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エマニュエル・トッドの思考地図』

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No.2046

 
 6月11日、金沢から小倉へ帰ります。
 『エマニュエル・トッドの思考地図』エマニュエル・トッド著、大野舞訳(筑摩書房)を読みました。一条真也の読書館『自由の限界』『新しい世界』で紹介した本に著者のインタビューが掲載されており、興味を持ちました。もっと著者の考え方を深く知りたいと思い、2021年2月に刊行された本書を手に取った次第です。著者は、1951年フランス生まれ。歴史家、文化人類学者、人口学者。ソルボンヌ大学で学んだのち、ケンブリッジ大学で博士号を取得。各国の家族制度や識字率、出生率、死亡率などに基づき現代政治や社会を分析し、ソ連崩壊、米国の金融危機、アラブの春、トランプ大統領誕生、英国EU離脱などを予言しました。著書に『経済幻想』『帝国以後』(以上、藤原書店)、『シャルリとは誰か?』『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(以上、文春新書)、『グローバリズム以後』(朝日新書)、一条真也の読書館『大分断』『パンデミック以後』で紹介した本など多数。 

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本書の帯

  

 本書の帯には著者の顔写真とともに、「これから世界はどこへ向かうのか? 危機の時代を見通す真の思考法を世界で初めて語りつくす」「ソ連崩壊、イギリスEU離脱など数々の予測を的中させてきた」「現代最高の知性が明かす思考の極意」「完全日本語オリジナル」「創業80周年記念出版」と書かれています。

  

 カバー前そでには、以下のように書かれています。
「『私が何かについて考える際の軸となっているものは、1つはデータであり、もう1つは歴史です』――。これまで、イギリスのEU離脱、リーマン・ショック、ソ連崩壊など数々の予測を的中させてきた、現代を代表する知性、エマニュエル・トッド。なぜ彼だけが時代の潮流を的確に見定め、その行く末を言い当てることができたのか。混迷の時代を見通す真の思考とはいかなるものか。そのすべてを世界で初めて語り明かす。完全日本語オリジナル」

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本書の帯の裏

  

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「日本の皆さんへ」
序章 思考の出発点

1 入力  脳をデータバンク化せよ

2 対象  社会とは人間である

3 創造  着想は事実から生まれる

4 視点   ルーティンの外に出る

5 分析  現実をどう切り取るか

6 出力  書くことと話すこと

7 倫理  批判にどう対峙するか

8 未来  予測とは芸術的な行為である
「ブックガイド」

 

 「日本の皆さんへ」で、著者はこう述べています。
「私は日本では『予言』ということを通じて知られているのだと自覚しています。ソ連崩壊やリーマン・ショック、アラブの春、イギリスのEU離脱などを予言した人物として。もちろん予言、あるいは予測というのは、超自然的なものではまったくありません。適切なデータを収集し、きちんと分析していけば、それが将来どうなっていくのかを見通すことは決して不可能ではないのです」

  

 続けて、著者はこれまで半世紀近くにわたり、歴史人口学者として研究を続け、過去がどのような現在を作り上げ、そして未来をかたちづくっていくのか、といったことについて考えてきたとして、「私は自分自身のことを、このような思考についてのプロフェッショナルだと感じています。ただその成果については多くを発表してきたにもかかわらず、思考プロセスや思考そのものに焦点を当てたことはないことに気づかされました」と述べるのでした。

 

 序章「思考の出発点」の「困難な時代」では、著者は自分の所属している社会から少しばかり逃れることで、自分の社会や世界、歴史について最低限の客観的な視点と明晰さを持って眺めることが可能になると考えているとして、「社会においてマージナルな存在、アウトサイダーになるというのは、ある程度は大切です。しかしながら、アウトサイダーになるためには1つの前提条件があります。それが、じつは集団的な構造の存在なのです。枠組みがあり、組織化され、ある考え方を持った社会がそこに存在していることが前提なのです。まったく何もない、無の状態に対して、人はアウトサイダーにはなれないのです」と述べています。

  

 「思考のフレーム」では、著者の思考にフレーム(枠組み)を与えてくれたのが統計学であったとして、「私にとって考えるというのはデータを蓄積するということで、データの関連性を見つけることや地図を比較することは、ほとんど自然発生的にできることです。しかし、その後に統計学がフレームとしての役割を果たすのです。言い換えましょう。自然発生的なとっさの思考というのは、いわば『思いつき』あるいは『気づき』のようなもので、それ自体を方法論として体系化することは困難です。ですが、そこで生まれたものは何らかの手段で検証しなければなりません。こうした着想の検証やデータ分析の際に――私の場合は統計学という――フレームが重要な役割を果たすのです」と述べます。

  

 また、「記憶力という知性」では、もう1つの知性が記憶力であると指摘し、著者は「学生のころに、あるマルクス主義の歴史学の教授が言っていたのですが、少なくとも歴史学においては、記憶力というのも1つの知性なのです。歴史学者になるために記憶力というのは欠かせません。私は頭の回転の速さはもっていませんが記憶力には自信があります。幼いころは映像記憶の能力を持っていたくらいですから。中学生のころ、親にちゃんと勉強をしたのかと聞かれて、急いで教科書を丸暗記したという思い出もあります。私はこのように視覚から入る記憶力に長けているのだと思います。そういうわけで、大学時代には大教室での授業はほぼ行っていませんでした。話を聞いて覚えるのは苦手だったので、それなら本を1人で読んでいたほうがよかったわけです」と述べます。

  

 さらに、「創造的知性」では、すでに手元にあるデータを説明する、あるいはかたちづくるために脳にあるさまざまな要素を自由に組み合わせ、関連づけることができる知性を「創造的知性」と呼びます。しかし、創造というのは「無」から何かを生み出すことではないとして、著者は「知性の本当の謎というのは、どうやって斬新なアイディアを思いつくか、という点にあるのです。人はどうやって提案や解釈、新たな視点、あるいは誰も考えつかなかった表現方法などを思いつくのか。非常に能力の高い人たち、頭の回転が速く記憶力も抜群な人たちの頭というのは、勝手に動く機械のようになっていて、読書をこなして記憶し、すべて求められたフォーマット通りに吐き出すという一連の作業を楽々とこなせます」と述べています。

  

 そして、「機能不全に注目する」では、ある程度の処理能力は社会を理解するために必要であるが、社会を理解することは、必ずしも社会について考えることを意味するわけではないと指摘し、著者は「社会を考えるためには、機能不全や一見関係のないもののつながりに気づくことが何よりも大切です。聴力に長けている人は音で関連性を見いだすこともできるでしょうし、私のように視覚から入る人間は、イメージとイメージをつなげていくことで関連性を見いだします。私が研究の際にしばしば地図製作などを用いるのも、じつはそれにつながっています。さまざまな事柄を関連づけるとともに、通常の状況から外れたものに関心をもつこと、それが思考の出発点だと言えるのではないでしょうか」と述べるのでした。

  

 1「入力 脳をデータベース化せよ」では、あらゆる知的活動は、基本的に「入力(インプット)→思考→出力(アウトプット)」という3つのフェーズで構成されると指摘し、著者は「『入力』というのは読書などを通じたデータの蓄積、『思考』というのは脳内での処理プロセスのことで、『着想』『モデル化とその検証』『分析』などに細分化できます。『出力』というのは、言うまでもなく話したり書いたりすることでそれを伝えていくことですね。もちろん、この流れが絶対というわけではありません。それは研究の対象や内容によって異なってくるものです」と述べています。

  

 このプロセスの最初に位置し、最も重要で、そして著者にとって最も面白い作業は「入力」であるとして、著者は「私にとって考えるということは、椅子に座って自問自答を繰り返すようなものではない」「むしろ、ひたすらに本を読み、知識を蓄積していくことなのだと。何かを学び、新たなことを知ったときの感動こそ、私が大切にしてきたものです」と述べます。「自分のなかに図書館をつくる」では、ジョージ・マードックという構造主義人類学者の著作『アフリカ――その民族と文化の歴史』(未邦訳)をどうしても読みたいと思っていたとき、なかなかその本を入手できなかった著者は、ある日、人類博物館の館長から、この本を持ち帰ってコピーをしてもよろしいという許可をやっとのことで得たというエピソードを披露します。

  

 著者は、「そのときの極度の興奮状態はだぶんどんな女性にも感じることのなかったものではないかというほどのものでした。それは私の思い出のなかでも最も興奮に満ちたエピソードとして、いまも覚えているのです。それは一種の幸福であり、知識や何か新しいことを学ぶということに対する抑えきれないほどの欲動が、私のなかにあったということなのです」と述べています。わたしにも同様の経験があります。『儀式論』(弘文堂)を執筆するときに、エドワード・タイラーの『原始文化』という本がどうしても参考文献として必要だったのですが、古書でも入手できずに途方に暮れていたら、編集者の方が母校の図書館から借りてきてくれたのです。喜んだわたしは早速コピーを取って、『儀式論』を一気に書き上げました。そのとき、エマニュエル・トッドと同じく、極度の興奮状態にあったように記憶しています。

  

 研究者の脳みそというのはデータを蓄積するもので、特に歴史学者の脳には膨大な知識が蓄積されているとして、著者は「ですから、ぼうっとしているときというのは単に何もないところでぼうっとしているのではなく、じつは自分の脳である巨大な図書館のなかをさまよっていると言うほうが正しいのです。私も、自分のなかに図書館を持っています。図書館ですから、どんどん蓄積され続けています。それはあたかもコレクターのようなものです。インドの菜食主義についてのデータも使うかどうかわかりませんが、脳のどこかにストックされているのです。もちろん人間の脳ですから私も歳をとるわけで、すべてが残るわけではなく、ある程度は取捨選択もされます」と述べています。これは、わたしにもよく理解できます。

  

 「研究者とは旅人である」では、著者はデータの中をふらふらと散歩しているとして、「昔であれば研究所の資料室でデータ年鑑を眺めたり、今日ではインターネットでデータの検索をしたりというふうに。私は、インターネットというのは人々の生活を巨大な図書館に変えたツールだと考えてきました。インターネットというのは図書館なのです。インターネットに間違った情報がたくさんあるとはいっても、図書館でとんでもない本に巡り合うことも十分にありうることなのですから」と述べます。

  

 「仕事にヒエラルキーはない」では、本を読み続け、さまざまな情報を収集し、自分の頭のなかにデータを蓄積していくと、ある時点で自分の脳がデータバンクのようになってくるとして、著者は「いまの私は、頭のなかで地球上のあらゆる場所をナビのように周り、地域レベルでそれぞれの家族システムについて見ることもできます。家族システムのすべてを知っていますが、それは長年にわたって、情熱と喜びを持ってそれに関する研究をしてきた結果なのです」と述べます。

  

 「趣味の読書、仕事の読書」では、著者の仕事の95%は読書(残りの5%は執筆)であるとして、著者は「いまはメモを取りながら読書をすることは昔ほど多くはありませんが、それでも読書は研究に欠かせないことなのです。研究を進めるためには、とにかく事実(ファクト)を蓄積しなければなりません。読書というのはこの事実の蓄積に必要不可欠なものですし、その積み重ねによって、やがてあるモデルが立ち現れてきます。もちろん、蓄積したデータのすべてがすぐに役立つわけではありません。モデルの構築のために使われなかったデータは忘れられる傾向にありますが、メモやノートをのちのち読み返して思い出すこともよくあります」と述べています。

  

 著者がまだ趣味で読書をしていたころ、モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」シリーズは何度も読み込んだそうです。著者は、「それに、ルパンを読みながらとある方法論を見つけたこともあります。ルパンがあるときこう言うのです。『まだ十分に材料が揃っていない。とりあえず考える前に進まなければならない』と。これにはハッとさせられました。つまり、考え始めるにはまだ早いということなんです。もちろん、ルパンにとってデータの蓄積というのは波乱万丈の冒険を繰り広げることを意味するけれども、私の場合はとにかく文献を読み漁ることだという違いはあるわけですが。とにかく、このような読書をしていても、そこに自分の研究のためのヒントを見いだしてしまうのですから、もはや職業病と言ってもいいかもしれません」と述べます。

  

 「カニ歩きの読書」では、社会科学の諸分野を横断的に理解できたために最終的に気づいたことというのは、よい研究の進め方というのはカニ歩きのようなものだということだとして、著者は「カニというのは斜めに歩き、横に進みます。そういう進み方こそが研究に必要なのです。アイディアを得るために、そして思っても見なかったような事柄に気づけるようにするためには、その研究の柱となる部分から外れた読書をすることが大切なのです。研究の第一フェーズが読書です。どうやってアイディアを得るのか、そのために何をすべきかというと、ひたすらなんでも読むべきなのです」と述べるのでした。

  

 2「対象 社会とは人間である」の「社会から覆いを取り去る」では、本来の社会学というのは覆いを取ることだと指摘し、著者は「家族構造から思想を説明する――これが私の立場なわけですが――というのも同じようなことなのです。そもそも家族構造に関する仮説は、大衆的な社会政治的マルクス主義を1つの虚偽意識と見なすものでした。私はこれをすることによって、人々の自己イメージが実態とはかけ離れたものだということを見せてしまったのです。その結果、社会からひどい仕打ちを喰らうことは、社会学をする側からしてみれば当然のこととして受け入れられるはずです。我々は文化的な矛盾を生きています。あるいはそれはむしろ一貫性のなさ、支離滅裂さと言えるかもしれません。今日、誰もが個人の無意識について知っています。精神分析というのは中間管理職など教育を受けた層の人々から受け入れられたのですから。ところがそれでもなお、個人の無意識に表出する社会的無意識というのは受け入れられなくなってしまっているのです」と述べます。

  

 「社会を維持するための幻想」では、人類学は基本的には先進国社会を対象にしないとして、「なぜならば、『進んだ』社会というのは解放された社会であり、人生に意味を与えるために存在する非合理的な慣習などからも解放された社会であると認識されているからです。しかしそんなことはないのです。私のように平等主義のフランス人も、最初の原始人も、最も進んだ人間もみな同じであり、同じ遺伝子形態をもち、結局は死へと向かいます。そしてこの死への恐怖には同じように目を背ける必要があり、絶対的なものと定義される信仰を基盤とする組織化された共同体に生きる必要があります。そして、社会科学が探求の対象としているのは、このような存在としての人間であり社会なのです」と述べます。

  

 「精神分析による観察」では、著者はフロイトをたくさん読んだと告白し、「ですから私は彼の説く無意識の存在に完全に同意しますし、みずからの無意識について、年とともにますますその存在を受け入れられるようになってきました。この無意識は、とても緊張していたり、あるいは精神的に困難な状況に陥っているときに表出してくると気づきました。身体に表れたり、はたまた神経がやられることもあります。ですから、私は自己が1つであるとは思っていません。ちなみに無意識についてはこのように述べているのは私だけではありません。たとえば、アイザック・アシモフというSF作家がいますね。彼は科学者でもあったのですが、問題の解決方法がどうしても見つからないときは、映画を観て自分の無意識を働かせるのだと確か言っています。そして映画館から出ると、無意識が働いてくれて答えが見つかるのだというのです」と述べています。

 

 「合理主義と経験主義」では、フランスの合理主義という伝統を引き継ぐ哲学者たちがいると指摘し、著者は「彼らは自分の頭のなかを探って一般的に人間と呼ばれるものが何かを考えるのです。この最たるものが『我思う、ゆえに我あり』のデカルトです。哲学では、いつも意味の変化が含まれ、因果関係も意味のぼやけた言葉や概念によってゆがめられるのです。最終的には確かに、明白な論理展開が部分的に含まれてはいるものの、そのほかはぼやけている――私にとって哲学の世界とはこういう世界なのですフランス人はデカルト的な合理的精神を持っているといわれます。地に足のついた思考をする人々などとも言われますが、このデカルト的な精神の持ち主たちというのは、私にとってはその真逆で、現実離れした人々のことを指すと思うのです。このような精神構造とフランス人らしさというものを関連づけるということ自体が、フランスの国家的な幻想の中心にあるとすら私には思えます」と述べます。

  

 「歴史に語らせる」では、大切なのは歴史的出来事を時間に沿った配列として捉えることであるとして、著者は「たとえば宗教の危機は識字率の向上よりも前に来るとか、女性の地位低下という事象は技術発展よりもずいぶん前から始まるということなどです。これらは人間とはどのようなものかという仮説を1つも必要とせずに描くことができます。そして、それを通して結果的に人間とはどのような存在なのかが浮かび上がってくるのです」と述べ、さらに「この歴史的視点というのは人間を理解するうえでは、デカルトの『我思う、ゆえに我あり』よりも何倍も強いことだと私は思うのです。また、精神医学よりも、小説よりも強いものなのです。私はどちらかというと精神医学よりも小説のほうが人間の本質を理解するものとして力強いと思っていますが」と述べています。

 

 「すべては歴史である」では、とにかく歴史はすべてを含むとして、著者は「突き詰めれば社会学や人類学などもすべて歴史に含まれることなのです。アレキサンダー大王だってローマ帝国だってそうです。農業技術の発展も同様です。デュルケームの『自殺論』もそうです。自殺率が19世紀から1914年の第一次世界大戦にかけてブルジョワ社会で高まった、というのも歴史なのです。政治史も軍隊の歴史も心性史も、また経済史も、とにかくすべては歴史なのです。そしてこれこそアナール学派の遺産なのです」と述べています。

 

 そして、歴史は解釈によって異なるというのは確かですし、いろんな意見があるのも認めるけれども、その根底には覆すことができない真理があるとして、著者は「人間の社会が自分たちに対して嘘をつき続けたとしても、奥深くに歴史の真理というのは存在しています。もしかしたら歴史が終わるまで、その真理は人間からは隠され続けるのかもしれません。そうだとしても歴史の真理は存在し、私はわずかではあれ、その一部を理解したと思っています。確かに真理を求めるという戦いのなかで、私が社会に負けたものもありました。ですから、私の著作や私が見つけた真理がこれから先も社会に残り続けるかどうかはまだわかりません」と述べるのでした。

  

 3「創造 着想は事実から生まれる」の「『発見』とは何か」では、著者にとって思考することの本質とは、とある現象と現象の間にある偶然の一致や関係性を見いだすということ――つまり「発見」をするということであるとして、著者は「私には、方法論や抽象的な問いよりも、このことのほうが重要なのです。私にとって『発見』とは、変数間の一致を見いだすことを意味します。とはいえ実際のところ、社会科学の研究者の大半はたいした発見をしません。理系の学問と異なり、すべてを科学的に確認するわけではありませんから。その意味では私の態度はどちらかというと、理系の科学者に似ているのかもしれません」と述べています。

  

 「無意識での攪拌プロセス」では、アイディアを得ること、あるいは変量や変数の関係性や時間・空間における一致などに気づくことの裏では、なんらかの無意識のメカニズムが働いているということを指摘し、著者は「たんに膨大な情報をインプットするだけでは十分ではないのです。そうした情報を完全に咀嚼し、はっきりと意識されなくなるところまで、つまり無意識のレベルにまで深く沈殿させる必要があるわけです。それには時間がかかります。やがて、その無意識において別々の情報どうしが自然と攪拌され、あるとき新たなアイディアとして突然飛び出してくるのです」と述べます。

  

 「アイディアにどう向き合うか」では、著者のアイディアがきわめてシンプルなものだったからというのも、そうした不安に駆られた理由の1つでしたが、それだけではないとして、「ここで説明しておかなければいけないのは、私がこれを思いついた当時の時代背景です。その時代はちょうど家族構造に関する研究がものすごいスピードで発展していた時期でした。その一方で、思想界は非常に安定していたのです。私の発見というのは家族構造と思想の関連性でしたから、別の誰かが私よりも前にこの発見をしていても、決しておかしくなかったのです。発見した瞬間から、私にとってこの説はどう考えても明白なことだったので、誰かに越されるのではないかと非常に心配で、先を越されぬよう、本の執筆を大急ぎで進めたのです」と述べます。

  

 「自分の発見に驚く」では、デュルケームの『自殺論』は「19世紀の終わりに自殺をする人々はどちらかというと教育を受けた裕福な人々であり、貧しく教育を受けていない人々ではなかった」ことを発見するものだったとして、著者は「このような結果は驚きに値するものでしょう。ですから研究、発見としても意味があるものだといえるわけです。ちなみに、デュルケームの『自殺論』は私が崇拝する作品の1つです。私自身、昔からずっと統計的な観点から社会と歴史を認識するという方法に惹かれてきたこともあり、この著作には非常に魅了されるわけです。もちろん、私が使う統計は相関関係、回帰分析と残差ぐらいのレベルで、統計が大の得意というわけではありませんが。とにかく、デュルケームが自殺の規則正しさと、経済的、宗教的、あるいは家族レベルにおけるその他の現象とを関連づけて研究し、現代では相関関係、あるいは非相関関係と呼ばれるものについて、それらが発見される以前にすでに分析していたということは、もはや感動的ですらあります。もともと哲学の専門から出発した人物だからこそ、それは感嘆すべきことであり、心に響くのです」と述べます。

  

 「予想外のデータを歓迎する」では、人口統計学の祖の1人、ヨハン・ペーター・ジュースミルヒが『神の秩序』(1741年)という本を書いたことを紹介し、著者は「デュルケームにも言えることですが、初期の人口学者が発見したのは、毎年の観察を重ねると人口がいかに規則正しい側面を持っているかという点でした。たとえば、人口に対して毎年ある程度の死亡件数があり、出生件数がある、といった規則正しさです。彼らが驚いたのは、人口とその社会の規則正しさだったのです。ただ、私たちはその驚きが当然のこととなった時代を生きています。毎年どれだけ人が死んでいくのか、そのデータが見せる規則正しさに驚かされることは特にありません。もちろん、インフルエンザやエイズなどの影響もあったりはするのですが、自分自身がある程度安定した社会に生きているということも関係しているのだと思います」と述べています。

  

 著者が25ページくらいまでしか読めていなくても素晴らしいと思うのは、アインシュタインの相対性理論です。著者は、「そのころの物理学というのは壁にぶち当たっていました。それは相対性原理とマイケルソン=モーリーの実験に基づいた光速度不変の原理との矛盾でした。これらの2つは絶対的な矛盾として考えられていたわけです。しかしアインシュタインはここで、ではこの2つの原理が真実だったらどうなるか、と説くのです。そこからアインシュタインの相対性理論が生まれ、それまでのニュートン物理学を根底から再検討することにつながっていったのです。私自身がこのような偉大な発見をしていると言いたいわけではありません。驚くべきデータを排除しない、無視しないというのがいかに重要かということです」と述べます。また、アイディアを得るためには自分自身に自信を持つことが重要であり、「そうしなければ思い切ったアイディアも湧いてきません。自分に対してポジティブなイメージを持ち、そんな自分には何ができるのか把握することです」とも述べるのでした。

 

 4「視点 ルーティンの外に出る」の「外の世界へと出る経験」では、著者の知性の理想的なモデルというのはマルクスであるとして、著者は「もちろん彼の思想を私がたどることはありませんでしたが、マルクスの人としてのあり方、研究者としてのスタイルは私のモデルです。マルクスは私の知性面そして精神面での理想像と言えるでしょう。彼はドイツ系ユダヤ人でした。そして父親はルター派に改宗した人間です。その後、フランスに渡り、イギリスへも行きます。彼はドイツ語で書いていましたが、ドイツの思想を批判し、またフランスの階級社会を外からの視点で批判しました。さらに、イギリスの政治経済状況をも批判しています。なぜこうしたことが可能だったかというと、彼自身が宗教的なマイノリティ出身だったのみならず、その家系がその宗教から抜け出していたからでしょう。また、そのころ支配的であったヨーロッパの3か国を見たというのも重要な点だと思います」と述べています。

  

  「古典を読む意義」では、すでに亡くなった学者、マルクス、デュルケーム、マイケル・ヤングと、まだ生きている学者とのあいだに違いがあるかどうかはわからないが、ある意味では著者はすでにこの世にはいない人たちのなかで生きているとも言えるとしています。著者は、「なぜならば特に社会学、歴史学や人類学といった分野で、名作、古典と呼ばれるような作品がしょっちゅう生まれるわけではないからです。だから、たいていはすでに亡くなった人たちの本を読むことになります。私は死者たちと生きている、というのはそういうことです」と述べます。

  

 著者はマルクスをはじめ、ヴェーバーやデュルケーム、タルドなど、古典を本当によく読んだと告白し、「もちろん現代の研究者で大切な著作もあります。マクファーレンなどもそうですし、ル・ロワ・ラデュリ(1929年―。アナール学派を代表するフランスの歴史学者)やピエール・ショーニュ(1923―2009年。フランスの歴史学者)などもそうです。別に生きている学者を嫌っているわけでは決してないのですが、おそらくすでに死んでしまった人の書いたものが私の読書の90%を占めていると思います。古典と言われるものもありますが、ルプレの作品などは忘れ去られていたものです。こうした過去の書物を読むことで、現在に囚われない一歩引いた視点を持つことが可能になるのです」と述べています。

  

 「別の世界を想定する」では、SFというジャンルはイギリスが生み出したものであるとして、著者は「マイケル・ヤングはH・G・ウェルズなどを拠りどころにしています。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』やジョージ・オーウェルの『1984年』などもイギリスの作品ですね。イギリスにはSFと社会の未来とを結びつける伝統があるのかもしれません。とにかくヤングは、そうであるかもしれないような別の世界を構築し、そこから未来の社会を捉え直したのです。そして実際に今日、ヤングが描いたような社会が訪れているのです。私自身もSFはたくさん読みました。SFというのは自分で創造できる外の世界なのです。つまり、自分の社会を見るためにはそこから出なければいけないのです。井戸から出る蛙というような感じです。社会から逃げることが大切なのです。フィリップ・K・ディックのようにドラッグをしろとは言いませんが」と述べています。

 

 「機能しすぎる知性はいけない」では、脳があまりにも効率よく働いてしまう人たち、つまり出る杭にはなれない人たちからは新しいアイディアは生まれないと指摘し、著者は「軽い精神障害というのは、もしかすると研究にとってのアドバンテージになる可能性もありますね。自分の社会やすぐ目の前にある現実から少し外れたところにいるのですから。そしてそのことが大切なのです。私も若いころは、ずれていたことで少し苦しい思いをしたりもしました。学業は普通にこなせましたが、私自身、少し不思議な若者でしたし、精神面では苦しかったりしました。だからこそ読書に逃げていたのです。本は、それ自体が1つの世界ですから」と述べています。

  

 著者は、以下のように助言をまとめています。

(1)思考の面では自分の国に留まらず、

   外へ行ってしまいなさい

(2)SFを読み、想像の世界へ行きなさい

(3)すでに死んだ人の作品をより多く読みなさい

(4)恋愛面で危機にあるときほど研究に邁進しなさい

そして、著者は「こうしていつもとは違う刺激が与えられることでアイディアが浮かぶ、つまり思考が進むのです。私の場合は感情面で不安定になったときにも、思考が一歩進むという経験をするのですが、外的な刺激によって思考がルーティンから出るということが重要なのです」と述べるのでした。

  

 5「分析 現実をどう切り取るか」の「今現在から逃れること」では、著者の情報の多くは本から来ているとして、「書籍というのはテレビなどに比べてある事象を遅れて伝える媒体と言われますが、私は統計年鑑などからデータを取り、基本的な変数を見て、総合的に考察するのです。それに統計が現在という時間に対して遅れをとってしまう点は、インターネットの出現によってかなり改善されたと思います。いま、統計は1年から2年程度の遅れですが、昔は3、4年は遅れていました。でも統計こそが、物事の傾向と発展について明確にしてくれるのです」と述べます。

 

 7「倫理 批判にどう対峙するか」の「フォーマット化される知性」では、日本でも教育が人々をフォーマット化するということで批判が起きていると思うとして、著者は「日本文化が目上の者を敬うということを踏まえた規律正しい文化に基づいているため、そこに発生する問題というのは、そうした規律への圧力から知性の自由をいかに守るかということなのだと思います。それは知的な分野においての自由もそうですし、決断をするというところでも見られるものです。映画『シン・ゴジラ』でも、誰が責任を持って決断するかということが柱となっていましたね。でもこれは日本の「文化的側面」なのです。他方で強調しておきたいのは、フランスやイギリスのようなもともと個人主義的な文化のある国々においても、この種の順応主義のメカニズムというのが台頭してきているということなのです。個人主義社会においても、同じような問題が発生してきているのです」

  

 「複数の自己」では、西洋の個人主義では、すべてが個人ありきで始まるとして、著者は「個人のなかには、たった1つの、すべてを統制する自我が存在する――こうした想定が個人主義的文化の基盤にあります。それと対照的なのが、こうした自我の存在というのはそもそも幻想であるとする仏教的な考え方だと思います。仏教では「私」や自己の存在を明確に否定していますね。この『私』というものについて、非常に関心を抱いているのです。そして私自身としては、両者の中間の考え方に落ち着いています――たぶん複数の私がいるのだと。私は哲学的に自己の存在を否定する立場ではありませんが、いくつもの私があるというのが持論です。研究者としての私、フランス人としての私、4人の子どもの父親としての私などといったように」

  

 「最悪の事態を予期できないわけ」では、著者は「人間は、死ぬということを知っている動物です。だからこそ、人間として心地よく生きていくためには、この点について忘れる必要があるのです。目をつぶる必要があるのです。ですから、人間を構成している遺伝子のなかに、つまり生物学的にも生理学的にも、理性を忘れるという機能がサブプログラムとして組み込まれていると思うのです。宗教などよりもさらに奥深い部分の話です。とにかく、死については考えてはいけないのです」と述べますが、この発言は納得できません。死について考えることは哲学的営為であり、人間ならではであると言えるからです。

 

 8「未来 予測とは芸術的な行為である」の「家族構造との関連性」では、新型コロナウイルスが明らかにしたことの1つは、グローバル化というのは社会発展の単なるステップではなかったということであると指摘し、著者は「つまり、それは卑劣な金融の思惑であり、西洋社会の一部を後進国状態にしてしまったのです。こうして自国に生産チェーンを保持した国々というのは、ドイツやオーストリア、日本、韓国、つまり直系家族の国々なのです。私にとってそれは悲しくもすばらしいことです。そして最も被害が大きかった国々を見てみると、フランスというのはドイツよりもイタリアやスペインに近い状況です。また驚くべきことは、人口10万人当たりの死亡者数でイギリスがフランスを抜いてしまった点でしょう。アメリカについては、これからいろいろとわかってくると思います」と述べています。

  

 厳密な意味でいう核家族であり、フェミニズム的な西欧社会の出生率の高さという利点は、高齢者層での死亡者数の増加よりも重要であるとして、著者は「もちろん高齢者を大切にするという価値観はすばらしい面もありますが、人間社会の運命というのは、生産をし、若者たちを育てるということに尽きると思うのです。もちろん、人々を傷つけたくて言っているわけではありません。私自身が高齢者層に所属しますが、こう思うのです」と述べます。

  

 他の人がどうかはわからないけれども、著者の思考の方法というのは、どこかしら芸術家のような部分があるのだと思うとして、著者は「芸術的というのが何かと言われると定義が難しいのですが。芸術的な身ぶりはとても短い瞬間に見られるものですが、その身ぶりに凝縮されているさまざまな要素というのは、1つ1つを取り出してみればそれぞれは非常に合理的なものだったりするわけです。そこには多くの知識や職業的経験が含まれています。それはまるで、それまでのことが結晶化したようなものです。そこには本当かどうかわからないもの、特別なもの、いろいろなものが含まれるのです。予測という行為には、これまで私が得てきた知識、研究、アイディア、理論、価値観、そうしたすべてが含まれているのです」と述べます。

  

 歴史学者として、著者は膨大な知識を蓄積してきました。歴史の多くを知っているし、家族システムについても膨大な知識を持っているとして、著者は「決して傲慢な態度を取りたいわけではありませんが、自分はプロフェッショナルであると私は思っています。たとえば整備士がプロであるのと同様に。私が知識人かどうかはともかく、知識人に本当に必要なのは、プロフェッショナリズムなのだと思うのです。プロの仕事や手つきには、おのずと芸術性が宿るものです。なによりも、リスクを負う、思い切る勇気がある、というのがこの私が言うところの芸術的な学者の条件なのです。このリスクを負えるかどうかは、その性格以上に、その人自身が社会にどのように関わっているかということにかかっているのです」と述べるのでした。本書は、日本の読者向けに書かれただけあって、これまでの著者の本と比べても非常に読みやすかったです。