No.0018 論語・儒教 『論語』 金谷治訳注(岩波文庫)

2010.03.13

私が40歳になる直前のこと。 不惑の年を迎えるにあたり、何をすべきかといろいろ考えたのです。

「不惑」なる言葉が『論語』に由来することから、『論語』を精読することにしました。

冠婚葬祭を業とする会社の社長になったこともあり、根本思想としての「礼」を学び直したいという考えもありました。

学生時代以来久しぶりに接する『論語』でしたが、一読して目から鱗が落ちる思いがしました。当時の自分が抱えていた、さまざまな問題の答えがすべて書いてあるように思えたのです。

伊藤仁斎は「宇宙第一の書」と呼び、安岡正篤は「最も古くして且つ新しい本」と呼びましたが、本当に『論語』一冊あれば、他の書物は不要とさえ思いました。

そこで、40歳になる誕生日までに『論語』を40回読むことに決めました。それだけ読めば内容は完全に頭に入るので、以後は誕生日が来るごとに再読する。つまり、私が70歳まで生きるなら70回、80歳まで生きるなら80回、『論語』を読んだことになります。

何かの事情で無人島などに行かなくてはならないときには迷わず『論語』を持っていくし、突然何者かに拉致された場合にも備えて、つねにバッグには『論語』の文庫本を入れておく。こうすれば、もう何も怖くない。何も惑わない。 何のことはありません、わたしは「不惑」の出典である『論語』を座右の書とすることで、「不惑」を実際に手に入れたのです。

『論語』には「君子」という言葉が多く登場します。 君子は小人に対して用いられ、初めは地位のある人を意味しましたが、後には有徳の人を指すようになってきました。

孔子ももちろんその用法に従っていますが、重要なことは君子はいわゆる聖人とは異なるということです。現実の社会に多く存在しうる立派な人格者であり、生まれつきのものではない。憲問篇に「君子は上達す」とあるように、努力すれば達しうる境地、それが君子なのです。そこで『論語』において君子という場合には、願望の意が込められていることが多いのです。

君子に関する記述をつなぎあわせていくと、『論語』とは古代中国のマネジメント書でもあったことがわかりました。20世紀のマネジメントの巨人であるピーター・ドラッカーが提唱した時間活用のタイム・マネジメントや、「知」を重視したナレッジ・マネジメントなどの原型を『論語』に見ることができます。

逆に言えば、世界初の経営書とされる『経営者の条件』をはじめとして一連の著書でドラッカーが説き続けた「人間尊重」の経営者像とは、限りなく君子のイメージに重なってくるのです。孔子は古代のドラッカーであり、ドラッカーは現代の孔子であると言えるかもしれません。理想の政治を説いた孔子、理想の経営を説いたドラッカー・・・ともに、社会における人間の幸福を追求したのです。

儒教とか君子とかいうと、堅苦しくストイックな印象があるかもしれませんが、孔子は大いに人生を楽しんだ人だったと思います。

『論語』には「楽しからずや」とか「悦(よろこ)ばしからずや」といったポジティブな言葉が多く発見できます。 仏典や『聖書』には人間の苦しみや悲しみは出てきても、楽しみや喜びなど見当たりません。『論語』にポジティブな言葉が多いのは大いに評価すべき点でしょう。

音楽を愛し、酒を飲み、グルメでファッショナブルだった孔子 そのうえ、2500年後の人間の心をつかんで離さないほど「人の道」を説き続けた孔子。『論語』に出てくる孔子は完全無欠な聖人としてではなく、血の通った生身の人間として描かれているのです。

孔子が人類史上最大の「人間通」とされた秘密もそこにあったように思います。何よりも、孔子は人間らしい人間だったのです。

これからも、わたしは『論語』を何度も読み直して、少しでも「人間通」になりたいです。誕生日が訪れるたびに『論語』を読めば、老いるほど豊かになれる気がします。

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