お探しの書名・著者名・キーワード等を入力して下さい

  • HOME
  • 弔いの文化史
Title

弔いの文化史』

Category

No.1292

 

 『弔いの文化史』川村邦光著(中公新書)を読みました。 この読書館でも紹介した『弔い論』の続編ともいうべき内容です。著者は1950年福島県生まれの宗教学者で、大阪大学大学院文学研究科教授です。

 

20160615090117.jpg
    本書の帯


 「日本人の鎮魂の形」というサブタイトルがついています。本書の帯には、「古代のモガリ、念仏結社、イタコの口寄せ、ムカサリ絵馬、遺影・・・・・・」「日本人は死者とどう向き合ってきたのか」と書かれています。

 

20160615090139.jpg
    本書の帯の裏


 また、帯の裏には以下のような内容紹介があります。

 

「日本人は天災や戦争によって非業の死を遂げた者をどのように弔ってきたのか。 『古事記』『日本書紀』を起点に仏教説話集『日本霊異記』の世界に分け入り、念仏結社を作った源信、女人救済を説いた蓮如らによる弔いの作法を歴史的に辿る。さらに死者の霊を呼び寄せる巫女の口寄せ、ムカサリ絵馬や花嫁・花婿人形の奉納など現在も続く風習を紹介し、遺影のあり方をも考察。古代から東日本大震災後まで連なる鎮魂の形を探る」

 本書の「目次」は以下のようになっています。

 

「はじめに―芭蕉、漂白の旅へ」

序章  天災と弔い―鴨長明の作法   

1 惨禍の記録としての『方丈記』   

2 鴨長明の心構え   

3 弔いへの備え

第1部  弔いの作法

第1章 鎮魂とは何か―折口信夫の鎮魂論   

1 生の儀礼とタマフリ・タマシズメ   

2 死の儀礼としての鎮魂―モガリ

第2章 火葬と遊離魂の行方―『日本霊異記』の世界   

1 古代の神祇信仰から仏教的信仰へ   

2 怨霊・御霊とタマシズメ

第3章 弔いの結社と臨終の技法 ―源信の「臨終行儀」と活動   

1 死と弔いのための結社   

2 臨終の迎え方   

3 死に臨む者と結束   

4 罪相と堕地獄   

5 夢想と弔いの共同体

第4章 女人の救いと弔い―蓮如の実践   

1 救いの思想   

2 女人の罪業   

3 女人の救いとは

第2部 弔いの風習

第5章 死者の霊魂の行方   

1 折口信夫にとっての敗戦と靖国神社   

2 「未成霊」とタマフリ・タマシズメ   

3 口寄せと弔いの風習

第6章 弔いとしての口寄せの語り   

1 東北地方の口寄せ巫女   

2 巫女の神降ろしとホトケ降ろし

第7章 ホトケ降ろしの語りと弔い   

1 彼岸口の語り:祖母の霊の口寄せ   

2 二度の梓の語り   

3 ハナ寄せの語り

第8章 弔いの形としての絵馬・人形   

1 ムカサリ絵馬と弔い   

2 花嫁・花婿人形と弔い

第9章 災厄と遺影   

1 遺影としての写真   

2 東日本大震災と遺影   

3 未完の生・魂への弔いの形

「おわりに」

「参照文献・図版出典一覧」

 

 「はじめに―芭蕉、漂白の旅へ」で、著者は「とむらふ」の2つの意味を述べています。

 

「とむらふ」には「訪ふ」と「弔ふ」の2つの意味があり、それは「とぶらふ」の転じた言葉であり、同じく「訪ふ」と「弔ふ」を意味するというのです。そして、著者は「亡き人を訪ねて、菩提を願うのが弔いである。もっと幅広く言うなら、亡き人の縁を想い起こして、何らかの形で継承していくのも弔いとなろう」として、芭蕉について以下のように述べています。 「芭蕉の奥羽への旅は、自らが霊に取り憑かれて風狂の旅人となり、西行をはじめとする古人たちの旧跡を訪れて、弔う旅であった。芭蕉は謡曲に現れる『諸国一見の僧』のようであったかもしれない。『諸国一見の僧』は名所旧跡を訪れる、訪い人であり、また成仏できずこの世に留まっている亡霊に出会い、亡霊の繰り言、恨みつらみを聞き届けて、亡霊が成仏するのを見守る、あるいは傍観する、弔い人である。それとともに、古人たちにならい、"旅に死す"ことを志して、自らを葬ろうとする旅人であったと言うことができよう」

 また、「旅する芭蕉」として、著者は以下のように述べています。

 

「芭蕉は歌枕の名所旧跡とされた地にいたり、大いに涙を流している。しかしながら、『壺の碑』を見た際に、『むかしよりよみ置る哥枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみ』と記している。このように、歌枕の名所旧跡は廃墟となっていたばかりでなく、実在もしなかったし、実際のところは想像の所産であった。それでもなお芭蕉が涙したのは、古代の歌の世界との訣別、いわば古代の弔いであったのかもしれない」

 続けて、著者は以下のように述べています。

 

「今から320年ほど前、芭蕉はかの東日本大震災の地を歩いていた。また、福島第一原発事故の被災地も通り過ぎていたのだ。芭蕉の奥州への旅は西行を慕いつつ、歌枕の地を探訪する旅路だったが、今あらためて『おくのほそ道』を読み返すなら、無惨に変貌し果てた歌枕の地とそこに住まう人びとへの愛惜の念が口惜しさとともに湧き上がってこよう」

 第1章「鎮魂とは何か―折口信夫の鎮魂論」では、「タマフリ/タマシズメ―鎮魂の二つの様相」として、著者は以下のように述べています。

 

「古代において鎮魂には、現在とは異なり、死の儀礼のみならず、生の儀礼との関わりもあった。そして、『鎮魂』の語には『タマフリ』(魂振り)と『タマシヅメ』(魂鎮め)の2通りの読みが振られている。折口は、鎮魂をタマフリとタマシヅメの2つの様相から探究し、古代の心性に分け入って物深く思索し続けたのである」

 

 1「生の儀礼とタマフリ・タマシズメ」では、「『たましひの鳥』鷹と鎮魂祭」として、著者は以下のように述べています。

 

「折口信夫は1929年(昭和4)に『古代研究』を刊行し、1930年代には古代研究を踏まえた、他界論・霊魂論を世に問うている。『鷹狩りと繰り芝居と』(1932年)は、折口の霊魂論また鎮魂論が展開されている興味深い論考である。折口は、白鳥や鶴、鷺、そして鷹などの鳥を『たましひの鳥』と呼んでいる。ヤマトタケル(倭建)が死去して、その妃たちが陵墓を造り、その周囲の田を這い回って泣き叫ぶという、匍匐・哭泣する葬送の儀礼をしていると、陵墓から白鳥が天に向かって飛翔していったという話はよく知られている」

 また、鷹狩りと鎮魂祭について、著者は以下のように述べます。

 

「鷹狩りと鎮魂祭が同じ信仰に根ざした関連する儀礼だとし、鷹には鈴を付けて放し、鈴の音は外部から新たな霊魂を運んできた証となるとともに、鷹そのものが『たましひの一時の保有者』とみなされ、鈴を振り鳴らす鷹が鎮魂の儀礼(呪術)に用いられるようになったというのが、折口の見解である。鷹狩りの始まりは、5世紀前半、仁徳天皇の時代とされている」

 著者は、「タマフリと鷹」として、以下のように述べます。

 

「折口信夫によるなら、鷹や鶴、白鳥などは、人間の霊魂、また死者の霊魂を可視化した表象であり、新しい威力ある霊魂、また身体から遊離した霊魂を捜し求めて連れ帰り、身体内に固着させる鳥、すなわち鎮魂祭のタマフリを担う鳥として、それ自体が人間の新たな霊魂を可視化した表象となっている。さらには、鈴も霊魂を可視的に表象しているということができる」

 さらに著者は、鷹について以下のように述べます。

 

「飛来する鷹によって、新しい霊魂が付着され、身体に威力ある生命をみなぎらせ、また首長としての威信を獲得したとみなしたと言える。そして、鷹の尻尾に付けた鈴は霊魂の飛来を音響化する装置であり、鳴り響く鈴の音は霊魂の音として聴かれたことだろう。鷹に付けた鈴は霊魂を表象し、その鈴の音により霊魂の威力が更新され賦活されたとみなされたと考えられる。このようなタマフリの儀礼は、古代の霊魂観を表しているとともに、シャーマニズムの儀礼に基づいていると言うことができる」

 

 著者は『古事記』にも言及し、「イザナミの死とモガリ」として、以下のように述べています。

 

「イザナキはイザナミの遺体に向かって、嘆きの言葉を発して、腹這いになり、イザナミの枕元と足元ににじり寄って泣く。これは哀しみの言葉をささげる発哀の儀礼、遺体のもとに這って行って泣く、匍匐儀礼と発哭の儀礼であろう。そして、イザナミは出雲国と伯伎国(伯耆国)の『境』にある『比婆の山』に葬られる。ここまでが、モガリ儀礼とみなすことができるが、これに続く記述もモガリの一環、いわばモガリの後半の儀礼と考えたい」

 また、著者は「モガリ儀礼の構成」として以下のように述べています。

 

「イザナキのヨモツ国訪問譚から、"事戸度し"の前までをモガリ儀礼の行なわれた生と死の境界状態、そのあとは死と解釈することができるのではなかろうか。ヨモツへグイをする前までは、ナカツ国とヨモツ国との往来、すなわち遊離した霊魂の身体への復帰=再生は可能であった。しかし、ヨモツへグイの後は、それが不可能になると解釈できる。儀礼的には、これによって肉体から霊魂が分離される。ここでは、腐敗した遺体を見ることに重要な意味があったと考えられる。この腐敗という可視的な徴候によって、ナカツ国からヨモツ国への移行の完了、すなわち肉体から霊魂の分離=死を確認すると解釈しておく。この段階で、他界との境であるヨモツヒラ坂において、"事戸度し"が行なわれたのである。そこで、死者の霊魂を慰め、邪霊を追い払う儀礼が執行されることになろう」

 「モガリの光景:天若日子のモガリ」として、著者は「ここでは、簡素な喪屋が作られ、いくつかの儀礼での役目が定められ、八日八夜にわたって、"遊び"が行なわれた。河鴈(雁)を『岐佐理持』、鷺を『掃持』、翠鳥(カワセミ)を『御食人』、雀を「碓女」、雉を『哭女』としたとある」と、「遊び」について述べています。さらに著者は、以下のように述べます。

 

「これらは葬儀の際の役目であろうが、それぞれの役にしたがって、モガリの場に現れる役だということに留意するなら、モガリ儀礼を行なったと思われる。掃持はたんに清掃ではなく、後に『日本霊異記』の他界遍歴・蘇生譚に関連して述べるように、箒をもって、遊離した霊魂を元の身体に呼び戻そうとする、魂呼ばい・タマフリ(魂振り)の役と思われる。正倉院に所蔵されている玉箒や子日目利箒を思い起こすことができよう。碓女も、たんに食用として米を搗くばかりではなく、臼を杵で搗いて音をたてるような舞踏をして、同じように魂呼ばいをしたのではなかろうか。東南アジアでは、埋葬前に、集団で杵を床に打ち付ける舞踏が行なわれている。

 「モガリと蘇生」として、著者は以下のように述べています。

 

「鳥によって表象された役は、生死の境にある者の遊離した霊魂を呼び戻そうとして、タマヨバイ・タママネキをして、タマフリをしたと考えられよう。折口が『上代葬儀の精神』に『鳥といふものは、魂を保留して居るのです。ですから、人が死んだといふと、鳥が集つて来ます。其が神話になつて来ると、鳥が葬式に仕へるといふことになるのです』と記しているように、『たましひの鳥』として、それぞれの鳥に特徴のある仕草で、遊離魂を寄り憑かせて賦活する、タマフリを目指して歌舞・飲食したと考えられるのである」

 著者は「折口のモガリ論」として、以下のように述べます。

 

「モガリ儀礼におけるタマヨバイ・タママネキ、それは招魂・タマフリなのだが、死者に対するものではなく、『仮死の状態』にある生者の遊離した霊魂を身体に呼び戻すことなのである。これがモガリ儀礼の中核を構成しているとするのが、折口の見解である」 また、著者は「遊部」というキーワードを出して、以下のようにも述べています。 「折口は『一所懸命に魂をおつけ申して居る間が、殯の期間です』とも繰り返しているように、モガリとはなによりもタマフリにほかならなかった。モガリ儀礼における歌舞では、タマフリの『遊び』、すなわち甦りを演出する歌舞が行なわれていたのである。そして、このタマフリの『遊び』を行なう『遊部』について論じている」

 さらに著者は、「遊部伝承」として、以下のように述べています。

 

「古代の宮廷で、モガリ儀礼を担ったのが『鎮魂の歌を唄ひ、舞踊をする部曲』(「上代葬儀の精神」)である遊部である。9世紀中頃に成立した養老令の注釈書である『令集解』『喪葬令』には、遊部について記されている。その『令釈』には、遊部は幽顕の境を隔て、『凶癘魂』つまり災いをもたらす邪霊を鎮める氏であるとある」

 

 第2章「火葬と遊離魂の行方―『日本霊異記』の世界」の1「古代の神祇信仰から仏教的信仰へ」では、「造寺・造仏ブーム」として、以下のように述べています。

 

「7世紀から8世紀にかけて、タマフリ・タマシヅメのモガリ儀礼がいまだに続行されていたとはいえ、モガリ儀礼を次第に衰退、もしくは変容させる出来事が起こっている。ひとつはモガリ儀礼の統制、もうひとつは仏教儀礼、特に火葬の導入である。いずれもモガリ習俗の心性を回収して再編し、弔いの作法を転換させて、霊魂観や死生観、他界観を変容させていくことになる」

 また、「他界の水平的空間」として、著者は以下のように述べます。

 

「8世紀末の頃には、現世での罪に応じて、呵責を受ける場に行くという、罪と地獄の観念が現れている。とはいえ、他界としての冥界、地獄のイメージは後世のものとはかけ離れている。坂を登りきった山の彼方に、他界が設定されているのである。地獄的世界と浄土的世界の分割、また地獄の差異化はほとんど進んでいない」

 続けて、著者は以下のように述べています。

 

「2つの世界は同一空間に並存し、天上界・地下界といった垂直的な空間ではなく、水平的な空間として構成されている。現世と来世も、垂直的ではなく、連続もしくは接続した空間配置なのである。それはイザナキの黄泉国訪問譚を想起させよう。仏教的な他界観が入っていながらも、いまだ古代的・記紀神話的な他界観が少なくとも息づいており、この2つの世界観を巧みに融合させようとしていた過渡期だったと推測できよう。仏教思想が領導して、古代的・記紀神話的な神々の世界を再編・統合しようとしていた、神仏習合の端緒となる最初期だと言えるのである」

 著者は「追悼供養とタマシヅメ」として、「モガリ習俗が衰退し、火葬が普及するにともない、遊離魂の身体への復帰=蘇生はありえなくなったため、死霊の消息・行方を聞くためには、死霊語り・口寄せがいっそう求められることになろう」として、さらに以下のように述べます。

 

「死霊の残した思いを聴いて叶えてやることによって、さまよえる死霊が邪霊にならないように、その思念を鎮静させるタマシヅメのために、死霊語りが求められたとともに、新たなタマシヅメの作法として、仏教的儀礼が浮上してくる。追善供養がそれである」

 そして、「タマフリ・タマシヅメの仏教儀礼への再編」として、著者は以下のように述べています。

 

「火葬は何より肉体を直ちに白骨化することによって、生死の境界的な状態、また「穢き死人」の状態を短くし、死の穢れを祓い、霊魂を浄化し、とりあえず死霊(新精霊・神仏)の邪霊化を避けることができるようになる。火葬、それに追善供養はモガリ儀礼のタマフリとタマシヅメを無用なものとし、その代替となる浄霊・転生儀礼、いわば仏教的なタマフリ・タマシヅメとして受容されていった、と一応言うことができる。しかし、こうした仏教的な儀礼にあずかることのできなかった死霊、漂泊する無縁の霊、その邪霊・悪霊化に対応する、弔いの作法として儀礼的な装置も求められることになる」

 2「怨霊・御霊とタマシヅメ」では、「三界万霊と施餓鬼供養」として、著者は以下のように述べています。

 

「事故や殺害などの不慮の災難で亡くなった横死者、また病気や飢餓で亡くなった行き倒れの行路病死者は、悪霊・邪霊、無縁の霊(無縁仏・餓鬼)となる。無縁仏・無縁霊への対応としては、盂蘭盆会での施餓鬼供養がある。盂蘭盆会は606年(推古14)に灌仏会と並んで行なわれたのが初めとされ、国家的な行事としてかなり早くから行なわれていた。推古天皇による仏法興隆の時代であった」

 

 第3章「弔いの結社と臨終の技法―源信の『臨終行儀』と活動」の1「死と弔いのための結社」では、「二十五三昧会の創設」として、著者は以下のように述べています。

 

「10世紀後半、平安時代中期に、きわめて特異な弔いの作法が生み出された。死に瀕した者に対して、どのようなヴィジョン・想念が現れたのかを尋ねる行法が創始された。源信がシステム化した『臨終行儀』がそれである。そして、何よりも死後のみならず、生きている現在においても、あらかじめ弔いの作法・思想を実践していった結社が創設された。これは弔いの文化史のなかで画期的だったのである。986年(寛和2)、源信や慶滋保胤たちは横川の首楞厳院に念仏結社、二十五三昧会を結成した。源信が『往生要集』を著した翌年である。二十五三昧会では、結社メンバー、結縁衆の死に臨んだ者の看取り、死後には浄土への往生を願う追善供養という一連の弔いの儀礼が共同して行なわれた。『臨終行儀』を中心とした弔いの作法は、諸宗派の仏教界に多大な影響を及ぼし、仏式の葬送儀礼をシステム化していき、民間の葬送習俗にも取り込まれていった」

 また、「往生へ向けて」として、著者は以下のように述べます。

 

「二十五三昧会の結衆たちは、仏堂に結集して、『法華経』の講義を聴聞し、西に沈む夕陽を見送り、15日夜の満月のもとで、堂内のかすかな灯明に照らされて、酉の時の終わり(午後7時)から辰の時の始め(午前7時)まで、夜を徹して、浄土への往生を願って、読経と念仏をした。この結社はたんなる仏教の篤信者の集団でなかった。病気の看病、死の看取り、葬儀、埋葬、追善供養まで行ない、さらに死の看取りをする『往生院』、結衆たちの同志墓『安養廟』を建てた。血縁ではなく、阿弥陀仏との結縁・仏縁こそが、なにものにもまして重視され、互いの紐帯となったのである」

 2「臨終の迎え方」では、「聖衆来迎の幻視」として、著者は以下のように述べます。

 

「死に臨んだ者自身が、この『往生の想』を自らの口を通して語ることが求められる。そして、死を看取る者がそれを記録したのである。もし病人が自ら語ることができない時には、看病して、どのような境遇にあるところを見たのかを、必ずしばしば病人に問うべきであるとまで徹底して、最期の想念を探り、聖衆来迎を幻視させようとした。このように、極楽浄土へ往来したことを確証するための方法として、死に臨んで、どのようなヴィジョンを抱いたのかを、死にいく者に尋ねて記録したのである。これが『臨終行儀』の眼目だった」

 5「夢想と弔いの共同体」では、「弔いの共同体の結成」として、著書は以下のように述べています。

 

「死はたったひとりの死でしかない。だが、浄土往生のために結縁した二十五三昧会の結衆たちは、看病、死の看取り、臨終での観仏・見仏、葬送、夢想、追善供養を行なって、往生を共同して支援した。さらに、死してもなお、往生者は死にいく者を浄土へ迎えるために、阿弥陀聖衆とともに訪れ、互いに往生の支援をすることを誓っていた。 生者も死者も、現世と来世とを隔てつつも、互いに『父母兄弟の思い』を抱き、両者合い渡って、ひたすら浄土往生を志向し、ひとつの生者と死者の共同体に生きようとしたのが、二十五三昧会の結衆たちだった。それは、同じ志をもった者が結集し、血縁・地縁の地域社会から離脱した、これまでにない弔いの共同体・コミューンだったのである」

 

 第5章「死者の霊魂の行方」の2「『未成霊』とタマフリ・タマシヅメ」では民俗学者の折口信夫に言及し、以下のように書かれています。

 

「晩年の折口は、古代の霊魂観を踏まえて、死者の弔いの思想をあらためて捉え直そうと模索していた。死の前年、1952年に『民族史観における他界観念』と題した論文を執筆している。ここでは、靖国の忠魂祭祀を御霊神祭祀の系譜に位置づけて、靖国の当初の目的が『変改』され、『神の性格にも、非常な変動があつた』ばかりでなく、『短い期間に神生ずる』ことにあらためて疑義を呈し、『三界に遍満する亡霊の処置』をどのようにするのかについて、明治神道の『近代神学』では無視してきた、と批判する。救われずにさまよう三界万霊の成仏、もしくはタマシヅメを直視するのである」

 続けて、著者は以下のように述べています。

 

「さらに、折口はこの論文で『完成霊』(また「完成した霊」)と『未成霊』(また「未完成の霊魂」)という2つの霊魂概念を提示している。前者は『年齢の充実と、完全な形の死』を遂げて、『純化した祖先聖霊』である。後者は『生が円満ならずして、中絶し』、『生年の不足』のために『死が不完全』で、『他界に赴く資格の欠けてゐる』霊のことである。折口の霊魂観では、この『完成霊』と『未成霊』が二極分化したものとは想定されていない。『未成霊』は『非常な労働訓練を受けて』、霊魂を成熟させ、『完成霊』へと成長することができるのである」

 また、「念仏踊りと『未成霊』」として、著者は以下のように述べます。

 

「念仏踊り・盆踊りとは、年長者の厳しい指導・訓練を受けながら、若者(若衆)が主体となって担われ、『未完成の青年の鍛煉せられる過程』であるとともに、『未成霊の為に行はれる修練行』でもある。『若衆が鍛煉を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛へあげられることに当る』のであり、若者と『未成霊』の『魂の完成』が同時並行して遂行されている」

 さらに、「『未成霊』の場」として、著者は以下のように述べます。

 

「夭折した幼子や早世した青少年は家や集落の共同の墓地には埋葬されずに、集落の境界、村境に葬られた。寿命を全うしなかったのであり、いち早い再生・生まれ変わりを願っただろうが、逆縁であるために、成仏できない不浄の霊であり、邪霊となって災いをもたらすことを恐れられもした。折口の言うように、早世した青少年の霊が両方とも、地獄・餓鬼・畜生の三悪道(三悪趣)とは異なった、賽の河原のような、仏教教理にない、もうひとつ別の他界へと送られて修練・修行するという、伝承また信仰があったと想定してもよさそうである」

 「若者と『未成霊』の苦行」として、著者は以下のように述べています。

 

「折口のタマフリ・タマシヅメの鎮魂論は、御霊神祭祀や施餓鬼供養、また靖国の忠魂祭祀とは異なって、儀礼に関わる若者と死者の霊を苦行・修練という実践的な営みを通じて、更新し成長・成熟させるという『魂の完成』を主題として提唱したところに、特異と言えるほどの大きな特徴があろう。死者の霊魂が死してもなお、タマフリ・タマシヅメを通した、生者との関わり合いのなかで生育し成長するという、折口自身の古代研究を踏まえた霊魂論は、少なからず斬新な構想だったはずである」
  
 第6章「弔いとしての口寄せの語り」の1「東北地方の口寄せ巫女」では、「口寄せ巫女の現在」として、著者は以下のように述べています。

 

「東北地方には、イタコ(青森・秋田県北部・岩手県北部)やオガミサマ(宮城県・岩手県南部)、ワカドノ(福島県)などと呼ばれる盲目(全盲、強度の弱視を総称する、以下同様)の巫女が、近親の死者・先祖の霊を呼び寄せ、その思いを語らせて弔う、口寄せという風習がある。おもに春の彼岸頃に催され、彼岸口・彼岸囃子と呼ばれる。また、古いホトケを口寄せするところから、古口とも呼ばれている」

 著者は「巫俗文化の変容」として、口寄せ巫女になる女性について以下のように述べています。

 

「口寄せ巫女になる女性は、少女期に失明したり、強度の弱視になったりして、親が娘の将来を案じ、手に職をつけさせるために、熟練した口寄せ巫女を師匠として、弟子入りさせられ、修行するところから始まる。この時期はおおよそ10歳前後の頃がいいとされている。戦前は、尋常小学校を中途退学して、盲目の少女は、巫女への道に入っていった。  ところが、敗戦後の1948年から、盲学校の義務教育制度が小学1年部から始まり、六三制が完成したのが1956年である。この年辺りから、盲目となり、口寄せ巫女の師匠のもとに弟子入りする者はいなくなった。盲学校の義務教育制度の徹底、福祉制度の一応の拡充による視覚障害者の職業選択・就労機会がかつてに比べて増えたためと言える」

 「巫女文化と弔い」として、著者は以下のように述べます。

 

「これまで口寄せを主とする巫女の巫俗文化は弔いの文化の中核として培われていった。この巫俗文化とは、この世とあの世を媒介するとする巫者への信心をひとつの要素として成立する宗教生活文化であり、死者・ホトケの霊魂の行方を示し、その供養をするという弔いをして、生者と死者の関係を取り持ってきた。そして、この生者と死者の霊との関係もしくは交渉は、生者から死者への働きかけによって、死者は応えてくれる、また死者は眼に見えない何らかの知らせを通じて、生者に働きかけてくる、その際には死者の霊を媒介し交渉できるとする専門家である霊媒を必要とするという、生者の思い・信心を基盤にして成立し培われてきたのである」

 2「巫女の神降ろしとホトケ降ろし」では、著者は「神降ろし」として、以下のように述べています。

 

「口寄せが主にあの世の死者・先祖であるホトケに関わるホトケ事だとすると、祈禱・祓い・占いなどはこの世の生者に関わるカミ事と呼ぶことができる。口寄せが正月の元日から15日まで、つまり松の内をのぞいて、いずれも1年を通じて行なわれる。このなかで、正月中の春祈禱、それに春の彼岸頃の彼岸口・彼岸囃子という先祖の霊を寄せる口寄せ・ホトケ降ろしは、オガミサマの定期的な商売であり、オガミサマの商売がもっとも繁盛して、忙しい時期となる」

 また、「ホトケ降ろしの作法」として、著者は口寄せについて以下のように述べます。

 

「口寄せには生口と死口とがある。生口は生者の霊を呼び寄せて、安否を尋ねたり、消息を聴いたりする、口寄せである。死口は降ろすホトケに応じて、新口(初口ともいう)と古口とに分けられる。死口は一般にホトケ降ろしと言う。新口とは一周忌を経ない死者の霊、新ボトケの口寄せであり、宮城県では埋葬後の法事の際、また初七日、それが都合悪ければ、二七日(一四日)、三七日(二一日)、七七日(四九日)などに行なう(青森県では、早く死者の霊を寄せると、死者が迷う、つまり成仏の妨げになるという理由で、このような新口は行なわれない)」

 続けて、著者は以下のように述べています。

 

「そこでは死者が生前に言い残したことや遺族への感謝のことば、悔やみ事などが巫女を通じて語られる。新口は葬送儀礼の一環としてあり、遺族が死者の霊を慰め、いち早い成仏を願う追善供養として催される。さらに、新口を聞いた後、百ヵ日以内、もしくは一周忌がこないうちに、あらためて新ボトケの言葉を聴きたいと思ったとき、あるいは遺族が一度だけの口寄せでは事足りないと思ったとき、特に葬式後に思わしくない出来事が家族の者のなかに起こったとき、もう一度繰り返し口寄せを催すことがある。それを『二度の梓』とか『問い返し』という」

 そして、「浄土の山:口寄せの装置」として、著者は以下のように述べるのでした。

 

「口寄せとは、巫女が現世から他界へと声をもって、死者を呼びだし、自ら死者の宿る器となることにほかならない。生者の死者に対する配慮を媒介するのである。死者への配慮、死者の声を聴く、聴きたいという信心、それがなくなれば、巫女自身、存立する場を失う。死者とともに歩む社会、死者を抱え込み包摂する社会、弔いを通じて死者と生者を繋いでいく社会こそ、巫女が生きていく場なのである」

 第8章「弔いの形としての絵馬・人形」では、「未婚の死者への供養」として、著者は以下のように述べています。

 

「ムカサリ絵馬の奉納は山形県最上・村山地方にみられ、結婚式の光景を描いた絵馬を寺院に納める。花嫁・花婿人形の奉納は青森県津軽地方に見られ、男には花嫁人形、女には花婿人形が奉納される。いずれも、あの世で未婚のまま早世した者の霊を結婚させる弔いの風習である」
  
 1「ムカサリ絵馬と弔い」では、「ムカサリ絵馬の奉納」として、著者は以下のように述べています。

 

「未婚のままの死者は一人前とはなれずに、成仏することなく、あの世をさまよい、身内の者に災いを及ぼしかねないのである。かつてムカサリ絵馬の奉納で多いのは、男性のためのものであり、それも長男であったと考えられる。家を継ぐべき長男をあの世で結婚させることによって、その弟、あるいは娘婿や養子が家を継ぐことを妨げないように配慮したものと言われる」

 また、2「花嫁・花婿人形と弔い」では、「花嫁・花婿人形の奉納」として、著者は以下のように述べています。

 

「青森県津軽地方で"西の高野山"と呼ばれる弘法寺、地蔵盆にイタコの口寄せの行なわれる川倉地蔵堂、岩木山麓赤倉でカミサマと呼ばれる晴眼の巫女の営む菊之道神道教社の地蔵堂では、おびただしい花嫁人形・花婿人形が奉納されて祀られている。 また、「ある花嫁人形の奉納者」として、著者は以下のように述べます。 「奉納された花嫁・花婿人形には、供養される死者の写真が供えられ、紙片に俗名、戒名、花嫁または花婿の名前、奉納者(施主)が記されているものが多い。それほど多くはないが、なかには、死者の生年・没年、奉納の年月日、奉納者の住所も記されていることもある」

 「成長する早世した者の霊」として、著者は以下のように述べます。

 

「これらの寺院やお堂では、花嫁あるいは花婿の一体の人形のこともあるが、花嫁・花婿の二体の人形が供えられていることが多い。それに、小さな子供の人形も加えられていることもある。また、子供の人形だけのこともある。まだ幼いうちに亡くなった子供のために奉納されたものであり、"童人形"と呼ばれている。それも、一体だけというのはなく、その友達の子供の人形が必ず添えられている。それには"フレンドさん"と記されていることもある。 夭折した子供には形代として子供人形が奉納され、あの世で寂しくないように友達人形も加えられている。そして、結婚するような年頃になると、花嫁・花婿人形、結婚して子供ができそうな年頃になると、子供人形を納めるという供養の仕方も行なわれているのである」

 

  「十三回忌の『霊界結婚式』」では、著者は以下のように述べます。

 

「ホトケ降ろしやハナ寄せといった口寄せ、ムカサリ絵馬や花嫁・花婿人形の奉納などの死の儀礼は、イタコやオガミサマといった盲目の巫女を担い手として培われてきた。現在では、その担い手が数少なくなってしまったが、晴眼の巫女たちもホトケ降ろしや花嫁・花婿人形の祭祀などのホトケ事を行なうようになり、またムカサリ絵馬や花嫁・花婿人形は一般の人びとが自ら進んで奉納するにいたっている。 ムカサリ絵馬や花嫁・花婿人形の奉納は、口伝えからマスメディアによって、山形県最上・村山地方や青森県津軽地方を超えて、他の東北地方へ、さらに全国各地へとわずかながらも広まっている。巫者を担い手とする死の儀礼は多様に変化しながらも、死者と生者、あの世とこの世を媒介し、残された者の心に応え続けていくことだろう」

 第9章「災厄と遺影」の1「遺影としての写真」では、「新聞掲載写真への違和」として、著者は以下のように述べています。

 

「そもそも、西洋では家族写真は家族の肖像画を継承したものだった。日本の写真の歴史はそうではなく、幕末期、19世紀中頃、おおよそ個人の肖像写真から始まり、家族写真が撮影されるようになるのはかなり遅く、1890年代に入ってからである。そして、市井に写真撮影がやや普及していくのは、1900年代あたりからである。それも、日露戦争期の出征写真であった。戦死したなら、それが遺影となり、葬列に加えられ、仏壇や鴨居に飾られるようになった」

 また、著者は以下のように述べています。

 

「遺影としての写真は、墓碑とともに、弔いの形を表象する典型的なものになっている。言うまでもなく、生前に撮られた写真が用いられている。それは生前の姿のほんの一齣を切り取ったものであり、いわば未完の開かれた生を停止させた時の断片にすぎない。そこには、生の停止・断絶、すでに死が孕まれ予兆されていると言えるかもしれない。だからこそ、遺影に対して、遺族は執心する」 視覚においては、遺影に切り取られた生の姿が永続・不朽化され、ヴァルター・ベンヤミンの言うような「礼拝的価値」を帯びて、物神化されもするのであると、著者は述べます。

 3「未完の生・魂への弔いの形」では、「遺影と死の向こう側へ」として、著者は以下のように述べています。

 

「遺影を花嫁・花婿人形に添えて奉納するのは、弔い上げの際に寺院に遺影を納めたり、墓石を壊したりしてしまうのと同じように、故人のあの世での成仏、もしくは霊魂の成熟を願ってのことであろう。それこそが往生、いわば死の向こう側へと往くことであり、生者また残された者が死者と連繋しつつ希求するところであろう。生の断片である遺影を弔い放棄することによって、遺影に執心する心情を溶解させ、遺影そして死者(の霊)による囚われ、呪縛を解き放つことができると思われるのである」

 さらに、著者は以下のように述べています。

 

「ここには、死者があの世でも成長して、霊魂としてであれ、さらなる成熟を期することができるとする、信心もしくは思想があろう。折口信夫が念仏踊りをめぐって唱えた、死者と生者の苦行・修練を通じた連繋・協働による、双方の霊魂の成長・成熟という霊魂観が、ここにも見られる」 そして、著者は以下のように述べるのでした。 「供養と名づけられた死者に向けられた踊りや絵馬奉納などは、人の脆くはかない身体や表象を媒体として、死者と交渉する営みであり、生者による弔いの形としてあらためて見直してみてもいいのではなかろうか」

 「おわりに」で、著者は本書について以下のように述べています。

 

「本書は、端的に言えば、折口信夫のタマフリ・タマシヅメという二様相から展開された鎮魂論に依拠して、弔いの文化史、とりわけそこに結晶している思想と心性を探ろうとするものである。その際、弔いの形、もしくはスタイルとでも言うべき、言説と表象と実践に着目している。この弔いの形、言うまでもなく、完結も固定化もすることなく、絶えざる変転を遂げて、今日にいたっている。弔いの形においては、永久化が希求されているであろうが、その言説も表象も実践も、そして心性も変化していることは確かである。とはいえ、生老病死という人の宿命は等しなみに分かち合っているゆえに、誰しもが共有できる心性が変わることなく存続しているとも思えるのである」

 

 『弔い論』と同様に、本書の内容も興味深いものでした。 特に、口寄せ、ムカサリ絵馬、冥婚といったものに強い興味を抱きました。拙著『唯葬論』(三五館)にも取り上げたかったテーマです。近々、それらを体験するべく東北を訪れたいと思っています。