No.1600 芸術・芸能・映画 | 評伝・自伝 『田原俊彦論』 岡野誠著(青弓社)

2018.09.15

 タッキー&翼が解散しました。タッキーは芸能界を引退し、裏方に転向して後進の育成やプロデュース業に挑戦するとか。ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長は、自身の後継者に噂されていた近藤真彦や東山紀之ではなく、滝沢秀明を選んだようです。
 ところで、現在のジャニーズ帝国の礎を築いたタレントは誰だか知っていますか? それは、ずばり、「トシちゃん」こと田原俊彦であります。ということで、『田原俊彦論』岡野誠著(青弓社)を紹介いたします。「芸能界アイドル戦記1979-2018」というサブタイトルがついています。タイトル通り、歌手・田原俊彦を正面から論じた本です。著者は1978年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。テレビ番組制作会社を経てライターに。その後、「FLASH」(光文社)、「週刊ポスト」(小学館)の記者を務め、2017年フリーに。研究分野は視聴率、プロ野球選手名鑑、松木安太郎、生島ヒロシなど。

   本書の表紙の一部

 カバー表紙には右足を高く上げた田原俊彦(らしき人物)のシルエットが赤く描かれ、「ジャニー喜多川との製作過程……『哀愁でいと』作詞家が明かす」「『ザ・ベストテン』伝説の生中継……担当ディレクターが語る」「『ビッグ発言』……たった1週間で扱い方が急変していた」「田原俊彦とジャニーズ共演NG……プロデューサーの証言」と書かれています。

 アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。

「田原俊彦は、芸能界で常に戦い続けてきた。
 アイドルに対する偏見、長女誕生記者会見時の『ビッグ発言』で誤解をもたれた一方で、ジャニーズ事務所を再生し、ドラマ主演の道を切り開いた功績が過小評価されているのではないか。過去取材における田原本人の言葉、『教師びんびん物語』の盟友・野村宏伸、作曲家・都志見隆、『夜のヒットスタジオ』元プロデューサー、元CHA-CHAの木野正人など複数人へのインタビューで、初公開のエピソードを随所に盛り込む。
 『哀愁でいと』『グッドラックLOVE』誕生の瞬間、『ザ・ベストテン』年間1位獲得秘話、独立の際に『ジャニー喜多川のお墨つきを得ていた』という証言、SMAP中居正広との邂逅……。『ジャニーズ事務所との共演NG説』も徹底検証。1982年、88年のほぼ全出演番組(視聴率、内容、テレビ欄など記載)、『ザ・ベストテン』の全ランクイン曲の思い出のシーンを振り返る巻末資料も充実」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「はじめに」
第1章 時代を変えた芸能界デビューとアイドルへの偏見との戦いー1979~85年
1 『3年B組金八先生』でつかんだ大チャンス
2 ジャニーズ事務所を救ったー1980年の大爆発
3 『ザ・ベストテン』の時代
4 なぜ、田原俊彦はトップアイドルの地位を継続できたのか
第2章 低迷期から一転、アイドルの寿命を延ばした大復活劇
ー1986~93年
1 『びんびん』シリーズ開始と『紅白歌合戦』落選
2 「抱きしめてTONIGHT」で第二次黄金時代突入と『紅白』辞退
3 『教師びんびん物語2』で「月9」発の視聴率31.0%
4 勝ち続けられないースターの葛藤と人間らしさへの渇望
第3章 ジャニーズ事務所独立と「ビッグ発言」による誤解
ー1993~96年
1 当初は問題視されなかった「ビッグ発言」
2 なぜ、ジャニーズ事務所を辞めたのかー1994年のジャニーズ事務所
3 突然蒸し返され始めた「ビッグ発言」
4 不透明な投票方法「an・an」「嫌いな男1位・田原俊彦」への疑問
5 大いなる謎ー俳優業から遠ざかった理由とは
6 特別検証:田原俊彦とジャニーズ共演NG説を追う
第4章 テレビから消えた逆境をどう生き抜くか
ー1997~2009年6月
1 「田原俊彦の生きざま」を体現した『Dynamite Survival』
2 本人取材で投げかけた厳しい質問
3 寄り添い続ける人たち
第5章 払拭された誤解と人気復活への序章
ー2009年7月~18年
1 継続と出会いが流れを変えた
2 ステージに懸ける思いとファンへの感謝
3 もう一度、大ヒット曲を出すために
「おわりにーこんなものじゃないよ、田原俊彦は」
「本書で言及しているコンテンツの情報一覧」
「本文中に記述がない参考文献一覧」
巻末資料1「田原俊彦の1982年出演番組表」
巻末資料2「田原俊彦の1988年出演番組表」
巻末資料3「田原俊彦の『ザ・ベストテン』ランクイン曲と回数、視聴率
巻末資料4「『ザ・ベストテン』歌手別ランクイン総数ベスト50」

 「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。

「芸能界には、いつの時代も毀誉褒貶が飛び交っている。
 そのなかでも、田原俊彦ほど周囲の評価が変化してきた男は珍しい。普通の人間であれば精神状態がおかしくなっても不思議ではないほどの絶賛とバッシングを浴びてきた。頂上も高かったが、谷底も深かった。落差は、類を見ないほど大きかった。
 田原俊彦の気持ちをわかる人は田原俊彦しかいない。デビュー直後からトップアイドルに君臨し、『教師びんびん物語』で俳優として頂点を極めた1980年代。ジャニーズ事務所独立と『ビッグ発言』に対するマスコミのバッシングでどん底を味わった1990年代。テレビ出演は年に数本、CDがTSUTAYA限定発売の年もあり、先が見えなかった2000年代。『爆報!THEフライデー』の『ビッグ発言』検証回で誤解が解け、光明が差し始めた2010年代。どんな状況になろうとも、田原俊彦はステージで歌って踊り続け、いつだってファンを満足させてくれた。ブレなかった。人気とは何か。時代とは何か。彼を見ていると、いつも考えさせられる」

 また、著者は以下のようにも書いています。

「田原俊彦はあまりに過小評価されてきた。
 アイドル出身だからなのか、ジャニーズ事務所を退所したからなのかはわからない。一時、田原がまるで芸能界に存在しなかったような扱いを受けていたことは事実だ。燦然と輝いていたはずの功績は、芸能史やテレビ史から抹消されていた。周囲の評価が豹変しようとも、田原俊彦は変わらずに歌って踊り続けてきた。どんなに逆風が吹いても、それが微風に変わっても、スタンスは何ら変わらなかった。還暦になって、古稀を迎えて、米寿を迎えても、田原俊彦は田原俊彦のままだろう。どんな風が吹こうとも、何もいうことなく、自分を信じて踊り続けるー」

 第1章「時代を変えた芸能界デビューとアイドルへの偏見との戦いー1979-85年」の1「『3年B組金八先生』でつかんだ大チャンス」では、「ジャニー喜多川に与えた第一印象」として、1976年8月24日、山梨県甲府市に住む高校1年生の田原俊彦が、夏休みを利用して上京し、ジャニーズ事務所を訪ねる様子が描かれています。彼は履歴書を送ったのですが、反応がなかったので、直談判しに行ったのです。そこにはジャニー喜多川はおらず、田原は日本劇場へと向かいました。ジャニー喜多川は、日劇の事務所で田原と初めて会ったときの印象を次のように語りました。

「窓口のところにひとりのかわいい少年がやってきて、『ジャニー喜多川さん、いらっしゃいますか?』といっているんです。ふりむくと、マーク・レスターのようなヘアスタイルをした少年が、立ってましてね。おどろくほど、あかぬけてまして、思わず、事務所の人たちが、『かわいいね、ジャニーさん。だれなの?』と、色めきたったほどです」

 その少年は、後にTBSの「3年B組金八先生」で鮮烈な芸能界デビューを果たしました。

 ジャニーズ事務所に入所はしたものの、田原の歌手デビューは1980年まで待たなくてはなりませんでした。その間、彼は甲府から東京までレッスンに通い続けます。そして、満を持して発売したデビュー曲「哀愁でいと」が大ヒットします。2「ジャニーズ事務所を救ったー1980年の大爆発」では、「歴史を塗り替えたオリコン初登場トップテン入り」として、以下のように書かれています。

「当時、デビュー曲がオリコントップテンを飾ることはなかった。1980年の主な新人の初登場順位を見ると、岩崎良美57位、松田聖子130位、柏原よしえ113位、河合奈保子182位と伸びていない。
 しかし、6月21日発売の『哀愁でいと』は数日で売り切れ、6月30日付のオリコンで8位を記録。他の初登場曲には、25位のオフコース『Yes,No』、43位のイエロー・マジック・オーケストラ『ライディーン』、46位のサザンオールスターズ『ジャズマン』など錚々たる面々が並んでいるが、トップテン入りは『哀愁でいと』だけ。売れっ子歌手でさえも初登場の順位は高くなく、徐々に上昇していく時代だった」

 3「『ザ・ベストテン』の時代」では、田原がデビューする2年前の1978年1月19日に伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』がTBSで放送開始されました。これまでの音楽ランキング番組とは違って、『ザ・ベストテン』は厳正なランキングを打ち出し、一大ブームを巻き起こします。この番組は演出もじつに凝っていて、毎週のように視聴者を驚かせました。デビューを果たした田原も公道をオープンカーで走りながら歌ったり、新幹線の中で歌ったりもしました。著者はこう書いています。

「『ザ・ベストテン』は同じ曲が何週間もランクインし続けるため、奇想天外なセットや演出で視聴者を飽きさせないように工夫した。田原は『君に薔薇薔薇・・・という感じ』で、体がバラバラになるマジックに挑んだこともあれば、『シャワーな気分』で、空中にマイクを高く放り投げて服を脱ぎ捨て、一回転してキャッチするという離れ業を演じたこともあった」

 原宿の街に出て行って歌ったときは、ファンの女の子たちが殺到して大騒ぎになりました。とにかく田原は一発勝負に強いアイドルでした。

 4「なぜ、田原俊彦はトップアイドルの地位を継続できたのか」では、「『歌が下手』と揶揄されたのに、なぜ売れたのか」として、著者はこう述べています。

「田原はさんざん、歌が下手だと叩かれてきた。それでも、デビュー曲からオリコンで37作連続トップテン入りという大記録を樹立し、『ザ・ベストテン』の最多ランクイン歌手としても歴史に名を残している。歌は下手だけど、レコードは売れるーその一見矛盾した現象に、明確な答えは出されていない」

 しかし、著者は田原に数曲を提供している作詞家の秋元康の言葉を紹介しています。それは、「僕自身は、音程がきっちり合っているよりも、もうちょっとあやふやだったり、ピッチが良くなかったりする歌声の方が、むしろ味があるような気がします。『歌の上手さ』、あるいは『人の心を打つもの』は決してきっちりしたものではなく、どこか弱さがあったり、ぼやけていたりする部分を含むのではないかと思います」というものでした。
 著者は、「『ブギ浮きI LOVE YOU』のような明るい歌は能天気にどこまでも楽しく、『グッドラックLOVE』のような悲しい歌は切ない感情を込める。常に一生懸命な田原の歌い方は見る者を引き付けた」と書いています。

 また、著者は「コンプレックスとも対峙の仕方も、その人気維持の大きな要素だったのではないか。下手だと言われて喜ぶ人間などいない。田原は歌手として致命的と思って落ち込んでしまいがちな欠点を、発想の転換で乗り越えた」として、以下の田原の発言を紹介します。

「だって自分でもわかっていたからね、ヘタだって(笑い)。でも、あのときは自分なりに精いっぱい歌って・・・その結果だから。もちろんそれから、歌をうまく歌おうっていう努力はしてきたよ。テクニックみたいなものは、努力で向上すると思うから。でも、声帯の違いは変えられない。だけどそれって、考え方を変えれば、この声帯はオレしか持ってないってことでしょ。だったら、それをオレの味にしなきゃいけないと思うわけ」

 そんな田原について、著者は以下のように述べています。

「どんなに揶揄されようとも、現実を把握したうえで持前の負けん気と努力で克服しようとポジティブに奮闘し、嘲笑するようなものまねをいやがることもなかった。社会にはバカなんじゃないかと笑われても、声高に否定することなく、真面目なことを考えているなんてみじんも感じさせず、ただただ明るく天真爛漫に振る舞っていた。ピエロになりきれるだけのタフな精神と柔軟な思考、状況把握力が田原を売れっ子歌手にしたのである」

 わたしは、田原の歌は決して下手とは思いません。『ザ・ベストテン』で演歌の「浪速恋しぐれ」を披露したことがありましたが、なかなか味のある歌いっぷりでした。

 それと、田原の歌唱については、多くの人が重要なことを忘れています。それは、彼は常に当時の日本のダンスシーンにおいてトップレベルのダンスを踊りながら、口パクなどせずに、自分の声で生歌を歌っていたという事実です。これは、口パクを当然だと思っている昨今のジャニーズ事務所のアイドルたちなどには真似ができない偉業であると言えるでしょう。
 そのジャニーズ事務所が快進撃を開始した最大の立役者こそ田原俊彦でした。著者は以下のように書いています。

「1980年代に『男性アイドル=ジャニーズ事務所』という観念が生まれたのである。オリコンの所属事務所別の年間売上げ枚数ランキングを参照すると、たのきんがジャニーズ事務所を救ったと明確になる。1979年、ジャニーズ事務所は年間売上げ52位だったが、田原デビューの80年に17位まで上昇すると、81年から83年まで3年連続で1位を獲得。80年の田原俊彦から近藤真彦、シブがき隊、The Good-Byeと4年連続で日本レコード大賞の最優秀新人賞を輩出し、田原と近藤がヒット曲を出し続けて一大勢力となった。たのきんトリオなくして現在のジャニーズ事務所は存在しえない」

 第2章「低迷期から一転、アイドルの寿命を延ばした大復活劇ー1986-93年」の1「『びんびん』シリーズ開始と『紅白歌合戦』落選」の冒頭に、著者は以下のように書いています。

「1984年、とうとう田原俊彦や近藤真彦に強力なライバルたちが現れた。『ザ・ベストテン』ではチェッカーズが5月17日から4週連続で『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』『哀しくてジェラシー』の3曲同時ベストテン入りを果たし、時代の寵児となる。渡辺プロダクションからの久々の新星となった吉川晃司は『モニカ』など3曲で21回ランクイン。同年にはアルフィー31回、翌年には安全地帯36回とバンド勢も急伸する」

 このあたりは、この読書館でも紹介したスージー鈴木氏の著書『1984年の歌謡曲』に詳しく書かれています。

 「視聴率低下の波にさらわれた『紅白歌合戦』落選」として、1987年にデビュー以来7年連続出場を果たしていたNHK『紅白歌合戦』に落選したことが紹介されています。85年から『ザ・ベストテン』など歌番組の視聴率が下落。怪物番組『紅白歌合戦』も同様で、84年の78.1%から、85年66.0%に落ち込み、86年は59.4%と初めて60%台を割りました。そのため、87年は大幅に選考内容を見直すことになりました。その理由について、著者は「リモコン普及率が大きく関係していたと思われる」と指摘し、以下のように述べています。

「リモコンは1985年の31.2%から、86年42.0%、87年53.8%、88年67.5%、89年75.2%、90年82.9%と毎年10%前後の割合で急増。それまではチャンネルをわざわざ回しにいく煩わしさもあって興味がない歌手の曲も続けて視聴していたと思われるが、手軽にチャンネルを切り替えられる便利な機器の登場で、自分が好きな歌手だけを見る体制が整った」

 わたしはこの事実を知って、この読書館でも紹介した『闘う商人 中内㓛』の内容を連想しました。そこには、軽自動車の普及という主婦層のモータリゼーションが、駅前などの好立地にあったダイエーなどのGMSの多くを衰退させたと書いてあったのです。いつの世でも、どんな業界でも、リモコンや軽自動車などの機械の技術革新が思わぬ生活上の変化をもたらすものなのですね。

 また、著者は家庭のテレビ保有台数にも注目します。

「各家庭のテレビ保有台数は、高度経済成長の末期である1972年にはすでに『一家に一台』は41%だけで、2台以上の保有が58%に達していたが、87年には『一家に一台』がわずか27%になり、2台以上が72%に。そのうち『一家に三台以上』が32%にまでのぼっていた(JNNデータバンクの「テレビ保有台数調査」)。つまり、1つの番組であらゆる世代の欲求を満たす必要性は80年代後半になって急速に減少していき、ターゲットに特化した制作が求められるようになっていったのだ。
 この2つの要因によって演歌、アイドル、ロックなど幅広い好みに1番組で対応しようとする歌番組の視聴率は下落し、ターゲットを十代に絞ったお笑い番組、F1層(女性20-35歳)向けのトレンディードラマが隆盛を誇るようになった」

 「紅白」の視聴率下落は、クオリティーの低下というよりも、技術進歩がもたらした逆らえない時代の流れだったわけですが、それでもNHKのスタッフは視聴率回復に躍起になりました。1987年を「改革『紅白』3年計画」の初年度と位置づけ、「歌唱力」「今年の活躍」「大衆の指示」の三大ポイントを選考基準にしたのです。その結果、どうなったか。

 「紅組司会者を4度務め、1965年から22回連続出場中だった水前寺清子は『流行歌手なのにヒット曲がなかった』、68年の初出場から計14回も名を連ねた千昌夫も『歌手活動が目立たなかった』という理由で落選(*当時は不動産業の話題、ジョーン・シェパード婦人との離婚騒動でワイドショーを賑わせていた)。58年から29回連続出場中だった三波春夫は、流れを察して発表前に辞退を公表していた。この視聴率不振を取り返すための”革する『紅白』”の象徴の1つに、田原の落選もあったのだ」

 しかし、1987年の視聴率はさらに4.2%も下落して、55.2%という惨憺たる結果に終わりました。リモコンが普及し、一家のテレビ台数も増えた世の中では、「幅広いジャンルからの選出」などという小手先だけの改革では視聴者のニーズを満たすどころか、完全に逆効果だったのです。

 ジャニー喜多川は、田原俊彦をもう一度、派手に躍らせ、本格的なダンスを披露させることを決意します。そして、1988年4月21日に発売されたのが、フジテレビ系ドラマ「教師びんびん物語」の主題歌である「抱きしめてTONIGHT」でした。この頃の田原のダンスはキレを増し、歌唱力もデビュー当時と比べてずいぶんと安定していました。田原のバックで躍った乃生佳之は「あれだけ踊りながら歌うって、相当しんどいはずですよ。(中略)あの曲は体をものすごく使うので、アスリートに近い。歌っているときは少しセーブされるとはいえ、トシちゃんは全力疾走しながら歌っているようなもの。(中略)本人は何も言わないし、そぶりも見せないけど、相当努力したんだと思いますよ」と語っています。

 「抱きしめてTONIGHT」は大ヒットし、「ザ・ベストテン」に14回ランクインしました。「夢であいましょう」「かっこつかないね」と合わせて、1988年は年間24回もベストテンに名を連ねました。約12年間におよぶ同番組で、ランクインが20回以上から1ケタに転落後、再び20回以上を記録したのはサザンオールスターズ、五木ひろし、田原俊彦の3人だけだそうです。まさに、アイドルとしては過去に例のない見事な返り咲きでした。
 12月29日には、「抱きしめてTONIGHT」が「ザ・ベストテン」の年軒ランキングで1位に輝きました。これは、近藤真彦、松田聖子、中森明菜も成し遂げられなかったアイドル出身者で唯一の偉業でした。

 「抱きしめてTONIGHT」の大ヒットによって、田原は2年ぶりに「紅白歌合戦」に選ばれますが、これを男の意地で辞退します。NHKはもちろん、世間も驚きました。世の中全体に「アイドルは何でも言うことを聞く人種」だという思い込みがありましたが、それを田原が打ち破ったのです。田原は「アイドルのくせに」という世間の偏見と戦ったのでした。
 「紅白」を辞退しても、田原の快進撃は止まらず、「教師びんびん物語2」の主題歌「ごめんよ涙」も大ヒット。『ザ・ベストテン』で初登場から4週連続で1位の座につきました。それから3ヵ月間、12週にわたって登場し、番組最多ランクインの記録を247回に伸ばしたのです。まさに、歌手・田原俊彦の絶頂期であったと言えるでしょう。

 第3章「ジャニーズ事務所独立と『ビッグ発言』による誤解ー1993-96年」では、田原の人生を大きく狂わせた出来事について書かれています。1「当初は問題視されなかった『ビッグ発言』」の冒頭に、著者は以下のように書いています。

「1994月2月17日(木曜)午後0時30分、芸能史に残る記者会見が始まった。前年7月の交際発覚から入籍、長女誕生に至るまで無言を貫いていた田原俊彦が報道陣に口を開いたのだ。無視され続けたという感覚を持つマスコミは、『何事も隠密にやりたかったんだけど、僕くらいビッグになっちゃうと、そうはいきませんというのがよくわかりました、ハイ』と田原がポロッと発した『ビッグ』という言葉を拾い、容赦ないバッシングを開始したー」

 このときの田原は記者会見の冒頭に「マスコミ嫌いの僕が…」という言葉を使って芸能リポーターたちを挑発しています。しかし、当時、日本一マスコミに追いかけられてきたといっても過言ではない彼にとっての正直な言葉でした。
 著者は、以下のように述べています。

「芸能マスコミによるプライベート監視がもっとも厳しい時代に、田原俊彦はいちばん狙われたアイドルだった。いまのタレントと比べても意味がないし、田原俊彦の気持ちは田原俊彦にしかわからない。誰も同じ時代に同じポジションでの経験をしていないわけだから、理解できるはずもない。
 いつの時代も、社会は結果だけで判断し、過程を見ようとはしない。いやみを言いたくなるような状況を作ったのはマスコミだが、そこに目を向ける意見はごく少数に限られた。現在のように一般人が発信するソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)はまだ生まれていないのだ」

 また、著者は以下のようにも述べています。

「芸能レポーターが自分たちの都合に合わせろといわんばかりに、『おめでたいことなんだから会見したっていいじゃないか』というのは傲慢だ。十年以上も四六時中追いかけ回され、いやな目にもたくさん遭わされている相手に、結婚したときだけ笑顔で対応できるだろうか。好きなものは好き、いやなことは誰が何と言おうといや。それが田原俊彦の一面だ。だが一方、結婚となれば、社会は『おめでたいことなのに、なぜノーコメントなの?』という気持ちを抱くにちがいない。
 あまりに自分に正直すぎたのだと思う。上手にマスコミを使って、自分の価値を上げ、ドラマの宣伝もして、丸く収める芸能人もいるだろう。田原俊彦は良くも悪くも、嘘をつけない男なのだ。その性格がバッシングにつながっていく」

 この理不尽なバッシングはじつに17年間に及びました。
 芸能人としての田原の真価を認めた爆笑問題による「爆報!THEフライデー」が2011年10月21日、金曜17時台に始まります。その初回で「波瀾爆報ヒストリー 田原俊彦」として、1994年の長女誕生記者会見が検証されました。著書は以下のように書いています。

「当時、会見から日数があっつとマスコミは横柄な部分だけを切り出して放送していたが、会見全体を見ると、いやみを言った後にもきちんと質問に答える姿があった。『何事も隠密にやりたかったんだけど、僕くらいビッグになっちゃうとそうはいきませんというのが、よくわかりました、はい』という言葉も、ギャグだとわかるものだった。この放送によって、17年間も消え去ることがなかった『傲慢』というイメージは一気に吹っ飛んだ」

 また、著者は以下のようにも述べています。

「要するに、『人気』とは、ふわっとした空気をいかに自分のモノにするかにかかっている。実態が見えない空気、本質を見ない人たちの評価を味方につけることが『人気』につながる。だから、イメージが大切なのだ。そのおめーじは主にテレビで形成されるから、1日に何度も繰り返し放送されるワイドショーにはきちんと対応しなければならなかったわけだ」

 第3章の2「なぜ、ジャニーズ事務所を辞めたのかー1994年のジャニーズ事務所」では、「ジャニーズ事務所の歴史的転換点となる1994年」として、著者は「なぜ、田原俊彦はジャニーズ事務所を辞めたのか」という問いを立て、「芸能史に残る巨大な謎といったら大げさだろうか。少なくとも、残っていれば田原自身の芸能人生は全く異なるものになっていたはずだ」として、以下のように述べています。

「独立直前の1994年2月当時、年齢や実績からして、ジャニーズ事務所のトップは田原俊彦だった。近藤真彦はドラマを当てているわけでもなかったし、93年11月発売の「北街角」では5年ぶりとなる売上10万枚を突破したが、94年はデビュー以来初めてシングルを発売しない年になる。
 光GENJIもシングル最高売り上げである1988年3月発売『パラダイス銀河』の約88万9000枚と比べて、93年10月発売の『この秋・・・ひとりじゃない』は約9万4000枚と約10分の1にまで下落。少年隊は90年12月から93年4月まで2年4カ月もシングル発売のブランクがあり、グループとしての活動は縮小していた」

 そんな中で、ジャニーズ事務所の中から飛び出したのはSMAPでした。
 著者は、SMAPについて以下のように述べています。

「SMAPは土曜深夜の『夢がMORI MORI』(フジテレビ系)に出演していたが、中居正広と香取慎吾が『森田一義アワー 笑っていいとも』のレギュラーに抜擢されるのは1994年4月からである。むろん、『SMAP×SMAP』の開始はまだ2年も先のことにあんる。TOKIOのデビューは、この年の9月まで待たなければならない。ちょうど世代交代の谷間であるエアポケットの1994年3月1日、田原は独立した。べつに狙ったわけではなく、もともと33歳までを人生の区切りと考えていて、偶然にも時期が重なっただけである」

 田原俊彦とSMAPの人気曲線は1994年3月を境に一方は下降し、もう一方は上昇し続けるというコントラストを描いていったということが言えます。著者は、以下のように述べます。

「1994年はSMAPが大躍進を遂げた年でもあった。
 デビュー当初は少年隊や光GENJI、男闘呼組という先輩グループと比べれば、SMAPは苦戦していた。1991年9月の『Can’t Stop!!ーLoving』はオリコン最高2位止まり。歴代7位の売り上げを誇るCHAGE&ASKAの『SAY YES』が1位だったためだが、2曲目の『正義の味方はあてにならない』は10位にまでランクダウン。その後も、人口に膾炙するようなヒット曲は生まれない。思うような人気が出なかった背景には、1989年に『ザ・ベストテン』、90年に『歌のトップテン』『夜のヒットスタジオ』が終了し、”歌番組冬の時代”に突入していたからだろう」

 第5章「払拭された誤解と人気復活への序章ー2009年7月ー18年」の2「ステージに懸ける思いとファンへの感謝」では、「いまの田原俊彦のステージこそ、ジャニー喜多川の理想である」として、著者は以下のように述べています。

「ジャニー喜多川は1962年に飯野おさみ、真家ひろみ、中谷良、あおい輝彦の4人で初代グループのジャニーズを結成し、東京五輪終了直後の64年12月に『若い娘』でデビューさせた。<私は世界に通用するミュージカルを完成させたい、というのが生涯の夢だ。そのために男性版宝塚をつくろう、と決心したのが、そもそもの出発点だった>(フォーリーブス『フォーリーブスの伝説』)。当時、10代のタレントが踊りながら歌う姿は批判された。そのスタイルは、宝塚歌劇団の専売特許で『男が踊るなんて……』という風潮さえあり、歌手は微動だにせずに歌うことがよしとされていた」

 ジャニー喜多川と長年の親交があるTVプロデュ-サーの渡邉光男は「日本のエンターテインメントを作りたかったジャニーさんがアメリカで学んだ踊りには、当然タップもあるし、ジャズもあるし、バレエもある。いろんなダンスを習得して、ジャニーさんの思いどおりの形に育ってくれたのが田原だったと僕は思いますね」と語っています。
 また、渡邉は田原俊彦について、演出側の視点から次のようにも語っています。

「アイツのパフォーマンスは、どこを撮っても絵になる。足元から手先まで飽きさせない。踊りに繊細さがある。形は違うけど、矢沢永吉と一緒ですよ。矢沢も一挙手一投足、走り方や歩き方にまで自分の演出が入っている。矢沢と田原はステージ上にプロンプターを置かないし、イヤモニも着けない。これも2人の共通点です。天性の素質もあるけど、自分の動きだけに集中するから、より絵になるよ」

 そして、「おわりにーこんなものじゃないよ、田原俊彦は」の最後に、著者は以下のように述べるのでした。

「実感値として、2009年、100人いたら98人は田原俊彦に冷たい視線を浴びせていた。2018年、100人いたら58人は田原俊彦に応援の眼差しを向けている。情勢は整いつつある。ドラマに出演して、主題歌を歌ってヒットさせる。もう一度、その姿を見たい。『わかる人だけわかればいい』と言ってから24年が経過した。わかる人は確実に増えている。ブレない男の力が引き寄せたことだ。さあ、これからどうするか。まだまだ、こんなもんじゃないよ、田原俊彦はー」

 わたしは、この著者の田原俊彦に対する愛情溢れるエールに感動しました。そして、かつて、わたしも田原俊彦の大ファンだったことを思い出しました。

 わたしのブログ記事「トシちゃんはビッグ!」に書いたように、じつは、わたしは昔からトシちゃんの大ファンだったのです。最初に「哀愁でいと」で彼を見たときの衝撃は忘れられません。けっしてホモではありませんが、わたしは「カッコいい男」が大好きです。沢田研二、郷ひろみ、東山紀之、及川光博といった人々も好きですが、なんといってもトシちゃんが一番好きでした。高校時代はTVで「ザ・ベストテン」に出てくるトシちゃんの登場シーンを録画しては、歌の振り付けを真似したものです。その頃のトシちゃんのライブ映像が残っていますが、バックダンサーは少年隊が務めています。たしか、このライブ映像は「Toshi Foever」というタイトルでビデオが発売され、わたしも購入しました。それも、Betamaxで!(泣笑)

   『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)

 予備校時代、わたしは休み時間に「原宿キッス」や「NINJIN娘」を踊って、受験勉強で荒んだ友人たちの笑いを取って癒してあげていました。早稲田大学に入学すると、「たのきん研究会」に入ってトシちゃんのダンスを本格的にマスターし、六本木のディスコで披露したりしました。そのことは1988年に上梓した処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)にも書きました。
 社会人になってからは、北九州市八幡の「松柏園グランドホテル」でトシちゃんのディナーショーを開催し、生の「抱きしめてTONIGHT」にシビれました。とにかく、わたしはトシちゃんが好きで好きでたまりませんでした。
 それにしても、今でもトシちゃんのダンスはすごすぎます!
 郷ひろみ、東山紀之のダンスもたしかにエレガントでしょう。
 しかし、彼らのレベルは根本的にトシちゃんとは違います。
 おそらく、日本の歌手では田原俊彦は最高のダンサーだと思います。
 本書を読んで、そんなことを再確認しました。

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