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闘う商人 中内㓛』

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No.1571

 
 『闘う商人 中内㓛』小榑雅章著(岩波書店)を読みました。「ダイエーは何を目指したのか」というサブタイトルがついています。著者は1937年生。60年早稲田大学第一文学部卒。暮しの手帖社に入社。花森安治に師事。84年ダイエーに入社。調査室長、取締役秘書室長、流通科学大常務理事兼事務局長、兵庫エフエムラジオ放送社長、ダイエー消費経済研究所代表取締役会長などを歴任。97年関西大学大学院社会学研究科入学。社会学博士。向社会性研究所主任研究員。

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   本書の帯


 ダイエーカラーであるオレンジのカバー表紙にはダイエー創業者である中内㓛の上半身の写真が使われています。帯には「経営とは何か。」と大書され、「価格破壊、流通革命の旗手はどこで、何を間違えたのか。」「花森安治・中内㓛、2人のカリスマに仕えた著者が描く」と書かれています。
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   本書の帯の裏


 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

「日本一の流通業・ダイエーをつくり上げた中内功は、価格破壊、流通革命の旗を掲げて道を切り開き、這い上がってきた。しかし頂点を極めながら、なぜダイエーは崩壊したのか。暮しの手帖編集部から中内の秘書に転じ、花森安治と中内㓛―戦後日本人の暮らしを大きく変えた2人のカリスマ―に仕えた著者が、哀惜を込めこの稀代の経営者の知られざる苦闘を描く」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

プロローグ「辞表」
1 ジャングル、飢餓、闇市
2 日本型スーパーマーケット創業
3 規制との闘い、メーカーとの戦い
4 日本一の小売業
5 臨時教育審議会委員になって
6 気にかかること
7 流通科学大学
8 SKHとドーム球場と宴の後
9 日本型GMSの土台が崩れてゆく
10 諫言・辞表・そしてダイエー崩壊
エピローグ「旅のおわり」
「注釈」「参考文献」「あとがき」

 1「ジャングル、飢餓、闇市」では、著者が中内㓛に初めて会ったときのエピソードが綴られています。それは1984年(昭和59年)のことでした。そのとき、中内は花森安治の『一銭五厘の旗』を読んだと語ったそうです。兵隊は赤紙一枚、つまり一銭五厘のハガキ1枚で召集されました。中内は「花森さんも一銭五厘でたいへんな苦労をした。自分も現役入隊だったが、一銭五厘だった。おなじ一兵卒のつらさを味わった。戦争の理不尽さをとことん骨の髄まで知らされた。もう二度と戦争などしてはいかん。一銭五厘などつくってはいかん」と語りました。

 中内の戦場での体験は、ダイエー創業の原点となりました。
 中内は著者に向かって以下のように内容を話したそうです。

「一銭五厘は、みんな庶民だ。ふつうの庶民こそ、大切に扱われるべきなのだ。誰もが、すき焼きを腹いっぱい食べられる生活でなければならない。自分は、フィリピンのジャングルの中で、食うものが全くない毎日を這いずり回って、食えるものは何でも食った。ヒルも草の根も食べた。ゴキブリも食ったがあれは食えない。腹が減ってどうしようもないとき、兵は食い物の話をした。すき焼きと白いどんぶり飯を腹いっぱい食う話をした。話をすると、ちょっとだけ食ったような気になった。
 万一、日本に戻れたら、なによりもすき焼きを食べようと思った。そのためには、庶民が一銭五厘の庶民が、将校や特権階級や金持ではない、ふつうの庶民が、おいしい牛肉を、野菜を、たらふく食べられるような世の中にしなければならないのだ。そのためには、少しでも安い牛肉や野菜を庶民に提供しなければならない。自分は、そのためにダイエーをつくった。庶民のためにダイエーをつくった・・・・・・」

 1957年(昭和32年)9月23日、京阪電車沿線の千林駅前に「主婦の店ダイエー薬局」が開店しました。著者はこう書いています。

「創業の頃は、映画が全盛の時代で、千林にも『千林松竹』という映画館があった。ここで木下恵介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』という映画が上映されることになっていたのを知り、中内さんは、創業開店の宣伝と景気づけに、その招待券を配ったのだ。これが大当たりし、千林店の繁盛につながったというのが伝説になっている。
 縁はまだつながっていて、この映画館を1961年(昭和36年)に買収し、ここにダイエー千林2号店をオープンしていて、千林には駅前店と旧映画館の2店があった。その旧映画館店が、ディスカウントストアのトポスに業態変更して、1984年(昭和59年)5月2日、つまり私が入社した翌日にトポスとして再開店したのだった。創業の駅前店は、じつは10年前の1974年に閉店していたので、旧映画館の千林店は、創業の聖地としてダイエーにとっては大切な店舗だった。そこへ中内社長は、私を連れて行き、商店街の人々に会わせてくれたのである」

 中内㓛は著者に「商売に素人だった自分が、その商売で成功できたのは、この千林のおかげだ」と語ったそうです。

「お客様の欲しがるものを売れば確実に売れる。お客様が何を欲しがっているかは、お客様が教えてくれる。それを素直に聞くか、聞かないかが肝要だ。千林では、薬や日用品を売っていたが、おばちゃんに『お菓子は売らんのか』と聞かれた。薬も日用品もたまに必要になるが、毎日は必要ない。でもお菓子は毎日食べる。『子供がおるから、安かったら毎日でも買いに来るで』と言われたんや。それで菓子を売りだしたら、売れること売れること。『商売はお客様に聞け』というわけや。
 『商売はお客様に聞け』『お客様の欲しいものは売れる』、だから『お客様の欲しいものを売る』。中内㓛の終生の要諦になる。これが商売の基本だ。しっかり憶えろ」

 中内㓛にスカウトされて、著者は24年間勤めた暮しの手帖社を1984年(昭和59年)3月31日に辞めました。そして1か月後の5月1日にダイエー本社に入社したのです。当時のようすが以下のように書かれています。

「当時、社長室には、秘書室と調査室があった。秘書室はスケジュール管理やアテンド、来客の接待など日常的なお世話が主だが、調査室は、中内社長のためだけの調査や作業に当たっていた。これを調べろ、これはどういうこっちゃ、これを聞いてこい、翻訳してくれ、手紙を書けという下命に応じる役割だ。社長が知っておいたほうがいいという情報も自主的に作って提出することも重要だ。私は、この調査室に来いということだった。ここには、すでに3人が常駐している。英語の達人や流通のことも熟知している東大出の学者社員、社内の実務経験もある経済学の習得者」

 当時の中内㓛は以下のようなことをよく話していました。

「人々の暮らしを支えるのは、生産よりも流通だ。欲しい人のとこへ欲しいものを届ける。その仕組みをよりよくすることこそ、これからの社会に最も重要なのだ、と強く思い定めたのである。お国のためではない、庶民のための流通が必要なのだ。
 この思いは、フィリピンのジャングルの中でも感じたことだ。つまり、兵站の重要性だ。(中略)日本軍は戦さとは武士のやるもの、つまり戦うことが目的だ。荷物の運搬など荷物持ちのやることで、武士のやることではない。関ヶ原の戦いも、半日の勝負だった。補給など考えない。大和魂で突撃、断固撃破だ。もし失敗したらどうするなどとは考えない。しかし、実際の戦いは半日では終わらない。持久戦になる。兵站が重要なのだ」

 兵站といえば、中内は以下のような話もしたそうです。

「米軍の酒保(軍隊の営内にあるコンビニ)を垣間見たら、アイスクリーム製造機があって、兵隊たちがアイスクリームを食べていた。これは勝てないはずだ。こっちは草の根やヒルやミミズを食ってやっと生きていたというのに、米軍の兵士はアイスクリームだよ。戦前の日本ではアイスクリームなんて、誕生日か何かでなければ食べさせてもらえなかった大ご馳走だ。そのアイスクリームを、遠いフィリピンの山の中まで製造機を運んできて、兵士にサービスしている軍隊に、補給なしの大和魂で勝てるはずがない」

 3「規制との闘い、メーカーとの戦い」では、"経営の神様"松下幸之助率いる松下電器と中内㓛率いるダイエーとの死闘が描かれます。松下幸之助といえば、「水道哲学」が有名です。松下は「産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し」という如く、水道の水のように安く庶民に商品を提供するのが、産業人の使命、松下電器の使命であると喝破しました。著者は「幸之助さんの理念はまさに中内さんの信念と通じている。ダイエーの安売りを歓迎すべきではなかったのだろうか」と述べますが、現実は違っていました。1964年10月、松下電器はダイエーに対して出荷停止処分を行なったのです。

 なぜ、松下電器はダイエーの安売りを否定したのか。
 著者は、以下のように述べています。

「ダイエーにとっては、松下電器の商品は、売場になくてはならない『よい品』である。バイヤーが全国を回って、『ナショナル』銘柄のテレビや洗濯機を売ってくれる現金問屋などの業者を片っ端から当たって、仕入れてきて、売場へ並べ続けた。それを松下電器は、ダイエーの店頭から自社の洗濯機などを購入し、解体して部品のロットナンバーからダイエーに販売した業者を見つけ出し、その業者からは取引できないようにする。ダイエーも負けるものかと商品のロットナンバーを消して、店頭に並べるといった対抗策をとる。これに対して松下電器は肉眼では見えない特殊な光線で判別できるブラックナンバーをつけて売り出した。まさにやられたらやり返す戦いである」

 1989年(平成元年)4月27日、松下電器の創業者である松下幸之助が亡くなりました。その葬儀と模様を、こう書いています。

「松下にとってダイエーは不倶戴天の敵だったので、中内さんには葬儀のご案内は来ていない。事前に連絡して、席を用意してもらいますから、というと、『余計なことをするなっ』と怒鳴られた。葬儀開始は11時だということだったが、私たちは10時には御堂筋についていた。車の中から見ると、もうすでに長い行列ができている。それを見て、中内さんは一般参拝者の行列に並ぶと言いはった。私はいくらなんでもと思い、中内さんにすぐ戻りますから、待っていてください、と強く念を押して、大急ぎで葬儀場に行き、無理やり谷井社長をさがし、中内がそこに来ています、席を作ってほしいと頼んだ。谷井社長は、『中内さんが?』まさかという顔をしたが、すぐに指示を出して下さった。急いで、車に戻りかけたら、もうすぐそばまで中内さんが歩いてきていた。間に合った」

 続けて、著者は当時の様子を以下のように書いています。

「葬儀が終わって、中内さんが出てきた途端にマスコミに囲まれた。そのとき、「大先輩に敬意を表します」とでも言えばいいものを、『松下幸之助さんが亡くなって、やっと1つの時代が終わった』というようなことを言った。それがテレビのニュースに出て『中内は宿敵がいなくなって喜んでいる』みたいにとられてしまった。マスコミは大向こう受けする構図でとらえたかったのだから、恰好な談話だと飛びついたのだろう。本人は、素直に当たり前のことを話しただけだ、と言っていたが、周りからは、君がついていながらあんなことを言わせて、お前が悪い、とずいぶん叱られた」

 これは、中内㓛氏が非礼であったと思います。いくら天敵のような相手が亡くなったとしても、やはり故人に対しては「礼」を示す必要があります。また、その気がないのなら、葬儀になど行かない方がいいでしょう。生前、松下幸之助は「中内㓛は王道ではなく、覇道の男だ」と言っていたそうですが、そう言われても仕方のない失態でした。

 お客様に「よい品をどんどん安く」提供するのがダイエーの使命でしたが、そのうち中内は花森安治がつくった「暮しの手帖」のような賞品の良し悪しを調べる検査機関をダイエーにもつくろうと考えました。著者は述べます。

「1970年(昭和45年)11月16日、大阪中津に、ダイエーの消費経済研究所の付属機関として品質管理センターを設立した。消費経済研究所は、株式会社で資本金10億円(当時の公務員初任給は約3万円。今は約21万円だから約7倍なので、今だったら70億円ぐらいの感じ)。この半分をダイエー、半分を中内さんが出資した。よい商品であるかどうかの検査は、あくまで中立的でなければならない。ダイエーの商品部や企業からの検査への干渉や影響を排除し、中立的検査ができるように、自分が半分出資した、と中内さんから聞いた。
 ここはダイエーで取り扱う商品の品質、安全性、性能、耐久性、実用性、などの検査を行なう検査所である。ここには500㎡(のちに1100㎡まで拡張)の広さに、商品検査のできる最新の機器を導入、専門の検査ができる技術者を10人配置した。当時としては、日本最大、最新の品質管理センターであった。
 中内さんは、『金はかかってもいい。何より大事なのは、ダイエーの信頼だ。ダイエーで買った品は、安心できる、間違いがない、「よい品」だとお客様に思っていただけるために、きちんと検査してほしい』と檄を飛ばした」

 著者は、ダイエーの30年史づくりに携わりました。そのとき、中内に「ダイエーの存在価値を表すのは、何が一番だと思いますか」と聞いたそうです。著者としては、松下に勝った時とか、三越を抜いて日本一の小売業になった時とか、1兆円企業になったときとかの答を予想していたそうですが、まったく違っていました。それは「オイルショックだよ」だったのです。著者は「えっ」と思い、「なんでオイルショックなんですか」と質問したそうです。著者は以下のように書いています。

「1971年(昭和46年)8月にニクソンショック(米ドル紙幣と金の兌換を一時停止)というのがあって、物価の値上がりが続いていた。公共料金も生活必需品も値上がりを続けている中で、ダイエーは『物価高騰の中、販売価格を凍結したら』ダイエーの存在価値がはっきりわかってもらえるのではないか、という意見が出た。これは中内さんの発案ではなかった。ダイエーは1972年(昭和47年)に創業15周年を迎えたが、その記念に何をやるか、社内で協議した結果、提案されて上がってきた企画であった。それを中内さんは『やろう』と決断した」

 4「日本一の小売業」では、ダイエーの破竹の快進撃が描かれます。
 1971年(昭和46年)、ダイエーグループの売り上げは2000億円を突破し、大証二部に株式上場。翌72年3月に東証一部に株式上場し、8月には創業わずか15年で小売業界の王者・三越を抜いて、小売業日本一になりました。さらにその5年後の1980年(昭和55年)2月16日午後1時40分に、小売業初の売上高1兆円を超えました。小売業界初めての偉業でした。著者は述べます。

「1兆円までの道のりは遠く険しかった。だが、これが終点ではない。頂点ではない。未だに流通革命は完成されていないのだ。あい変わらずメーカーからの攻撃は激しい。"価格決定権"を消費者の手に取り戻すまで、どんなに苦しくてもわれわれは闘い続けなければならない。既存の流通経路を破壊して、本当に豊かな生活を生活者に届けられるまでには、まだまだ障害が多い。この障害を1つひとつ取り除いていくことが、ダイエーの仕事なのだ。ダイエーにしかできない仕事なのだ」

 創業が1957年、大阪の片隅で始めた30坪のドラッグストアが、それからわずか22年後には売上高1兆円、小売業では日本一の大企業に駆け上がったのです。こんな例は他にはなく、当時は「今太閤」と囃されたほどでした。

 中内は1980年の1兆円達成の際、「ダイエーグループの売上げを5年後の1985年には4兆円にする」と宣言しました。

「かねてより、中内さんは売上第一主義である。よくイトーヨーカ堂は売上高利益率が4~5%あるが、ダイエーはその半分以下だと言われている。これについて私も直接中内さんから聞いている。
 『われわれは、利益のために商売をしているのではない。お客様のために働いているのだ。上場して利益を出したらその分配当しなければならん。株主に配当するより、その分安くしてお客様に還元するのが商売の本道だろう。だから、なかなか上場しなかったんだ。また、人口の集中している大都市圏だけ出店していれば、もっと儲かるだろう。しかしそれでは地方の人たちは放っておかれていいのか、そうじゃなかろう、ダイエーは日本国民がみんな豊かに暮らせるように、必死にやってるんだ。ダイエー憲法「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」この運動をやっているからこそ、ダイエーの社員は誰もがみんな、この国の人々のために働いているんだという誇りをもっている。利益のために働いているのではない。余分の利益は、お客様に還元するのだ』
 『小売業として物販だけでなく、大衆が必要としている保険や不動産、証券なども、「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」の運動として展開していくのだ。それはダイエーだけが出来ることなのだ』
当然、人々のライフスタイルの変化にも注目し、可処分所得がどのように使われているか、その受け皿をダイエーが用意すべきだという路線を敷いていくことになる」

 5「臨時教育審議会委員になって」では、事業家として多忙をきわめる中内が、臨時教育審議会(臨教審)の第一部会の委員に就任したことが紹介されます。中内は熱心に会議にも出席していましたが、彼が主張したのは、大学の9月入学でした。著者は以下のように説明します。

「唐突に中内さんが主張したわけではなく、はじめから臨教審の検討項目に挙げられたことの1つである。中内さんが見て、これからの日本にとって必要で、しかも実行可能なものはどれかを考え、臨教審が決めたから、実現したと胸を張れる項目、それが〈9月入学〉だった。
 これは、第一部会の受け持ちのテーマではない。第三部会の初等中等教育と第四部会高等教育の仕事である。しかし臨教審の規則では『委員は随時所属する部会以外の部会に参加できる』し、『議事は委員の合意を得て決する』とあり、何事も総会に諮り決することになっている。だから、第一部会で決めた『個性主義』が総会で『個性の重視』に変えられてしまったのだ」

 続けて、「9月入学」について、以下のように述べられています。

「9月入学は、秋季入学ともいわれる制度で、欧米の大学では8割以上が秋入学であり、国際標準といえる。欧米の大学を規範にして設立された日本の大学は、明治時代から大正の中頃までの間は秋期入学を実施していた。しかし、国の会計年度制にあわせるために、春入学に変更になったという。
 秋期入学にすると、留学希望者や研究者の受け入れ、欧米の大学、研究者との交流がスムーズになり、大学の国際化につながると言われている。現行の4月入学は、入試が真冬になるため、雪で電車が止まったりして受験に間に合わなくなったり、寒中に受験生が行列して風邪をひいたりして大変だ。なぜ4月でなければだめなのかと聞いたら、『入学式は桜の花びらの下で行なうのが一番だ』という情緒派もいるが、それよりは実利からしたら秋季にすべきだ」

 臨教審に熱心に取り組んだ中内は「教育環境の人間化」として、「商業環境を考えろ」「ダイエーの店の環境に問題はないか調べろ」と著者に命令しました。このとき、調査室が問題にしたのがトイレでした。著者は以下のように述べます。

「スーパーマーケットは、基本はセルフサービスである。お客様は、自分が欲しいものを自分で選んで、さっと精算してさっと帰る。だから、売場の整備や価格については神経を使う。直接、来店客数や売り上げに影響するので、当然いろいろ厳しい決まりもあり、チェックも働いていて、買い物がしやすいように、清掃や障害物などには注意していたが、トイレは比較的目が届かなかった。抜き打ちでしらべてみると、確かに数が少なかったり場所が不便だったり、汚かったり、荷物が置かれて陰になっていたり、少なからず問題があった。店は商品を並べて売るところ、という認識では、トイレは疎かになりがちだ。むしろコストでベネフィットにはつながらない」

 しかし、〈人間化〉という視点を導入してみると、お客様には買い物だけでなく、過ごしやすいとか楽しいとかという場所であるべきです。著者は述べます。

「こんなことは当然ずっと以前から言われていることだが、できてなかった。それは、じつは店はお客様のためにあるのだという認識そのものに問題があったのだ。人間化という視点を導入してみると、お客様である以前に人間としてどうあるべきかと考えると、トイレなど真っ先に問題になるはずだ。それは、結果としてお客様としての来店も増えて、売り上げにも貢献するだろう。いまから30年前に商業環境にも人間化が必要だ、と着想したのは、やはり中内さんならではであった」

 8「SKHとドーム球場と宴の後」では、福岡のツインドーム構想が取り上げられます。ツインドームとは何か。著者は説明します。

「ツインドームというのは、2つドームをつくります。1つは野球の球場、もう1つは雨天でも楽しめるアミューズメントドームで、福岡市民のためにつくりますから、ドーム2つ分の土地を売ってください、という案である。しかも、鈴木さんの本音を言えば、途中で、アミューズメント施設のドームはやめました、ということにして、その土地を売り払えば、その代金で野球のドームはただで出来る、という話だったので、中内さんは乗ったのだと私は思う」


 もう時効だと思うので告白しますが、当時プランナーをやっていたわたしは、三菱商事・東急エージェンシーのプロジェクトチームに参加して、アミューズメントドームの企画コンペを行いました。インダストリアル・デザイナーの栄久庵憲司さん、空間プロデューサーの山本コテツさんも一緒でした。いかにもバブルそのものという案件でしたが、当時は夢中になってプランを練りました。しかし、最初から土地目当てでアミューズメントドームなどつくる気はなかったと後で知って、怒髪天を衝く思いでした。ああいう道に外れたことをするから、ダイエーは潰れたのだと思います。

 ドーム球場が着工したのは1991年4月、竣工が2年後の1993年4月でした。著者は以下のように述べています。

「中内さんの福岡へ行く機会が多くなった。まず開閉式のドーム球場が完成し、特別室から見る福岡ドームの景色は、それは特別、王様になったような気分になる。神戸の商工会議所のご一行も招待し、やはり中内さんはすごい。神戸につくってくれればよかったのに、と言われて、今頃わかったか、という顔をしていた。しかし、この大きな買い物のつけは大きかった。ダイエーグループの上に重くのしかかってきていた」

 福岡ドームの竣工イベントにはわたしも参加しました。中内㓛氏と名刺交換もしましたが、正直言って、尊大な印象を受けました。自社の施設の招待客に対して、ああいう態度を取っていたこともダイエー倒産の遠因になっていたと思います。

 9「日本型GMSの土台が崩れてゆく」では、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災の後、ダイエーが神戸で必死に商品を提供した様子が描かれています。しかし、震災でよその企業はただで配っているのに、ダイエーは通常価格で売っていました。これについて、著者は以下のように述べています。

「地震の非常時にも、ダイエーは金もうけか、という人がいた。しかし、その人は、100円のおにぎり1個運ぶのに、東京からヘリコプターで運ばれ、ずぶずぶの道を40分も歩き、壊れた橋を死に物狂いで飛び越えて人力運搬されてきたことや、たぶんおにぎり1個に1万円もかかっていることを知らない。中内さんは、『そんなことを知らせる必要はない。我々の仕事は、一時のボランティアではない。ただで100個配って、ハイ終わりましたではないんだ。今日も明日も、生活必需品をいつでも同じ値段で安定供給し続けることだ。おにぎり1個100円と値段を付けたら原価が1万円かかろうと100円で売り続けるのが、小売業の社会的責任だ。どんな災害があっても、ダイエーに行けば、いつも通りの値段でいつも通りの商品が手に入る。それが、人々の安心と信頼につながるのだ』と明言する」

 この後、日本の流通業界には大きな変革が起こります。
 「日本型GMSの黄昏」として、著者は次のように述べます。

「家電では、ヤマダ電機が、この商号で活躍し出したのが1987年。同じくコジマは、この社名に変えて発展し出したのが1993年。ヨドバシカメラは1989年に家電業界初のポイントカード発行。ビックカメラは1982年に池袋東口店、89年に渋谷店出店。洋服の青山商事が大証2部に上場したのが1987年、東証1部が92年。同じくAOKIの東証2部上場が1989年、1部上場が91年。婦人服のしまむらが東証2部に上場したのが1988年、1部が91年。ユニクロがファーストリテイリングとして始めたのが1991年、100店舗になったのが94年」

 続けて、「日本型GMSの黄昏」として、著者は述べます。

「マツモトキヨシが上野アメ横に店を出したのが1987年。ロードサイド・ドラッグストア1号店が1994年。サンドラッグは1997年東証2部上場。家具のニトリが札幌証券取引所に上場したのが1989年、本州1号店が1993年、100店舗が1994年。ホームセンターのコメリ1987年新潟証券取引所上場、1991年100店舗。カインズ1989年設立。コーナン1996年大証2部上場。
 上に挙げたように、ほとんどのロードサイドの専門店が、その力を発揮し出したのが1980年代後半から1990年代前半である。あるカテゴリーに絞って、圧倒的マーチャンダイジング力で品揃えし、価格も安くして店舗展開するカテゴリーキラーという業態が、この時期に相次いで出現し、GMSの顧客を奪っていったのである。奪ったのではない。お客様が、選択をしたのだ、というべきなのだろう」

 ダイエーなどのGMSの多くは、駅前や繁華街や団地の中央などの足場のいいところに店があります。ところが路面店は、売場は広いが、足場がよいところはむしろ少ないです。多くの場合、歩いてすぐ行ける店舗ではありません。しかし、広い道路に面していて、駐車スペースも広く、車で行くには便利なところにできています。その点、歩いて行けるGMSとは根本的に異なるのです。
 81年を1にすると、85年にはほとんど変わりませんでしたが、その後急激に伸びて95年には2.8倍、2000年には4.7倍にも増えています。乗用車の増加の多くが、この軽自動車の増加の結果だと言っても過言ではありません。著者は以下のように述べています。

「1980年代後半から90年代に入って、ダイエーの既存店の売上げが、徐々に落ちていった原因は、バブル崩壊後の消費者の財布が絞められたことに合わせて、このカテゴリーキラー店舗の影響が大きかったと思われる。そして、それをもたらしたのは、この軽自動車の普及という主婦層のモータリゼーションのお陰だったのである」

 その後、ダイエーは起死回生を狙ってハイパーマート事業に進出しますが、それも失敗に終わります。著者は以下のように述べます。

「ダイエーが躍進していた時は、何が売れるかなど考えなくてよかった。国民はみな貧しかった。ほしいものは山ほどあった。人口はどんどん増え、新婚世帯が増えて、家庭の中に必要な、ほしいものばかりだった。だから、ダイエーは、単品大量に仕入れて少しでも安く売れば、どんどん売れたのである。
 消費が飽和してきたときに、新たに売れる商品を開発する能力は、ダイエーには乏しかった。それだからこそ、安さや業態にこだわった。
 しかし、こういう議論はどんどんすべきだった。不得手でも事態を認識し、どうしたらいいかをみんなで考えるべきだった。だが、全軍の指揮官中内さんの前ではできなかった。『よい品をどんどん安く』は不易だ、絶対だ、と聳え立つ、その前に議論の余地はなかった」

 10「諫言・辞表・そしてダイエー崩壊」では、著者が中内㓛に対して送った手紙の内容が紹介されます。その中には、こう書かれていました。

「震災の後、CEOは経団連もやめられ、ダイエーの仕事にお戻りになられました。その震災対策ではさすがCEOでしかなしえないリーダーシップを発揮なされ、ダイエーの偉力を世の中に見せつけられました。
しかし、その後もずっと会議にもご出席になり種々現場のご指示も、店巡回も積極的になさっておられると聞いています。
 しかし、このことがダイエーの中に混乱をまき起こしていることは、当然CEOですからご承知おきのことと存じます。二頭政治。つまりCEOとVPの2つの指示。当り前のことながらCEOのご指示は天皇陛下のご命令と同じですから、みな、従います。しかし、「いいのかな、これは今までと違うな」と心の中で思っています。そして、もっと正直に言えば、CEOのご指示の方がおかしいと思っているようです。不満がどんどん大きくなっています。これまでの神聖なCEOの偶像がこわれかねないのです。何人もの人間から、この話を聞きました」

 最後まで、中内㓛は「おれは自分が間違っていたとは思えない。どんな時代になっても〈よい品をどんどん安く〉は正しい。不易だ。そうは思わんか。〈よい品をどんどん安く〉売って、なぜダメなんだ。ダメなはずはない。この道しかないのだ。この道しかない」と言っていました。
 翌2001(平成15年)年1月30日の臨時株主総会で、中内さんの取締役退任が報告されて、ダイエーから完全に離れました。2004年、産業再生法の適用を受け、ダイエーは実質的に幕を閉じました。その翌年の2005年9月19日に、流通革命の旗手であった中内㓛はその生を終えています。
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   1984年6月14日付「日本経済新聞」朝刊


 本書を読んで改めて思ったことは、ダーウィンの進化論ではありませんが、巨大化したダイエーは時代の変化についていけなかったということ。
 「よい品をどんどん安く」という初志、いわば「初期設定」はつねに心がけていても「アップデート」が疎かだったとも言えるでしょう。何よりも、残酷なようですが、ダイエーは時代から見捨てられたということです。著者がダイエーに入社した1984年、つまりダイエー全盛期の頃、わがサンレーと業務提携したことがありました。それはダイエーグループの全社員の冠婚葬祭をサンレーが請け負うという内容で、当時の新聞にも大きく報道されました。思えば、サンレーグループもあの頃が最も巨大でした。その後、「選択と集中」で事業エリアなどの縮小を余儀なくされましたが、今でも企業活動を続けさせていただいていることは有難いことです。 不遜ながら、わが社は天からの命を受けた「ミッショナリー・カンパニー」であると思っています。