No.1086 哲学・思想・科学 『田辺元とハイデガー』 合田正人著(PHP新書)

2015.06.17

 『田辺元とハイデガー』合田正人著(PHP新書)を読みました。
 著者は明治大学教授の哲学者で、「封印された哲学」というサブタイトルがついています。
  『存在と時間』『死の哲学』に書いたように、わたしは『唯葬論』の中の「哲学論」を書くために、ハイデガーと田辺元の哲学書を読みました。本書は、日独の哲学界を代表する両者の対決をテーマにしているということで興味を抱いたのです。

両哲学者の写真入りの帯

 本書の帯には、田辺元ハイデガーの写真とともに、「戦争協力者と目された、『日本第二の哲学者』の知に迫る。」「『種の論理』VS『存在と時間』」と書かれています。

 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
西田幾多郎につぐ、日本の『第二の哲学者』と評される田辺元。彼の『種の論理』は、世界とは何か、国家とは何か、民族とは何か、社会とは何か、個人とは何か、これらのものはどのように接合しているのかについて問う壮大な知的格闘である。『種』とは、『個体』―『種』(たとえば「日本〔人〕」など)―『類』(「人類」がこれに当たる)の『種』を指す。この『種の論理』はレヴィ=ストロースやドゥルーズの哲学に匹敵する高みに達しながら、国民総動員を哲学的に裏づけたため戦後封印される。しかし田辺は戦後戦争遂行を懺悔(ざんげ)し、『日本民主主義』を提唱して日本の進むべき道を示した。
西田やハイデガーに影響を受けつつも、西田の神秘主義やハイデガーの『他者の不在』を批判した田辺の哲学の本質に迫る。特に田辺が生涯を費やした、ハイデガーの存在学との対決について精緻に論述。『種の論理』がいま私たちに突きつけているものとは何か」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。
はじめに――「明日の哲学」
序章  われらが第二の哲学者
第一章 種の論理の懐胎
第二章 種の論理の成立
第三章 種の論理の変容
第四章 最後の対決の明日
あとがき

 わたしが田辺元という哲学者に興味を抱いたのは、中沢新一氏の『フィロソフィア・ヤポニカ』を読んだときでした。あの本によって、名前だけは知っていた田辺の哲学がレヴィ=ストロースやジル・ドゥルーズの哲学と比肩しうるものであると知って大いに驚きました。しかしながら本書の著者である合田氏は『フィロソフィア・ヤポニカ』について、「しかし残念ながら、たとえそれが意図的であったにせよ、中沢の労作によって、振り子が、それまでの無視と無知と過小評価から、留保なき賞賛というその反対の極へと一気に振れてしまった感は拭えない」と書いています。

 本書のサブタイトルにある「封印された哲学」とは、田辺が論じた「種の論理」です。この思想は全体主義的思想と受け取られ、危険視されているのです。はじめに――「明日の哲学」で、著者は次のように書いています。
「『種の論理』の立場から、田辺は、出陣する学徒たちに決死と散華を説き、国民総動員を哲学的に裏づけ、戦争遂行を懺悔し、戦後日本の進むべき道を示した。そして、戦後新たに生まれ変わったと私たちの多くが思っている現在の日本という国の針路にも、ほとんど誰も気づかないところで、田辺とその『種の論理』は作用を及ぼしつづけているのだ」

 著者によれば、「種の論理」は政治家の鳩山由紀夫の言う「友愛」の知られざる源泉でもあるとして、さらに著者は述べます。
「世界の哲学史という観点から見ても、『種の論理』は、ジャン=ポール・サルトル(1905~80)の『存在と無』と『弁証法的理性批判』を合わせたような規模の理論である。エマニュエル・レヴィナス(1906~95)が『全体性と無限』で語った主題のほとんどすべてが、『種の論理』において取り上げられている。つまり、フッサールの現象学やはーでがーの存在の思想から生まれた数々の優れた欧米の理論に匹敵するものなのだ。現象学や存在の思想だけではない。20世紀の哲学の諸潮流のいずれとも、『種の論理』は深く交錯している」

序章「われらが第二の哲学者」では、さまざまな哲学者と田辺との関係が紹介されていますが、やはり最も重要なのは「第一の哲学者」である西田幾多郎との関係です。著者は次のように書いています。
「田辺は、東北帝国大学に日本で初めて設置された『科学概論』の講座の最初の講師として1913年に赴任した。そこで教鞭を執るあいだに博士号を取得、学位論文の『最近の自然科学』(1915年)と『科学概論』(1918年)を相次いで出版している。これらは、第3作『数理哲学研究』(1925年)とともに、初期田辺の思索の集大成であるのみならず、日本語で逸早く書かれた科学哲学の不朽の名著である。そして、この『最近の自然科学』の書評を書いた人物こそ、当時京都帝国大学文科大学教授の地位にあった西田だったのだ」

 西田と田辺の交流はすでに1910年頃から開始されていたとして、さらに著者は述べます。
「田辺にとって西田は唯一無比の師だった。実際、西田が田辺を京大に呼び寄せようとしたとき、海外留学を持ち出して慰留しようとした東北大側に、田辺は、西田の他に自分の師はいないと言って、移籍の意思の強固なことを伝えている。こうして田辺は、ほかでもない西田の推薦で、京都帝国大学文科大学助教授に就任、その後、1928年に西田が退官するまで、西田とともに京都帝国大学哲学科のまさに双璧をなした。そして廣松渉(1933~94)が『〈近代の超克〉論』(講談社学術文庫)で述べているように、いわゆる『京都学派』の礎を築き、かの座談会『近代の超克』の主調音を形成したのだった」

 田辺は京大赴任後、1922年から1924年にかけてドイツに留学し、4歳年下のマルティン・ハイデガー(1889~1976)との運命的な出会いを果たすことになります。それからの田辺は、その生涯を「ハイデガー存在学」との対決に費やします。ハイデガーは田辺と同様に戦後「危険視」された哲学者で、終戦から今日に至るまで、ハイデガーとナチズムとの関わりが何度も論争の対象となりました。
 田辺は、自らが唱える「種の論理」とナチズムとの相違を強調し続けました。しかし、1930年半ばから始まる「種の論理」構築の標語が「血と地」であり「建設」であったのに対して、ハイデガーは「解体」の哲学者でした。両者は対決すべき運命にあったのです。

 その書名にもなっている田辺とハイデガーの対決の部分が消化不良というか、全体的な論旨の構築が不十分な印象を受けました。新書にしてはテーマが重すぎたのかもしれません。何よりも両者の哲学の最大の争点となる「死の哲学」について本書ではまったく言及されていません。ハイデガーの哲学は「死」から宗教的思考を剥ぎ取って純粋に哲学的思考のみで「死」をとらえることに成功しましたが、彼の哲学には他者、愛、そして死者と生者との関わりの問題が欠落していました。一方、愛妻の死が契機となって生まれた田辺元の「死の哲学」には、死者との豊かな関係性が示されていました。問題は「死」ではなく、「葬」なのです。この核心部分を書かなくては『田辺元ハイデガー』という書名が泣きます。

 「あとがき」で、著者は次のように述べます。
「『種の論理』は私の考えでは、『国家』にはいかにしても吸収できない『種的基体』の、一見すると静かな荒野の強迫観念のなかで形成されていった。いかに頑丈に、精緻に構築しようとも、いつ何時この荒波がそれを破壊するかもしれない。誤解を恐れずにあえて言うなら、田辺はそうは思ってはいなかっただろうが、『種的基体』の観念のうちには、ニーチェとハイデガーが語る『フォルク』(Volk)と同様、個―種―類というカテゴリーそのものを、ナショナリズムとインターナショナリズム、グローバリゼーションとローカリゼーションの二分法を換骨奪胎する極小の可能性が秘められている」

 あまりに深すぎるゆえか非常に難解とされる田辺哲学ですが、著者はその特徴を「雑種性」であると指摘します。
 戦後の政治思想家といえば丸山真男が有名ですが、彼は代表作『日本の思想』で、知識人における「雑居」「タコツボ」「村社会」性を批判しました。しかし、合田氏は以下のように述べます。
「整然と構造化されてはいるが、田辺の体系は高度に折衷的である。科学、哲学、宗教それぞれの実に多様な、雑多な部品が見事に構造化されている。その意味では、『種の論理』は、加藤周一(1919~2008)の言う『雑種性』を体現している。ここで大事なのは、かかる雑種性が田辺にとっては純粋性の反対概念ではまったくなかったということだろう。雑種性はここでは、『開いて画す』『画して開く』という身振りの真正な帰結であって、丸山(真男)が批判するような単なる『雑居』でも『タコツボ』でも『村社会』でも、伝統を無視した外来思想の手放しの受容でもないのだ。『種の論理』は、『日本思想』に欠けていると丸山が思うものすべてを完備している。と同時に、それは丸山がそこから逃れたいと願った『超国家主義』の理論でもある。ここに、田辺の『種の論理』が、丸山真男のような戦後を代表する政治思想家に及ぼした逆説的な『呪力』があるように思われる」

 本書では「種の論理」にたどり着く前の田辺の思索の跡をたどります。アリストテレス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ヘーゲル、デデキントといった哲学者たちの業績を参照しつつ、田辺は「時間論」(1917年)、「実在の無限連続性」(1922年)、「文化の概念」(1922年)、「認識論と現象学」(1925年)、「儒教的存在論に就いて」(1928年)といった論文を書きますが、これらには後に「種の論理」へとつながっていく要素がありました。そして、「綜合と超越」(1931年)が「種の論理」の実質的な出発点でした。また、「社会存在の論理」(1934年)で「種の論理」という語が初めて使われました。 本書には現代における「種の理論」について、「種とは血と地との相関的統一」といった考えも紹介されていますが、わたしは血縁と地縁を基本とした「有縁社会」を連想してしまいました。ただし、ここでいう有縁社会は、戦前の因習に縛られた社会のイメージが強いようにも感じました。

 本書を読んで、わたしが最も興味深く感じたのは、鳩山一郎(1883-1959)が政治理念として掲げた「友愛」という語を、1947年に田辺が出版した『政治哲学の急務』から借用したというくだりでした。
 著者は、「友愛」について以下のように述べています。
「田辺にとって、『友愛』はフランス革命の理念たる『自由・平等・博愛』(リベルテ/エガリテ・フラテルニテ)のうち『フラテルニテ』の訳語だった。『フレール』(兄弟)が語源である。田辺はこの語に『東洋の家』の基軸が『兄弟』であることを重ね合わせた。さらに『自由』を『アメリカ合衆国』、『平等』を『ソヴィエト連邦』の表象とみなして、両者の間たる『友愛』を『日本民主主義』の方途として、第三の道として強く打ち出したのだ」
 ブログ『友愛革命は可能か』に書いたように、鳩山一族の「友愛」思想のルーツは、フリーメーソン会員であったクーデンホーフ=カレルギーにあります。田辺の影響があったというのはまったく初耳で、少々驚きました。

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