No.1221 宗教・精神世界 | 民俗学・人類学 | 神話・儀礼 『汚穢と禁忌』 メアリ・ダグラス著、塚本利明訳(ちくま学芸文庫)

2016.04.05

  『汚穢と禁忌』メアリ・ダグラス著、塚本利明訳(ちくま学芸文庫)を読了。 著者は1921年生まれのイギリスの社会人類学者、比較宗教学者です。オックスフォード大学セントアンズ・カレッジ卒業。オックスフォード人類学研究所でエヴァンズ=プリチャードに師事。コンゴでの現地調査などを経て、ロンドン大学社会人類学教授を務めました。1977年に米国に移住、ノースウェスタン大学、プリンストン大学で教鞭を執りました。1988年に英国に戻り、2007年に逝去しています。

 本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

「多くの文化の祭式において、本来拒否されるべき不浄なるものが聖なる目的のために使われるのはなぜだろうか。フレーザーからサルトル、エリアーデにいたるまで多くの人類学的成果を吟味しながら、穢れを通して浮かび上がる、秩序と無秩序、生と死、形式と混沌の関係に鋭く迫る。穢れとは、秩序創出の副産物であると同時に、既存の秩序を脅かす崩壊の象徴、そして始まりと成長の象徴であり、さらに穢れと水はその再生作用において同一をなすものであると位置づける。1966年の刊行以来、世界中に大きな衝撃を与えた名著。」

 本書の「目次」は以下のようになっています。

「謝辞」
「ラウトリッジ・クラックス版への序」
「緒言」
第一章 祭祀における不浄
第二章 世俗における汚穢
第三章 レビ記における「汚らわしいもの」
第四章 呪術と奇蹟
第五章 未開人の世界
第六章 能力と危険
第七章 体系の外縁における境界
第八章 体系の内部における境界
第九章 体系内における矛盾
第十章 体系の崩壊と再生
「訳者あとがき」
「再版への訳者あとがき」
「文庫版への訳者あとがき」
「文献」
「文庫版解説」中沢新一
「索引」

 「ラウトリッジ・クラックス版への序」で、著者は本書の2つのテーマを紹介しています。第1のテーマは、タブーとはそれぞれの部族がもつ宇宙独特のカテゴリーを保護するため自然に発生した装置だという見方です。第2のテーマは、曖昧なるものが惹起する認知的不安を考察することで、タブーにまつわるさまざまな疑問に応えることです。 著者は、「タブーは、共同体全体が一種の共同謀議を行なうことで始めて成立する。共同体の構成員が自分の共同体に対して積極的に関与していかなければ、共同体は存続していくことができないだろう」として、さらに以下のように述べます。

「タブーとは、自然発生的に記号化を行なう行為である―脆弱な関係を保護する目的で空間的限界を設けたり、身体的・言語的なシグナルを発したりするための語彙を作りだす行為である。それらの記号を尊重しなければ、それに見合う危険が訪れることになるのだ。タブーを犯したことから生まれる危険の中には、接触によって誰にでも災禍をもたらすものがある。このような感染への恐怖のため、タブーを犯すのは危険だという怖れが共同体全体に広がるのである」

 また「緒言」では、著者は以下のように述べています。

「本書において私は、聖潔や不浄にかわる儀式は経験に統一的意味を与えるものにほかならないことを示そうと試みた。その種の儀式は宗教の中心的課題から逸脱したものであるどころか、贖罪のための積極的貢献となるものなのである。そのような手段によって象徴的形式は完成し、公式に表示されるのだ。これらの形式の内部においてこそ、さまざまな要素が関連をもたされ、さまざまな経験が意味を与えられるのである」

 第一章「祭祀における不浄」で、著者は以下のように述べています。

「我々にとって聖なるものと聖なる場とは、汚穢から守られるべきものである。神聖(holiness)と不浄とは対極的なものであるのだ。我々は聖性と不浄とを混同するよりはむしろ、空腹と満腹とを、あるいは睡眠と覚醒とを混同するであろう。ところが原始的宗教の特徴は、聖性(sancitity)と不浄とを明確に区別しないことにあると考えられている。もしこれが事実だとすれば、このことは、我々と我々の祖先との間には大いなる断絶があることを示すものであり、なお、我々と現代の未開人との間にも巨大な深淵があることを示すものであろう。今日にいたるまでこのことは広く主張されてきたし、いまだにそれがなんらかの不可思議な形で教えられていることは確実である」

 著者は、この読書館でも紹介した『初版 金枝篇』の著者であるジェームズ・フレイザーの考えについて以下のように述べています。

「フレーザーによれば、古代人は宇宙が非人間的・機械的原理によって動かされていると考えた。そういう宇宙を制御する正しい公式を求める過程で、彼等はいくつかの正しい原理につき当たったこともあるのだが、多くの場合、混乱した精神状態の故に言葉や身振りを道具として用いることができると考えるようになる。呪術は、古代人が自らの主観的連想と外部の客観的現実とを区別できなかったことから発生した。その起源は錯誤に基づくものである。疑いもなく、未開人とは欺され易い阿呆だったというのである」

 続けて、著者は以下のように儀式について述べています。

「かくして、多くの地域において。いつまでも続く冬を立ち去らせるため、または夏が逃げ去るのを留めるために行なわれた儀式は、ある意味では世界を新たに創り出そうとする試みであり、『心の望むままに世界を再生しよう』とする試みなのである。しかし、かくも壮大な目的を達成するために、かくも無力な手段を案出した古代の賢者の視点に立とうとするならば、我々は、宇宙の無限大やその中における人間の立場の卑小さ無意味さ等々といった近代の観念をことごとく棄て去らなければならないのだ」

 著者は「フレーザーの自己満足や、彼が明らさまに未開人の社会を軽蔑しているといったことは赦しがたい」とまで述べ、フレイザーの上から目線を批判しています。

 第二章「世俗における汚穢」では、ウィリアム・ジェームズが造り出した「医学的唯物論」という用語を紹介します。これは、幻影や夢を薬品や消化不良のせいだとするようなった立場です。著者は以下のように述べます。

「大部分の未開民族は、祭祀をゆるがせにすれば苦痛や災殃が自らの身にふりかかるといった立場から自己の祭式的行為を正当化しようとするのであるが、その点においては彼等も広義の医学的唯物論者であるだろう。私はこれから、さまざまな祭式の規範が、それを破れば特定の危険が招かれるとする信仰に支えられているのはなぜであるのかを明らかにしようと思う。私が祭式における災殃の問題を解決する以前に、読者諸氏はこういった信仰を額面通り受け取ろうとされなくなるであろう」

 第三章「レビ記における『汚らわしいもの』」では、「聖」について以下のように述べられます。

「聖とは〈神〉の属性である。その語源は『隔離する』ことを意味する。では、それ以外にこの語はどのような意味をもっているのだろうか。いかなる宇宙論の研究においても、我々は能力と危険との原理を求めることから出発するべきであろう。旧約聖書においては祝福があらゆる善きことの源泉であり、祝福の撤回はあらゆる危険の源泉である。人々がある地に住めるようになることすらもが神の祝福によっているのである。 祝福を通して神が行なう業は本質的に、人の所業が栄えるための秩序を創ることである。女の多産、家畜の繁殖、耕地の豊饒等は祝福の結果として約束され、祝福は神との契約を守り神の一切の戒律と儀式とを遵守することによって獲得され得る(中命記第28章1-14節)。祝福が撤回され呪いの能力が解放されると、不毛と疫病と混乱とが現われる」

 著者は、また「聖」について以下のようにも述べます。

「『聖』なる語の語源が隔離を意味するとすれば、次に現われる観念は全体性および完全性としての〈聖〉といったものである。レビ記の多くは、神殿に捧げられる物や神殿に近づく人々に要求される肉体的完全性を述べるのに占められている。犠牲に捧げられる動物には傷があってはならず、女は出産後に清潔られなければならず、ハンセン病者は快癒して神殿に近づくことが許される以前に隔離され儀式によって浄められなければならない。肉体から漏出するものはすべて不浄であり、それをもっている者は神殿に近づくことができない。祭司は近親者が死んだ時にかぎって死者と接触することができるが、祭司者は死と一切のかかわりをもってはならないのだ」

 第四章「呪術と奇蹟」では、儀式について以下のように述べています。

「人間は社会的動物であるが故に儀式的動物なのである。もしある形式による祭祀が抑圧されればそれは別の形式をとって出現するのであり、社会的相互作用が強力になればなるほど別の形式をとって現われる力も強力になるであろう。哀悼の書簡、祝電、および時折の葉書といったものまではなかったら、遠く離れている友人間の友情といったものは社会において現実化されないのである。友情は友情の儀式がなければ存在し得ないのだ。社会的儀式は、もしそれがなかったら存在し得ないような一種の現実を創出するのである。思索にとって言葉が重要であるよりは社会にとって儀式が一層重要であるといっても、それはいいすぎではあるまい。というのも、なにごとかを知って然る後にそのことを表わす言葉を見出すことは可能であっても、象徴的行為なくして社会的関係をおつことは不可能だからである」

 わたしは、ここで使われている「儀式的動物」という言葉に深い感銘を受けました。また、「思索にとって言葉が重要であるよりは社会にとって儀式が一層重要である」という言葉は至言であると思います。

 さらに著者は、儀式について以下のように述べます。

「儀式は、枠組みを設定することによって注意を集中させるのだ。それは記憶を刺激し、現在を過去の関連事項と結びつける。これらすべてにおいて、それは知覚作用を助ける作用をする。というよりはむしろ、それは我々がなにを選択するべきかという原理を変更するが故に知覚作用を変質させるのである。従って、儀式は我々がいずれにせよ経験したはずのものを一層生き生きと経験させる助けをするのだというだけでは不十分であろう。それは単に、缶や箱を開く際の口頭説明をおぎなう視覚的補助のようなものではないのだ」

 続けて、著者は儀式について以下のように述べます。

「もし儀式が一種の演劇的地図だとか既知のものの図解だとかいったものにすぎないとすれば、それは常に経験に従属するはずであろう。けれども事実において、儀式はこういった二次的役割を果たしてはいない。それは経験を定式化する際、あらゆるものに先行することすらあるのだ。つまり儀式は、それがなければまったく知られることがなかったかもしれないような知識を与えることもあるのである。儀式は、経験を白日の下に晒すことによってそれにただ外面的形式を与えるばかりでなく、そのような表現を与えることにおいて経験を変貌させるのである」

 そして著者の儀式論は熱を増し、以下のように述べています。

「儀式がなければ経験のしようがないものもあるのだ。規則正しい順序に従って生起する事象は、その順序の中にある他のものとの関係から意味を獲得する。そういった全体的構成がなければ、個々の要素は見失われ、知覚不能となるであろう。例えば、規則的に継起してくる曜日なるものは、全体との関係において各々の名称と特殊性とを獲得する。それは時間的区切りを確認するための実用的価値とは別に、全体的パターンの一部としての意味をもっている。それぞれの曜日がそれ自身の意味をもっている以上、もし特定の曜日になにかをしなければならないような習慣があるとすれば、その種の規則的しきたりは儀式と同様の効果をもつ」

 続けて、著者は具体例を挙げて説明します。

「日曜とは単に休息の日であるわけではない。それは月曜の前日でもあるので、このことは火曜との関係における月曜にとっても同様である。もしなんらかの理由のために我々が月曜日を過してきたことを正しく認識していないような場合には、我々は真の意味で火曜日を経験することができないだろう。一定のパターンの一部を経験するということは、次の部分を意識するのに必要な手順であるのだ。航空機で旅行をする人々は、一日の時間や食事の順序などが右に述べたような意味をもっていることに気がつくであろう。象徴としての意味をもたせるようとする意図がないものでも、我々はそれを象徴として受け容れ象徴として解釈してしまうことがあり得るのであって異常はそういったものの実例である。そこでもし、象徴が経験を支配するといったことを認めるならば、規則正しい順序で継起する意図的な儀式は、その重要な機能の1つとしてこの種の作用をもち得ることを認めなければならないであろう」

 そして著者は、以下のように述べるのでした。

「今や我々は、人類学者の著作において、〈宗教〉のかわりに〈儀式〉なる語が用いられる事態に到達しているのである。現在儀式なる語は、慎重かつ一貫して聖なるものに関する象徴的行為を指すために用いられている。その結果、もう1つの儀式は―つまり宗教的効験をもたない、ありふれた世俗的儀式は―もしそれを研究対象にとり上げるとすれば、別の名称を与えなければならない状況なのだ。従って、ラドクリフ=ブラウンは片手で聖と俗との障壁を除き去ったが、別の手で再びそれを築き上げたといえるであろう。彼はまた、儀式が知識社会学の理論に含まれるというデュルケームの思考に従うことができず、当時の心理学で流行していた『感情』に関するいくつかの仮定を無批判に受け容れて、儀式を行動理論の一部としてとり扱った。彼は、共通の価値が存在するところでは、儀式はその価値に対する注目を表現し注意を集中させるという。つまり、人々が自己の役割を守るのに必要な感情は儀式によって生まれる」

 わたしは会社行事などに参加するたびに「儀式は一種のナレッジ・マネジメントである」と思っていましたが、著者はそのことを述べています。

 著者は「儀式の効験」という問題に戻り、以下のように述べています。

「モースは、未開人の社会は自らに呪術という贋金を払っていると述べている。金銭の比喩は、我々が儀式について首長しようとすることをみごとに要約するものである。金銭は、混乱と矛盾とに満ちた活動ともいうべきものを表わす、固定した、外的な、認識可能な微証(サイン)であり、儀式とは、内的状態を可視的な外的微証に変えるものだからである。金銭はさまざまな業務を媒介し、儀式は社会的経験を含む諸経験を媒介する。金銭は価値を測定する基準を提供し、儀式はさまざまな状況を標準化することによってそれらを評価する助けとなる。金銭は現在と未来とを繋ぐ作用をするが、儀式も同様である。この比喩の豊かさを考えれば考えるほど、これは比喩以上のものであることが明白になるであろう。つまり金銭とは、極端かつ特殊化された型の儀式にほかならないのである」

 わたしはいつも「冠婚葬祭とは縁や絆の見える化である」と述べるのですが、ここで著者が「儀式とは、内的状態を可視的な外的微証に変えるもの」とまったく同じことを言っているのを知り、わが意を強くしました。

 続けて、著者は金銭と儀式を並べて、以下のように述べています。

「モースの誤りは、呪術を贋の通貨に譬えたことである。金銭は、それに対する社会的信用があるときにだけ、経済活動の促進という本来の役割を果たすことができる。もし信用が揺らげば通貨は無価値になってしまうだろう。儀式についても同じことがいえるのだ。即ち、儀式の象徴が信頼を博しているかぎりにおいて、それは効果をもち得るのである。この意味であらゆる金銭は、それが真の通貨であると贋金であるとを問わず、信用という幻想に拠っているのである。どのような金銭にしても、それと比べればさらに一層通用する範囲が広い別の金銭と対比するのでなければ、贋金といったものはあり得ないだろう。従って未開人の儀式は、それが彼等の信頼を得ているかぎりにおいて、贋金ではなく真正の金銭に譬えるべきであるのだ」

 著者は、フレイザーのみならず、ヴィクター・ターナーやレヴィ=ストロースなどにも、未開人の宗教的信仰に対するあまりに自己満足的な軽蔑が見られるといって批判しています。そして以外にもフロイトを評価し、第四章の最後で以下のように述べます。

「不合理なアリババではなくて権威あるフロイトの姿こそが、原始的儀式執行者を理解する原型なのである。儀式とは事実、創造的なものである。原始的儀式における呪術はお伽話の異様な洞穴や宮殿より一層驚異的であり、階層的秩序に応じてそれぞれに定められた役割を果す人々を包含する調和的世界を創出するのである。原始的呪術は無意味であるどころか、まさに人生に意味を与えるものであるのだ。このことは積極的儀式にばかりではなく、消極的儀式にもあてはまる。つまりさまざまな禁止令は、宇宙の輪郭と理想的社会秩序とを描き出すものにほかならないのである」

 第六章「能力と危険」では、冒頭で祭式について述べられます。

「祭式は無秩序のもつ潜在的能力を認めている。精神が混乱し無秩序の状態におちいるとき―つまり夢、失神状態および狂気において―祭式は、意識的努力によっては到達し得ない能力や真実を見出そうとするのである。意のままに人々を支配する能力や病者を癒す能力は、一時、理性的抑制を放棄し得る人々に与えられるとされるのだ」

 そして第六章の終わりになって、いよいよ「汚穢とは何か」について言及され、著者は以下のように述べます。

「今や汚穢の本質を明らかにするべき時期である。あらゆる霊的能力が社会体系の一部であることはすでに確認された。つまり霊的能力は社会体系を表現し、社会体系を操作する制度を生み出すのである。これは宇宙に属する能力が結局人間社会に結合されたことを意味するであろう。というのは、運命のさまざまな変化とは、なんらかの社会的地位を占める人々によって誘発されるからである。しかし他方ではそれと別種の危険をも考慮しなければならないのであって、これは人々が意識的にも無意識的にも発しているかもしれないものであり、精霊の一部には属さず、秘密の伝授や修行者によって贖うことも学ぶこともできないものである。これが汚れの能力であって、それは観念の構造自体に内在し、結王すべきものを隔離したり隔離すべきものを結合したりする象徴的行為を罰するのである。従って汚穢とは、宇宙構造にせよ社会構造にせよ、構造の輪郭が明確になっていない場においては発生の可能性がないような種類の危険だということになるであろう」

 第十章「体系の崩壊と再生」では、再び祭式の問題が取り上げられます。 祭式とは何か。著者は、以下のように述べています。

「ほとんどの宗教は、祭式によって外的事象になんらかの変化をもたらすことを保証している。しかしそれがどのような保証を与えようとも、死が避けられないことは認めているのである。普通、形而上学的意味で最高の発展をとげた宗教は最も深刻な悲観論(ペシミズム)を伴い、現世的価値を軽視すると考えられている」

 そもそも宗教は、儀式とは切っても切れない深い関係にあります。 著者は、以下のように述べています。

「一般人は、哲学的関心よりは、儀式や道徳の遵奉がもたらす物質的利益に対する関心が大きいのである。しかしながら、儀式がなんらかの手段として効果的であることを最も強調する宗教は、これに対する疑惑が提出されたときに最大の弱点を露呈する。信者が祭式を健康と繁栄にいたる手段として―つまり、こすれば効験が顕われる魔法のランプのようなものとして―考えるにいたったとき、祭式の規範がすべて空虚かつ無意味なこけおどしに見える時が必ず来るのである。そこでなんらかの段階で、信仰が失望に終らないための歯止めがどうしても必要になるのであって、さもなければ信仰を繋ぎとめることはできないであろう」

 著者は、祭式への疑惑を押さえる方法を3つ示しています。 第1の方法は、共同体の内外に敵がいて、それが絶えず祭式の効果を消滅させていると考えること。 第2の方法は、祭式の効果は多くの困難な条件にかかっているとするもの。そのうちの1つに、儀式とはきわめて複雑で執行しにくいものだとする考え方があります、どんなにささいな事柄でも順序が狂えば、すべてが無効になるとするのです。これは悪しき呪術的方法と言えるでしょう。他には、儀式の成否は道徳的条件にかかっているとすることもできます。すなわち、祭司も会衆も罪を犯さず、悪意を抱かずに正しい精神を持っていなければならないとするのです。 第3の方法は、宗教的教義がいわばジグザグのコースを辿ること。 普通は、信者が道徳律を守り、正しい祭儀を執行すれば、作物は実り、家族は栄えると教えています。しかし別の状況においては、こういった敬虔な努力はすべて軽んじられ、正しい行動なるものが蔑まれ、実利的目的が突然嘲られるのです。

 第十章の終わり、すなわち本書の終わりには、〈スピアマスター〉というものが登場して、興味を抱きました。著者は、死を進んで迎えることによって死の力を弱めるという実例として、ディンカ族が老いた〈スピアマスター〉の生命を奪うという殺人の儀式を紹介します。著者は以下のように述べます。

「これはディンカ族の宗教における中心的祭式である。彼等の執行するあらゆる儀式やさまざまの意味を表現する血なまぐさい供犠は、この祭式と比較したとき重要性を失ってしまう。これは供犠といったものではないのだ。〈スピアマスター〉とは世襲による祭司の一族であり、彼等の神性すなわち〈肉〉は生命と光と真理との象徴である。いや彼等自身がおそらく神性を所有しているのであって、彼等が捧げる供犠や彼等が与える祝福は他の人々のものよりもはるかに効験をもつとされる。彼等は自己の部族と神々との仲介者なのである。〈スピアマスター〉の生命を奪う儀式の根底をなす教義は、〈スピアマスター〉が息を引きとるとき、彼の生命がその息とともに死にゆく肉体から逃れ去ることを許さないとするものである。彼の肉体の中に生命を閉じこめておくことによって彼の生命は保持されるので、このようにして〈スピアマスター〉の霊は、共同体の幸福のため彼の後継者に伝えられるのだ。共同体は、祭司の勇敢な自己犠牲の故に、合理的秩序を保って生き続けることができるというわけである」

 〈スピアマスター〉について、著者はさらに具体的に述べます。

「この地を訪れた人々の風評では、この儀式はあわれな老人を残忍にも窒息させるものだとされていた。しかしディンカ族の宗教的観念を詳しく研究することによって、その中心主題は、老人が自己の死の時期と方法と場所とを自ら選ぶことにあることが明らかになった。老人自身が自己の死を用意せよと共同体の人々に依頼するのであり、しかもその目的は彼等を幸福にすることなのである。彼は自然死が予想される以前に恭しく墓所に運ばれ、墓所に横たわって、悲嘆にくれる息子たちに最後の言葉を述べる。このように彼が自由かつ主体的に決心することにより、彼は死からその時期と場所との不確実性を奪ってしまうのだ。墓地という儀式的枠組みの内部において彼がすすんで死ぬことが、同じ共同体に属する人々すべての勝利なのである(リーンハート)。死に直面し死をしっかりと捕えることによって、彼は生の本質について共同体の人々になにかを教えたことになるのだ」

 まさに〈スピアマスター〉とは「死を自分のものとする」儀式であり、超高齢社会を迎えた日本人にとっても学ぶところがあるように思います。

 本書の最後に、著者は以下のように述べています。

「自分を殺せという合図をする老いた〈スピアマスター〉は、厳格な祭式的行為をしているのである。その行為は、裸形で汚物の中をころげ回り〈姉妹なる死〉を迎えようとしたアッシージの聖フランチェスコのように豊かな意味を有していないだろう。しかし、老〈スピアマスター〉の行為は聖フランチェスコと同じ神秘にかかわっているのである。もし死と苦悩とが自然の不可欠な一部ではないと考える人がいたとすれば、その幻想は正されるであろう。もし祭式を魔法のランプと―ちょっとこすれば無限の富と力とが出てくる魔法のランプと―同様に扱おうとする気持があったとすれば、祭式にはそれと異なった側面があることが示されるのだ。またもし体系的価値観が幼稚なほど実利主義的であったとすれば、その基礎は逆説や矛盾によって根底から揺るがされるのである。このような暗い主題を描き上げるためにこそ汚穢の象徴が必要とされるのであって、それはいかなる画においても黒の使用が必要なのと同じことなのである。我々が聖なる時、聖なる場の奥深く、不浄なるものが秘められているのを見るのは、まさにこのことの故にほかならないのである」

 「訳者あとがき」では、専修大学名誉教授の塚本利明氏が本書について以下のように述べています。

「未開人の祭式において、不浄なるものがしばしば聖なる目的のために使われるのは事実である。これはなぜであろうか。1つには汚れとは水と同じくすべてのものを破壊し尽くすと同時に再生と新生との象徴となるからであり、1つには祭式が人間存在の根底にある諸矛盾を統一する形而上学的観念の表現を目的としているからである。それは未開人におけるさまざまな観念の混乱ないし非論理を表わしているどころか、必然性の連鎖から逃れるために自らの未来を選びとろうとする実存主義者の生き方に似た試みなのである。かくして本書における不浄なるものの考察は、秩序と無秩序との関係、形式と混沌との、また生と死との関係といった問題にまでいたっているのだ」

 もちろん「汚れ」や「タブー」の問題も興味深かったですが、最も参考になったのは「儀式」についてのくだりでした。 本書は、優れた儀式論であると思います。

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