No.1972 コミック 『鬼滅の刃』 吾峠呼世晴作(集英社)

2020.11.21

 世の中、新型コロナウィルスと『鬼滅の刃』の話題で持ちきりです。コロナはさておき、アニメ化・映画化され大ヒットし、もはや社会現象にまでなっている漫画『鬼滅の刃』吾峠呼世晴作(集英社)のジャンプコミックス既刊22巻を読みました。「週刊少年ジャンプ」にて2016年11号から2020年24号まで連載され、シリーズ累計発行部数は単行本22巻の発売時点で1億部を突破しています。

 第1巻のカバー裏表紙には、「時は大正時代。炭を売る心優しき少年・炭治郎の日常は、家族を鬼に皆殺しにされたことで一変する。唯一生き残ったものの、鬼に変貌した妹・禰豆子を元に戻すため、また家族を殺した鬼を討つため、炭治郎と禰豆子は旅立つ!! 血風剣戟冒険譚、開幕!!」と書かれています。

 鬼滅ブームのことはもちろん知っていましたが、その概略を知って、ホラーにはうるさいわたしは、「吸血鬼ハンター物語のヴァンパイアを鬼に置き換えたな!」と思いました。漫画の絵柄もあまり好みではなかったのでスルーしていたのですが、あることがきっかけで『鬼滅の刃』に興味を持ちました。というのは、わが社が提供している九州朝日放送(KBC)の人気番組「前川清の笑顔まんてん旅好キ」を観ようと日曜日の正午にテレビのスイッチを入れたところ、最初にテレビ西日本(TNC)が映りました。

運命の出会い!(アニメ版より)

 すると、そこには猪の仮面を被った男の顔がアップで映し出されていたのです。ちょうど、知人が100キロ以上の猪に庭を荒らされ、長年育ててきた芝生を台無しにされた話を直前に聞いていたので、わたしはその日、猪のことを考えていたのです。そこに猪男の映像が目に入ってきたものですから仰天しました。まさに、シンクロニシティです。その番組こそ、アニメ「鬼滅の刃」だったのです。

 猪男は「伊之助」というキャラでした。そのエピソードは第15話でしたが、どんなに興味を持っていても物語を途中から楽しむことは絶対にしない主義なので、黙ってKBCに画面を替え、「前川清の笑顔まんてん旅好キ」を観ました。しかし、わが社のCMが終わったところで、もう一度、TNCに画面を替えてみたところ、例の伊之助が暴れ回っていて、わたしの脳内にはすっかり彼が棲みついてしまいました。

『鬼滅の刃』の各巻の表紙 

 その日は、第15話、16話、17話の3話連続放映でしたが、わたしは全26話を鑑賞したいと思いました。それで鑑賞の方法を調べたところ、かの名高いNetflixに加入すれば観れることを知り、その場で加入。その日のうちにほぼ全話を一気に観ました。翌日は、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」も観ました。そして、さらにその翌日、アマゾンから届いた原作コミックス既刊22巻を一気読みした次第です。つまり、わたしは、アニメ、映画、コミックの順で2日半で制覇したことになります。

既刊22巻を眺める一条人形 (笑)

 本当は、「鬼滅の刃」のように、あまりにも流行になったものはスルーしたいと思っていました。しかし、プレジデント・オンラインに桶谷功氏(インサイト代表)が寄稿した「『鬼滅の刃にはあるが、ワンピースにはない』敏腕マーケターが見抜く決定的違い」という記事を読んで考えが変わりました。桶谷氏は、「これだけヒットしているのなら、一度は見ておかねばなりません。家族とは都合が合わなかったので、オジサン1人で映画館に行ってきました。ちなみに、このようにブームを巻き起こしているものがあったら、たとえ自分の趣味ではなかろうが、軽薄なはやりもの好きと思われようが、必ず一度は見ておくべきです。社会現象にまでなるものには、どこか優れたものがあるし、『時代の気分』に応えている何かがある。それが何なのかを考えるための練習材料に最適なのです」と述べていますが、「その通りだな」と思えました。

最初からグリーフケアの物語(アニメ版より)

 それで、実際に体験してみて、「社会現象にまでなるものには、どこか優れたものがあるし、『時代の気分』に応えている何かがある」というのは大当たりでした。まず、この物語のテーマは、わたしが研究・実践している「グリーフケア」ではないですか! 鬼というのは人を殺す存在であり、悲嘆(グリーフ)の源です。そもそも冒頭から、主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が家族を鬼に惨殺されるという巨大なグリーフから物語が始まります。また、大切な人を鬼によって亡き者にされる「愛する人を亡くした人」が次から次に登場します。それを鬼殺隊に入って鬼狩りをする人々は、復讐という(負の)グリーフケアを行います。しかし、鬼狩りなどできない人々がほとんどであり、彼らに対して炭治郎は「失っても、失っても、生きていくしかない」と言うのでした。まさに強引のようではあっても、これこそグリーフケアの言葉ではないでしょうか。

 炭治郎は、心根の優しい青年です。鬼狩りになったのも、鬼にされた妹の禰豆子(ねずこ)を人間に戻す方法を鬼から聞き出すためであり、もともと「利他」の精神に溢れています。その優しさゆえに、炭治郎は鬼の犠牲者たちを埋葬し続けます。無教育ゆえに字も知らず、埋葬も知らない伊之助が「生き物の死骸なんか埋めて、なにが楽しいんだ?」と質問しますが、炭治郎は「供養」という行為の大切さを説くのでした。これは教育上にも良い漫画だと思いました。さらに、炭治郎は人間だけでなく、自らが倒した鬼に対しても「成仏してください」と祈ります。まるで、「敵も味方も、死ねば等しく供養すべき」という怨親平等の思想のようですね。

 鬼たちには人間だった時代にいずれも辛く悲しい過去がありました。そもそも人間が非人間としての鬼になること自体が最大のグリーフであるという見方もできますが、炭治郎はそのへんもわかった上で「成仏してください」と手を合わすのです。まさに彼は「弔い人」であり、「悼む人」なのです。鬼は「死」のメタファーでもあります。最近で言うなら、「コロナ」も同じです。禰豆子を連れ歩く炭治郎は、「鬼と共生する人間」です。すなわち、これは「ウイズ・コロナ」そのものではないでしょうか。「なぜ、コロナ禍で『鬼滅の刃』が大ヒットしたのか」の最大の秘密がここにあるように思います。

0葬』と『永遠葬

 鬼が死んだ後は骨は残らず、灰さえも残らず、すべてが消えます。まるで宗教学者の島田裕巳氏が唱えた「0(ゼロ)葬」のようです。通夜も告別式も行わずに、遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」をさらに進め、遺体を焼いた後、遺灰を持ち帰らず捨てるのが「0葬」です。わたしは葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。また、葬儀によって、有限の存在である「人」は、無限の存在である「仏」となり、永遠の命を得る。これが「成仏」の意味であり、葬儀とは「不死」のセレモニーなのです。まさに「永遠葬」であります。

 鬼の骨も灰も残らないのは、人を殺した報いでしょうか。わたしは、「0葬」で遺灰すら残らない故人のことが気の毒でなりません。鬼と同じというのは、あまりにも哀れではありませんか。この世に生まれ、生きた痕跡が何もないではないですか。あと、忘れてはならないのは、鬼の最大の弱点が太陽だということです。鬼たちは日光を浴びると、崩れて消えてしまう。これは吸血鬼の特性として広く知られていますが、作者の吾峠氏はこれを鬼にも適用しました。西洋の吸血鬼も、東洋の鬼も太陽を恐れるわけです。生きとし生けるものに生命エネルギーを与え、邪悪なものを滅する太陽は最強です。ちなみに、わが社の社名である「サンレー」とは「SUNRAY(太陽光線)」という意味です。 

 また、「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味もあります。「むすび」という語の初出は日本最古の文献『古事記』においてです。冒頭の天地開闢神話には二柱の「むすび」の神々が登場します。八百万の神々の中でも、まず最初に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神が登場しますが、そのうちの二柱が「むすび」の神です。『古事記』は「むすび」の神をきわめて重要視しているのです。大著『古事記伝』を著わした国学者の本居宣長は、「むすび」を「物の成出る」さまを言うと考えていました。「産霊」は「物を生成することの霊異なる神霊」を指します。つまるところ、「産霊」とは自然の生成力をいうのです。

 『古事記』には、あまりにも有名な「むすび」の場面があります。天の岩屋戸に隠れていた太陽神アマテラスが岩屋戸を開く場面です。アメノウズメのストリップ・ダンスによって、神々の大きな笑いが起こり、洞窟の中に閉じ籠っていたアマテラスは「わたしがいないのに、どうしてみんなはこんなに楽しそうに笑っているのか?」と疑問に思い、ついに岩屋戸を開くのでした。『古事記』は、その神々の「笑い」を「咲ひ」と表記しています。そして、大事なことは、「岩戸開き」の本質とは「グリーフケア」であるということです。弟スサノヲの暴力で大きなグリーフを抱えたアマテラスは笑いにつられて岩戸を開き、そこから太陽光が入って世界は再び明るさを取り戻します。つまり、太陽が闇に光を射すのです。絶望の中に希望を射すのです。これこそ「グリーフケア」ではありませんか!

 冒頭、この漫画の絵柄が苦手だと書きましたが、具体的には主人公の炭治郎をはじめ、登場人物たちの目が大き過ぎることでした。これでは、少年漫画ではなく少女漫画ではないですか。ふと、「いや、待てよ」と思いました。この漫画は「週刊少年ジャンプ」に連載された少年漫画なのだけれども、本質は少女漫画なのかもしれないと思えてきました。なんでも、作者の吾峠呼世晴氏は女性だとか。それに「ジャンプ」連載開始時は、女性読者たちから圧倒的な支持を受けていたそうです。一条真也の読書館『サブカル勃興史』で紹介した中川右介氏の著書に詳しく書かれているように、日本の少女漫画のルーツは宝塚歌劇とそれをこよなく愛した手塚治虫にあります。手塚の『リボンの騎士』などは少女漫画そのものでした。その手塚の遺伝子を『鬼滅の刃』の中に感じたのです。

 結論から言うと、手塚漫画の名作である『ぼくの孫悟空』(1952年-1959年)、『バンパイヤ』(1966年―1967年)、『どろろ』(1967年―1968年)。この3作品の要素を『鬼滅の刃』は併せ持っています。『ぼくの孫悟空』は、中国・明代の小説『西遊記』を翻案して漫画化した作品です。『バンパイヤ』は、オオカミに変身してしまうバンパイヤ族の青年トッペイを巡る少数民族とそれを弾圧する人間との戦い、というきわめて社会性の高いテーマが印象深い作品です。そして『どろろと百鬼丸』は、戦国時代の日本を舞台に、妖怪から自分の身体を取り返すべく旅する少年・百鬼丸と、泥棒の子供・どろろの戦いの旅路を描いています。

 『鬼滅の刃』のホラー的雰囲気は『バンパイア』、鬼と人間との戦闘は『どろろ』を連想させますが、最も関連性の高い作品が『ぼくの孫悟空』ではないでしょうか。というのも、『鬼滅の刃』は竈門炭治郎、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助の4人の道行きの物語でもあり、その途中で遭遇した鬼=妖怪を倒し続けるわけですが、これは『ぼくの孫悟空』のオリジナルである『西遊記』とまったく同じ構造なのです。すなわち、炭治郎が孫悟空、髪型のユニークな善逸が沙悟浄、獣の顔をした伊之助が猪八戒なのです。そして、炭治郎が箱に入れて大切に運んでいる禰豆子こそは三蔵法師ではないでしょうか。ここではこれ以上立ち入りませんが、この推測には自信を持っています。

 この『鬼滅の刃』のルーツが『西遊記』であり、そこに手塚治虫のDNAも流れ込んでいるというアイデアは、「『一条真也』流:読書術『DNAリーディング』で思想的源流をさかのぼる。」などの記事で紹介された、わたし流の読み方から発見しました。このアイデアはコミックよりもアニメの方がより強く感じることができます。そして正直に言うならば、『鬼滅の刃』という作品は原作よりもアニメ版の方がずっと優れています。原作はところどころ絵も荒れていて物語の展開も強引なところがあるのですが、それがアニメではすっきりとまとまっています。また、原作では戦闘シーンがくどく、それに助太刀する者もやたらと多くて、そもそも最初は誰と誰が戦っていたのかもわからなくなるのですが、アニメではそれがありません。グリーフケアの物語という本質も、より明確になっています。ということで、次はアニメ「鬼滅の刃」について書きたいと思います。

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