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積読こそが完全な読書である』

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No.1945


 自民党の総裁選が行われる14日、東京に行きます。
 少し前に、『積読こそが完全な読書である』永田希著(イースト・プレス)を読みました。
 著者は書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」を運営。「週刊金曜日」書評委員。その他、「週刊読書人」「図書新聞」「HONZ」「このマンガがすごい!」「現代詩手帖」「はじめての人のためのバンド・デシネ徹底ガイド」で執筆しているそうです。

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本書の帯

  

 本書の帯は横向きに文字が書かれていて非常に目立つのですが、「まずはこの本を読んで、堂々と本を積もう。気鋭の書評家が放つ、逆説的読書論。」というコピーの後、「千葉雅也氏推薦 読まずに積んでよい。むしろそれこそが読書だ。人生観を逆転させる究極の読書術!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には「読めないことにうしろめたさを覚える必要などない」として、「たしかに本は、人に「いま」読むことを求めてきます。でも、それと同時に、書物は「保存され保管される」ものとして作られたものだったことを思い出してください。情報が溢れかえり、あらゆるものが積まれていく時代に生きているからこそ、書物を積むことのうしろめたさに耐えて、あなたは読書の前にまず積読をするべきなのです。(本文より)」と書かれています。

 

 カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「情報が濁流のように溢れかえり、消化することが困難な現代において、充実した読書生活を送るための方法論として本書では『積読』を提案する。バイヤールやアドラーをはじめとする読書論を足掛かりに、『ファスト思考の時代』に対抗する知的技術としての『積読』へと導く」

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第一章  なぜ積読が必要なのか 

情報の濁流に飲み込まれている

読書とは何だったろうか 

情報の濁流のなかのビオトープ 

蔵書家が死ぬとき、遺産としての書物

第二章  積読こそが読書である

完読という叶わない夢

深く読み込むことと浅く読むこと

ショーペンハウアーの読書論

「自前」の考えをつくる方法

第三章  読書術は積読術でもある

一冊の本はそれだけでひとつの積読である

読めなくていいし、読まなくてもいい

本を読まない技術

積読のさらなるさまざまな顔

第四章  ファスト思考に抗うための積読

デジタル時代のリテラシー

書物のディストピア

積読で自己肯定する

「おわりに」

「参考文献」

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わが書斎の積読本

 

 積読を推奨した本書の「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「普通、『積読』と言えば『本を買ったけれど読んでいないこと』を指します。『積ん読』と書く場合もあります。だいたいの場合、『その本、買ったんだけど積読にしちゃってて』などと、どこか『うしろめたい』ニュアンスとともに口にされる言葉でしょう。本書は、その『積読』をあえて、『完全な読書術である』として読者に勧めるものです」

  

 著者は、「積読」を大きく2種類に分類しています。
1つは、「本(書物)に限らない、映画などの動画コンテンツ、音楽、ゲーム、演劇などさまざまな情報が日々大量に供給され、それを体験したり消費したりできないままに時間が過ぎていってしまうという『情報の濁流』の状況」です。著者は、「この状況のなかで人々は、いやおうなく「積読」へと駆り立てられています。『積読』は辞書的な意味では『買ったけれど読んでいない』状態を指しますが、現代人はそれを『買った』かどうかはさておき、読みたい、観たい、聴きたい、遊びたい、体験したいという気持ちだけがどんどん『積まれる』状況に身を置いています」

  

 もう1つが、その情報の濁流のなかに自律的に構築される「積読」です。本書ではこのふたつめの「積読」を「ビオトープ的積読環境」と呼んでいます。詳しくは本文で紹介されていますが、著者は「ビオトープ(biotope)」という、生き物たちが暮らす環境を例にして説明しています。人工的なビオトープは小中学校の校庭の隅に作られていたりするので、読者にもイメージしやすいのではないかというのです。

  

 第一章「なぜ積読が必要なのか」の「情報の濁流にのみ込まれている」では、「あらゆるメディアが積まれていく」として、著者は「電子メールによって仕事にもたらされたのと同じような変化が、いわゆる余暇、エンターテインメントあるいは学習の領域にも起きています。映画、音楽、ゲームなどさまざまなジャンルについて、そして公的・私的を問わない学習の領域で、50年前、100年前、1000年前にはとうてい考えられなかったような密度と速度が実現されつつあります。高密度、高速度で仕事やエンターテインメント、学習を処理することが可能になった結果、人は処理可能な「物事」をかつてなく大量に「積む」ようになりました」と述べています。

  

 本書ではこのような、あらゆるメディアで情報が鑑賞されることなく氾濫し蓄積されていく状況を「情報の濁流」と呼びますが、「情報を消化しきれない時代を生きている」として、著者は「この情報の濁流のなかで生きる人々にとっては、あらゆる情報は自分の環境にどんどん勝手に積み上がっていくように感じられるはずです。つまり、ある意味で、現代人はすでに『積読環境』に暮らしているのです。情報の濁流のなかでは、情報は勝手に積まれ、勝手に更新されていきます。その状況を前に焦ったり、茫然自失したり、自暴自棄になる人も珍しくありません」と述べています。

 

 また、最近はネットフリックスやアマゾンプライムビデオなどのサブスクリプションサービスが登場し、いちいちDVDやCDを買ったりレンタルをしないでも済むようになったものの、いずれにせよ自分が観たい聞きたいと思っているコンテンツをすべて再生するだけの時間は、自分の人生に今後残されているのかと自問し、著者は「書物はもともと『積む』ことができる形状をしているので、『積読』という表現が普及していますが、『積読」的な状況は書物にのみ限った話ではないのです。本書は読者に「読書よりまず積読を」と勧めるものですが、そもそもまず現代という時代が、人々が自発的に積読をする以前から勝手に積読的な環境を進展させているのです。書物に限定されない、あらゆるものが消費されることを待ち望み、消費されるべく勝手に積み重なっていく、そんな世界をわたしたちは生きているのです」と述べます。

  

 著者によれば、世界そのものが、すでに積読環境だといいます。やりたいこと、やらなければならないことがすでに山積みしていて、日々、刻一刻とさらに積み重なり、互いを押し流しているからです。著者は、「読みたい本を読む前に、別の読みたい本が現れ、その本を読んでいるとまた読みたい本が現れる。本を読んでいるとメールが、電話が、スマートフォンの通知が、あなたを急き立てる。あなたはどれも中途半端に放り出しつつ、そのすべてをどこかに積み上げていくしかないのです」と述べていますが、それは切実に感じますね。

  

 著者は、「書物の本質」を考え、「人類最古の「書物」は古代メソポタミアの粘土板だと言われています。いまから6000年前、やはり人類最古の文字と言われる楔形文字を記したもので、当時の王朝の図書館に大量に保管されていたと考えられています。この時代からすでに書物が大量に保管されるものだったということが重要です。DVDもブルーレイも、もちろんインターネットもない時代、書物はすでに『積まれ』ていたのです」と述べます。なるほど、たしかに書物とは積まれるものですね。

 

 さらに著者は、「書物の歴史の最初期には、巻子本も冊子本も、基本的にはすべて『平置き』されていました。いわゆる『棚差し』が可能な本棚が登場していなかったので当然と言えば当然のことです。その頃はまだ書物は非常に貴重な工芸品であり、印刷技術も製本技術も未発達で量産ができず、財宝のたぐいとして扱われていたのです。文字を書かれたもの、つまり『書物』は、何千年もの昔から、保存するためのものとして受け継がれてきました。なお、紙や木板、竹板、粘土板と比較しても圧倒的な耐久性のある石の書物(石碑など)は、何百年も残したい言葉を記すためのメディアとして現代でも使われています。また、普通は『書物』として認識されていませんが、コンピュータが読むためのプログラムはきわめて現代的な『書物』だと言えるでしょう」とも述べています。

 

 そして、「積読することのうしろめたさ」として、著者は「たしかに本は、人に『いま』読むことを求めてきます。でも、それと同時に、書物は『保存され保管される』ものとして作られたものだったことを思い出してください。情報が溢れかえり、あらゆるものが積まれていく時代に生きているからこそ、書物を積むことのうしろめたさに耐えて、あなたは読書の前にまず積読をするべきなのです」と述べるのでした。

  

 「読書とは何だったろうか」では、「書物は時間を蓄積するもの」として、著者は以下のように述べます。
「フランスの現代哲学者ジャン=リュック・ナンシーは、書店論でもあり書物論でもある『思考の取引』(岩波書店)のなかで、書物とは『閉じと開かれのあいだにあるもの』であると書いています。表紙と裏表紙に挟まれた書物は、それが閉じられている状態と、それぞれのページが開かれている状態と、このふたつの状態の『あいだ』にあるのです」

  

 また、「ふたつの状態のあいだにある、という書物の性質は、それを読んでいない時間と、それを読んでいる時間という、時間と書物との関係にもあてはまります。書物は、それを読んでいない時間と、それを読んでいる時間との『あいだ』に存在しているのです」とも述べています。たしかに本は、「読むためにある」という性質を持っていますが、それと同時に、矛盾するようですが、「読まれないため」にも本は存在しているのです。著者によれば、本という形態は、それを読まずに「とっておく」ためにも機能するようにできているからだそうです。

  

 さらに著者は、「楽しみのための読書」として、「書物は、現実をそのまま書き写すことができません。現実をそのまま書き写すことはできませんが、書物はその特性を活かして、むしろ現実とは違った世界を描きだすことができます。書物は、現実から読者を救い出し、楽しませることができるのです。しかし、書物が読者を現実とは違う世界へと誘うものだとしても、その書物自体は現実の存在物です。書物が現実の存在物である以上は、それを作り、売る人々がいます。そして書物が現実の存在物である以上は、情報の濁流という現実と無縁ではないのです」と述べています。

  

 そして、「積読環境のなかに積読環境を作る」として、著者は「現代社会の積読環境の発展は、コンテンツ産業、メディア産業の都合によるものです。新しいメディアが次々と生み出され、そのメディアごとに新しいコンテンツがどんどん生成されていく。この外的で他律的な積読環境=情報の濁流のただなかで、人は自律的な積読環境=ビオトープを構築する必要があるのです」と述べるのでした。

 

 「情報の濁流のなかのビオトープ」では、「ポートフォリオとしての自立的積読環境」として、著者は「記憶術が、過去や現在の情報を『頭のなか』に秩序だてるものだとすれば、複式簿記は、現在と未来を『頭のそと』に可視化するための技術です。複式簿記の登場により、投資をはじめとした金融市場は発展を続け、現代世界の金融資産の総額は200兆ドルを超えています」と述べます。

  

 この巨大な金融市場は、不動産などの資産価値を数字という「情報」に変換し、その変動もまた「情報」として扱う証券化によって拡大を続けているとして、著者は「情報が情報を生み、情報の市場が拡大していくさまは、コンテンツやメディアがどんどん増えて蓄積されていく状況と表裏一体の関係にあります。情報そのものの在り方が、金融の世界でも、コンテンツの世界でも、それぞれに爆発的に膨張を続けている、それが現代なのです」と述べています。

  

 「蔵書家が死ぬとき、遺産としての書物」では、「ゴミ屋敷と断捨離のあいだ」として、世界サイズの積読環境という他律的な「大きなカオス」の中に自分で相対的に「小さなカオス」を作ることが自律的積読環境、ビオトープ的積読環境の構築であると指摘し、著者は以下のように述べています。
「刻一刻と増え続け、人々の目の前を流れ去り、そしてどこかへと消えていく新刊と古書の市場から本を選び出し、選んだ書物を自分の環境に加え、そして定期的にその一部を市場へと放出する。ゴミ屋敷のような、死んで膨れていくばかりのシステムではなく、牧場や精肉工場のような有機的なシステムとして積読環境を維持していくイメージがわかりやすいかもしれません。それは、地球規模の自然環境の片隅に、個人的なビオトープを作ることと同じことです」

  

 第二章「読書術は積読術でもある」の「積読のさらなるさまざまな顔」では、「音楽的積読と絵画的積読」として、著者は「だいたいの書物はそれ単独で存在しているわけではなく、学術論文などでは『先行研究』と呼ばれるような、関連する他の文献がある場合がほとんどなのです。したがって、その文献を読んでいる人にとっては、新しく手に取った書物の内容を把握するには、先行研究との「差分」を見極めればいいということになります。もちろん、どこからどこまでが先行研究と重複していて、どこからが『差分』になるのかということはだいたいの場合あまり明確ではありません」と述べます。

  

 それでも、多くの本を読んでいる人は、どこが「差分」なのかを見つけ出すカンのようなものが育まれているので、初学者よりも速く読めるのだという著者は、「ある分野の専門家がその分野の専門書を読む速度をまのあたりにして初学者が、感銘を受けるということがあります。しかし専門家が専門書に目を通すのは名人芸でもなんでもありません。見た目でわかる速度よりも、いかに深く読めているか、どう面白がれるかのほうがはるかに重要です」と述べるのでした。

  

 第四章「ファスト思考に抗うための積読」の「デジタル時代のリテラシー」では、「ファスト思考とスロー思考」として、著者はこう述べます。
「ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』(河出書房新社)で描きだしたように、人類は農耕を始めたことで安定的で『より豊かな』生活を手に入れると同時に、増え続ける人口のために『より豊かな』そして『より安全で便利な』生活を絶えず求め続けることを運命付けられました。現代人は、より美味しいものを食べたい、より美しく着飾りたい、より楽しく暮らしたいし、楽をして稼ぎたい、死の恐怖からできるだけ離れて健康に生きたいと考えながら暮らしています。この傾向は、1万年前から方向づけられたことなのです」

  

 さらに具体的に、著者は「食べログやインスタグラム、その他のSNSやテレビや雑誌で話題のお店を調べて、よりお得に美味しいものを食べたいと努力したり、スマートフォンで地図検索をして目的地により早く、より楽に到着できるように調べたり、さまざまなアプリで暮らしを便利にすることもまた、その人類の長年にわたる営みの延長線上にあることです」と述べています。

  

 また、「豊かさを『生み出す側』と『消費する側』」として、著者は「現代社会を覆っている技術のなかで最新で、かつもっとも注目に値するテクノロジーは、間違いなくスマートフォンデバイスです。よく言われることですが、前世紀までの人々は『21世紀の人類は宇宙旅行を楽しみ、テレビ電話で会話する』と思っていました。しかし実際に21世紀になってみたら、宇宙旅行の実現はまだ先のことであり、テレビ電話は可能になりましたがそれほど普及していません。その代わりにわたしたちの21世紀に一般化したのは、各自が小さな『電話』を持ち、しかしその『電話』で会話するよりもはるかに頻繁に『文字で会話する』という状況です」と述べています。

  

 「積読で自己肯定する」では、「セルフネグレクトとしての本の山」として、「書物には妖しい魅力があり、ときに悪魔的に人を引き寄せ、大なり小なり、人を狂わせる場合があります。書物に危険な側面があるということは以前からよく語られてきました。ある書物を読まずに積んでおくということは、その危険な側面から目を背ける卑怯な態度に思われるのかもしれません。だからこそ積読はうしろめたいのです」と述べています。まったく同感ですね。

  

 また、「スロー思考と瞑想」として、著者は「わたしは読者に瞑想の実践を勧めるわけではありません。というより、身ひとつで行う『瞑想』ではなく、ビオトープ的な積読環境を構築し、その『自分の積読環境ごと瞑想すること』を勧めたいのです」と述べます。本書の第一章で著者は『記憶術全史』という本を紹介しますが、「かつて紙が貴重品で、クラウド環境はおろか、インターネットすらなかった時代、情報を自分の脳という身体に保存するしかなかった時代とは異なり、現代においては、情報は書類という紙の束として大量に供給されており、またクラウドという仮想空間がインターネット上に広がっています。情報は、書籍として本棚に保存できるし、クラウドに保存することもできるようになったのです。したがって、情報の集積としての『自己』はあなたの肉体だけでなく、あなたの本棚にも、クラウドにも拡張されています」と述べています。

  

 さらに、著者は「マインドフルネス」に言及し、「瞑想(マインドフルネス)の段階にはいくつかあるのですが、そのひとつに『ボディスキャン』と呼ばれる段階があります。足の爪先から、あるいは頭頂部から、身体のさまざまな部位に意識を向けていき、自分の身体をスキャンする段階です。自分の積読環境にこの段階を導入することによって、あなたは外部記憶装置ごと瞑想することになるのです。このときに忘れてはならないのが、情報の濁流の脅威と、積読がもたらす『うしろめたさ』です。ファスト思考への耽溺に誘い、あなたのビオトープを破壊しかねない情報の濁流への危機感が、あなたのスロー思考を働かせます」と述べています。

  

 「おわりに」で、著者は以下のように述べています。
「本書でわたしは、書物の存在がどのようなものとされてきたのか、そして書物の存在が今後どのようになっていくのか、それを積読論として、また情報の濁流とわたしが呼ぶものがどのような経過を辿り、また現在どのようになっていて、そして今後どのようになっていくかを論じ、そのようなマクロな積読環境のなかでどのように読書が可能なのかという読書論として、ビオトープ的積読環境の構築とわたしが呼ぶものをどのように運用するのかを論じてきました」

  

 本書の主題は、「増殖を続け自ら崩壊していく情報の濁流というマクロな積読環境と、そのなかでビオトープ的な積読環境をどのように構築し、どのように運用するか」を明らかにすることでした。それは、ある意味で「貨幣」の問題にも通じています。貨幣にはその額面価格を示す文字が不可欠ですし、コンピュータのプログラムもまた「書かれたもの」なので、どちらも広義の「書物」として扱えるのではないかと、著者は述べます。

  

 そして、著者は「いささか突飛に思われるかもしれませんが、現在の出版界にグローバルな影響を与えているアマゾン社の創業者ジェフ・ベゾスが金融業出身であること、いまやクラウド事業で利益の大半を生み出しているアマゾンがその活動の端緒にオンライン書店業を選んでいたこと、そして将来的にアマゾンが銀行業に進出する可能性があること、さらには昨今ますます普及しつつある電子通貨の問題を考慮すると、わたしのこの想定も単に突飛なだけとは言えないのではないかと思います」と述べるのでした。この書物と貨幣の共通性という視点は非常に新鮮で、今後も考えてみたいテーマです。

  

 さて、積読といえば、一条真也の読書館『知的生活の方法』で紹介した永遠のロングセラーの著者であり、「稀代の碩学」「知の巨人」「現代の賢者」などと呼ばれた故 渡部昇一先生が「積ん読もまた楽しからずや」という言葉を残しておられます。渡部先生は1冊の本を読んでいると、そこに出てくる別の本をどうしても読みたいと思うことが多かったそうです。夏目漱石を読んでいて森鴎外が読みたくなることもあれば、哲学の本を読んでいて自然科学のことを教えられ、新しい分野の本を注文されることもしばしばだったとか。

   

 読書にキリがなくなり、本が増えて置き場所に困るようになると慨嘆しながらも、芋づる式に読書の範囲が広がっていくことは自分の視野を広めることになるとした上で、『楽しい読書生活』(ビジネス社)で、「私は、新しい興味を覚えたらとりあえず本を買っておいたほうがいいという考え方をしています。たしかに、そうやってとりあえず注文したり買ったりした本が『積ん読』の元凶になるわけですけれども、『積ん読』もまた楽しからずや―と思えばいいのです」と述べておられます。

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渡部昇一先生の書斎に積まれた蔵書

  

 渡部先生は、「積ん読」は必要悪であり、これを全部やめてしまったら読書としては不完全であるとまで言い切られています。本を読んでいるとどうしてもその関連本を読みたくなるのは人情であり、あえて人情に逆らうのはよくないし、何より「別の世界が開けてくる可能性」や「新しい発見」も「積ん読」の魅力であると語られています。まさに読書の醍醐味を知り尽くした渡部氏の「積ん読」論に、勇気づけられる読書家、蔵書家、愛書家も少なくないでしょう。

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渡部昇一先生の書斎で、先生と

 

 わたしは、「世界一」と呼ばれる渡部先生の書斎および書庫を拝見させていただきました。2階建ての書斎には膨大な本が並べられており、英語の稀覯本もたくさんありました。チョーサー『カンタベリー物語』やパスカル『パンセ』の初版本などをはじめ、日本に1冊だけ、世界でも数冊しかない貴重な書籍の数々を見せていただきました。伝説の『ブリタニカ百科事典』第1版の初版をはじめ、歴代のブリタニカもすべて全巻揃っていました。

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永遠の知的生活』(実業之日本社)

 

 ちなみに先生の蔵書は約15万冊だそうです。これは間違いなく日本一の個人ライブラリーでしょう。何よりもわたしが感銘を受けたのは、この素晴らしい書斎および書庫を渡部先生はなんと77歳で作られたということです。もう凄すぎます! なお、渡部先生とわたしは対談本『永遠の知的生活』(実業之日本社)において、本や読書の魅力についてたっぷり語り合いました。この思い出は、わが人生の宝物です。