No.0475 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也著(新潮社)

2011.10.24

 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著(新潮社)を読みました。

 上下2段組で700ページもある大冊ですが、一気に1日で読了しました。一度読み出したら止まらないほど、とてつもなく面白かったのです。いやあ、こんな凄い本、久々に読んだ気がします。タイトルも凄いですが・・・・・本書は、「不世出の柔道家」と呼ばれた木村政彦と、彼を取り巻く多くの格闘家たちの一大人物絵巻というべき大河ノンフィクションです。

 わたしは格闘技やプロレスが大好きで、少年の頃より強い男に憧れて生きてきました。そもそも、”一条真也”というペンネームも、「柔道一直線」の主人公である”一条直也”から取ったぐらいなのです。いや、ほんとに。

 そして、本書のテーマとは、日本の格闘技・プロレスの歴史における最大の謎を解くことです。その謎とは、史上最強の柔道家であった木村政彦が大相撲の関脇上がりのプロレスラー・力道山に真剣勝負で敗れたというものです。

 本書の帯には、「15年不敗、13年連続日本一、天覧試合制覇。」という言葉に続いて、「日本柔道史上『最強』の男が背負った哀しき人生――」というコピーが記されています。また帯の裏には、以下のような内容紹介が書かれています。

 「昭和29年12月、活動の場をプロレスに移した木村政彦と、人気絶頂の力道山との一戦。『昭和の巌流島』と呼ばれ、視聴率100%。全国民注視の中、最強柔道家は、力道山に一方的に潰され、表舞台から姿を消した。『負けたら腹を切る』という、武道家としての矜持を持っていた木村はなぜ、簡単に敗れたのか?戦後日本スポーツ史上、最大の謎とともに木村の数奇な人生に迫る。『ゴング格闘技』大反響連載、待望の書籍化」

 これまで、多くの格闘技・プロレス関係のノンフィクションが出版界を賑わせてきました。 『ライオンの夢~コンデ・コマ=前田光世伝』神山典士著(小学館)、 『力道山の真実』大下英治著(祥伝社文庫)、『大山倍達正伝』小島一志・塚本佳子著、『完本 1976年のアントニオ猪木』柳澤健著(文春文庫)などが話題を呼びました。本書は、それらの作品以上に完成度の高い素晴らしいノンフィクションではないでしょうか。

 同じく伝説の柔道家の生涯を描いた『ライオンの夢』は小学館ノンフィクション賞を受賞していますが、本書にはぜひ大宅壮一ノンフィクション賞を受賞してほしいと思います。実際、過去のどんな大宅賞作品も本書の水準には達していないのではないでしょうか。

 じつに18年の歳月を費やし、あらゆる文献も徹底的に調べ、生存している証言者には片っ端からインタビューを試みています。なにしろ、かのシャープ兄弟が初来日した際の全14試合の内容を詳細に検証しているのです。まさか、これほどの労作だとは!

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

「プロローグ」
第1章:巌流島の朝
第2章:熊本の怪童
第3章:鬼の牛島辰熊
第4章:武徳会と阿部謙四郎
第5章:木村政彦と高専柔道
第6章:拓大予科の高専大会優勝
第7章:全日本選士権3連覇
第8章:師弟悲願の展覧試合制覇
第9章:悪童木村と思想家牛島
第10章:東條英機を暗殺せよ
第11章:終戦、そして戦後闇屋の頃
第12章:武徳会と高専柔道の消滅
第13章:アマ最後の伝説の2試合
第14章:プロ柔道の旗揚げ
第15章:木村、プロ柔道でも王者に
第16章:プロ柔道崩壊の本当の理由
第17章:ハワイへの逃亡
第18章:ブラジルと柔道、そしてブラジリアン柔術
第19章:鬼の木村、ブラジルに立つ
第20章:エリオ・グレイシーの挑戦
第21章:マラカナンスタジアムの戦い
第22章:もう一人の怪物、力道山
第23章:日本のプロレスの夜明け
第24章:大山倍達の虚実
第25章:プロレス団体旗揚げをめぐる攻防
第26章:木村は本当に負け役だったのか
第27章:「真剣勝負なら負けない」
第28章:木村政彦vs力道山
第29章:海外放浪へ
第30章:木村政彦、拓大へ帰る
第31章:復讐の夏
第32章:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
「あとがき」

 木村政彦とは、どれほど強い柔道家だったのか。著者は、次のように述べています。

 「大相撲の歴史で最も強かったのは双葉山か大鵬か、ヘビー級ボクサーならジョー・ルイスかモハメド・アリか、升田幸三と羽生善治が戦ったらどちらが勝つか―。
 こういった、時代を異にする夢の最強論争はファンの間でいつも尽きない。
 柔道界でもさまざまな名前が挙がる。だが、今では多くの人たちからその名前を忘れ去られてしまっているが、柔道史上最強は間違いなく木村政彦であろう。戦前戦中、そして戦後を通じて15年間不敗のまま引退し、『木村の前に木村なく、木村の後に木村なし』と謳われた、世界中のあらゆるスポーツ界を見渡しても類を見ない超人だ」

 木村政彦を兄のように慕い、いつもその試合を生で観戦していた極真空手の大山倍達は、「試合は『木村相手に何分立っていられるか』のタイムを競うだけのものだった。とにかく技が速い。神技だよ。全盛時代の木村先輩には誰もかなわない。ヘーシンクもルスカも3分ももたないと断言できる」と言いました。

 木村政彦と拓大で同期で、死ぬまで親友として付き合い続けた合気道養神館の塩田剛三は、「木村の柔道は技の切れ味が違う。今の柔道のような体力の競い合いではなく、技で投げていた。どんなでかい奴も一発で吹っ飛ばしたよ。山下(泰裕)や斉藤(仁)なんてコロンコロンさ」と言いました。

 「プロローグ」では、いきなり東京・六本木にある全日本プロレスの事務所が舞台として登場します。ジャイアント馬場が、2人の柔道関係者と対峙しているのです。

 1人は、柔道の全日本チャンピオンである岩釣兼生。もう1人は、岩釣の拓大柔道部の先輩である三原康次郎。話の焦点は、岩釣のプロレス転向に関するものでした。

 昭和51年(1976年)夏のことでしたが、当時の全日本プロレスはライバルである新日本プロレスに大きく話題性で負けていました。アントニオ猪木が、柔道王ルスカやプロボクシング世界ヘビー級王者アリなどと戦う一連の「格闘技世界一決定戦」が大変なブームになっていたからです。その巻き返しとして、馬場は柔道日本一の岩釣兼生、そして大相撲関脇の天龍源一郎のプロレス転向を画策していたのです。

 ところが、柔道側が切り出した提案は途方もないものでした。なんと岩釣のデビュー戦はプロレスではなく「セメント」で行い、しかも相手は馬場か猪木に限るというのです。岩釣の後見人でもある三原は、馬場に向かって言います。

 「師匠の木村政彦が力道山に騙し討ちにあった復讐を、弟子の岩釣がやるんだ。プロレスのストーリーとしては商品にしやすいでしょう。岩釣が負ければ木村先生の顔にまた泥を塗ることになる。岩釣が初戦は勝つ――それだけは曲げることはできない」

 結局、会談は物別れに終わり、馬場は天龍獲得を決心します。三原が言った「木村政彦が力道山に騙し討ちにあった」とは、どういうことか。

 それは、木村政彦vs力道山戦は、初戦を引き分けにし、さらにもう1度引き分けを繰り返し、次に力道山が勝ち、そして木村が勝つという計4回が計画されていたにもかかわらず、裏切った力道山が初戦で木村にセメントを仕掛けてKOしたというものです。

 柔道経験者である著者は、ショー的要素のあるプロレスに好意的ではありません。それどころかプロレスに対して怨念にも似た視線を向けつつ、次のように述べます。

 「ショーであろうと八百長であろうといいではないか・・・・・そう言う者もある。だが、それによって踏みにじられる人生がなければの話だ。プロレスは、自らの地位を高めるためにアマチュア格闘家たちの頬を札束で叩き、負け役を強い続けた。柔道界でいえば、アントン・ヘーシンクもウィレム・ルスカも負け役を強いられた。プロレスの問題はそこにある。ある意味で、木村vs力道山戦は、そのいびつな構図のプロトタイプになってしまった。木村は何度も力道山に真剣勝負でのリベンジマッチを言ったが、力道山は裏表双方の政治力と財力をバックにしてそれを受け付けなかった」

 木村vs力道山戦が行われたとき、まだ2局しかなかったとはいえ、共に生放送していたテレビの視聴率は100%であり、全国民注視の中で、木村は無残な姿を晒してしまったのです。当時の木村政彦は37歳。彼は、75歳まで生きます。

 まさに、人生の折り返し点で起きた屈辱の出来事でした。ちなみに、木村がプロレスの世界と関わりを持った最大の原因は、結核に冒された愛妻に高価な特効薬ストレプトマイシンを与えるためでした。妻の治療のためにプロレスをするというのは、猪木の負け役を演じたルスカも同じです。

 柔道の現役時代、木村は柔道を殺し合いのための武道ととらえていました。そして、試合の前夜には必ず短刀の切っ先を腹部にあて、切腹の練習をして試合に臨んだといいます。「負ければ腹を切る」という覚悟こそが木村を「鬼の木村」たらしめたのです。

 男同士の約束を破った力道山をどうしても許すことができなかった木村は、かつて切腹の練習の際に使っていた短刀を手に、力道山を殺そうと付けねらいます。一時は、毎日のように力道山を殺すことを考えたそうです。実際、木村は力道山を刺殺しませんでした。力道山は、一介のチンピラに刺殺されてしまったからです。

 そのことをインタビューした作家の猪瀬直樹氏に、「私が念で力道山を殺したのだ。君も殺してやろうか」という言葉も吐いています。そのことを知っている著者は、大胆にも次のように述べるのです。

 「ここまで苦しみ続けるなら、なぜあのとき力道山を殺さなかったのか。力道山はあの試合の9年後、38歳でヤクザに刺殺されるというはっきりとしたカタストロフィーを迎えたが、一方の木村はあの一戦以来、人生に大団円を結ぶことができなかった。
 乱暴であるのを承知でいえば、木村は力道山を殺すべきではなかったか。
 たとえどんな犠牲を払ってでも」

 木村政彦は、本当についていない人でした。その死ぬ時期までも。あと1年、たった1年長生きしていれば、木村は確実に大ヒーローになっていました。多くの雑誌で特集が組まれたでしょうし、大ブームとなった総合格闘技のイベントのテレビ解説者として引っ張りだこになったでしょう。

 もう少しだけ長生きしていれば、人生の「有終の美」を飾ることができたのです。というのも、木村政彦が亡くなった平成5年(1993年)4月18日からわずか7ヵ月後の11月12日に格闘技の歴史が変わったからです。

 その日、米国コロラド州デンバーで開かれた第1回UFCが開催されました。柔道やレスリングで許されている投技、寝技、関節技、絞め技、空手やボクシングで許されている打撃技もすべてOKの究極の格闘技大会でした。そこにはボクサー、プロレスラー、空手家、力士などが集いましたが、トーナメントを制したのはグレイシー柔術のホイス・グレイシーでした。そして試合後、グレイシー一族はマスコミにこう発言したのです。

 「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在です」

 木村政彦は、昭和26年(1951年)にホイスの父であるエリオ・グレイシーとブラジルのマラカナンスタジアムで戦い、得意の腕がらみで圧勝していたのでした。ホイスは第2回UFCも連覇し、兄のヒクソン・グレイシーやホイラー・グレイシー、さらにはヘンゾ・グレイシーなどが、あらゆるジャンルの格闘家やプロレスラーを次々に倒し、グレイシー柔術が「最強」であることを見せつけました。そして、同時に彼らは最強のグレイシー柔術を破った木村政彦の偉大さを世界に示したのです。

 グレイシーといえば、「グレイシー一族最強」と呼ばれ、高田延彦や船木誠勝といったプロレスラーを破ったヒクソン・グレイシーに、著者は木村vs力道山戦の動画を見せたことがあります。初めて見るその映像には、一族が敬愛してやまない木村が血だるまでKOされるシーンが映し出されていました。相当なショックを受けたヒクソンは、悲しみをたたえた目で次のように言ったそうです。

 「木村は魂を売ってしまったといってもいい。
 これだけ実績のある武道家がフェイク(八百長)の舞台に上がること自体が間違っている。武道家というものはロッカールームを出るとき、すでに生きるか死ぬかの戦いの準備ができていなくてはならない。木村は柔道家時代はそれができていたのに、この舞台に上がったときできていなかった。問題はそこにある」

 わたしも、ヒクソンとまったく同じ考えです。木村政彦は、あまりにも油断しすぎていたのです。試合の前夜は、なんと、日本酒1升4合と瓶ビール6本を飲んだそうです。もう、無茶苦茶です。というか、プロレスを舐めきっていました。

 たしかに彼は最強の柔道家でしたが、武道家としては失格だったと言えるでしょう。なぜなら、明らかに「八百長破り」を企んでいた力道山の心中をある程度は見抜きながらも、むざむざセメントを仕掛けられてノックアウトされたのですから。

 たしかに「引き分け」という念書を木村にだけ書かせて自分は書かなかった点など、人間としての力道山は卑怯でしたが、「必ず勝つ」ことを目的にした勝負師なら当然と言えるかもしれません。「生涯無敗」を誇った宮本武蔵、あるいはヒクソンでさえ、力道山と同じことをした可能性はあるのです。ちなみに、木村の師匠であった牛島辰熊は、「勝負の世界だ。言い訳するな」と傷心の愛弟子に言ったそうです。わたしは、本書は「リスク・マネジメント」の書でもあると思いました。

 本書の中で深く心に残ったのが、師匠の牛島辰熊と木村政彦の人間関係でした。「鬼の木村」の前には、「鬼の牛島」がいました。彼らは、同じ熊本出身で、体格もまったく同じでした。牛島は、木村を拓大予科に引っぱり自宅で衣食住の面倒をみながら激しい稽古をつけました。

 妻や娘に「なぜあの時リングに上がったのですか」と聞かれ、「木村の骨を拾えるのは俺しかいない」と目を潤ませながら語ったそうです。そんな強い絆で結ばれた師弟でしたが、ときには裏切り合いました。なんと、師が弟子を告訴するという事件もありました。

 それでも、2人は生涯にわたって師弟でした。2人のドラマはちょっとした小説よりも劇的で、なんだか泣けてきます。そして、木村政彦と晩年の弟子・岩釣兼生との師弟愛にも泣けます。特に、力道山と岩釣の父親が同じ日に亡くなったときが感動的です。

 多くの取材陣から力道山死亡のコメントを求められて放心状態になっている木村を1人にするわけにはいかないと、実父の葬儀にも参列しなかった場面には鬼気迫るものがありました。親子の血縁さえも凌ぐ、師弟の道縁!

 本書を読んで、いろいろなことを知ることができました。講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が、当初は総合格闘技としての柔道をイメージしており、空手を取り入れることも思案していたこと。柔道の代名詞ともなっている講道館がじつは一流派に過ぎず、戦前の柔道界には講道館と並んで武徳会、高専柔道という大きなグループが存在したこと。

 講道館=柔道となったのは「講道館史観」ともいうべきもので、富田常次郎の『姿三四郎』がそのカノン(聖典)となったこと。それは、梶原一騎の『空手バカ一代』が極真空手のカノンとなった経緯とまったく同じであったこと。

 なお、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」という有名な言葉で木村政彦の強さを絶賛した人物こそ、富田常次郎その人でした。

 石原莞爾に心酔し、右翼思想に傾倒していた牛島が、愛弟子の木村を東條英機暗殺の実行犯にしようとしていた事実には驚きました。後援者の計らいで、牛島が北九州の八幡で鉄鋼業の仕事をしていたことも初めて知りました。

 また、力道山の猜疑心の強さ、狡猾さ、そして酒癖の悪さもリアルに描いています。さらに本書には、格闘技・プロレスの世界を取り巻く暴力団の問題、在日朝鮮人問題なども隠すことなく堂々と書かれています。

 木村政彦と同時代を過ごした2人の高名な武道家、すなわち空手の大山倍達と合気道の塩田剛三のエピソードも非常に興味深かったです。『空手バカ一代』に代表される大山倍達の数々の武勇伝は、そのほとんどがフィクションであることが明らかになっています。では、彼は弱かったかというと、けっしてそんなことはありませんでした。木村と同行した興行で、大山が力士と柔道家の2人を同時に倒した事実を木村自身が証言しています。また、木村が力道山に騙し討ちにあったとき、最も激しく怒ったのが大山であり、その場で力道山に挑戦したことも事実だそうです。

 もう1人の武道家である塩田剛三も、自分よりもはるかに巨体である木村に腕相撲で勝ったり、師の植芝盛平と木村を立ち合わせようとした牛島辰熊の思惑を知って、木村にいち早く知らせて対戦を回避したり、興味深いエピソードが語られています。

 大山倍達も、塩田剛三も、その後の大きなブームで「時の人」となりました。2人とも木村よりも有名になりましたが、生涯、少年のように無邪気な木村のことが好きで仕方がなかったそうです。一流の武道家同士の心は通じ合っていたのです。

 それにしても、本書の表紙の写真からもわかるように、木村政彦はハンサムでした。そして、笑うと、なんともいえぬ人なつこい顔になりました。大山も、塩田も、そして多くの友人や弟子たちも、木村の笑顔に魅了されたのではないかと思います。

 武道家といえば、木村政彦や牛島辰熊に限らず、本書に出てくる武道家たちのなんと大らかで気持ちのよいことでしょうか。嘉納治五郎、船越義珍、植芝盛平、前田光世をはじめ、武道家こそ「理想的日本人」ではないかとさえ思えてきます。

 かつて、日本は幕末の開国、太平洋戦争の敗戦と国家の危機に見舞われながら、不死鳥のように復活してきました。そこには、『論語』に代表される儒教の教え、そして武道の存在が精神的支柱としてあったと思います。いま、また未曾有の国難にある日本ですが、ぜひとも『論語』と武道の精神で危機を乗り切りたいものです。

 最後に、本書の最終章である第32章「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」にはラストに大きなサプライズが待っています。そして、それが「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という問いに対する答えにもなっています。

 最後の1ページにそれは書かれているのですが、これを読んで、わたしは大いに感動してしまい、不覚にも涙が出てきました。本書は、本当に凄い本です。著者は1965年生まれで、わたしより2歳年下ですが、こんな凄い本を書くなんて尊敬してしまいます。

 著者が憧憬してやまない木村政彦はもちろん、牛島辰熊、大山倍達、塩田剛三、岩釣兼生、そして力道山にさえも限りない愛情を感じる筆致にも感服しました。何よりも、本書は木村政彦の荒ぶる魂を鎮める見事な「鎮魂の書」となっています。

 読み終わって、まだ呆然としています。よろしければ、ぜひご一読下さい。

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