砂漠とは、心なき社会、ハートレス・ソサエティのことなのです。ならば、砂漠に水をやり、きれいなバラを咲かせて、心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティをつくろうではありませんか。

 水がなくても心配しなくて大丈夫です。砂漠には、必ず井戸が隠されています。思いやりという水をふんだんにたたえた井戸が隠されています。つまり、わたしたちの社会は心なき社会のように見えるけれども、必ず心ある人々が存在しているのです。思いやりの井戸、心ある人々がどうしても見つけられないときは、どうか自分で水をつくることができることを思い出してください。
 そうです、涙を流すのです。悲しいとき、寂しいとき、辛いとき、他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底からの喜びを感じたとき、大いに涙を流してください。アンデルセンがいったように涙は「世界で一番小さな海」なのです。わたしたちは、小さな海をつくることができるのです。
 そして、その小さな海は大きな海につながって、人類の心も深海でつながります。たとえ人類が、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは深海において混ざり合うのです。
 まさに、その深海からアンデルセンの人魚姫はやって来ました。
 人類の心の最も深いところから人魚姫はやって来ました。彼女は、人間の王子と結ばれたいと願いますが、その願いはかなわず、水の泡となって消えます。 
 孤独な人魚姫のイメージは、星の王子さまへと変わっていきました。王子さまは、いろんな星をめぐりましたが、誰とも友だちになることはできませんでした。
 でも、本当は王子さまは友だちがほしかったのです。
 7番目にやって来た地球で出会った「ぼく」と友だちになりたかったのです。
 星の王子さまとは何か。それは、異星人です。人間ではありません。人魚も人間ではありません。人間ではない彼らは一生懸命に人間と交わり、分かり合おうとしたのです。
 人間との間に豊かな関係を築こうとしたのです。
 それなのに、人間が人間と仲良くできなくてどうするのか。戦争などして、どうするのか。殺し合って、どうするのか。わたしは、心からそう思います。

 ハートフル・ファンタジー作家たちは「死」や「死後」や「再会」を描いて、わたしたちの心の不安をやさしく溶かしてくれます。それと同時に、生きているときには良い人間関係をつくることの大切さを説いているのではないでしょうか。
 誰かに同情する。誰かに気をくばる。そして、誰かを愛する・・・・・さあ、思いやりによって、人間関係の豊かさという大輪のバラをこの世界に咲かせようではありませんか。

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