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「旬」の日本文化』

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No.1498


 『「旬」の日本文化』神崎宣武著(角川ソフィア文庫)を読みました。
 初鰹に初夏を感じ、正月には気持ちが改まる。食物や行事に映る「旬」の文化を民俗学的に読み解いた名著で、大変勉強になりました。
 著者は1944年生まれの民俗学者です。また、旅の文化研究所所長であり、岡山県宇佐八幡神社宮司でもあります。

 本書のカバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。

「俳句に季語があるように、季節の移ろいに敏感な日本人。かつての日本には、春夏秋冬の四季のほかに、夏の土用を含めて季節の変わり目としての4つの土用があり、『旬』という豊かな季節感をはぐくんできた。今もフキノトウや花見に春、初鰹や端午の節供に初夏、虫の音や新米に秋、餅つきや冬至に冬を感じるのはなぜか。現代人が忘れてしまった文化としての『旬』、まつりや行事に映る多様な『旬』の文化を民俗学的に読み解く」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

 「はじめに」
1  春
鏡餅と雑煮/餅なし正月/小正月/鏡開き/出初/旧正月/フキノトウ/鱈飯/雛まつり/白酒/ヨモギ/ワラビ/春分と彼岸/ぼた餅/春霞/潮干狩/花まつり/花見/春の土用と田ごしらえ
2  夏
端午の節供とショウブ/ちまき/初鰹/田植え/梅雨/桜餅/梅干し/夏越の祓い/山開き/海水浴/幽霊と妖怪/花火/中元/盆と生見玉/盆踊り/暑中見舞い/夏の土用とウナギ
3  秋
虫開き/月見/秋の彼岸/重陽の節供/菊見と人形/行楽の秋/運動会/新米と掛穂/マツタケとシイタケ/秋まつりと神饌/まつりの幟/相撲/秋なす/クリ/秋の土用と初霜
4  冬
亥の子/寒仕込みの酒/夜神楽/山の神まつり/酉の市と戎まつり/干し柿/漬けもの/冬至/風邪封じ/歳暮/煤払い/餅搗き/そば/除夜/冬の土用―節分と寒中見舞
「主要参考文献」
「あとがき」
「初出一覧」

 「はじめに」を、著者は以下のように書きだしています。

「私たち日本人は、四季のうつろいを大事にする。『旬』という言葉も、四季折々をさして用いる場合が多い。四季の変化が明らかであるから当然といえばそれまでだが、四季折々のまつりや遊山をこれほどにまで多様に発達させたのは「文化」というものであろう。それに、私たちは、四季のうつろいに敏感であることをもって、文学や歌謡、芸能をも多様に発達させてきたのである」

 そのひとつの象徴として、俳句があります。
 俳句の季語は、春・夏・秋・冬に分かれます。
 それに、もうひとつ正月が加わるのは、正月は行事が多く、それをうたうことが多いからです。いうなれば、便宜的な設定と言えるでしょう。

 さて、「旬」といえば、「土用」と深い関係があります。
 古代中国の五行思想の影響を受けている土用は、春・夏・秋・冬の季節の、それぞれの合い間にあります。すなわち、立春・立夏・立秋・立冬の前18日間を土用とするのです。

 また、「二十四節気」という言葉もよく聞きます。
 これは四書五経の『礼記』の月齢からなる季節の読み方です。
 ほぼ15日を1節気とします。太陽の見かけ上の軌道を廣道と称えますが、その360度の15度おきに達したところを区分する方法です。起点は、春分(3月20日が入節)。それから清明(4月5日が入節)・穀雨(4月20日が入節)・立夏(5月5日が入節)と続きます。芒種(6月5日が入節)・霜降(10月23日が入節)などがあるように、とくに農事暦として有用でした。

 著者は「土用の意味」として、4つの土用の中で夏の土用だけは今日にも伝えられていることを指摘します。それも、一般には土用丑の日のウナギにかぎられての伝承ですが、著者は「夏の土用にウナギを食べるというのは、つまりは食養生。季節のかわり目を体力を増強して無事に乗りこえようとする、そのまじないにほかならない」と述べます。

 丑の日とウナギを結びつけたのは、江戸中期の平賀源内だとされています。源内は、友人の鰻店主の苦境を救済するために「本日、土用丑の日」という看板を書き、引札(チラシ)の宣伝文を書いたというのです。他にも大田南畝(蜀山人)説もありますが、著者は「当時の江戸町人たちが土用のまじないを広く共有していたからの宣伝効果であった」と述べています。

 「はじめに」の最後に、著者は以下のような思いを述べています。

「本書を上梓するのは、いつの時代も『かわらない日本』があることを信じるからだ。そのひとつが、季節のうつろいに対しての処し方、その『こまやかさ』である。自然との『共存』であり、隣人との『共生』である。日本人が日本列島ではぐくんできた暮らしの『安心』といってよい。私は、1年に1度でも2度でもよいから、そのことを思いだしてもらいたい、と思う。できうれば、追体験もしてもらいたい、と思う」

 1「春」の「鏡餅と雑煮」では、鏡餅にかぎらず正月の餅は、ふつう正月の数日前までに搗いて用意するとして、著者はこう述べています。

「これは、28日は火が荒れるし、29日は縁起が悪く、さらに晦日餅は一夜飾りとなるので好ましくない、とされたからである。鏡餅の飾りつけは、地方により家によりさまざまな様式の違いがあるが、要はめでたい品々を加えて形がくずれないようにすればよいわけだ。これも、形式うんぬんを問うのは二義的なことである。
 あらためて考えてみれば、年中行事とは、先人がつくりだしたこうした体験を認識して伝承するために設けられているのだ。年長者の役目は、それを次世代に語りつぐことであった」

 「餅なし正月」では、正月には米の餅が欠かせないとして、著者は以下のように述べます。

「古来、米粒にはイネの霊力(稲魂)が宿ると信じられてきた。その米粒を凝縮した餅や酒は、とくにイネ・米のもつ霊力がこもった食べものとみなされてきたのである。正月の鏡餅は、その象徴といってよい。それは神饌でもあり、それ自体が依代でもある。そこに歳神(歳徳神)が依りついた、とする。雑煮も、本来はその御魂分けであり、丸餅やのし餅を食するのは便宜的な略式である」

 「旧正月」では、年によって旧正月の日どりは前後するが、それは節分と立春にほぼ重なるので、それを「新春」と寿いだことを指摘し、著者は以下のように述べます。

「現在、私どもがほとんど無意識に年賀状に記す新春の挨拶文も、旧暦正月での季語をそのままつないでいるのである。昨今は、そうした日本人の民俗知識が、いささか乏しい傾向にある。日本人同士がお互いさまでつきあうにはそれでもよい」

 ところが、韓国や中国・台湾では、旧正月の慣行がなお一般的です。日本国内でも、橫浜や神戸の中華街では盛大に旧正月行事が行なわれていることを指摘し、著者は「私たちは、そのことにもう少し注目しなくてはならない。韓国人や中国人をほんとうに親しい隣人とするのであれば、それが歴史的には正統な伝承と認めなくてはならないのだ。はじめに旧暦ありき、なのだ。それを、日本のみが早々に切りかえた」と述べています。

 また、著者は「旧暦を用いていた長い歴史と文化を、私たちの時代の人たちが一年にいちどは思いだす、その記念日の設定を提案したい」と述べます。それに一番ふさわしいのが「旧正月」だといいます。「みどりの日」や「海の日」もよいのですが、旧正月は、それ以上に歴史・文化的に意義があるというのです。

 「ぼた餅」では、庶民がこぞって砂糖をふんだんにつかえるようになったのは、台湾統治がなった明治後期からのことであると指摘し、著者は以下のように述べます。

「明治33(1900)年に成立した台湾製糖(台糖)は、すぐさま日本を代表する企業となった。経済史的な側面からみれば、日本の台湾統治は砂糖増産にあった、といってもよいほどなのである。かくして、江戸後期から明治期にかけて館菓子は、日本を代表する菓子となった。その大衆化したものが、ぼた餅である」

 特にぼた餅が仏壇への供えものとなったのは、明治政府における神道の統一があり、神棚への供えものはすでに定型化していたからと推測されます。
 なお、一般には、春に「ぼた餅」、秋に「おはぎ」とよび分けています。ぼた餅は、春の牡丹にちなんだ「牡丹餅」が訛ったもの。対して、おはぎは、萩の花にちなんでの呼称です。

「 花まつり」では、著者は花まつりの形式が各地で異なり、とくに団子やあられ餅などの接待菓子をつくる、その菓子が地方ごとにさまざまあったことを紹介し、以下のように述べます。

「子ども向けにかぎったことではないが、そこでも、まずは子どもに分配する。花まつりだけではない。年中行事のなかには、子どもが主役の行事がいくつかある。雪国でのカマクラがそうであるし、西日本でのヒナ(雛)ナガシがそうである。小正月のトンドも、またしかりだ」

 続けて、著者は地域社会における子どもの存在について、以下のように述べるのでした。

「地域社会のなかに、子どもたちが組織だってはたらき、そこで小銭や菓子を得る行事が組みこまれていた。もちろん、子どもの娯楽ではあったが、子どもたちが世間の秩序を知る、その訓練の場でもあっただろう。そうした子どもたちのまつりが、全国的にみて後退したのは、日本経済の高度成長にあわせてのことであった」

 「花見」では、花見の起源については諸説あるとして、著者は以下のように述べています。

「ひとつは、京都の貴人たちの雅遊説。『百敷の大宮人は暇あれや桜かざして今日も謡ひつ』とうたわれたように、平安朝の貴族たちは花を見て歌を詠み、そぞろに遊びたわむていた。宮中でも花見の宴があった、と古文献に伝わる。そして、庭園では、曲水の宴が催された、と伝わる。
 もうひとつは、武家の野宴説。たとえば、豊臣秀吉が晩年に催した山城三宝院での花見は、あまりに有名である。『花は桜木、人は武士』というがことくに、武士たちは、ことさらにサクラを尊んだ。散りぎわの潔さ、美しさが武士道にそぐうたから、という」

 こうした特権階級の花見が、やがて庶民社会に広まりました。
 とくに、江戸の町で花見が盛んになり、江戸後期には、上野、飛鳥山、向島などが花見の名所となった。著者は「たしかに、今日私どもが催すところの花見行楽の源流はここにある、といってよいかもしない」と述べています。ちなみに、ソメイヨシノも、江戸でつくられたサクラです。

 陰々たる休農期において、サクラの開花は万物の息吹に共鳴します。著者は以下のように述べます。

「花見は、人びとの活力を再生する行事でもあったのだ。そこでは、酒池におぼれ、歌舞に狂うのもまた山のカミの許したもうたこと、とみるべきなのである。もっとも花見にかぎらず、日本のまつりとはそうしたもの。いうなれば、節目折目の『景気づけ』である。その娯楽の楽しみのみが肥大化して今日に伝わっているのだ。そして、そうした行事の遊戯化は、近世の大都市江戸で始まった例が多いのである」

 2「夏」の「端午の節供とショウブ」では、端午の節供のもっとも古義を伝えるのはショウブ(菖蒲)の使用であるとして、「たとえば、ショウブをヨモギとともに軒に差す。それは、火ぶせ(火除け)のまじない。あるいは、虫除けのまじない。総じて、魔除けのまじないである」と紹介されています。
 著者は「ショウブに勝る旬の霊力はあるまい」と言い切ります。
 ショウブは、もともとにおいが強く蛇や虫をよせつけなかったことから、呪力の強い植物とされました。また、刀剣にも見立てられるところから、そうされたのです。

 さらに、ショウブについて、著者は以下のように述べます。

「もとより、節供は、邪気悪霊が忍びこみやすいとされる季節のかわり目を無事に乗りこえんがための行事であり、そこにさまざまなまじないが発達したのである。ショウブを鉢巻に差したり巻きこむのが江戸で流行ったのも、そのあらわれであった。菖蒲湯や菖蒲酒も、またしかりである」

 節供は、中国からの伝来行事とされています。が、「それを待つまでもなく、折々に植物の『旬の精気』をもって邪気悪霊を祓い、体力を養う習俗が根づいていた」とみるのがよいと著者は言います。繊細な季節感をとりいれた、日本ならではの文化展開だったのです。

 「梅干し」では、ウメの原産地が一般には中国の四川から湖南にかけてのあたりとされ、一方で、日本では大分県から宮崎県にかけての山地で、台湾では阿里山のあたりで自生林が確認されていることを紹介し、著者は以下のように述べます。

「いずれにしても、東アジアに広く分布しており、古くから日常生活に利用されてきた果実である。たとえば、『万葉集』では、100首をこえるウメを扱った歌がある。これは、ハギ(約140首)に次ぐ多さで、サクラの40余首よりもはるかに多い。古くは、花の観賞はサクラでなくウメを対象としたものだった、と思えるのだ。日本でウメの果実を食用にしはじめたのは、事典類にあたってみたところでは、鎌倉時代からのことらしい。『梅干し』が兵糧食になった、という」

 「夏越の祓い」では、日本の民間行事には「祓う」要素が随所に見られるとして、著者はその理由を以下のように述べます。

「それは、季節の折目節目には、邪気悪霊がしのびこみやすく災いが生じやすい、とされたからである。とくに、高温多湿の日本列島において、夏を越すことは、難儀なことであった。そこで、その祓いの行事が今日までよく伝えられてきたのである」

 また、著者は「夏越の祓い」について、その意味を単独の行事としてとらえるべきではないと訴えます。あくまでも、季節のかわり目や不浄が生じた時ごとに行なわれた、祓いのまじないのなかの1つと位置づけるべきであるとして、以下のように述べます。

「日本では『対の思想』というべき行事化もなされている。正月と盆、春分と秋分、春まつりと秋まつりなど。そうした一連の対の行事化のなかで、祓いを象徴的にとらえるとすれば、夏越の祓いに対して年末の大祓いが存在することも忘れてはならないのである」

 この日本の行事における「対の思想」の指摘には、大いに納得しました。

 「山開き」では、著者は「なぜ、各地で山詣でが盛んであったか」と問いかけ、以下のように述べています。

「それは、日本が山国であったからである。現在でも国土の60数パーセントが森林である。島国というよりも『山島』というのがふさわしい地形である。ほとんどの土地で、山を眺めながら暮らす。その山なみのなかで、とくに山容のすぐれた高峰をカミの山とみるのは、当然といえば当然のことだ。そこには、もろもろの精霊が棲む、とする。死霊も棲む、とする」

 そこには、仏教や神道が成立する以前からの、日本人の信仰観の原型がありました。著者によれば、富士山のように名の知れた山以外にも、各地にオヤマ、ミヤマ、ミセン、ミタケなどとよばれる山が存在することが、それを証明するといいます。
 また著者は、日本の神社が樹齢をほこる樹木で囲まれていることを指摘します。いわゆる「鎮守の森」ですが、これもオヤマを模したものに相違ないといいます。つまり、そこは、オヤマという聖域の分地なのです。

 山開きの日に、青年たちが「山駆け」をする習慣もありました。たとえば、伊豆の大島では、ごく最近まで、旧暦6月1日に三原山に駆けのぼる行事が伝えられていました。それは、成人儀礼の意味もありましが、1年に1度、山のカミに男たちがこぞって詣でることに本義があったのです。つまり、登拝は、まつりのひとつの原型でもあるとして、著者は以下のように述べます。

「したがって、日時を決めずして誰かれかまわず神聖なる山に踏みこむのは、つつしまなくてはならないことであった。古く、山開きは、時どきには里に降りて人びとの願いを叶えてくれる山のカミに、敬意を表して人びとが会いに行くまつりの日だったのである。そういえば、女性は原始のカミとか。のちに、家を守らんとして居すわる山のカミもあり、か。めでたき哉、めでたき哉」

 「幽霊と妖怪」では、盆の供養行事が紹介されます。
 著者は、盆について、以下のように述べています。

「盆は、旧暦7月13日から15日、16日まで。先祖の霊を家に迎え、供物を供えて供養する行事である。中国の盂蘭盆経に由来するとされ、現在では仏教行事として広がりをみるが、日本列島に土着の『御魂まつり』が下地にある。先祖の御魂をこの時期に祀っていたもので、それに仏教の供養思想が重なって今日に伝わる盆行事となった、とみるのが妥当なのである。その結果、盆に迎える祖霊は、大別して3種。一般的には本仏(祖霊)と新仏(新精霊)と無縁仏(餓鬼霊)とに分け、扱いを違える。本私は、すぐに仏壇に招聘する。新仏は、まだ成仏せずにさまよえる霊として、座敷や縁側に別の祭壇を設けてそこに祀る」
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   『唯葬論―なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)


 また、著者は「無縁仏」について、以下のように述べます。

「無縁仏は、血縁霊ではないから家には招き入れない。ただ、それは、ときに悪しきとりつきもするので、庭に餓鬼棚を設けて供養する習慣が伝わる。
だが、祖霊が中心とはなるものの、有縁無縁の精霊は数多く存在する。そのなかで、この世に思いを残して死んだ怨霊の祀り方は、ないがしろにされる傾向があった。幽霊は、そうした怨霊の変化、としてよい。『うらめしや』と登場するのも、それゆえのことなのである」
 このあたりは、わたしも『唯葬論―なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)の「幽霊論」で詳しく書きました。

 「中元」では、「はじめに生見玉へのねぎらいありき」であるとして、著者は以下のように述べています。

「この贈答習慣が盂蘭盆会と複合したとき、仏壇への供えものとなり、さらに都市の習俗として先行していた中元とも複合した。そして、商店の盆・暮れの売出しにも促されるかたちで、贈答習慣の広がりをみた、とみてよいのであろう。行事とは、時代を重ね、ほかのさまざまな要素を加え、変化変容するものである。その複雑な様相のなかに、たまに『精神性』を意識してみるのもよかろう」

「 盆と生見玉」では、日本では、古くから死者の魂、先祖の御魂を祀る「御魂まつり」とか「御魂しずめ」が盆の時期に行なわれていたとして、著者は以下のように述べます。

「民間の盆行事は、そうした土着の祖霊信仰と仏教の回向とが融合したもの、とするのがよい。現在も、盆行事が画一的でなく、地方によって少しずつ異なるのは、その土台にそれぞれの御魂まつりや御魂しずめの習慣があるからなのである。ちなみに、民俗学では、正月も半年を隔てて盆と向きあう『先祖まつり』とも位置づけられている。古く、日本では1年を2期に分ける考え方があった。つい近年まで、勘定を盆・暮れ払いとした習慣に代表されるように、盆と正月は生活に根ざした2分法であった」

 盆も正月も、カミ、ホトケ、それに祖霊を家に招き、もてなし、親しく交流をはかるまつりにほかならないと著者は喝破します。そして、行事の構成も似たようなものと対比できるとして、以下のように述べています。

「たとえば、正月を迎えるにあたっての祓いが『煤祓い』や『大祓い』であるのに対して、盆を迎えるにあたってのそれが『夏越の祓い』。神仏の迎えが、正月では依代としての門松、盆のそれが迎え火。その違いは、山からの歳神(蔵徳神)か墓からの祖霊かの違いにすぎない。常緑樹も篝火も依代としては同じ意味をもち、ところによりまつりによりつかい分けがなされるだけのこと、と考えるのがよい。祓いをして、しかるべくのちに依代をもって諸霊を迎える、その構図の共通こそが大事なのである」

 とくに、盆行事の場合は、先祖霊が主賓です。
 その先祖たちの霊界とわたしたちの俗界をつなぐ存在として長老が敬われることにもなるとして、著者は以下のように述べます。

「長老は、つまりは生見玉(生御魂)である。いいかえるならば、カミ・ホトケを最上位とし、ご先祖さまが中間にあって、現世の人間が下層に連なる構図にほかならない。『お宮さん、お寺さんづとめは、年寄りの役目』といってきたし、現在でもそうされるのは、その伝統的な世界観のせいであろう。したがって、盆行事では、祖霊を迎えて祀るだけではなく、生見玉へ敬意を表し、祝福する習俗がもとよりかなり広範にみられた」

 3「秋」の「秋の彼岸」では、春分と秋分は「二十四節気」のうちにも数えるとして、著者は以下のように述べています。

「春分・秋分を中日としてその前後3日を含めた7日間が彼岸である。それぞれを、春彼岸、秋彼岸、という。ちなみに二十四節気とは、中国伝来の季節のよみ方で、ほかに、立春・雨水・啓蟄・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至(以下、省略)などがある。そのうち、春分と秋分は、昼夜の長さが同じになる日である。太陽が真東から昇り、真西に沈むので、節気のなかではもっとも判断しやすい。この目を境に、季節が夏と冬に向かっていくわけだ。彼岸といえば、まず墓参り。各寺院では、彼岸会や施餓鬼供養が行なわれる」

 本書の白眉は日本文化における「対の思想」についての記述ですが、著者は以下のように述べています。

「いつの時代からか明らかでないが、日本では対でものごとをとらえる慣習を広めてきた。とくに、儀礼に関係しては、現在もそれが根強く伝わる。たとえば、神饌でいうと、酒が1対、餅が1対、米が1対、魚が1対など。行事についても同様で、たとえば、正月と盆、暮れと盆、春まつりと秋まつり、上巳の節供(女子の節供)に端午の節句(男の子の節供)など。本来、節供は、五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)である。なのに、上巳と端午のそれが対をなし、節供を代表するがごとくに広まったのも、日本ならではのこと。そうした『対化現象』とでもいうべき文化性のなかでは、春と秋の彼岸行事もまた定着しやすかった、といえるのである」

 さて、彼岸には、仏壇や墓前におはぎを供える習慣があります。
 中国にも韓国にも共通はしますが、とくに日本の行事では餅が重要であるとして、著者は以下のように述べます。

「酒に次いで餅。それを神仏に供え、しかるのちに参加者に分配する。つまり、餅は霊魂の依代のひとつであり、それを人びとが分配して食べることで『おかげ』があった、とするのである。彼岸は、先祖供養のまつりである。先祖霊との共食のごちそうが餅である、とみることも妥当だ。そこで、われわれは、先祖と一体化することでおかげを享受するのである」

 「重陽の節供」では、江戸時代、幕府によって五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)が定められたことが紹介され、以下のように述べられます。

「重陽は、なかでももっとも公的なものとされ、城中儀礼としてもとりあげられた。そこで、また菊酒を飲む習わしが大名層のなかで復活した。ちなみに、その日、諸侯が登城の際には、献上の綸子や羽二重、紅白の丸餅、鮮鯛、干鯛などをそれぞれに携えた、という。また、雅人大名が、献上品に熨斗がわりにキクの花の枝を添えた、という記録も残る。そして、将軍からは菊花を浮かべた酒を授かり、互飲して祝った。『菊花酒を以て節物とす』(『東京歳時記』)。節物とは、節供の重要な食べものという意味であるから、節供における菊酒の意義をここまでは伝えていた、といえる。しかし、ここでも菊酒を飲む儀式は、民間には広まらなかった」

 「行楽の秋」では、「一生に一度の伊勢参り」とうたわれたように、庶民の旅の大勢は伊勢参宮にあったことが紹介されますが、その理由を著者は以下のように述べています。

「それは、伊勢が日本列島のほぼ中央にあり、『常若』ともいわれる常緑の地でもあったから。また、国の祖神として、天下泰平・五穀豊穣の半ば公的な願目を通しやすかったから。つまり、旅に出る方便として伊勢参宮は、もっとも適していたからである。たとえば、『年に一度は金比羅参り、月に一度はお多賀さま』という言葉が先の伊勢参りのあとに続く。これは、瀬戸内から紀州(和歌山県)あたりでの俚諺であり、金毘羅さまは、宮島さまにも石鎚さまにもとりかえられていい伝えられてきた。なお、お多賀さまとは、淡島さまともいいかえられており、婦人の信仰を集めたところから月に1度の来訪神にもたとえられたのである。このお多質さま参りのようなものが、つまりは遊山ということになろうか。信心半分の物見遊山である」

4 「冬」の「寒仕込みの酒」では、このごろ、礼講ということばが死語と化していることが話題にされ、著者が以下のように述べます。

「礼講があっての無礼講なのだが、無礼講ということばだけが残った。ということは、私ども日本人の飲酒の作法のひとつが後退したということである。粛々と平盃が一巡する古式の直会への出席の機会は、一般には少なくなっているはずである。しかし、『三三九度』という言葉は伝わる。『三献をもって式正とする』と複数の古書にみられるように、礼講の正式な作法が三献、すなわち三三九度なのである。それは、盃が3巡する作法である。盃1つに肴が1品。つまり、酒肴をもって一献とするのだ。それを3度めぐらせる。あるいは、交わす。肴は、形式だけで一般には口にしない。が、盃の酒は、3口に分けて飲む。3つの盃をそれぞれ3口で飲むから、三三九度というのである」

 もっとも、直会では、よほど古式を伝える神社のそれでも、一献で済ませます。それは、参列者も多いところで省略の作法なのです。著者は「なぜ、そうまで面倒な作法を伝えてきたのか」と問いを立て、以下のように述べています。

「それは、酒を飲み交わすことをもって約束事を固めた、とするからである。ゆえに、その盃事をもって『固めの盃』ともいうのである。ある種の契約儀礼に相違ない。契約であれば、契約事項を慎重に確認するのは当然のこと。したがって、1盃を3口に分けて飲み干し、それを3度重ねるのだ。慎重に、より慎重に。私たち日本人は、酒にそうした精神性を投じてきたのである。日本の礼儀文化、契約文化としてよいそれを、いまどきは『乾杯!』の一言ですませる。乾杯の習俗は、明治後期に軍隊で生じたもので、もとよりグラスを用いた立食での飲み方であった」

 この「乾杯」のルーツを明らかにするくだりは、ブログ『酒の日本文化』で紹介した本にも登場します。

 最後に、「冬の土用――節分と寒中見舞」では、現在に伝わる節分の豆撒きは、2つの異なる系統の行事が複合したものであるとして、以下のように述べられています。

「ひとつは、中国から伝来の『追儺』。もとは、陰陽道の除夜行事であった。そこで疫鬼を退治する模擬演技を『鬼やら位』といった。それが、官中から仏寺に広まり、現在の節分会につながる。その過程で、鬼やらいは、豆撒きとなった。豆を石つぶてに見立てた、とも解釈できる。また、穀霊をもって悪霊を封じる、とも解釈できる。もうひとつはの流れは、『節気祓い』の伝統。仏教や陰陽道の伝来以前からの土着の行事、とみればよい」
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   「サンデー毎日」2015年10月18日号


 本書を読んで、わたしは「季節を愛でる」という日本文化の背景には「時間を大切にする」という思想があることを再確認しました。わたしは日本最初の総合週刊誌である「サンデー毎日」に「一条真也の人生の四季」というコラムを連載していますが、その第1回目にわたしのブログ記事「冠婚葬祭とは人生を肯定すること」で紹介したコラムを書きました。そこでは、儀式の果たす主な役割について考えました。そして、それは、まず「時間を生み出すこと」にあると述べました。

日 本における儀式あるいは儀礼は、「人生儀礼」(冠婚葬)と「年中行事」(祭)の2種類に大別できますが、これらの儀式は「時間を生み出す」役割を持っていました。「時間を生み出す」という儀式の役割は「時間を楽しむ」や「時間を愛でる」にも通じます。わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、冠婚葬祭や年中行事によって人生という時間を愛でているのかもしれません。それはそのまま、人生を肯定することにつながります。
 本書のテーマである「旬」とは日本文化の核心思想であると思いました。