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こころはどう捉えられてきたか』

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No.1315

 

 『こころはどう捉えられてきたか』田尻祐一郎著(平凡社新書)を読了。 「江戸思想史散策」というサブタイトルがついています。 著者は1954年水戸市生まれ。東海大学教授で、近世儒学、国学、神道などの日本思想史が専門です。著書に『山崎闇斎の世界』(ぺりかん社)、『荻生徂徠』(明徳出版社)、『江戸の思想史―人物・方法・連環』(中公新書)、共編著に『日本思想史講座』全5巻(ぺりかん社)などがあります。


20160725151741.jpg    本書の帯

 


 本書の帯には「江戸の人たちも、私たちと同じ"こころ"の問題に悩んでいた。」と大書され、続いて以下のように書かれています。

 

「日本人は古来、こころという摩訶不思議なものとどう向き合い、格闘し、表現してきたのか? 江戸の思想をベースに神話や宗教、民間伝説など様々な角度で探り、現代に通じる思索を発見する」

 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

 

「江戸時代の思想といえば、封建的な道徳や無味乾燥の教学で埋め尽くされているだろうと思っていた方が、なかなか面白いではないか、今の自分たちと結局は同じ問題にぶつかっていたのだな、そんな風に読んでくだされば、この書物が世に出た意味があると私は思っている。こころを巡る葛藤でつながる江戸時代の人と私たち―」

 

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    本書の帯の裏

 


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「はじめに」

一、「こころ」の本源を探る   

    鏡   

    虚   

    敬   

    理

二、「こころ」を養う     

    自由   

    安楽   

    歓喜

三、「こころ」の不思議に向き合う   

    四端   

    礼楽   

    恋    

    悪

「むすび」

「あとがき」

 一「『こころ』の本源を探る」の「鏡」で、著者は「心」という言葉について以下のように述べています。

 

「『心』という漢字は、心臓の形を表している。古代の漢民族は、人間の知的・情的、あるいは意志的な活動を、胸の奥で規則正しい鼓動をしているこの『心』が主宰しているものと考えた。現代人なら、それらの活動は脳の働きによるものであり、心臓の役割は、全身に血液を送り出すポンプに当たるものだと考えるのかもしれないが、それでも、今日なお 『心』が、人間の内面を表現する言葉であることに変わりはない。心が痛む、心が躍る、あるいは心に決する、心に秘めるとは言うが、脳が痛む、脳が躍るなどとは言わない。『心』は心臓の象形文字であったが、そこから知的・情的・意志的な活動をする人間そのもの、いわば主体としての人間、さらに人間としての本質というような意味を、この言葉は担うことになった。具体的な臓器としての心臓から、人間的な『こころ』になったのである」

 また、「三種の神器」に言及した後、著者は以下のように述べています。

 

「仏教の世界観、仏教の観念に取り込まれることで、日本の神々は、それがどういう神なのかを初めて(言葉でもって)説明されることになった。もし仏教が伝えられなかったなら、寺院というものを日本人は知らず、寺院が知られなかったなら、神社というものさえ、生まれなかっただろう。神々を祭るための恒常的な施設を作るという発想が、日本にはなかったからである。この一事をもっても明らかな通り、仏教の伝来は、日本人のカミ信仰にとっても大変に大きな事件であり、仏教が伝わったことで、日本人のカミ信仰の形は根本的に変容していった。この巨大な変容以前の、いわば日本人のカミ信仰の原型(原風景)に近づくことは容易ではない。柳田國男・折口信夫から谷川健一まで、優れた民俗学者が、日本人の神々への信仰の原型を求めて、南方の島々に注目したわけであるが、それはひとえにそれらの島々は仏教の影響を受けることが歴史的に少なかったからである」

 さらに「心は神明の舎」として、著者は以下のように述べます。

 

「仏教に包み込まれることで、神道は、初めて神々を語るべき言語を獲得した。平安時代の末期から鎌倉・室町時代のことである。それが江戸時代に入ると、時代思潮に乗って、仏教ではなく儒教の言葉を借りて自分たちの信仰を解説する傾向が強くなる。そのもっともまとまった書物が『陽復記』であって、それを著したのが度会延佳(1615・元和元年~1690・元禄3年)である。伊勢神宮の外宮は、内宮と対抗しながら中世の伊勢神道(度会神道)の発信源として大いに奮闘したが、その外宮の神職の子として生まれた延佳は、豊宮崎文庫を作って、そこに収められた貴重な書物を公開したほどの開明的な人物であった。儒教の古典である『中庸』に、『知仁勇』の3つを『天下ノ達徳』と讃えた一節があるが、延佳は『三種の神宝(神器)は、知仁勇の三徳を表したる』ものだとした」

 日本人にとって神とは何か。著者は以下のように述べます。

 

「雷であれ地震であれ、神話に登場する神々であれ、あるいは蛇や狐や狸であっても、人知を超えたものはすべて神だったのであり、人はただそれを畏怖すべきものとしてその前に平伏し、その神威が穏やかに鎮まることを願ったのであり、歌も踊りも、神々に鎮まっていただくために捧げられたものだった―これが、日本人の神に対するもともとの姿勢だったとすれば、延佳の説く世界は、そこから何と遠くまで隔たってしまったものだろう。そもそも、『古事記』『日本書紀』に出てくる鏡は、天上の神々の世界からの正統な血統の証明としてアマテラスの子孫に手渡された聖なるものであったはずであるが、それが、万人の『心』に内在する神の象徴とされ、1人ひとりが自らの意志でもって神の宿るべき清らかな『心』を獲得するように努めよとされるのである」

 そして、「格物」として、儒教について著者は述べます。

 

「あるべき天下国家の秩序は、真実と善意を体現した、かつ美的なものとしてあると考えるのが儒教である。美的という契機は、儒教からは遠いように思われるかもしれないが、儒教の重んじる礼楽(礼儀・儀礼と音楽)の秩序は、何よりも調和のとれた美しいものとして意識されていただろう。とすれば、まずこの『格物』とは何かが大問題となる。事実、近世の思想世界は、『格物』をどう理解すべきかをめぐって、一大論争を展開することになる」

 朱子(1130~1200)は、それまでの宋代の儒教の思想を集大成し、その後の東アジアの思想世界を主導した一大体系を築きました。朱子は、その学問的方法を「格物」の解釈という形で示したとして、著者は以下のように述べます。

 

「朱子によれば、世界のあらゆる事物はいい加減に、あるいは偶然的にそこにあるのではなく、そうあるべき『理』(真善美を尽くした規範)というものに支えられて、そこにある、父と子という関係があれば、そこには父と子が本来どうあるべきかという『理』が内在しているはずである。個々の事物について、聖人・賢人の書物を読み、仲間同士で討論をし、自分の経験を反省しながらその『理』を明らかにしていくこと、つまり『窮理』、『理』を窮めること、それを朱子は『格物』だと考えた」

 朱子と並ぶ儒教の大物といえば、王陽明(1472~1528)です。 陽明は、「格」を「正す」、「物」を人間の内側の意念の発動として解釈したとして、著者は述べます。

 

「朱子のように、事物の『理』を1つひとつ窮めていくことではなく、『心』が動くその瞬間、その動きを正しいものにさせることが陽明の理解する『格物』なのである。陽明は、人間の心には完全なる善性が『良知』、すなわち是非善悪を判断していく先天的な能力として備わっているのだから、それをストレートに発揮させることが、何にもまさる根本的な問題だと考える」

 「虚」では、「心中悪なきのみならず、善も又なし」として、著者は以下のように述べています。

 

「中国でも朝鮮でも、儒教は土葬でもって喪礼を行なう。江戸時代でも多くの儒者は、土葬が古来の礼であって、亡親の遺体を物扱いして火にくべてしまう火葬は、孝の心を懐く子としては耐えられないことだとして厳しく反対したが、蕃山は、国土の狭い日本のような所で土葬をしていけば、あたり一面が墓地になってしまいかねないと論じた。著山は、礼の形に囚われず、状況・環境に合わせて柔軟な対応をすべきだと考えるのである」

 また著者は、「囚われない心」として、江戸の儒者である熊沢蕃山の思想について、以下のように述べます。

 

「儒教という思想は、規範を重んじるという保守的で堅苦しい性格を持っている。蕃山は、規範の意義を軽んじていたわけではないが、規範の具体的な在りようは、『時・処・位』に応じて様々でありうることを力説した。古代とは違う現代、中国とは違う日本、その人の置かれた社会的な位置、そういう違いを勘案せずに、一律に形式を当てはめようとする態度を斥けた。そこから、経世家としての蕃山の活躍が生まれるのであるが、その思想の根底にあるのは、社会や制度を支えるのは1人ひとりの『心』であり、その『心』が、何者にも囚われずに生々活発な働きを存分に果たすためには何が大切なのかという問題意識であった」

 「敬」では、著者は「神話」として以下のように述べています。

 

「中国や朝鮮では、神話が思想的に持つ意義はそれほど大きくはなく、思想史の展開において、神話の解釈が問題になるというようなことはなかったように見受けられる。それは、中国や朝鮮では相対的に儒教の比重が大きく、儒教には『怪力乱神を語らず』(『論語』述而篇)、奇怪なこと・暴力的なこと・反倫理的なこと・神秘的なことを話題から遠ざけるという精神史的伝統が強かったからかもしれない」

 続けて、著者は日本の場合について以下のように述べます。

 

「しかし日本では、『古事記』『日本書紀』が伝える神々の世界をどう考えるのかという問題は、どの時代でも思想的に大きな主題となっていたのである。それは、天皇や朝廷の権威の在りかたが時代によって大きく変わりながらも(中世には深々と密教的な世界観に包まれていた)、その権威の由来が、『古事記』『日本書紀』の神々の世界にあったからなのかもしれない。あるいは乱暴を承知で言えば、日本人の間では、倫理・宗教・政治のどの次元においても神々の世界が身近なものとしてあったから、つまり日本人が「怪力乱神」を好んだから、歴史を通じて、天皇が天皇でありえたのかもしれない」

 三「『こころ』の不思議に向き合う」の「礼楽」では、著者は「君子」として、以下のように述べています。

 

「儀礼・儀式、礼儀、そして音楽の体系、これを合わせて礼楽と呼び、先王の時代には、礼楽でもって社会の秩序が保たれ、君子は君子らしく、小人(庶民)は小人なりの人間形成を果たしていた。その君子に求められたのが、『先王の道』、つまり礼楽世界に身を浸すことで、君子らしい『徳』を体得して、『安民』、民を安んずることを第一とした君子らしい『心』の持ち主となって社会を主導することなのである。仁斎の言う『徳』が、他者への親和的な向き合い方という性格を持つとすれば、徂徠の『徳』には、文化的な教養・能力という性格がある」

 「恋」では、著者は「本居宣長」として、江戸時代の学者群像について以下のように述べています。

 

「伊藤仁斎は、京都の町人社会にあってひたすら『論語』『孟子』をもとに思索して、京都の地を出ることはほとんどなかった。荻生徂徠は専ら江戸で活躍して、箱根を越えていない。そして学者としての宣長は、京都・名古屋(『古事記伝』は名古屋の書肆から刊行された)・和歌山(宣長は晩年、紀州藩から扶持米を受けている)を結んだ圏内に生きて、江戸の地を踏んでいない(ただし少年時代と青年時代、商人としての修業等では江戸に行っている)。すべてが東京に集中した近代日本からは想像できないような空間の配置が、そこにはあったのだろう。京都・大坂・江戸というそれぞれに個性のはっきりした三都、江戸と京大坂を結ぶ名古屋、あるいは長崎を発信源とした知のネットワークの発展が一方にあり、他方それぞれの地域の文化的個性が豊かに育まれている、その相乗が、宣長の人生を、大きく言えば江戸の思想史の豊かさを支えているように思われる」

 また著者は「死」として、以下のように述べています。

 

「宣長の前に立ちはだかっていたのは儒教、とくに朱子学の考え方であったが、そこでは「悪」は克服すべきものであった。倫理的にも政治的にも、『悪』はなくすべきものであった。1人ひとりの人間の『心』にも、その集合としての社会にも、本来的に美しい秩序があるはずだと考える朱子学では、その秩序の美を歪めてしまう欲望の過剰が『悪』である。放っておけば人間は欲望に引きずられるから、不断の学習と自己抑制でもって、中庸を得て振舞うことが強調される。朱子学の立場からすれば、理想の人間である聖人には『悪』の契機は1点もない。そして万人は、聖人を目標として学ばなければならない。これに対して宣長は、『悪』を克服すべきものとは見ない。『悪』は、世界の構造の中に組み入れられたものとして、受け容れるしかないものである」

 そして、「こころ」とは何かについて、著者は以下のように述べるのでした。

 

「『こころ』とは何か、こう問われたなら、宣長はどう答えるのだろうか。王朝文学の世界から導かれる答えは、既に見たように、自分でもどうにもならない弱さや愚かさを深層に抱え込んだものとして『こころ』を捉えて、その弱さや愚かさに向き合うことで、生きることの深い感慨、『物の哀』を知るというものだった。では、神々の世界を通じて、宣長は『こころ』の何を見ていたのだろうか。ここでの宣長は、人間の『こころ』と断絶した、不可知なものとして神々を捉えていた。神々の不可知な力は、人間の生を賦活させる力(善)と、人間の生に打撃を与える力(悪)の絡み合いでもあって、その複雑な力の合成の世界の中で、人間は生きている。そして人間の霊魂は、死後、必ず穢れに満ちた黄泉の国に行くのであり、それはどうしようもないことなのだと宣長は言い切る。こういう考え方の根底にあるのは、『こころ』の管轄する範囲、つまり人間が責任を負うべき領域として、限りなく問題を背負い込むことをしないということではないだろうか」

 

 本書を読んで、わたしは日本人の「こころ」は神道・仏教・儒教の三本柱によって支えられていると再認識しました。日本人の「こころ」の主柱は神道です。そして、それを支える二本柱が仏教と儒教です。日本人の「こころ」の三本柱である神道、仏教、儒教が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるでしょう。それをプロデュースした人物こそ、かの聖徳太子でした。聖徳太子こそは、宗教と政治における大いなる編集者だったのです。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的平安を実現する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのです。日本人の「こころ」を一字で表現するなら「和」を置いて他にはないと確信します。