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ヒクソン・グレイシー自伝』

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No.2144


『ヒクソン・グレイシー自伝』ヒクソン・グレイシー著、ピーター・マグワイア構成、棚橋志行訳(亜紀書房)を読みました。原題は『BREATH~A LIFE IN FLOW』。折しも、現在は格闘技ブーム再燃中ですね。

 

 著者のヒクソン・グレイシーは、1958年、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。日本の柔道(柔術)を独自の「グレイシー柔術」に昇華させた父エリオの三男として幼少より薫陶を受けました。6歳で柔術の大会に出場し、若くして黒帯に。道場で指導を行う傍ら柔術やバーリトゥードなどの大会で活躍し、一線を退くまで400戦無敗と謳われました。94年、95年にバーリトゥードジャパン・オープン連覇。97年には「世紀の一戦」と喧伝された「PRIDE.1」でプロレスラー髙田延彦を、2000年には「コロシアム2000」で船木誠勝を下す。弟ホイス(元UFC王者)ら一族の柔術家とともに世界の総合格闘技界を代表するアイコンとなり、その勢力図を塗り替えました。著書にブログ『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』、ブログ『心との戦い方』で紹介した本などがあります。現在、彼と前田光世を主人公としたNetflix 映画「デッド・オア・アライブ」を製作中。構成者のピーター・マグワイアは1964年生まれ。ジャーナリスト、戦争犯罪調査員として6冊の著者を持つ。コロンビア大学、バード大学、ノースカロライナ大学で戦時国際法、戦争理論の教鞭を執る。ジークンドー黒帯、グレイシー柔術緑帯。ヒクソン・グレイシーとは25年来の弟子であり友人。ヒクソンをはじめグレイシー一族、その門下生から絶大な信頼を得ているそうです。本書を下敷きとしたNetflix 映画「デッド・オア・アライブ」の脚本を担当。

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本書の帯

 

 本書のカバー表紙には上半身裸で笑みを浮かべた著者の写真が使われ、帯には「生ける伝説、信念と葛藤の肉声!」「ブラジリアン柔術百年、グレイシー三代の歴史を体現した男が明かす真実」「巻末解説◎増田俊也」「頂と底。善と悪。生と死。彼の波瀾万丈の人生は、『柔術』そのものの物語を見るかのようだ。――中井祐樹 推薦」「コナー・マクレガー(元UFC2階級同時王者)絶賛」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には「アルティメット大会に震え、VTJとPRIDEに熱狂し、あの日の『ヒクソン』を畏怖したすべての人に贈る」として、「これから先、数百年後も数千年後も永遠に格闘技史に名前が刻まれる究極のファイターである。──作家・増田俊也(「解説」より)」「数奇な出生と比類なき栄光、そしてドン底からの再生......。神格化された男だけれど、実に人間らしさに溢れている。会えてよかった。彼との闘いは私にとって最大のものだ。いまは感謝しかない。ありがとう、ヒクソン。――中井祐樹(日本ブラジリアン柔術連盟会長、パラエストラ代表)」と書かれています。

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アマゾン「出版社より」

 

 カバー前そでには、「父エリオや兄ホリオンとの確執、闘いなき『競技』へのまなざし、離婚と再婚、日本での特別な時間、早世した息子ホクソンへの想い――13歳で学校をドロップアウトし、ストリート団に身を投じた若き柔術家は、亡き兄ホーウスに代わり一族最強を継ぐと、バーリトゥードの道を選んだ。ヨガの呼吸法を体得し、全能のファイターとなった男はリングを降りたが、家族への想いを胸に、いまなお世界中で柔術の発展に寄与しつづけている」「ニューヨークタイムズ、ウォールストリートジャーナル、USAトゥデイでベストセラーとなった話題の書」と書かれています。

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アマゾン「出版社より」

 

 本書の「目次」は、以下の通りです。

「序文」ジョッコ・ウィリンク(アメリカ海軍特殊部隊元司令官)

 1 グレイシー一族

 2 グレイシー一家に育つ

 3 捕食者と獲物

 4 不動の心

 5 切磋琢磨

 6 渡米

 7 日出ずる国

 8 パラダイムシフト

 9 荒廃

10 再生

「エピローグ」
「謝辞」
「解説」増田俊也(作家)

 

 1「グレイシー一族」では、20世紀初頭にブラジルに渡った伝説の柔道家・前田光世(コンデ・コマ)について触れられています。著者は、「コンデ・コマ(コンデは伯爵の意)の名で世界じゅうのボクサーやレスリング王者、巨漢の喧嘩屋たちと何百回と戦い、それに勝利した。ブラジルに落ち着いたときは日本を離れて十年が過ぎていて、そのまま日本に戻ることはなかった。実戦の必要上、この日本人ファイターは柔道と柔術の伝統的な技に改良を加え、より効果的な戦闘術を編み出した。組み技の試合と、ブラジルで"バーリトゥード(何でもあり)"と呼ばれていた禁じ手なしの試合の両方で戦った。バーリトゥードは現在の総合格闘技(MMA)より路上の喧嘩に近く、手にはめるグローブも体重制も時間制限もなかった。前田のような小柄なファイターは対戦相手より軽いことが多く、戦略的な辛抱強い戦い方を余儀なくされた」と述べています。

 

 著者の父親であるエリオ・グレイシーについて、著者は「こう言うと大げさに思えるかもしれないが、柔術にとってのエリオ・グレイシーは物理学にとってのアルバート・アインシュタインに匹敵する存在だった。ガードと呼ばれる防御と攻撃を兼ねたポジションをさらに進化させ、背中をつけたまま相手を股にはさんで戦うことで、格闘技を大きく進化させた。相手をコントロールし、パンチから身を守るだけでなく、絞め技や関節技で降参させることができた。このポジションはもともと柔道にも存在したが、父は体格に恵まれず、バーリトゥードは暴力性が高かったため、そこに改良と近代化をほどこしたのだ」と述べます。

 

 また、父エリオについて、著者は「私が生まれたころ、父はすでにブラジルを代表する偉大なスポーツマンのひとりだった。飛びぬけたファイターであるだけでなく、サービス精神も旺盛で、ボクシング界で名を馳せたプリモ・カルネラやジョー・ルイス、イザード・チャールズに公然と挑戦を表明した。ボクサーは誰も応じなかったが、1932年にアメリカ人レスラー、フレッド・エバートが当時17歳だったエリオの挑戦を受けた。エバートのほうが20キロ以上重かったが、1時間40分経っても決着はつかず、警察が試合を中止した。その2年後にも体重100キロを超すレスリング世界王者のウラデック・ズビスコと戦い、引き分けている。1951年に日本最高の柔道家・木村政彦がブラジルを訪れたとき、エリオは彼にも挑戦した。木村は同行者で黒帯の加藤幸夫に勝つことを条件に、父との対戦を承諾した。加藤との初戦は引き分けに終わったが、再戦で加藤を締め落とし、柔道王との対戦を実現させた」と書いています。

 

 そして、エリオが加藤に勝った1週間後、エリオと木村はリオのマラカナン・スタジアムに集まった2万人の観衆の前で戦い、当時のブラジル大統領も観戦に駆けつけました。著者は、「木村は父より36キロ重く、父をボロ人形のように投げつづけたが、仕留めるには至らない。いっとき父は意識を失ったがタップしなかったため、木村は絞めが効いていないと思ってそれを解き、おかげでエリオは意識を取り戻した。試合開始から13分、柔道王は腕がらみを極めたが、ここでも父はタップを拒んだ。木村が肩関節をねじりつづけてもエリオはタップしようとしない。さらにねじりつづけたところでカーロスがタオルを投げた。のちに父は、木村からサムライ精神をもらったと言い、腕を曲げて固める柔道の『腕がらみ』を『キムラロック』と名づけた」と述べるのでした。

 

 著者は、父エリオから多くのことを学びました。エリオは常日頃から、頭の明敏さとタイミングと闘争本能の重要性を強調していました。戦いについて喩え話をするのが好きで、事の真偽はわかりませんでしたが、著者をはじめとした息子たちはそれを信じました。エリオのお気に入りは、ブラジルの熱帯雨林でインディオが槍でジャガーを狩る話でした。ビサン(横蹴り)をボクシングのジャブのように使う迎撃法の比喩としてその話が使われたのです。著者は、「『インディオを見ならえ』エリオは言った。『攻撃の射程に入ったと相手に思わせ、インディオの槍と同じようにビサンで迎撃するんだ』タイミングも戦略もない盲目的な勇気ではジャガーを倒すことはできない、と父は指摘した。そこでこの話を格闘技に結びつける。『空手家が顔を蹴りたい場合、まず距離を取る必要がある。こっちが蹴りで相手の脚を迎え撃てば、相手は蹴りをくり出せない。ただし、インディオのように自分の力を信じて実行する必要がある』と書いています。

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アマゾン「出版社より」

 

 2「グレイシー家に育つ」では、7歳にしてすでに著者の世界観は、柔術と一族に叩き込まれていた戦士の気風、そして兄弟といとこによって形づくられていたことが明かされています。著者は、「稽古のときは兄弟全員をじっくり観察した。ひとりひとり長所と短所がちがったからだ。私は知りたかった。勇敢なのは誰か? 臆病なのは誰か? 死ぬまで戦うのは誰か? 頭に血が上りやすいのは誰か? 優柔不断なのは誰か? いちばん感銘を受けたのは兄のホーウスだ。7つ年上の彼は私たちのリーダーで、私のあこがれの存在でもあった。信じられないカリスマ性の持ち主で、生まれながらの戦士だった」と述べます。ホーウスは、著者にとって母親の違う兄でした。ホーウスは他の家族と違って頭が柔らかく、柔道とレスリングとサンボも練習しました。そして、それぞれの競技大会にも参加して柔術の上達に役立てていました。

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アマゾン「出版社より」

 

 13歳のとき、著者は兄ホーウスの前で大男にヘッドロックをかけられ、タップしてしまいます。著者は、「ホーウスが見ている前で降参したのが恥ずかしかった。家に帰って、彼にお願いした。10分間、自分を絨毯で巻き上げ、どんなに叫んでも出さないでほしい。このときリオは夏で、とても暑かった。絨毯は悪臭を放っていた。巻き上げられた最初の何分かは窒息して死んでしまうかもしれないと思った。しかし、覚悟を決めて不快な状況を受け入れると呼吸がゆるやかになり、時間の感覚が消えた。翌日はこれを15分に延ばし、週末までに恐怖を克服した。この経験から、充実について大きな教訓を得た。ときには脱出することにより、窮地の中で可能なかぎり快適な状況を見つけることが大切になる。胸部をわずかに回転させて呼吸をしやすくするといった小さなことが勝敗を分けるかもしれない。私にとって、これは技術的発見というより精神的発見だった」と述べています。

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アマゾン「出版社より」

 

 グレイシー一族は薬物に手を出さないことになっていましたが、著者いわく「私たちのほとんどはマリファナ、コカイン、幻覚剤を体験していた」と述べています。兄の1人であるへウソン・グレイシーはさらにその先へ踏み込み、コカインを摂取しては何日も起きていました。彼が家のトイレで過剰摂取をしたときは、ホーウスに命を救われました。著者は、「わたしも兄たちの欠点をあげつらおうとは思わなかった。それより、感情、技術、戦略の面で敬服しているところを取り入れ、自分の人生に組み込むようにした。吸収と学習を重ねるうち、自分はグレイシー一族史上最高のファイターになれると気がついた。肉体と精神の両方に恵まれていたからだ。ホリオンも柔術に情熱を注いでいたが、私のような天賦の能力には恵まれていなかった。ホーウスはすばらしいアスリートだったが、強情で手に負えなかった。へウソンは生まれついての戦士だったが、自制を欠いた」と述べています。

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アマゾン「出版社より」

 

 3「捕食者と獲物」では、著者はこう述べています。
「最高のグレイシーになるにはリスクを負う必要がある。異なる薬物や危険な生活様式も試しにしてみたが、なにより大切なのは自由だ。何事も支配されたくない。とくにクスリには。また、自分は柔術の天分に恵まれていて、そこには一族を代表する名誉と責任がともなうことにも気がついた。その意識が私を毎回、均衡の取れた場所へ連れ戻してくれた。ひと晩、現実から離れるのは楽しいが、何があっても翌日には道場で稽古した。誰がやってきて挑戦されるかわからないし、最高のグレイシーになることがほかのなにより大切だったからだ」

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アマゾン「出版社より」

 

 柔術について、著者は「私にとって柔術はチェスのようでなければいけなかった。相手の何手も先を行き、知性を駆使して、チャンスが来たら逃がさず仕留める。療法の選手が楽に戦うことはありえない。ほとんどの場合、片方が圧力をかけ、もう片方が圧力を受ける。苦しい側になると負けが近づく。何秒かでも苦しい状況に立たされたら、必要な調整を行ってもういちど楽な状況に立つのだ。いったん楽になれば、それは同時に相手には最悪の悪夢となる。相手が何をしてくるかを事前に知ることはできなくても、そもそも私にはその必要がない。いったん試合がはじまれば、痛みや苦しさをあたえてミスを誘い、きれいなサブミッションで相手を詰ませるだけだ」と述べています。

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アマゾン「出版社より」

 

 4「不動の心」では、著者が22歳のときに、身長193センチ、体重104キロのキング・ズールというファイターと人生初のバーリトゥードの試合を行ったくだりが書かれています。なんとかズールを仕留めた著者は、「当時の私には無条件に自分を信じられるほどの自信はなかったし、未知のものに対する恐怖があった。ただならぬ感覚だった。父と兄に背中を押されて切り抜けたが、疑念や心の動揺は格闘家としての自分に害を及ぼす、と自分に言い聞かせた。心を制御できれば、パフォーマンスのあらゆる側面を高めることができる。そういう心の安定があれば、身体能力は闘いというパズルの一部にすぎない」

 

 また、著者は、このようにも述べています。
「それまではすべて理論上のことだったが、ここであらたな現実に直面した。初のバーリトゥードで学んだのは、肉体ではなく感情が壊れる可能性だ。肉体面と精神面には自信があったが、心と感情には確信がなかった。心がしっかりつながっていなければ、板子一枚下は地獄という状況を生き延びてはいけない。この日以来、結果はどうあれかならず河を渡る努力をしようと胸に誓った。そのおかげで格闘家としてだけでなく人生観にも大きな変化が生まれた。今後は、何かに携わったからにはかならず前へ踏み出し、どんな結果も受け入れていこう」

 

 本書を読んで興味深かったのは、グレイシー一族と薬物との関わりとともに、彼らの奔放なセックスライフです。著者は、「グレイシー一族の伝統には好ましいところも多々あったが、一夫多妻制はそのひとつではなかった。伯父のカーロスと父エリオが一族最初の一夫多妻だったわけではない。ふたりの父がスタオンは妻との結婚中、別の女性との間に5人の子をもうけた」と述べています。著者が13歳くらいのとき、父エリオから「もっと兄弟が欲しいか?」と訊かれ、「うん」と答えたそうです。すると、車であるアパートに連れて行かれ、3人の小さな男の子を紹介されました。著者は、「ホウケウ、ホイラー、ホイスの弟3人に会ったのはこのときが初めてだった。みんなかわいくて人なつこかったが、彼らを気に入ると同時に、母には同情せざるを得なかった。父が自分の妻に「もっと子どもが欲しい」と言ったことはなかった」とも述べます。

 

 5「切磋琢磨」では、柔術家、そしてバーリトゥーダーとしてブラジルで名を馳せた著者が、日本のアントニオ猪木に挑戦するくだりがかかれています。著者は、「ブラジル以外で試合ができるのは日本しかない。だが、ことは単純ではなかった。日本の格闘系イベントの大半には"ヤクザ"と呼ばれる強大な暴力団が深く関わっていたからだ。さらに、その種のイベントに出てくる選手はプロレスラーが多く、彼らは体格がよくて力があり、技術も備えていたが、試合の多くは"ワーク"つまり筋書きのあるものだった。そんな戦いはお断りだ。1987年、私は友人で非公式アドバイザーでもあるセルジオ・ズヴェイテルをともない、プロレスラーのアントニオ猪木への紹介状を手に、初めて日本を訪れた。猪木は76年にモハメド・アリとデモンストレーション・マッチを実現させて名を馳せたが、当時はなかば引退して日本有数の格闘プロモーターになっていた」と述べます。

 

 また、著者は、このように書いています。
「猪木はなかなか会ってくれず、待たされているあいだに東京を探検した。まず、世界一有名な柔道学校に敬意を表そうと講道館をたずねた。柔道の創始者・嘉納治五郎がここで前田栄世を指導し、前田がブラジルで伯父たちにその技を伝えたのだ。講道館の柔道マスターたちは快く迎えてくれたが、私がプロの試合をするために来たことを話すと、『ここでは練習できない』と丁重に言い渡された。講道館はプロの試合を認めていなかったからだ。さんざん待たされ、あれこれ手続きをさせられた挙げ句、猪木は会ってくれなかった。彼の団体は私を常時安定して使えるプロレスの選手にしたかったのだろう(かつてカーウソンとも戦ったイワン・ゴメスを75年、猪木率いる新日本プロレスは練習生として迎えている)。猪木は私ことを、ブレイクするチャンスを求めている無名の格闘家としか見ていなかったわけだ。無駄足に思えた旅だったが、このとき日本の事情を学んだことは後年に活きた」

 

 日本からブラジルに戻った著者は、当時ブラジリアン柔術と敵対していたルタ・リーブリのトップファイター、ウゴ・デュアルチと海岸で出会い、喧嘩になります。著者は、「ウゴに歩み寄って顔を張り飛ばした。シャツとサンダルを脱いだ彼と立った状態から組み合い、グラウンドに引きずり込んだ。ウゴは私のポニーテールをつかんで頭をコントロールし、立ち上がった。覆いかぶさってくる彼をスイープしたが、膝が砂に埋まったせいで逃げられた。ふたたび立った状態から同体でそばにあった屋台に激突し、また地面に倒れ込んだ。周囲に野次馬たちが押し寄せるなか、私はマウントを取ってウゴの動きを封じ、ここぞとばかり顔面に拳を浴びせた。パンチの雨あられを彼は止める術もない。『降参するか』と訊くと『死んでもするか!』と言うので、拳と肘を下ろしつづけた。際限なく顔を穿たれたところで心が折れたらしく、ウゴは『わかった、ストップ!』と言い、私は彼を解放した」と述べています。

 

 6「渡米」では、アメリカに渡ったグレイシー一族の成功が描かれます。著者は、「一族最高のファイターは私だったかもしれないが、グレイシー柔術を売り込む点ではホリオンが飛び抜けてうまかった。生まれながらのセールスマンで、そのうえすばらしい売り物があった。携帯用ビデオカメラくらい柔術の普及に貢献したものはない。ホリオンはアメリカに来てから、ほかの格闘技の選手たちに挑戦しては、試合内容をビデオに収めていった。それらの映像が、アメリカでは都市伝説の粋を出なかったものを揺るぎない事実に変えた。1988年、ホリオンは『グレイシー・イン・アクション』というビデオを制作して、格闘技雑誌の巻末に広告を打ち、通信販売で売った。インターネットはまだなく、ましてやYouTubeなど想像もつかない時代だ。格闘家たちはこれが聖なる異物の実相とばかりにビデオテープを貸し合った。実際、『グレイシー・イン・アクション』はこれ以上ない貴重な映像記録集だった」と述べています。

 

 アイデアマンのホリオンは、アメリカ初のバーリトゥード大会(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ/UFC)を企画します。しかし、著者は「第1回大会には弟のホイスを出場させ、万一のための切り札に私を取っておきたいとホリオンが言ったときは、がっかりした。一見、賢明な判断に見えて、じつはこれには別の理由があった。第1回UFCの開催時ホリオンと私は不仲だったため、私がスターになって自分の影が薄くなるリスクを回避したかったのだ。ホイスはバーリトゥードはもちろん柔術競技でもまだタイトルを取ったことのない、のんびりした子だった。兄にとってはいちばんあつかいやすいグレイシーで、一時期ホリオンとホイスの間には伯父カーロスと父エリオのそれに似た、父子的な関係があった」と述べています。

 

 第1回UFCは、1993年11月12日、コロラド州デンヴァ―のマクニコルズ・スポーツ・アリーナで開催されました。勝ち上がり式のトーナメント戦で、試合形式は現在の総合格闘技(MMA)よるはるかにバーリトゥードに近いものでした。グローブの着用も、体重別の階級も、ラウンド制も、制限時間も存在しませんでした。著者は、「ホリオンと手を組んだ人たちはこのイベントを"人間闘鶏"と銘打っていて、私にはそれが気に入らなかった。テレビや新聞の広告はすべて"ノールール"を謳っていたが、まったく事実と異なる。過大な煽情的表現だった。もうひとつ素手の格闘技が血を呼ぶのは確かだが、ボクシングや現在のMMAとはちがい、脳にあたえる影響はじつは素手のほうがずっと小さい。ボクサーや現在のMMA選手は手にバンデージを巻いてグローブをはめるため、打撃を受けた脳はより大きなダメージを負う。いっぽうで、グローブやバンデージなしでくり返し頭を殴れば拳を痛め、そこから先は打撃ができなくなる」と述べます。

 

 第1回UFCを圧倒的な強さで優勝したホイスについて、著者は「UFCの試合で、ふだんはのんびりと控えめなホイスの秘めた獰猛さが解き放たれた瞬間だった。この試練に応えてみせた彼が誇らしかった。第1回UFCをグレイシー柔術のための宣伝イベントだったと批判する人が大勢いるが、ホイスが油症するには自分よりはるかに大きな相手をひと晩で3人倒す必要があったことを忘れてはならない。どんな格闘家でも容易なことではない。ホイスがトータルで5分もかけずに優勝したのを見て、アメリカ人はグレイシー柔術の実力と効率性に目をみはった。ホイス・グレイシーは一夜にして格闘界のビッグネームとなり、グレイシー柔術人気が爆発した」と述べます。第2回UFCでもホイスは優勝しましたが、連覇を果たした試合後のインタビューに著者が同行したとき、ホイスは著者に感謝の言葉を述べ、「兄のヒクソンは自分より10倍強い」と公言しました。突然、著者は大きな注目が集まりました。とりわけ、日本人から。

 

 1994年、UFCに対抗するかのように、佐山聡率いる修斗が「ヴァーリ・トゥード・ジャパン/VTJ」というトーナメント大会を開催し、ここで著書が日本初登場します。来日した著者は、山ごもりしました。著者は、「山ごもりの最終日、滞在中に集めた木や葉の大きな山に火をつけた。たちまち炎が上へ燃え広がり、山全体を包み込む。燃料は足さず、最後まで炎を見つめた。柔術の代表としてここへ来る機会があたえられたことに感謝した。火が起きて燃え尽きるまでの30分間、目の前に私の全人生が甦ってきた。火が消える前に祈りを捧げ、自分の中から疑問や後悔を追い払い、生と死の循環を受け入れる。そこに至って、相手を殺す覚悟も相手に殺される覚悟もできた気がした。クリンチから投げ、絞めと、いつ何時でも状況に合わせて流動できる。どんな障害も克服でき、最初に訪れたチャンスを活かすことができる」と述べています。

 

 この山ごもりの時間を著者は「儀式」と呼び、「この儀式は私にとっていちばん重要な最後の聖なる瞑想時間であり、支援チームからさらに離れて自分の内部へ入り込む過程の一部だった。孤独を受け入れるのは、それが後日必要になる力をあたえてくれるからだ。試合が終わるまで理性は遮断する」と述べます。そして、試合は「祝祭」でした。著者は、「私にとって試合は厳粛な祝祭だ。自分がどれだけの鍛錬を積み、どれだけの犠牲を払い、どれだけ猛練習を重ねてきたかを、家族や友人、生徒たちに見てほしかった。VTJ当日の朝、私は早めに会場入りして控え室でゆっくり昼寝した。目覚めると、命をあたえてくれた神様に感謝し、そのあと今日は死ぬのにふさわしい日だと実感した。私は人生の使命を果たした。自分の柔術と一族を代表してリングに上がる。相手が勝つには私を失神させるか殺すしかない。絶対にタップはしないからだ。私にとって、これはスポーツではなく神聖な名誉の場だからだ」と述べるのでした。

 

 わずか6分足らずで柔道家とカンフーとキックボクサーを破って、著者は日本初登場の第1回VTJを優勝で飾りました。その年の12月には、ロスの著者の道場に現れたUWFインターナショナルの安生洋二を血祭りにあげました。著者の最強幻想がさらに強くなったところで、翌1995年には第2回VTJに参加します。決勝戦の相手は体重70キロの中井祐樹でした。彼は1回戦でジェラルド・ゴルドーに反則で目をえぐられ(その後、失明)、準決勝で自分より45キロも重いアメリカの巨漢レスラーを苦戦の末に下したものの、満身創痍の状態でした。しかし、中井は「ヒクソン、あなたと戦うために来た!」と言いました。著者は、「中井祐樹は勇者だ。彼の魂の吐露を私は一生忘れない」とと書いています。5分間にわたる組み技対決の末、著者はチョークスリーパーで中井に勝利します。著者は、「リング上の勝者は私だったが、彼を"打ち負かした"わけではない。彼の精神は強靭すぎた。あの夜の中井祐樹はまさしく現代のサムライだった。あの種の真の強さは、勝利によって示されるとは限らない」と、中井に最大の賛辞を送っています。

 

 8「パラダイムシフト」では、PRIDE1での髙田延彦戦に触れています。しかし、試合そのものというよりも大会の背景についての記述が興味深いです。著者は、「PRIDEはテレビ局主催のスポーツイベントであるだけでなく、スポンサーの少なくとも一部にはヤクザが存在していた。ヤクザという言葉は、日本の花札(オイチョカブ)で価値のない手(8=ヤ、9=ク、3=ザ)(合計した1の位が0)を指すものだった。時を経て、"賭け事をする人たち"のことになり、やがて犯罪組織やその構成員を意味するようになった。スポーツイベントの収入はチケットの販売やテレビの放映契約からもたらされるが、真の賭けはギャンブルにある。ヤクザは売春、恐喝、密輸に加え、さまざまなタイプの賭け事に関与していた。賭け事が違法の日本では、異なる暴力団のメンバーがそれぞれにブックメーカーの役割を担う。賭けの対象として好まれたスポーツは相撲だ。さまざまな組織がスポンサーになって試合を宣伝した。MMAは新しいチャンスだ――刑務所での服役経験があるヤクザのボス百瀬博教はいち早くそこに目をつけた。百瀬はPRIDEの第1回大会に5000万円を出資したと噂される、髙田の支援者だった」と述べています。

 

 PRIDEで髙田延彦を連破した後、著者は2000年に東京ドームで開催された「コロシアム2000」で、船木誠勝と戦います。船木のパンチに苦しめられるも、最後はチョークスリーパーで船木を仕留めました。船木はタップしないことで死を受け入れ、参ったをするくらいなら死ぬつもりだったそうです。リングに投げ入れるタオルもセコンドに渡していませんでした。レフェリーが止めないので、著者が自分で止めたといいます。著者は、「試合後、船木はファンに謝罪した。この試合はスポーツではなく決闘と考えていたのでやり直しはきかないと彼は言い、引退を表明した。それから1年ほどして私は彼と話す機会を得た。船木のことが気がかりだった。彼はどうやって敗北から立ち直り、人生と向き合っていくのか。船木が私に感謝を述べ、あの試合は人生最高の経験だった、物の見方が変わり、いろんな面を評価し直すことができたからと言ったときには、正直ホッとした。私と戦えて光栄だったと言う彼に、こちらこそと返した。自分の使命を真剣に受け止め、そのためには命を犠牲にしてもかまわないと覚悟している人を、私は尊敬してやまない」と述べます。

 

 船木戦後の著者は、小川直也とか長州力とか、さまざまな対戦相手の名前が挙がりましたが、最も可能性があったのは"グレイシー・ハンター"としてPRIDEで大活躍していた桜庭和志でした。しかし、著者の愛する息子ホクソンの急死で状況が一変します。著者は、「私は桜庭戦から手を引くことを決断した。家族をまとめ直して彼らの心を癒すことが何より大切だったからだ。窮地にあっても力強く、ストイックで、優雅であれというグレイシーの価値観をずっと実践してきたが、ホクソンが亡くなったあとはその値打ちがわからなくなって放棄した。私に限っていえば、戦士の価値観を総動員して踏みこらえることができたかもしれない。しかし、家族には無理な話だ。子どものように泣きじゃくったりはしまい、と私は努力することもできただろう。次の試合を予定に入れて桜庭に痛みをぶつけることもできただろう。薬や酒で神経を麻痺させることもできただろう。感情を押さえて仮面をかぶれば、強く見せることはできるだろうが、心が萎えるだけだと思った。そうではなく無防備になって、感じる必要がある痛みや疑念、弱さ、虚しさを自分に感じさせてやり、『ちきしょう、どうしたらいいんだ』と言えるくらい正直になることが大切だと思った」と述べます。

 

 愛息の死によって深いグリーフを抱えた著者は、「最初、頭の中で悲劇を整理して人生を前に進むことは可能だと思っていたが、合理性で生の感情を抑えられるとは限らないことを知った。悲しみという名の深い穴に落ち、そこから3年近く出てこられなかった。ただ心の命ずるまま、息子を失ったあとの人生は元に戻らないという事実を受け入れた。未来のことなどわからないし、もはやどうでもいいことだ。新しい人生は悲しみが大半を占め、そこから回復することはないだろう。あえて心の傷に触れ、痛みを吸収した。サーフィンも、柔術の指導も、稽古も、運動もやめた。そのどれも何ひとつ喜びを運んでくれなかったからだ。家にいて、子どもたちを学校へ送っていき、彼らとホクソンのことを話して泣くだけだった。喪失について語るときは、強くあれ、耐え忍べ、祈れ、友人がいる、家族がいる、未来に目を向けろ、など幾多の常套句が使われるものだ。どれも役に立たなかった。私は300ポンド(約135キロ)の岩に縛られて海に沈められたのだ。海底に達したとき、深い水底で決断しなければならなかった。水面に戻るか否か」と述べます。わたしは、これほど切実なグリーフの言葉を他に知りません。

 

 10「再生」では、著者が全人生を賭けた柔術について、「柔術は私の哲学であり、神聖な名誉であり、私の一族の伝統だ。柔術のおかげで私は人を許せるだけの強さを手に入れ、信念のために戦えるだけの自信を持つことができたのだ」と述べています。そして、「エピローグ」の最後には、「黒帯になる以前から、チャレンジマッチや道場内大会に至るまで、柔術、サンボ、レスリング、バーリトゥードと生涯を戦いに捧げてきた。何試合戦ったのかと訊かれても、どうやって数えたらいいかわからないほどだ。私にとって数は問題ではない。大事なのは、つねに最前線で指揮を執り、柔術代表として全身全霊をかけて戦ってきたことだ。もう戦うことはないかもしれないが、私はこれからもずっと武術家、格闘家でありつづけるだろう」と述べるのでした。

 

 「解説」では、自らも柔道家であり、一条真也の映画館『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介した名著を書いた作家の増田俊也氏が、以下のような格調高い文章を書いています。
「過去、人類三千年の歴史のなかで格闘技のビッグバンとなった事象が2つあった。ひとつは講道館柔道の創設というビッグバン。ひとつは琉球王国における空手の誕生というビッグバン。この2つの格闘技は様々なかたちで世界へと広がっていく、土着の格闘技を駆逐したり融合したりしてその地に根付いていく。柔道や空手の影響なしにここまで来た格闘技はないといってもいいほどだ。それほど柔道のグラップリング技術と空手の打撃技術は海外の人たちの度肝を抜く発想に富んでいた。しかしながら21世紀になった今日、格闘技の歴史を記す学者たちはこの2つの格闘技にもうひとつの格闘技を比肩させ、世界三大格闘技のビッグバンと呼ばねばならぬようになってきた。それこそがグレイシー柔術である。たしかに源流は早大柔道部出身の前田光世が伝えた講道館柔道であった。しかし、偉大なる男によって、地球の裏側で寝技中心の実戦的技術体系を持つグレイシー柔術へと進化した。偉大なる男とはもちろんヒクソンの父エリオ・グレイシーである。現在ではそのグレイシー柔術が様々な枝に分派したため、総じてブラジリアン柔術と称され、柔道や空手に負けぬ勢いで世界中に広まっている」

 

 わたしは、2度にわたるヒクソンvs髙田、そしてヒクソンvs船木も東京ドームで観戦しましたが、著者の強さは今でも目に焼き付いています。本当は前田日明と対戦してほしかったですが、今となってはもう夢の跡といった感じですね。本書を読み、格闘技に夢中になっていた頃の自分が甦ってきました。また、格闘技の技術面だけなく、著者の精神コントロール技術が興味深かったです。山ごもりを「儀式」、試合を「祝祭」と呼ぶ言語センスも素晴らしい! そして、グリーフケアについても深く考えさせられました。本書の内容がNetflixで映画化されるそうですが、その作品「デッド・オア・アライブ」を観るのが楽しみです!