No.2250 オカルト・陰謀 『デマ・陰謀論・カルト』 物江潤著(新潮新書)

2023.06.26

『デマ・陰謀論・カルト』物江潤著(新潮新書)を読みました。「スマホ教という宗教」のサブタイトルがついています。著者は、1985年福島県喜多方市生まれ。早稲田大学理工学部社会環境工学科卒。東北電力、松下政経塾を経て、現在は地元・福島で塾を経営するかたわら執筆に取り組む。著書に『入試改革はなぜ狂って見えるか』(ちくま新書)、『空気が支配する国』『ネトウヨとパヨク』(新潮新書)、『だから、2020年大学入試改革は失敗する』(共栄書房)など。

本書の帯

 本書の帯には「反ワクチン、Qアノン、闇の政府、ゴム人間、守護霊、波動etc.」「『見たいもの』しか信じない。そんな人が増えている」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には、「コロナワクチンは人口削減計画のために作られた。国会議員や芸能人はゴムのマスクをかぶったゴム人間ばかり。トランプ大統領率いる光の銀河連合が闇の政府と戦っている。ロシアとウクライナは戦争なんてしていない……。こんな理解不能な言葉を喚き散らす人々が、いつの間にかネット空間に増えているのです。ツイッターで『ゴム人間 政治家』と検索してみれば、もはや病的としか言いようのない奇天烈なつぶやきをする人々が次から次へと見つかります。(中略)私たち人類は、どうかしてしまったのでしょう。(「はじめに」より)と書かれています。

 カバー前そでには、「こんなトンデモ話、いったい誰が信じるのか!? 普通の人ならそう考えるが、SNS上では想像を超えるほど多くの人々が妄説を発信し続けている。かつての怪しげな新興宗教と違い、実体を伴わないからこそ恐ろしい、ネット世界のデマ、陰謀論、カルトの脅威を徹底分析」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 日本中に光の戦士がいっぱい 

    ――スマホ教とは何か

第2章 誰でも気軽に神と繋がれる

    ――SNS時代のスピリチュアル

第3章 検索すればするほどデマを信じてしまう

    ――ネット社会の罠

第4章 スピリチュアルと陰謀論が出会うとき

    ――禁断の魅力を持つスマホ

第5章 いつも心に「アンパンマン」を

    ――わたしたちができること
「おわりに」
「参考文献一覧」

「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「ネットが、人を殺人へと駆り立てる。 安倍晋三元首相が凶弾に倒れた今、そんなことを想起せずにはいられません。 武器となった拳銃の材料や製造法、標的となった安倍元首相のスケジュールは、ネットを通じて入手したうえに、容疑者を凶行に向かわせた歪な世界観の形成にもまた、ネットが手を貸してしまったのです。旧統一教会に家庭を壊され復讐を誓った山上徹也容疑者は、教団のフロント組織(隠れ蓑)の集会に寄せられた、安倍元首相によるビデオメッセージをネット上で視聴したころ、殺害を決意したと供述しています。これから本書で記していくように、ネットの危険な性質が容疑者に与えた影響は計り知れません」

 第1章「日本中に光の戦士がいっぱい――スマホ教とは何か」の「特別な自分になれる」では、元新聞記者のマルコム・グラッドウェルが提唱した1万時間の法則と呼ばれるものが紹介されます。一流の専門家になるためには1万時間の努力が必要だというもので、著者は「グラッドウェルは、心理学者のアンダース・エリクソンらによる習熟度と練習時間に関する調査に注目しました。ヴァイオリンの習熟度別に四つのグループに分け、これまで練習に費やした時間を聞き取るというものです」と述べています。

 もちろん、習熟度と練習時間は比例関係にありましたが、グラッドウェルが注目したのは時間の長さでした。プロレベルの習熟度を持ったグループは、約1万時間を練習に費やしていたとして、著者は「区切りのよい1万時間という数字に眉唾なものを感じるものの、これくらい時間をかけないと一流になれないとする小話としては有用だと思います。が、スマホ教徒は決して聞き入れないでしょう。教徒となり真実に目覚めさえすれば、1万時間の鍛錬をショートカットして真実に到達できるからです。」と述べます。

 第2章「誰でも気軽に神と繋がれる――SNS時代のスピリチュアル」の「不自由なほど幸せになれる」では、著者は、宗教は信者を幸福にすることも事実のようだと言います。それも、原理主義的であればあるほどです。コロンビア大学ビジネススクール教授のシーナ・アイエンガーは一条真也の読書館『選択の科学』で紹介した本で、そんなことを示唆する大変に興味深い調査を紹介しています。アイエンガーの研究の対象者は、3つのグループに分類されました。多くの日常的な規則を課す原理主義(カルヴァン主義、イスラム、正統派ユダヤ教)、保守主義(カトリック、ルター主義、メソジスト派、保守派ユダヤ教)、最も規則の少ない自由主義(ユニテリアン主義、改革派ユダヤ教)であり、自由主義については神への信仰を求めない流派もありました。

 アイエンガーが調査した人々から得た調査票の回答から導かれる結論は、大変に驚くべきものでした。原理主義グループでは「他の分類に比べて、宗教により大きな希望を求め、逆境により楽観的に向き合い、鬱病にかかっている割合も低かった」のです。 一方、最も制約が少ないため自己決定権が大きいと思われた自由主義グループでは、原理主義グループと真逆の結果が出たことを紹介し、著者は「自由主義グループと親和性が高いであろう日本人としては、ちょっと衝撃的な結果ではないでしょうか」と述べます。また、著者は「宗教、思想信条、そしてスピリチュアルの三者は、何れも世界観(一定の制限)を与えることで、人々を幸福に導きうる点で共通しています。そして、この世界観が衝突し、事件に発展しかねない点も同様です。特に世俗との乖離がある宗教とスピリチュアルは、かなり近しい関係にあると見てよいでしょう」とも述べています。

「話が通じる宗教、通じない宗教」では、スマホ教について言及されます。新型コロナ禍を契機として先鋭化していったスマホ教については、従来みられた偏狭な思想信条と比べ、明らかにスピリチュアルの色合いが濃くなっていると指摘する著者は、「と言うよりも、Qアノンの台頭を契機とするように、あらゆるものが取り込まれた奇怪な世界観が形成されていったのです」と述べます。しかも、スピリチュアルでは第2第3のオウム真理教の誕生を阻止するため課すべき戒めが不十分だといいます。著者は、昨今生じた新たなリスクを知るためにも、スピリチュアルについて理解を深めるべきだと訴えます。

 それでは、どこでスピリチュアルな人々の線引きをすべきか。なるべく寛容な姿勢で引くのであれば、対話可能性の有無によってなされるべきだとして、著者は「対話可能であり、外部(私たち)と内部(スピリチュアルに傾倒する人々)との間で様々な調整がなされれば、彼らが一方的に真実を押し付けることもなくなるでしょう。必ずしもうまくいくとは限りませんが、少なくとも可能性はある以上、むやみに危険視すべきではないとする考え方です。対話可能性の有無は『自己絶対化の有無』と言い換えてもよいです。なお、いかに寛容であろうとも、際限なく寛容であることは不可能であるため、寛容と区別(どこからを拒絶するか)は表裏一体の関係にあります。ネット右翼・左翼と呼ばれる人々についても、議論のあり様から考えていくことで同じようなことが言えます」と述べます。

 スピリチュアルは宗教と同種の存在であると指摘し、著者は「必然的に、スピリチュアルも一歩間違えればカルトへの道へと通じています。そしてネットの存在によって、そんな危険な道は随分と開けてしまいました。スピリチュアルは宗教の装いをしていないだけに人々の警戒感は薄く、宗教が抱えるリスクを真正面から受ける可能性も高いでしょう。ネット上で陰謀論と合流しやすくなった点も、相当危惧すべきことです」と述べています。

「この世のすべては『波動』」では、ネット上で流行するスピリチュアル(ネトスピ)が取り上げられます。ネトスピの世界では「波動」という言葉が頻繁に見られます。あまりに多様な相貌を見せる、ネトスピの全容を記すのは困難ですが、「波動」について理解をするだけでも一定の見通しがつくようになるとして、著者は「全ての物質は、粒子としての性質と波としての性質を併せ持っています、と言われても、随分と常識外れで突飛な話だと感じるかもしれません。しかし、このことは高校の物理でも習うことですし、あのアインシュタインの仕事がキッカケとなり生まれたものでもあります。彼は光量子仮説でノーベル物理学賞を受賞しましたが、この研究があってこそ『全ての物質は粒子であり波である』という驚きの結論に到達したのです」と述べます。

 さらに、著者は以下のように述べています。
「ネトスピの世界では、あらゆるものは波動であるという大前提がよく見られますが、それそのものは否定できないでしょう。こうして、あらゆるものは波動だという、実にスピリチュアルな世界と親和性のあるスタートラインに、それも科学の裏付けとともに立つことができました。信憑性のみならず権威さえ漂う量子力学やアインシュタインは、不思議な世界(≒スピリチュアル)へ誘うツールとして抜群の威力を発揮しています」

「ネトスピの見事な仕組み」では、あらゆるものが波動ならば、そこには周波数があるはずと述べられます。だから、周波数を調整し音をキャッチするラジオのように、あらゆるものから発せられる波動を私たちも受け取れるとして、著者は「必然的に、神のような人知を超えた存在とすら、彼らが発する波動を受け取って繋がることができます。自らの周波数を変える(高める、良くする)ことによって、大いなるものと交信が可能になるのです。そして、繋がったことをもって、神・宇宙意思・エンジェルといった見えない補助線もまた、実在するものと認識されていきます。波動さえ信じられれば、見えない補助線は芋づる式に増えていくのです」と述べるのでした。

「これ以上なく簡単に神と繋がれる」では、ショートムービーが次々と流れてくるSNS「TikTok」の興隆が象徴するように、SNS全盛の現代においてネット上で流行を勝ち取るためには、短さ・容易さ・手軽さといった要素は無視できないことが指摘されます。多忙な現代人は自由時間が限られる一方、ネット上で供給されるコンテンツが増え続けるというアンバランスな状況からか、動画を倍速視聴する人々が増えているとして、著者は「ツイッターにしても、そもそも文字数制限があるため、必然的にメッセージは短くなります。複数回にわけて長文を投稿することもできますが、そうした長ったらしいツイートが拡散されにくいことは周知の事実です。現代のネット社会では、短いことは良いことなのです。こうした状況は、ネトスピも例外ではありません」と述べています。

「思考は現実化するのか」では、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』がネトスピの種本だと指摘します。さらに源流を辿れば、アメリカで興ったニューソートと呼ばれる宗教運動があります。禁欲的なカルヴァン主義に反発する形で生まれたニューソートは原罪を否定し、人間の力を過大なまでに評価します。「人間は宇宙と繋がっている」といったネトスピでもお決まりの考えは、既にニューソートにて見られるものであるとして、著者は「ニューソートが源泉となり様々な世界観が生まれ、そのなかでスマホ全盛時代に適合したものが生き残りネトスピになったという見方もできるでしょう。そんなニューソートは、ナポレオン・ヒルをはじめとした自己啓発書界の巨人たちにも響を与え、実際にその世界観は自己啓発書にも反映されています。どことなく宗教的な雰囲気が自己啓発書から漂ってくるのも、故なきことではないわけです」と述べます。

 第3章「検索すればするほどデマを信じてしまう――ネット社会の罠」の「『真実』が力を失った時代」では、客観性・実証性よりも、感情を揺さぶるような情報が強い影響力をもつ今日の状況を「ポスト・トゥルース」と呼ぶことが紹介されます。わたしたちは知らず知らずのうちに、心を刺激される情報ばかりにアクセスしており、いつのまにか客観性・実証性をないがしろにしているのだといいます。「フェイクニュースほど拡散しやすい」では、著者は「フェイクニュースが力を持ってしまうのは、ポスト・トゥルースをもたらしたネット社会を鑑みればごく自然な話だと思います」と述べています。

 なぜ、フェイクニュースが力を持つのが自然な話なのか。、より感情を揺さぶり、よりクリックさせるよう最適化されたニュースの作成を目的とするならば、裏どりや科学的考察など邪魔でしかないためだと指摘し、著者は「常識的な話よりも非常識な話のほうが驚きなどの感情を喚起しやすい。たとえ一部でも信じてしまった人は積極的に拡散に手を貸してしまうのです。一方で科学に裏打ちされたようなファクトはネット上では支持を得づらいようです。現代科学の粋を集めたネットと相性が悪いとは皮肉な話ですが、その理由を考えるには、そもそも科学とは何かを知る必要があるでしょう」と述べます。

 科学は仮説でありモデルです。だから、ネット空間にて影響力を持ちやすい断言・極論の展開が困難であるとして、著者は「どうしても『~の可能性がある』『~は否定できない』といった曖昧な表現になりがちです。ここにネット上でフェイクに勝てない原因があります。また、モデルを作ったり実証したりするにあたり、各科学固有のルールや前提の遵守が求められる一方、フェイクニュースの作成には制限がありません。映像を加工し証拠を捏造することさえ日常茶飯事です。『科学的であるが常識的で抑制のきいた表現に基づいた情報』と『科学などは関係なく、面白くて驚きの新事実が盛りだくさんの情報』と、どちらがアクセス数を稼げるか、残念ながら火を見るよりも明らかです」と述べています。

 第4章「スピリチュアルと陰謀論が出会うとき――禁断の魅力を持つスマホ」では、本を読み、思索に耽り、対話を重ね、数多くの経験をし、そして物語を自力で構成するというアプローチは正攻法であるとしながらも、随分と知識人的な方法でもあると指摘します。一方で、物語を放棄し、今この瞬間を楽しめればよいとする刹那主義的な生き方も案ではあるものの、そこまで割り切るのもまた簡単ではないといいます。そして何よりも、相当危うい処方箋に思えるとして、著者は「他方、ふとした偶然により見えない補助線が引かれ、たちまち物語が生まれることもあります。たとえば『被災した自分』と『自分がすべき仕事』の2つの点を『使命感』という見えない補助線で結ぶこともまた、その一例です」と述べます。

 第5章「いつも心に『アンパンマン』を――わたしたちができること」の「『アンパンマン』の核にあるもの」では、やなせたかし原作のアニメーションについて、「何が正しいのか分からないという虚しさが漂う世界観は、世俗にいた頃のオウム信者と共通します。生に関する深刻な悩みを抱えていたことも相まって、両者はかなり似ているように思います。山上容疑者もまた、やなせ先生との間に共通点を見出せます。父と兄弟が亡くなったうえに、存命の母が届かぬ所に行ってしまった点が一致していますし、自殺未遂の経験もそうです」と述べています。

 国民的なアニメの原作者と元首相暗殺犯との間に共通点があることは驚きでしかありませんが、多感な時期、孤独だったやなせたかしも山上徹也の2人は絶望の只中にいたのです。著者は、「しかし、やなせ先生は決して、価値相対主義や虚無感に支配されませんでした。自身や社会を不幸にする物語を編むこともありませんでした。戦中/戦後でがらりと正義が変わってしまう、いい加減な人間社会にあっても、『飢えた人を助けることだけはいつでも正しい』という物語の核(公理)を、空腹にあえいだ軍隊生活を通じて発見したからです」と述べます。

「おわりに」では、物語について、著者はこう述べます。
「物語には、計り知れない力があります。科学や客観的な情報よりも、人々に与える影響力がずっと強いことを示す研究もあります。私自身も含め、知らず知らずのうちにネット上の物語に影響を受け、現実とはまるで異なる『真実』を、さも当然かのごとく受け入れてしまうかもしれません。そんな物語の要諦は『語らず、示せ』にあると言われます。全てを語る(説明する)のではなく、あえて語らない部分を残し能動的な解釈を促すことで、読み手に強い印象を与える良き物語になるというわけです」と述べています。

 スマホ教の世界もまた、「語らず、示せ」で構成されています。その物語は突飛な上に謎めいているため字面を眺めても分からないことだけですが、著者は「が、だからこそ、自らが検索・解釈をすることで理解を試みるキッカケが生まれるのですから、『語らず、示せ』の定石を踏襲していると言えます。しかも、同様に解釈し真実に到達した同志がネット上には沢山いるため、それが独りよがりな結論であることに気付けません」と言うのでした。物語は科学や宗教を超えて、人の心に影響を与える力を持っています。だからこそ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をはじめとする物語はグリーフケアにおいても絶大な力を発揮するのです。物語を良きものとする1つのヒントは、スマホから離れて本を読む、映画館で映画を観る……読書や映画鑑賞によって良質の物語に接することではないかと思いました。

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