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力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』

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No.1961


 『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』森合正範著(東京新聞)を読みました。名作漫画『あしたのジョー』の力石徹のモデルになった、天才空手家の全貌を紹介する本です。一条真也の読書館『強者の流儀』で紹介した本の著者である格闘家の朝倉未来は極真空手出身で身長177センチですが、本書の主人公である山崎照朝は極真の第1回全日本選手権大会で優勝した空手家ですが、身長がやはり177センチ。体重も朝倉未来とほぼ同じということで、興味深く読みました。ちなみに、わたしの身長も177センチなので、体格のイメージがよくわかります。

  

 著者の森合正範氏は1972年、横浜市生まれ。スポーツ新聞社を経て、2000年、中日新聞社に入社。東京中日スポーツでボクシング、ロンドン五輪を取材。中日スポーツで中日ドラゴンズを担当し、2015年から東京新聞運動部記者として、ボクシングとオリンピック競技を中心に取材活動をしています。本書の内容は、2013年に「東京中日スポーツ(中日スポーツ)」で連載した「山崎照朝空手バカ一代記」を大幅に加筆、再構成したものです。インタビューでは山崎自身が師・大山、先輩・芦原英幸への偽らざる思い、後継者、理想の空手道を熱く語っています。

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本書の帯

  

 本書のカバーには、「あしたのジョー」の漫画家ちばてつやが描いた力石徹とともに、空手着姿の山崎照朝が構えている写真が使われています。帯には、漫画家・板垣恵介が描く範馬刃牙の回し蹴りの絵とともに、「『山崎照朝がいなければ、バキのあの回し蹴りは生まれなかった』『刃牙』シリーズ 板垣恵介」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には、上半身だけ空手着で、下はキックボクシングのトランクス姿の山崎照朝が蹴りを放っている写真が使われ、「本人の証言と関係者の取材で初めて明かされる」「梶原一騎から寵愛され大山倍達の空手を体現し、『キックの鬼』沢村忠と並び称されたクラッシュ・ギャルズの師匠の半生」「山崎空手の真髄『待ち拳』を動画で紹介!」と書かれています。

  

 カバー前そでには、「梶原が書斎から大きな体を揺らし、ゆっくりと現れた。山崎の目をじっと見て、少し興奮した口調で言った。『ジョーにライバルができた。力石っていうんだ。おまえがモデルだ』。その言葉を聞いても、何も感じなかった。ただうなずくだけだった。(本文より)」と書かれています。

  

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 力石徹はおまえだ

第2章 大山倍達と石橋雅史

第3章 「戦国キック」参戦

第4章 第1回全日本選手権の衝撃

第5章 梶原兄弟との決別

第6章 クラッシュ・ギャルズ

第7章 空手道おとこ道

山崎照朝を語る

1.浜田剛史「冷たい水のような冷静さ」

2.及川宏「不器用な生き方をする天才」

3.佐藤勝昭「品格が高い空手を実践」

4.大石代悟「まねできない異次元の才能」

5.山崎照道「ずば抜けたスピード、切れ」

6.長与千種「他人の敷いたレールを歩かない」

7.ライオネス飛鳥「『任された以上は』の責任感

Interview「極真の竜」、語る

山崎空手の真髄「待ち拳」

山崎照朝の軌跡

参考文献

  

 本書の主人公である山崎照朝は1947年生まれ。国際武道連盟「逆真会館」館長。空手道の段位は七段。異名は「極真の龍」。空手道の1つの理想的な組手を、フルコンタクト空手で示したことにより、歴史に残る空手家だと評価されています。アメリカの武道雑誌「ブラックベルト」にもその名は刻まれており、真剣を思わせる切れ味鋭い技で、自らは傷を負わずに対戦相手をバッサリ斬ってとるファイティングスタイルから、キックボクシングでも「幻の名選手」と評されました。選手を退いてからは「中日スポーツ」「東京中日スポーツ」の格闘技評論家・ジャーナリストとして活躍し、ボランティアで空手を指導。日本大学農獣医学部卒業。 

 

 その山崎がモデルになったという力石徹とは、梶原一騎原作・ちばてつや漫画の「あしたのジョー」に登場するボクサーで、主人公・矢吹丈の最大のライバルです。本書の第1章「力石徹はおまえだ」では、ボクシング漫画の金字塔である「あしたのジョー」について、以下のように書かれています。
「全共闘世代の間で『手にはジャーナル(朝日ジャーナル)、心にマガジン』が流行語になるほど、『週刊少年マガジン』は若者の心をつかんでいた。その中でも『あしたのジョー』は一部の若者たちからバイブルのような扱いを受ける。どん底から這い上がってきたジョーは反体制側。白木財閥の後ろ盾を得ている力石は体制側。登場人物の二人はそれぞれの象徴とされ、『あしたのジョー』は時代と重ねられた」 

 

 力石はジョーとの激闘の末、勝利しながらも絶命しました。過酷な減量が彼の命を奪ったのです。1970年(昭和45年)3月24日、「力石徹が死んだ あしたのジョーのファンの集い」と題された力石の葬儀・告別式が実際に行われました。場所は東京都文京区の講談社6階の講堂。葬儀はアングラ劇団の「天井桟敷」を主宰する寺山修司が中心となり、午後3時から5時まで約800人の弔問客が駆けつけました。会場は人であふれ、入りきれなかった100人にはお土産を渡し、帰ってもらったといいます。力石の存在の大きさには、列席した梶原・ちばコンビも驚いたようです。彼らには体制云々の意図はなく、この場の反響にも複雑な思いがありましたが、身震いするような責任も感じたそうです。帰りの車中で、二人は「物書き冥利には尽きると言えば尽きるな。だけど、これからが大変だ」と語り合ったとか。

   

 「あしたのジョー」の原作者として時の人となった梶原一騎は、ボクシングから空手に題材を変え、「空手バカ一代」をスタートさせます。梶原が気に入った空手家が山崎照朝でした。「山崎の強さに惚れ込んだ梶原」として、著者は「1971(昭和46)年5月から『週刊少年マガジン』で梶原原作の『空手バカ一代』(作画・つのだじろう、影丸譲也)の連載が始まる。極真会館の創始者である大山倍達の半生、その後は芦原英幸を中心に大山の高弟が築く極真空手の隆盛を虚実交えて描いた漫画である。その中で梶原は山崎を『日大の竜』『極真の竜』と名付け、極真の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に優勝するまでの軌跡をたどった。その後も『天才』『華麗』と称し、随所に山崎を登場させた」と書きます。

 

 空手を修行しようとしたキッカケは、山梨県立都留高等学校の入学式に番長グループから「身体がデカイのが気に入らない」と因縁を付けられたことでした。番長グループの1人が空手使いだったことから、このとき空手道という武道があることを初めて知り、興味を抱いたそうです。八王子市にある最も近い道場にその空手使いが通っていたことから、他を探していたところ、池袋にある空手道場の広告を見つけました。東京都に住んでいた姉へ遊びに行くことを口実にして、見学してみようと極真会館本部道場を訪問。当時は「空手なんて不良がやること」という風潮があり、山崎の両親が空手の修行に反対することはわかっていたので、極真への入門は内緒にしていました。そのため、東京へ通う口実として「歌手になりたいから、東中野にある歌謡スタジオに行きたい」と頼んで了承をもらったのでした。

  

 山崎が入門した極真会館は大山道場から刷新された直後。指導内容は大山道場時代からのものをそのまま踏襲しており、館長の大山倍達を筆頭に、大山道場時代からの師範代である石橋雅史・黒崎健時らが指導を行っていました。先輩には「空手バカ一代」の天才空手少年・有明省吾のモデルである安田英治をはじめ、大山茂・大山泰彦・郷田勇三・藤巻潤・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸らがいて、共に稽古を重ねました。後に芸能界で活躍する千葉真一や藤巻潤もいました。今から考えたら、すごいメンバーです。当時の極真の組手はノールールで、何でもありでした。著者は、「練習では当たり前のように顔面を狙ってくる。手にタオルを巻いているのは組手をおもんぱかってのことではない。自らの拳をけがしないため、相手を床にたたきつけることもあれば、急所だって蹴ってくる。投げるだけでなく、髪の毛をつかんで引きずり回す者もいた。それも技のうちだった。一方が『参りました』と言うまで組手は続いた」と述べます。 

 

 そんな中で、山崎と切磋琢磨し、のちに「城西の虎」「極真の虎」と呼ばれる添野義二との出会いがありました。添野は山崎に最初に会った日のことを覚えており、「俺は高校のときに暴れてネリカン(東京都練馬区にある東京少年鑑別所)に入れられて、空手をやっちゃいけないと......。その後、道場に戻ってきたらあいつが来ていたんだ」と語っています。2人は同じ1947年(昭和22年)生まれですが、添野のほうが山崎より3ヵ月ほど早く極真の門を叩きました。まだ池袋の本部道場が完成する前で、前身の大山道場の頃でした。小学校から柔道に励み、空手は極真の前に別流派の和道流の道場に通い、腕を磨いていました。添野は、「やっぱり極真は荒かったよな。山崎は本人も努力したんだろうけど、普通の人とはちょっと違うよな。初めて会った瞬間から光るものを感じたから。努力型ではなく天才型だよ」と語っています。 

 

 道場でひときわ存在感を放っていたのは、「ケンカ十段」の異名を持つ芦原英幸でした。その空手は荒々しく、ケンカそのものでした。著者は、「多くの強者が芦原を敬遠する中、会うたびに『お願いします』と言って、手合わせをした。芦原はニタッと笑い、『よし、やろうぜ』と勢いよくやってくる。山崎は守るのに精一杯だった。だが、絶対に下がらない。芦原が向かって来たら、山崎も前に出る。1ミリたりとも下がらない。どんな体勢になっても、倒れたとしても芦原から目をそらさない。そう心掛けていた」と書いています。山崎は、「俺は芦原先輩がいたから強くなったんだ。強い奴らにはあらゆる手を使ってでも勝ちにいく。先輩からそういう姿勢を学んだ。極真は荒っぽくて有名だったけど、俺にとっちゃ当たり前。他の空手を知っていたら『こんなの空手じゃない』と言えるけど、俺はあれが当たり前の空手だと思っていたな」と語っています。 

 

 極真会館館長の大山倍達は稽古後に必ず訓示を述べましたが、剣豪・宮本武蔵や武士道について説くことが多かったそうです。親交のあった史上最強の柔道家・木村政彦や彼を「昭和巌流島の一戦」で倒したプロレスラーの力道山がいかに稽古をしていたかをしていたかを語り、「それに引き換え、君たちは......」と説教に及ぶこともありました。山崎は、「館長が『木村政彦は激流の川で何時間も砂取りをして足腰を鍛えた』と言うんだ。俺も普段の生活を稽古に変えようと考えた。山梨の畑仕事でも仕事と思うと辛い。でも、トレーニングと思うと楽しくなってくる。頭を切り替えて、畑に行くのは体力作り。彼は道場で磨けばいい。山道をジャンプして歩いたり、河原に行けば、石を割ったりしてな」と語っています。

  

 一条真也の読書館『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介した本に詳しく書かれていますが、木村は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」「鬼の木村」とうたわれた最強の柔道家です。著者は、「山崎は自らを木村の鍛錬と重ねることによって、師・大山に少しでも近づこうとしたのである。ぶどうや桃の荷運びだけでなく、重労働の土方仕事や石運びのアルバイトにも精を出した。重い壁石は約30キロもある。それを2つ、約60キロ背負い、足場の定まらない山道を歩く。道場に行けない日はアルバイトに励んだ。日常生活が稽古になっていた」と書いています。 

 

 山崎は入門2年4ヵ月で黒帯という最短記録を残します。茶帯になった頃から、道場破りの相手をすることも多くなりました。道場破りが来ると、大山は「よく教わりなさいよ」と野太い声で言いましたが、これは極真の道場生だけが知る隠語でした。山崎は当時を思い出して、「館長が『よく教わりなさいよ』と言ったら、相手を殴れ、倒せ、伸ばしちゃえ、ということ。館長はじっと黙って見ている。それで『うーん......』と唸りだしたら、何をやっているんだ、早く伸ばせ、ということ、それはもう緊張感があったな」と語っています。隠語は他にも「当てるな」というものがありましたが、これも「よく教わりなさいよ」と同じ意味でした。相手を伸ばさないで道場から帰すと、大山からひどく叱られたそうです。 

 

 第3章「『戦国キック』参戦」では、K-1ブームを上回る往年のキックボクシング・ブームについて書かれています。1969年1月、TBS・日本テレビに続き、NET(現、テレビ朝日)が「ワールドキックボクシング」の放映をを開始します。NETはムエタイ選手や日本拳法空手道ら空手の各流派に出場要請をして選手集めをする他、極真会館へも同年2月に参戦依頼をしてきました。大山倍達は当時の高弟から山崎・添野義二・及川宏を選出して極真ジム所属のキックボクサーとして参戦させ、彼らは「極真三羽烏」と紹介されました。 

 

 山崎は「目立つのが好きじゃないし、プロになるつもりはなかった。だがNETは「キックの鬼」として有名だった沢村忠の30連勝をストップしたルンピニーランカーのカンナンパイ・ソントーンを対戦相手に用意していることに心引かれ、『1、2戦のみだけではだめですか? キックボクシングがどういうものか知りたいし、そのカンナンパイと戦ってみたいのですが......』と大山館長にお願いした」と吐露しています。極真ジムとして参戦していたので、セコンドには佐藤勝昭など門下生がサポートしましたが、山崎ら3名にとって、わずか2ヵ月の準備期間で他格闘技のリングに上がることは無謀でした。 

 

 その頃の山崎は「俺は極真カラテ一筋。他格闘技は意地でも習わない」という考えでしたので、まさに「空手対キックボクシング」の異種格闘技戦でした。山崎は「米軍のキャンプ座間の道場生には身長2m近く、体重が90kg以上の身体が大きい者ばかりが十数人いて、中にはボクシングをやっている道場生もいた。彼らを相手にして体力負けしない技を研究し、組手していたから、同じ体重なら絶対負けないという自信はあった。パンチもある程度慣れていたし、それが試合をする時に支えになった」と述懐しています。大田区体育館でデビュー戦を迎えた山崎の対戦相手は、ムエタイのライト級6位のピサタン・ラートカモルでした。左前蹴りから右上段回し蹴りと繋ぎ、ラートカモルがよろめいたところを右ストレートで2R45秒でKO勝ちしました。 

  

 2戦目で希望していたカンナンパイとの対戦が実現。試合開始後、山崎は第1戦と同様に前羽の構えで相手からの攻撃を待っていました。カンナンパイはしばらく様子を見ていましたが、微動だにせずにいる山崎に痺れを切らし、右ローキックで攻撃してきました。山崎は左脛でブロック後、逆襲に転じます。左右の前蹴りをカンナンパイの鳩尾へ入れ、息を詰まらせ戦意を失いかけているカンナンパイに止めの右ストレートを打ち込み、1R1分33秒でKO勝利しました。カンナンパイは「山崎のパンチは石で殴られたような強烈なものだった」と敗戦のコメントを残しています。カンナンパイは試合後、あまりの山崎のパンチの痛さと硬さを信じられず「ヤマザキはグロープの中に石を入れている!」と抗議したほどでした。 

 

 第4章「第1回全日本選手権の衝撃」では、1960年代後半、日本船舶振興会の笹川良一が会長を務める伝統空手の全日本空手道連盟(全空連)が極真に対して傘下に入るよう提案するも、大山が拒否した経緯が説明されています。以後、寸止めの伝統派と極真は対立しました。空手が柔道のように1つになることはなかったのです。大山いわく、柔道においては武徳会、講道館があった時、互いが切磋琢磨して日本の黄金時代がありました。空手界を1つの集合にするのはナンセンスであり、互いに競い合うところに空手の発展があるのではないかということです。 

 

 そして、1969年9月、極真会館主催の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が開催されました。他流派の空手選手はもちろん、柔道家やキックボクサーまで加わった参加選手は48名でA・B・Cとトーナメントが分けられ、それぞれ勝ち上がった選手同士で決勝リーグ戦を行う形式でした。選手権前の心境を山崎は「直接打撃は問題ないが、『オープントーナメント』と謳っている以上、どのような挑戦者がエントリーしてくるのか、気がかりであった。架空の敵を想定しながら稽古を続け、大山倍達館長も色々と細かいアドバイスをして下さり、大変参考になり何より心が落ち着いた」と振り返っています。その一方で、「何としても負けられない。私か添野義二か、どちらかが全日本のチャンピオンになると......。もし、我々極真カラテの黒帯が他流派や他の格闘技者に負けたら極真カラテはそこで終わってしまう」と、精神的重圧が相当なものであったことを認めています。 

 

 このプレッシャーに負けず、山崎はキックボクシングで使った前羽の構えや、円心の構えを対戦相手に応じて変え、従来の空手道にムエタイの技を加えた攻撃で、ほとんどの試合を一本勝ち。決勝リーグ戦に進出し、残り2つのトーナメントから添野・長谷川一幸が勝ち上がってきました。この三者で行われましたが、山崎は添野を判定で優勢勝ち・長谷川には回し蹴りで一本を決め、見事に優勝を飾りました。当時は「組手試合」の他に、厚さ2.8センチメートルの杉板を使用した「試割り試合」もあり、正拳3枚・足刀4枚・手刀5枚・エンピ4枚の計16枚で優勝を果たし、ダブルタイトルを獲得。山崎はこの喜びを白帯時代に指導を受けた石橋雅史へ連絡し、謝意を示しています。 

 

 大会後、師・大山からは「きみ、木村政彦は10連勝だよ!」と声をかけられ、山崎は「押忍」と答えています。著者は、「山崎の優勝は大山にとって至極当然。祝福より、出てきたのは先を見据えた言葉だった。大山は、希代の柔道家で全日本王者に13年間君臨した木村政彦の名を挙げ、山崎を鼓舞した。『1000人の弟子よりも、1人強い男がいれば格闘界を制圧できる』という思惑があり、山崎を空手の象徴にしたかったのである」と書いています。しかし、山崎の心に大山の言葉は響きませんでした。彼は、「日本一といえども、空手には流派があって、これはたかが一流派の大会。それは柔道だったら違うのかもしれないけど、俺には優勝とか連覇の価値が分からなかったし、まったく興味が湧かなかった。元々、俺はルールのある試合に勝ちたいのではない。喧嘩に強くなりたくて始めた空手だからな」と語っています。 

 

 しかし、「全日本優勝の歴史的意義」として、著者は「山崎の思いとは裏腹に、海の物とも山の物ともつかない第1回大会で優勝した意味は大きかった」と述べています。「妖刀村正」の異名を持つ大石代悟は、山崎が果たした歴史的役割について、「もしあのとき、他流派に負けていたら今の極真はない。大山倍達の名に傷がついた。山崎先輩がいたから今の極真がある。1ページ目があるから今のページがあるんです」と解説します。著者は、「『牛殺し』の大山は世に知られていても、実際に大山の試合を見た人はいない。大山の悲願、全日本選手権大会で『喧嘩空手』『実戦空手』が本物であり、華麗であることも証明した。当時はタブーの大会。それでも今なお50年以上続く極真の全日本選手権大会。師・大山の空手を第1回優勝者の山崎が体現したのである」と書いています。 

 

 山崎はキックボクシングでも活躍しました。「キックの鬼」沢村忠を倒したサマンソー・アディソンやカンナンパイ・ソントーンといった本場タイの強豪を破ったことによって、同じライト級ということもあり、「沢村と山崎はどちらが強い?」と言われました。沢村が活躍したTBSのキックボクシングには「演出主体」という声が多かったことも事実ですが、沢村は紛れもない実力者でした。1969年末から70年にかけて、玄人筋の間では沢村より山崎の評価が高かったようです。ただし、沢村は1966年(昭和41年)から76年(昭和51年)までの10年間で241戦232勝228KO5敗4分けですが、山崎は8戦6勝(6KO)2敗です。対戦相手は全員タイ人。黒星は1969年(昭和44年)のカンナンパイ戦と71年(昭和46年)のビラディック戦。いずれも、すでに、一度KO勝ちした相手でした。山崎にとって「再戦」は余興だったのです。 

 

 1970年の第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会では、再び決勝リーグ戦を山崎・添野・長谷川一幸の三者で争われました。山崎と添野の対戦は回し蹴りと突きとの応酬となりましたが、2回の延長戦(6分間)の後、山崎が下段逆突きを決めて添野に勝利。続いて長谷川との対戦では試合開始から約20秒が経過し、山崎が間合いを詰めてすり寄ってきたところ、長谷川が絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め、一本となり山崎に勝ちました。長谷川は添野にも勝ち、長谷川の優勝。山崎は準優勝で終わりました。その後、山崎は選手を引退しています。 

 

 1972年の秋、選手を引退していたものの大山倍達の命令で、山崎は第4回全日本選手権に2年ぶりに参戦。決勝リーグ戦進出を決める試合で英国のハワード・コリンズと対戦します。戦前の予想では山崎が圧倒的有利でしたが、コリンズの右上段回し蹴りが首を捉え、山崎はガクっと膝をついてしまいます。技ありを取られた山崎は残り時間に必死の反撃をしますが、試合は終了し、コリンズの勝利となりました。コリンズは「山崎センパイに勝てたのは偶発的なもの。決して実力ではなかった。万にひとつの奇跡に近い勝ち方だった」とコメントし、山崎は「負けは負け。言い訳はできないよ」とそれぞれ語っています。 

 

 この第4回大会では、Aブロックがコリンズ、Bブロックが三浦美幸、Cブロックが佐藤俊和が勝ち上がり、決勝リーグは三者で争われることになりましたが、「まだ外国人を優勝させるわけにはいかない」という大山倍達の意向が大会特別主審の中村忠と大山茂に伝えられたといいます。それを知った山崎は怒声混じりで「そんなの構わないですよ、正々堂々とやらせてあげてください」と懇願。結果、優勝は三浦で、コリンズは準優勝でした。山崎は、「(第4回の)コリンズの話もそうだけど、当時の極真はそういう大会だったと思う。全部のカード、館長が決めている。館長の手の中にある。館長の思惑や私情が入るのが、俺が出ていた頃の大会。俺が自分から『極真チャンピオンです』と言わないのはそういうこと。館長はアメリカでプロレスを見て来たからヒーロー、スターをつくるのがうまい。梶原先生が描きやすいストーリーというのかな。第5回大会もどういう大会になるのか、だいたい分かっていた。世界大会の話も出てきて、そこも視野に入っていたんだろうな」と語っています。 

 

 1973年の第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会は決勝リーグ戦がなくなり、64人の選手が参加する1日のトーナメントとなり、決勝まで進めば6試合を行う形式となりました。山崎はゼッケン64のシード選手でエントリー、準々決勝までを華麗というほかはない技の冴えで対戦者を圧倒して、快調に勝ちあがっていました。準決勝戦の相手は佐藤俊和。序盤から俊和が前蹴り・左上段回し蹴り・右中段回し蹴りで攻めてきました。山崎はそれぞれ受けた後、右ローキックから左右のハイキック2連発、左前蹴りと逆襲。今度は俊和が右下段回し蹴りを出しましたが、それを山崎が左脛でブロックし、右のハイキックで逆襲しようとしたら、いきなり俊和が足を引きずり場外へ自ら出ました。主審の中村忠が試合を中断して、リングドクターに俊和の右足を診断させます。ドクターは続行無理と進言。中村は山崎のTKO勝ちを宣言し、山崎は決勝戦に進出しました。 

 

 決勝戦は佐藤勝昭を破った盧山初雄が対戦相手でした。試合開始後、山崎は円心の構え、盧山は前羽の構えで対します。山崎が間合いをつめ、右ローキックから左ハイキックの2連発、軽快なフットワークから左前蹴りを繰り出せば、盧山は右ローキック、右の正拳突きで逆襲。盧山は右の三日月蹴りを出しますが、山崎は左肘と左膝で挟み受け。山崎の蹴りに合わせる様に、盧山は中段に正拳突きを出します。盧山が突き、山崎は懐の深さで捌いて上段に蹴りを放ちます。そんな緊迫した攻防に観客だけでなく、関係者のほとんどが息をひそめるように見入っていました。キックボクシングを体験した両者は、当時主流であった限度間合いからの攻撃ではなく、誘導間合いか相応間合いで積極的に攻防して、試合が終了しました。判定に持ち込まれ、4対1で盧山が初優勝。山崎は惜敗したものの、選手権大会前の状況を知っている関係者は、山崎への賛辞を惜しみませんでした。

  

 第7章「空手道おとこ道」では、「刃牙」シリーズで知られる漫画家の板垣恵介が登場します。著者は、「板垣は漫画のキャラクターに実在の人物を投影させることが多い。範馬刃牙は格闘家の平直行。愚地独歩は大山倍達と中村日出夫、渋川剛気は合気道の達人、塩田剛三。山崎に関して言えば、モデルにしたことはない。言い換えれば『特別』なのかもしれない」と書いています。板垣は、「照朝さんはもっぱら回し蹴りだな。回し蹴りのシーンがあると照朝さんのことを思い出しながら描くんだ。俺は回し蹴りを描きたいんだよ。大好きなんだよ。描いていて気持ちがいいし、ああここで、回し蹴りのチャンスだな、と思ったら、俺は出すもん。この流れでいったら、出せるなというときは必ず描くんだから」と語っています。著者はさらに、「梶原一騎が山崎を力石徹のモデルにした『あしたのジョー』。板垣が山崎の回し蹴りを投影した『刃牙』。昭和を代表するボクシング漫画と、平成を駆け抜け、令和をも突き進む格闘技漫画が山崎を通じて結びついた」と書いています。素晴らしい名文ですね。 

 

 Interview「『極真の竜』、語る」では、著者の「取材中や雑談のとき、山崎さんは冗談でも大山館長のことを一切悪く言わなかったですね」という問いかけに対して、山崎は「言うわけないじゃん。館長は儒教の教えだと思うんだよな。俺のお袋がいつも『侍は......』と言っていたのと、館長の言葉が重なるんだよ。『男は敷居を跨いだら七人の敵あり』『獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす』とかよく格言を言うんだ。それが素直に入ってきたな。大山倍達を尊敬しているよ。俺はずっと館長に『押忍』と言ってきた。もし、少しでも疑問があったら、付いていかないよ。技一つでもそう、館長がこうやって(構えて)も誰もまねをしないんだ。大山茂先輩とか、あのへんのクラスしかやらない。ましてや、大会が始まってからは誰もやらなくなった。俺はさ、その大山倍達の構えを組手や試合で使ったんだよ。だから、館長は喜んだ。俺は実践した。体現したから、館長(の強さ)を証明している。構えからさばきから、納得したから使ったんだよ」と答えています。 

 

 また、「あとは芦原英幸さんのことも強調されていましたね。インタビューが掲載された雑誌などで誤解されていると話していました」という著者の問いかけには、山崎は「要するにね。、芦原先輩の凄さを知らない。道場では当てっこなんだよ。顔面、金的、急所でもいい。反則というのは技なんだよ。反則だから使わないというのはその人の考え方。だけど、反則も技と考えたらそれを極めるのが一番強い。そういう論理。組手を教えてくれたのが芦原先輩。顔面や金的をすぱっと蹴る。百発百中でできる人はいない。外れたら、反動がある。組手は『巧いことをやりやがって』と向かってくる。そのリスクも計算の上でやるから。そういうのをさらっとやるのが芦原先輩。普通の技のようにやるんだよな」と答えていますが、凄い話ですね。 

 

 そして、「第1回大会の動きが理想だったと話していましたね。あとは新聞連載(2013年)から、空手で大きく変わったことがあります。東京五輪の追加競技に選ばれました。山崎さんは記者として、寸止めの全空連(全日本空手道連盟)を精力的に取材していますね」という著者の問いかけに対して、山崎は「フルコン(フルコンタクト、直接打撃制)は寸止めできない、寸止めは実戦ができない、と思っているだろ? でもな、同じなんだよ。何で区切るんだよ。ルールになったら、そのルールでやればいい。両方ともできなきゃいけないんだ。極端に言えば、急所(攻撃)も技とし(て認められ)たら、それで練習をする。寸止めの時にはそれを省いた中でやればいいんだ。なぜ、そういう発想にはならないの? 発送を変えればいい。それなのに、フルコンと寸止めを頭から区切るんだもん。それでは自分を磨けないよ」と答えるのでした。 

 

 本書を読み終え、わたしは「山崎照朝こそは真のサムライだな」と思いました。会社勤めをしながら、十分に納得できる稽古を積めずギリギリまでやった山崎は、限界まで来たと決断して大山倍達に道着を返しました。結果的に第5回全日本選手権が最後の出場となりましたが、参加した選手権全てに入賞する安定した成績を残しました。山崎は「空手をメシのタネにしようとは思わなかった。それは武道を汚すことだし、僕には多年培ってきた極真精神だけでよかった」と語っています。実にあっさりした引退でしたが、その後も空手の指導料も一切取らず、空手に関する著書の印税も極真会館に寄付する徹底ぶりです。まったく金に執着しなかった山崎ですが、「空手バカ一代」のレコードB面の「空手道おとこ道」を歌っているとは知りませんでした。A面のアニメ主題歌は子門真人が歌っていますが、歌唱力では負けていません! ちなみに、この歌の歌唱印税は梶原一騎から貰ったものの、空手仲間(盧山初雄)がヤクザを伸ばした慰謝料のために全額カンパしたとか。どこまで漢なんだ、山崎照朝!