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完本 1976年のアントニオ猪木』

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No.0498

 

 『完本 1976年のアントニオ猪木』柳澤健著(文春文庫)を読みました。

 

 2007年に刊行された単行本『1976年のアントニオ猪木』はすでに読んでいました。しかし、文庫化にあたって大幅に加筆した上、新たにアントニオ猪木自身へのインタビューを追加掲載した「完本」を改めて読んだのです。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著(新潮社)とあわせて読めば、日本のプロレスおよび格闘技の歴史が戦前から現代へと一気につながります。


 裏表紙には、「1970年を境に勢いを失った世界のプロレス。なぜ日本のプロレスだけが、その力を維持し続けたのか。その謎を解くべく、アメリカ、韓国、オランダ、パキスタンを現地取材。1976年の猪木という壮大なファンタジーの核心を抉る迫真のドキュメンタリー。単行本に大幅加筆し、猪木氏へのインタビューを含む完全版。」とあります。


 本書は、1976年にアントニオ猪木が行った「異常な4試合」についてのドキュメントであり、それらの試合が現代に至るまでのプロレスおよび総合格闘技にどのような影響を与えたのかという非常に興味深いテーマを検証しています。


 著者は1960年東京生まれで、慶應義塾大学法学部卒のライターです。空調機メーカーを経て84年に文藝春秋に入社し、「週刊文春」「Number」編集部に在籍。2003年に退社した後は、フリーランスとして各誌紙に寄稿。「1976年の猪木」というテーマを定めてからは、関係者をアメリカ、韓国、オランダ、パキスタンに訪ね歩き、デビュー作『1976年のアントニオ猪木』を2007年3月に発表しました。


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


「はじめに プロレスを変えた異常な4試合」

第1章 馬場を超えろ~1976年以前

第2章 ヘーシンクになれなかった男~ウィリエム・ルスカ戦

第3章 アリはプロレスに誘惑される

第4章 リアルファイト~モハメッド・アリ戦

第5章 大邱(テグ)の惨劇~パク・ソンナン戦

第6章 伝説の一族~アクラム・ペールワン戦

第7章 プロレスの時代の終わり

終章   そして総合格闘技へ

「おわりに」

「アントニオ猪木が語る『1976年』」

「文庫版のためのあとがき」

「引用文献」

「解説 海老沢泰久」


 「はじめに」の冒頭には、「日本は世界最大の総合格闘技大国である」と書かれています。大晦日の夜に複数の民放局が格闘技中継をぶつけた時代に書かれた言葉です。一方、「かつて、日本は世界最大のプロレス大国であった」とも書かれています。


 鉄人ルー・テーズは「日本人はこの惑星で最もプロレス好きの国民である」と断言し、ドーム球場や巨大アリーナを埋め尽くした興行はいくつもありました。わたしもそれらの多くを観戦しました。ときには会場を訪れ、ときにはテレビ中継で。じつは、「狂」がつくほどのプロレス・ファンだったわたしは、1980年半ばぐらいから10年間以上、テレビ朝日の「ワールド・プロレスリング」をすべて録画していました。


 その他にも、日本テレビの「全日本プロレス中継」やテレビ東京の「世界のプロレス」もほとんど録画し、「UWF」「リングス」「UWFインターナショナル」「パンクラス」のビデオ・ソフトもダビングし、さらにはボクシング、キック、柔道、空手、大相撲の録画まで手を出していました。それらは、すべてSONYのBetaの180分あるいは230分テープで録画していましたが、その本数は数百本に及んでいました。


 それらのビデオテープを購入するために、いくらお金を使ったことか・・・・・ずっと実家の書庫に置いていたのですが、数年前に父が書庫を改装する際に処分されてしまいました。今から思うともったいないことをしましたが、「まあ、Betaだから仕方ないか・・・」という一抹の諦めがありました。


 SONYのBeta撤退のトラウマは今もわたしの胸に深く残っています。ちなみに、「UFC」や「PRIDE」や「K-1」はVHSに録画していました。今や、そのVHSすら過去のものですし、PRIDEやK-1の興行もなくなりました。なんだか、とても長い夢を見ていたような気がします。


 そんなわたしが見た一番良い夢は、「燃える闘魂」アントニオ猪木の大活躍でした。著者は、日本においてはプロレスと総合格闘技が混同されていると述べます。そしてその最大の実例は、アントニオ猪木は「プロレスのカリスマ」であると同時に、「総合格闘技のシンボル」でもあることです。


 それは、なぜか。プロレスラーである猪木がリアルファイトを戦ったからです。著者は、「1976年、猪木は極めて異常な4試合を戦った」と書いています。


 2月、ミュンヘン五輪の柔道無差別級および重量級の優勝者、ウィリエム・ルスカと。


 6月、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメッド・アリと。


 10月、アメリカで活躍中の韓国人プロレスラー、パク・ソンナンと。


 12月、パキスタンで最も有名なプロレスラー、アクラム・ペールワンと。


 「ウィリエム・ルスカ戦は、現在の総合格闘技の原型ともいえる『異種格闘技戦』の最初の試合であった」と著者は書いています。このルスカ戦は、リアルファイトではありませんでした。いわば、ルスカのプロレス・デビュー戦だったのです。


 当時小学生だったわたしは「プロレスvs柔道」の真剣勝負だと信じ込み、柔道家だった父と一緒にテレビの前でルスカを応援した記憶があります。


 ルスカは病気の妻のために、負け役を引き受けたことを後年知りました。病気の妻の薬代のためにプロレスで負け役をやった木村政彦の姿とオーバーラップします。木村政彦といい、ルスカといい、最強の柔道家とはなんと悲しい存在でしょうか。


 「モハメッド・アリ戦は、現役ボクシング世界チャンピオンとのリアルファイトという、正に空前絶後の試合であり、アリは猪木のキックによって重傷を負った」と著者は書いています。猪木vsアリ戦というのは、じつに多くのバックグラウンドにまつわる噂が語られており、それらは一種の都市伝説と化していますが、本書を読むとそれらの噂のほとんどが事実と異なることがわかります。


 アリは卑怯者ではなかったし、アリ軍団は狂気の武装集団ではなかったのです。一連の噂はプロレス的な「アングル」であり、猪木にタックルの技術さえあれば、猪木がアリをプロレス技で仕留めることは可能でした。猪木が寝て、アリが立ったままであるという「猪木vsアリ状態」は、後年の総合格闘技の試合で何度も目にすることになりました。


 「パク・ソンナン戦は、リアルファイトを仕掛けた猪木が相手の目に平然と指を入れるという凄惨な試合となり、地元のヒーローの敗北は韓国のプロレスを一気に衰退させた」と著者は書いています。もともと猪木vsパク・ソンナンはシングル2連戦で、1勝1敗の予定でした。それを猪木は負けることを嫌ったのです。


 なぜなら、パク・ソンナンは宿敵・ジャイアント馬場と容貌が酷似しており、「韓国の馬場」とか「第二のビッグババ」などと呼ばれていたからです。


 猪木が負けるはずの第戦を日本のNETがテレビ中継することになったのも大きな原因でした。著者は、「モハメッド・アリとの試合がマスコミから酷評され、再び自らの強さを売り出していかなくてはならないこの時期、パク・ソンナンごときに負ける姿を、日本の視聴者には見せられない。しかも"韓国の馬場"という異名を持つレスラーならばなおさらだ。猪木が馬場に負けるわけにはいかないではないか」と書いています。


 「アクラム・ペールワン戦では、逆にリアルファイトを仕掛けられた猪木がアクラムの腕を破壊した。その結果、アクラムの一族もまた没落の一途を辿った」と書かれています。


 猪木は、プロレスをやるつもりでパキスタンに来たのでした。しかし、試合の直前にリアルファイトであることを知らされます。話し合いがつかないまま、猪木はリングに上がることになりました。


 モハメッド・アリやパク・ソンナンとの試合では自分からリアルファイトを仕掛けた猪木が、今度は仕掛けられる側に回ったわけです。因果応報ともいえますが、結局、猪木はこの年3度目のリアルファイトを戦い、相手の腕をへし折ったわけです。


 当時の猪木のマネジャーだった新間寿氏は、当時を振り返って「プロレスをするつもりでやってきている人間が、たった10分やそこらで気持ちを完全に切り替えて、命のやりとりに向かった。これは凄いことですよ」と感慨深く語ったそうです。


 著者は、「はじめに」の終わりに次のように書いています。


 「1976年のアントニオ猪木は、あらゆるものを破壊しつつ暴走した。猪木は狂気の中にいたのだ。別種のプロレスであったルスカ戦を除く3試合は、当時の観客からまったく支持されなかった。プロレスは本来、極めてわかりやすいエンターテインメントだが、リアルファイトに変貌した途端、一転してわかりにくく、退屈なものとなってしまったからだ。

 だが、1976年のアントニオ猪木は、日本のプロレスを永遠に変えた」


 著者によれば、1976年に行った3度のリアルファイト以降、猪木は2度とリアルファイトを行わなかったそうです。以後の彼は、完全なプロレスラーに戻ったというわけです。


 では、プロレスとは、もともと何なのでしょうか。


 鉄人ルー・テーズは自伝の中で、「プロレスの目的はファンを熱狂させることにある。これは真の戦いなのだ。だが、勝者は常にレフェリーによってその手を掲げられる者であるとは限らない。彼のパフォーマンスが観客の心をわしづかみにし、試合が終わり、家路についてもそのことが頭から離れず、また試合を見るために金を払ってくれるようなパフォーマンスをした者が勝者なのだ。観客が彼に声援を送るか罵声を浴びせるかは問題ではない」と書いています。


 スポーツの目的が勝利であるなら、プロレスはスポーツではありません。なぜなら、プロレスラーは勝利を目指さないからです。それならば、プロレスは「八百長」かというと、そうではありません。


 著者は、「八百長試合ならばどんなスポーツにもある。普段は真剣勝負を戦い、時々負けてやるというのが八百長である。一方、プロレスのリングの上では真剣勝負は禁止されている。勝者と敗者を決めるのは観客の欲望を代行するプロモーターであり、レスラーではないのだ」と述べています。


 さらに、プロレスラーにとって試合の勝ち負けはどうでもよく、重要なのは興行収入であり、観客を喜ばせたレスラーがメインイヴェンターとなって多くの収入を得るのだとした上で、著者は次のように述べます。


 「強かろうが弱かろうが、シリアスだろうがバカバカしかろうが、ストロング・スタイルだろうがショーマン・スタイルだろうが、UWFだろうがルチャ・リブレだろうが、とにかく客を呼べるレスラーがいいレスラー、これがプロレスの基本的な考え方である。

 ならば、なぜプロフェッショナル・ボクシングがスポーツであり、プロフェッショナル・レスリングがそうではないのか。

 殴り合いに比べて、取っ組み合いは見ていて退屈だからである。

 19世紀後半、プロフェッショナル・ボクシングが多くの観客を集めたのに対し、プロフェッショナル・レスリングはそうではなかった。リアルファイトのレスリングが退屈だったからだ。レスラーたちは必死に考えた。なにしろ生活がかかっているのだ。

 そしてついに画期的な解決策を見出した。

 退屈なリアルファイトを捨てて、わくわくするようなショーを作り上げよう。そうすれば観客は喜んでプロフェッショナル・レスリングを見にきてくれるに違いない」


 プロレスが真剣な試合でなく完全なショー、パフォーマンスとなったのは、いつからか。


 テーズによれば、それは1919年代半ばから20年代にかけてのことだそうで、日本では大正時代から昭和初期にあたります。著者は、プロレスおよびプロレスラーについて次のように述べます。


 「プロレスの興行はパッケージ・ショーである。レストランのディナーのようなものだ。

 最初は軽めの試合からスタートして、最後はメインディッシュをたっぷりと堪能していただく。レスラーは決められた時間内に、決められた技で試合を終わらせなくてはならない。その範囲内で最大限に観客を沸かせることがレスラーの仕事だ。

 それぞれの試合はフリージャズのようなものだ。あらかじめ決められたテーマ(主題)でスタートし、途中はいくつかの得意なフレーズ(技)をちりばめつつも各自の即興にまかせ、最高に盛り上がったところでエンディングテーマに突入し、フィニッシュする。

 20世紀末からは、試合中のすべてのムーブ(動き)がキッチリと決められるようになった。試合開始のゴングからフィニッシュまでの動きをすべて覚えるのだから、レスラーも頭が悪くてはできない」


 ここには、プロレスの本質が見事に述べられています。


 猪木がスタートした一連の「格闘技世界一決定戦」シリーズは、わたしを含んだプロレス・ファンに巨大な幻想を与えました。


 いわく、「全日本プロレスはショーだけど、新日本プロレスはリアルファイト」から「新日本もふだんはプロレスをやっているが、タイトルマッチだけはリアルファイト」へ、さらには「新日本も基本的にはプロレスをやっているが、異種格闘技戦だけはリアルファイト」といった幻想です。さらに新日本から分かれたUWF、特に、長州力への掟破りキックによって前田日明が新日本を追放された後の第2次UWFは「正真正銘のリアルファイト」として絶大な支持を集めました。


 でも、もちろん第2次UWFだってプロレスだったのです。

 

 わたしは当時、「日経トレンディ」に「平成異界Watching」という連載を持っていました。同誌の1990年4月号で、第2次UWFの新年興行を取り上げたことがあります。日本武道館で高田延彦が前田日明を裏アキレス腱固めで破った試合でした。


 お互いに関節を完全に決め合ったはずなのに何度も外したり、エスケープし合う展開に、柔道の経験のあるわたしは違和感を覚えました。そして、「UWFも、結局はプロレスではないのか」と書いたところ、大きな反響があったことを記憶しています。


 第2次UWFが分裂した後は、前田が「リングス」、高田が「UWFインターナショナル」、そして船木誠勝が「パンクラス」を旗揚げし、それぞれ限りなくリアルファイトをイメージさせるプロレスを行いました。それとは別に第1次UWFに参加した初代タイガーマスクの佐山聡は「修斗」という総合格闘技を創設しています。


 その後、衝撃的な「UFC」の登場、日本でも「RRIDE」「K-1ダイナマイト」などの総合格闘技の興行が隆盛となり、そして衰退していきました。


 現在、日本の格闘技興行の世界は非常に混乱しています。巻末に掲載されているインタビューで、著者は猪木に「結局、プロレスラーの猪木さんがモハメッド・アリとリアルファイトをやったことが、現在の混乱の原因ではありませんか?」と質問します。それに対して、猪木は次のように答えました。


 「はい、俺にとってそれ全然矛盾はないんですよね。プロレスはショーだと決めつけても構いませんけど、プロレスは仕掛け合うもので、ある意味じゃゲーム的なものなんです。『あ、そこまでやるの、お前』『だったら俺もここまでやるよ』という具合に。そのためには自分が相当自信を持ってコンディションも整えて、相手を自分の手で遊ばせることも必要になる。いろんな選手から、猪木との試合が最高の思い出の試合だったとよく聞きます。勝ち負けは別にして、自分の知らない自分を引っ張りだしてくれたと。昔言ったけど、プロレスはセックスみたいなものなんです。こいつとやったらもう忘れられない。だから俺はいい女だと(笑)」


 この答えは、かなり素敵な内容だと思います(笑)。


 しかし著者はあえて、「でも、アリとの試合を、たとえばマクガイア兄弟の試合と一緒にされては困るという気持ちはありませんか?」といった質問を重ねるのです。それに対して、猪木は「あんまりそれは感じたことない。いま言われて初めてね、あれもアリ、これもアリという、言い方変えりゃ非常にいい加減なやつですけど(笑)」と即答します。


 あまりにも完璧なコメントに、わたしは感動しました。やっぱり、猪木はすごい!


 著書も猪木の偉大さはよく承知しているようです。なぜなら、「おわりに」の最後に次のように書いているからです。


 「猪木以前、日本には偉大なプロレスラーが2人いた。

 力道山とジャイアント馬場である。

 アメリカにも偉大なレスラーたちがいた。ルー・テーズ、バディ・ロジャース、ゴージャス・ジョージ、ブルーノ・サンマルチノ、ハルク・ホーガンたちだ。そしてイギリスにもドイツにも韓国にもパキスタンにもシンガポールにも、偉大なレスラーは数多く存在した。

 だが、彼らがプロレスの枠組みから外れたことは一度もない。

 結局のところ、彼らは観客の欲求不満解消の道具に過ぎなかった。

 ただひとり、アントニオ猪木だけがジャンルそのものを作り出したのだ。

 《猪木が開拓した"ニッチ・マーケット"の異種格闘技者との対決は、現在アルティメット・ファイトという形になって大きなマーケットに成長しているが、その部分でも猪木の功績は大きかったと思う》(スタン・ハンセン)

 巨大なる幻想を現出させ、観客の興奮を生み出すのがプロレスラーであるならば、アントニオ猪木こそが世界最高のプロレスラーであった」


 それにしても改めて思うのは、1976年に猪木と関わった男たちのその後です。


 ルスカは半身麻痺でリハビリ中、パク・ソンナンとアクラム・ペールワンは夭折しました。そして、よく知られているように、アリはパーキンソン病と闘っています。


 かつてのライバルたちがそのような状況の中で、当の猪木はどうなのか。


 実際のところはわかりませんが、他人に向かって「元気ですか?」と叫んでいるぐらいですから、きっと元気一杯なのでしょう。周囲の人間の生気を貪欲に吸い取って生き続ける「魔性」のようなものさえ猪木の人生からは感じてしまいます。


 わたしは、やはり、アントニオ猪木のファンなのだと思います。猪木の人生は「真」でも「善」でもありませんでしたが、「美」であったとは思います。全盛期の猪木が花道を歩いたり、リングインしたり、コールされるときの姿は美しかった。その肉体、表情、そして戦う姿も美しかった。


 まさに千両役者でした。アントニオ猪木という稀代の個性が光を放つ場面を何度も見れたことを、わたしは心から幸せに思います。