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松竹と東宝』

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No.1720


『松竹と東宝』中川右介著(光文社新書)を読みました。「興行をビジネスにした男たち」というサブタイトルがついています。作家、編集者の著者は、1960年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、代表取締役編集長として雑誌『クラシックジャーナル』、音楽家や文学者の評伝や写真集の 編集・出版を手がけました。一条真也の読書館『昭和45年11月25日』『SMAPと平成』で紹介した本をはじめ、著書多数。

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本書の帯

 

 本書の帯には、「叩き上げ 歌舞伎を独占した 松竹兄弟vs.エリート 宝塚の生みの親 小林一三」「魑魅魍魎が跋扈する演劇界を改革した、稀代の興行師たちの攻防史」と書かれています。
 カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「『松竹』は創業者である白井松次郎と大谷竹次郎という双子の名前を合わせたものだ。『東宝』は東京宝塚にちなんだものであり、宝塚歌劇団に端を発する。本書は松竹兄弟と東宝、宝塚を含む阪急グループの創業者の小林一三の物語である。劇場の売店の子と裕福な商家に生まれた慶應義塾卒という対照的な両者は、看板役者、大劇場をめぐって数十年のあいだ、しのぎを削る。それが今日の松竹による歌舞伎の独占、阪急グループの東宝、宝塚の繁栄につながっていく――。膨大な資料を読み解いて描き出した、新たな演劇史」 

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

発端   歌舞伎座開場

第一幕  京の芝居街の双子

第二幕  大阪の鉄道経営者

第三幕  宝塚と浅草の歌劇

第四幕  東京劇界の攻防

大詰     それぞれの戦後

「あとがき」
「中村歌右衛門家、中村雁治郎家の系図」
「参考文献」
「主な登場人物」

 

「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「現代の日本の演劇界・映画界には多くの企業や団体があるが、その2つの分野でともにトップクラスにあるのは、松竹と東宝の2社しかない。たとえば東映は演劇の興行をしていないし、劇団四季は映画を作っていない。世界各国の事情を知っているわけではないが、少なくともハリウッド・メジャーが演劇も興行している話は聞いたことがないので、松竹と東宝の2社は世界的にも特異である」

 

 発端「歌舞伎座開場」の冒頭では、明治22年(1889年)11月21日、東京・木挽町(現・中央区銀座4丁目)で、新しい大劇場「歌舞伎座」の開場式が挙行されたことが書かれています。著者は、以下のように述べています。
「明治維新は演劇の世界にも大改革をもたらした。徳川政権は武家の娯楽として能を手厚く保護していたが、歌舞伎は規制、弾圧する対象としていた。それが明治になると逆転し、能は壊滅寸前となり、歌舞伎は新政府の庇護を受けたわけではないが、規制が大幅に緩和され自由化されるとともに、外国から賓客が来日した際に政府高官が招待して見せる日本の伝統的な演劇にまで高尚化されていった。その歌舞伎の近代化の象徴が、新しい劇場、歌舞伎座だった。歌舞伎座開場と憲法発布とが同じ年なのは偶然のようだが、時代の空気がそれを求めたとも言える」

 

 著者は「京都の劇場売店の双子」として、祇園館の売店を経営していた大谷栄吉の2人の子を取り上げます。それは松次郎と竹次郎、後の松竹の創業者となる双子でした。著者は述べます。
「松次郎が芝居というものの魅力というか魔力を知ったのは、明治21年(1888)5月、10歳の時だった。父の使いで四条通りの南座へ行くこともあった。その月の南座には若い俳優の一座が出ていたのだが、演目のひとつに『勧善懲悪孝子誉』があった」

 

「勧善懲悪孝子誉」というのは、泥棒が改心する話です。その観客のなかに四条通りの呉服店で盗みをしたばかりの泥棒がいて、芝居を見て感動し自首したという、まるで芝居のような出来事がありました。この事件はすぐに噂として広がり、南座は連日の大入りとなったのです。自分の眼の前でそういう事件が起きたことに松次郎少年は感動し、「芝居というものは、これほどひとの心を捉えるものなのか」と思い、芝居こそ自分がすべき仕事だと決心したといいます。

 

「劇聖」と呼ばれ、歌舞伎界の大スターであった九代目・市川團十郎が祇園館へ出演した明治23年1月、松次郎と竹次郎は満12歳になったばかりでした。著者は述べます。
「團十郎が東京から来ると知った2人は、『日本一の役者とはどんな人だろう』と胸を躍らせて、この日を待っていた。興行が始まると、2人は働いている間に少しでも時間を見つけると舞台に目をやった。そして、晴れやかで堂々として、高尚さがある團十郎に目を奪われた。神々しくさえあった」

 

 竹次郎は後年、「芝居というものに、私が一生捧げて悔いない気持ちになったのは、この時の團十郎と鴈治郎の舞台を見てからだと、はっきりと申せます」と振り返っています。芝居を見て役者に憧れ、あんなふうに舞台に立ちたいと思う少年は多いでしょうが、松次郎と竹次郎の2人は「こんな役者を使って興行したい」と思ったのです。著者は「2人は團十郎の芝居を打つことはできないが、やがて團十郎が出ていた日本一の劇場は彼らのものになる。いや、それだけではない。何百人もの俳優と、数多くの劇場が彼らのものになる。さらには、歌舞伎という演劇ジャンルそのものが、この『松・竹』の2人のものになるのだ」と述べています。

 

 当時、慶應義塾の生徒だった小林一三も歌舞伎座で團十郎を見ていました。同じ時期に「團十郎を見た」3人ですが、小林一三は客席からで、松次郎・竹次郎は客席後方あるいは舞台の袖からでした。このことについて、著者は述べます。
「小林は富裕な商家に生まれ幼くして家督を継いで、高等小学校から私塾、そして慶應義塾へと進学した。経済的に恵まれ、生まれた時から『持てる者』で、新開場の歌舞伎座の客席にいたひとりだった。大谷兄弟は、極貧ではないが、相撲や芝居の売店を営む夫婦という、『持たざる者』の子として生まれ、小学校にもろくに通わずに家業を手伝っていた」

 

 第一幕「京の芝居街の双子」では、「文学青年から銀行員へ」として、小林一三について以下のように書かれています。
「松竹兄弟が家業である売店の仕事を手伝う――というよりも、重要な働き手となっていた頃、小林一三は慶應義塾の学生で、勉学にはげむというよりも、芝居を見て暮らしていた。役者になろうとして川上音二郎の門を叩いたが、伊井蓉峰や河合武雄のような美男子がいたので諦めたという」

 

 小林一三は、小説も書いて新聞に連載までしています。この頃、黒岩涙香が翻案した探偵小説がすでによく読まれていた。それに影響されたのか、小林は実際に起きた事件をもとにした、いまでいうミステリを書いたのです。実際の事件とは、明治23年(1890)4月、東洋英和女子学校校長の夫トーマス・ラージという外国人教師が殺された事件です。ラージは強盗に襲われ、夫人の校長も負傷していましたが、証拠が何も残されておらず、事件は未解決となっていました。

 

 小林はこの事件に興味を持ち、山梨日日新聞に靄渓学人というペンネームで『練絲痕』と題した小説を連載しました。著者が説明します。
「事件発生直後で、警察はまだ捜査中である。小林の小説があまりにリアルだったので、警察は、作者は犯人を知っているのではないかと疑った。作者が小林だと判明すると、警察は呼び出して取り調べた。小林は『想像して書いた』と説明して、どうにか釈放された。小説は、強引に終わらせた」

 

 著者は、以下のように述べています。
「この事件から、小林が作家志望であったこと、実際に小説を書いており、新聞に連載されるほどの腕があったことが分かる。もしこの探偵小説が話題になっていたら、日本の国産探偵小説の歴史は、小林一三から始まったかもしれない。この時代の日本の探偵小説は翻訳・翻案ものばかりで、国産探偵小説はまだ存在していなかったのだ」
その後も、小林は三井銀行に勤めながら、いくつかの小説を書いています。それらはすぐに発表されることはありませんでしたが、中には小林自身の結婚の経験をモデルにした作品もありました。

 

 第二幕「大阪の鉄道経営者」では、三越少年音楽隊から着想を得た小林一三が宝塚少女歌劇を生んだ経緯が描かれます。それにしても、なぜ「少年」が「少女」に、「音楽隊(吹奏楽)」が「唱歌隊」になったのか。この謎について、著者は以下のように解明しています。
「これは単純で、男子よりは女子のほうが日給が安くすむのと、吹奏楽は楽器を揃えなければならないし指導するにも時間と費用がかかるが、唱歌隊なら楽器を買わなくていいし、使い方を教える必要もない。つまり、すべて財政的理由だった。そもそも少年少女の楽団というのが、大人よりも人件費が安くすむという発想だ。
 宝塚は世界にも例を見ない女性だけの歌劇団へと発展していくが、最初からそういう『世界唯一』のものを目指していたわけではないし、『歌劇』の上演も目指していない。温泉場のアトラクションとしての唱歌の合唱団として結成されたのだ」

 

 第三幕「宝塚と浅草の歌劇」では、小林が機会あるごとに「大劇場」と「国民劇」ついて書き、理想の劇場について問題提起を続けたことが紹介されます。これについて、著者は以下のように述べ提出ます。
「この時点での小林一三は阪急電鉄の総帥で関西財界の大物のひとりではあるが、演劇においては、宝塚という行楽地で少女歌劇を上演しているという実績しかない。観客としては慶應義塾の学生時代から劇場に通い、台本も書いているが、演劇評論は本業ではない。劇界には小林に共鳴して一緒に大劇場を作ろうとか、新しい国民劇を作ろうという動きは出ず、既成の演劇関係者は小林を批判、あるいは揶揄するだけだった誰もが小林を甘く見ていた。芝居好きの鉄道経営者が暇つぶしに演劇論をぶっているだけであろう、と」

 

 小林に「大阪毎日新聞紙上」で名指しで批判された松竹の白井松次郎は黙っておらず、小林に反論をしました。著者は以下のように述べます。
「小林がただの芝居好きなら、それはまさに机上の空論で終わっただろう。だが、小林は鉄道会社の経営者だった。その気になれば劇場のひとつやふたつを建てる資本があった。そして人材も擁していた。宝塚少女歌劇には、既存の演劇に満足していない人材が結集しつつあった。もしこの時点で白井か大谷が、小林に提携を申し出ていたら、演劇興行史は変わっていただろう。だが、この2人は小林が自分たちの最大のライバルになるとは、この時点では夢にも思っていなかった」

 

「小林一三と東急誕生」として、経営者・小林一三について、著者は以下のように述べます。
「沿線の宅地化、都心のターミナル駅にデパートを作る、郊外には行楽地を開発するという、小林一三が生み出した鉄道を中心にした多角経営を、五島の東急をはじめ、民間鉄道会社各社が真似していくが、劇団の結成、劇場の建設を手がける社は少ない。西武鉄道から分かれた、堤清二率いるセゾングループが演劇や映画、美術に進出するが、グループが崩壊し堤が引退してからは手を引いている。東急グループも映画館や劇場を持っているが、その部門は阪急における東宝のように鉄道・百貨店と並ぶ柱にはならなかった。文化・藝術に親しみ支援する経済人はいたし、趣味で自作する人もいただろう。だが、興行を、本業の鉄道、不動産、百貨店と並ぶ一大ビジネスにした経済人は、小林一三だけだった」

 

 また、著者は小林一三について述べます。
「大金持ちに生まれ、慶應義塾時代から仕送りで芝居を見て花柳界でも遊蕩していた小林が、広く一般庶民が家族で行ける演劇でなければならないと主張しているのは興味深い。小林は大富豪となり、俳句や茶の湯を趣味とし、さらには若い頃から美術品の収集をしており、そのコレクション約5500点を収蔵する逸翁美術館があるほどだが、事業においては、鉄道という一般庶民を対象にしていた。富裕層を相手にしていた百貨店も、鉄道のターミナルと連動させることで庶民に解放した。その方法論を演劇にも持ち込もうとしているわけだが、果たしてうまくいくのだろうか」

 

 大詰「それぞれの戦後」では、小林一三の晩年について、以下のように書かれています。
「小林一三は昭和20年10月、幣原内閣の国務大臣に就任し、戦災復興院総裁となった。この年、72歳である。しかし翌21年3月に公職追放となり、4月に国務大臣兼戦災復興院総裁を辞す。小林の公職追放は3月10日で、それを待っていたかのように、23日から東宝の労働組合は争議に突入した。世に言う『東宝大争議』は第3次まであるのだが、これが第1次で、15日間で解決した。第2次は10月に始まりストライキに突入した。大河内傅次郎はストには反対だが会社側にもつかないと表明し、長谷川一夫もこれに賛同し、10人のスターが『十人の旗の会』を結成して組合を離脱し、翌22年3月、10人と組合を脱退した従業員を中心に新東宝が設立された」

 

「あとがき」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「いつのことなのかは分からないが、小林一三と大谷竹次郎とが会い、こんな会話を交わしたらしい(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』)。
 大谷が小林に『相変わらず、事業の発展で忙しいですね』と社交辞令を言うと、小林は『因果なことですよ。大谷さんは、文楽や歌舞伎という愛人がいて、幸せですね』と応じた。すると大谷が『あなたにも、歌劇という可愛い娘がいるじゃないですか』と返し、小林が『お互い、すべての仕事をやめても、愛人と娘だけには情熱をかけましょう』とまとめた」

 

 著者は、以下の言葉で本書を締めくくるのでした。
「小林にとっての宝塚歌劇はどうなのだろう。これこそ『愛人』のようだ。彼の本業は阪急であり副業として東電の経営までしていたが、宝塚歌劇は趣味に近いのではないのか。しかし、宝塚歌劇は最初から阪急電鉄の事業のひとつで、けっして『経営者の道楽』ではないのだ。娘であるからこそ、赤字・黒字という概念とは別次元で続けていた理由も説明できる。大谷が、宝塚歌劇を小林にとっての『娘』だと見抜いたのは、さすがである」

 

 本書には、わたしの知らないことがたくさん書かれていました。そのタイトルから映画の名作や銀幕のスターたちが大量に登場するのかと思いましたが、映画に関しては最小限にとどめ、主に松竹と東宝の演劇部門の歴史を俯瞰した内容でした。演劇・映画の世界でツートップといえる松竹と東宝の創業者であり興行師であり劇場経営者であった白井松次郎、大谷竹次郎兄弟(松竹)、小林一三(東宝)の交流や激闘を振り返っていますが、演劇においてもほとんどは歌舞伎の話題に限られており、もう少し宝塚歌劇に詳しく言及して、タカラジェンヌなども登場していれば興味深かったと思いました。