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礼記』

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No.1258

 

  『礼記』下見隆雄著(明徳出版社)を読みました。 『礼記(らいき)』とは言わずと知れた古代中国において「礼」について書かれた書物で、五経の1つです。いわゆる「四書五経」とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四書、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経の総称ですが、「五経を以て四書よりも高し」とします。また、このうち『大学』『中庸』はもともと『礼記』の一章を独立させたものです。

 

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    本書の帯


 本書は、膨大な『礼記』の中から、現代の読者にとって重要と思われる箇所を著者が抜粋し、それに注解を付けた内容になっています。明徳出版社の「新装版中国古典新書」の1冊で、帯には「中国古代人の精神文化の粋」と書かれています。また、帯の裏には「中国古代では、礼は社会生活上の規範だけでなく、政治制度や宗教儀礼等、精神的・政治的なものと広い範囲で関わる。その豊かな内容をまとめた五経の一、礼記から、現代でも興味深い文を紹介し中国思想の特質を解説」と書かれています。

 

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    本書の帯の裏


 周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が『礼記』全49篇として編纂しました。これが唐代以降、五経の1つとして尊重されたわけですが、現在通行している『礼記』は後漢の鄭玄注、唐の孔穎達疏の『礼記正義』(『十三経注疏』の一つ)や陳澔の注釈した『礼記集説』など、多数存在します。

 本書の「目次」は以下のような構成になっています。


解説  

一、礼の成立  

二、『礼記』  

三、『礼記』の成立  

四、内容と分類  

五、各篇の概略  

六、『礼記』の注釈書について

本文  

一、曲礼篇  

二、檀弓篇  

三、王制篇  

四、月令篇  

五、礼運篇  

六、大伝篇  

七、学記篇  

八、楽記篇  

九、祭義篇  

十、表記篇

十一、緇衣篇

十二、儒行篇

十三、昏義篇

「あとがき」

 解説の一「礼の成立」の冒頭には、「礼」は旧字体では「禮」と書かれ、後漢の許慎の著した『説文解字』によれな「履」の意であることが説明されています。つまり、「禮」とは人として履みおこなうべきみちを意味し、特に神に事えて、これを祭るのにふみおこなうべきみちをいいます。「禮」という文字は神をあらわす「示」と祭器をあらわす「豊」があわさってできています。この他にも「礼」の文字の起源には諸説がありますが、いずれにしても、「礼」が本来は宗教的な観念をあらわしていたことは間違いありません。

 しかしながら、『礼記』で取り上げられる「礼」は、きわめて多様な意味に用いられています。政治的な制度も意味すれば、神への儀礼や作法も意味すれば、日常生活上の細かなマナーやエチケットにまで及びます。道徳倫理、各種の祭祀、先祖供養、歴史、人間の集団における序列の意味などはすべて「礼」の中にあったのです。「礼」は儒教のみならず、黄老、仙道、方術、民間宗教の母体でもありましが、「礼」を最も知り尽くしていた人物こそ孔子でした。『論語』には、「礼」「礼を履(ふ)む」「礼を聞く」「礼を学ぶ」「礼を知る」などの語がたびたび出てきます。

 著者は、孔子の説く礼は外面的な儀礼・作法ではなく、「仁」との関わりにおいて把握しなければならないとし、以下のように述べます。

 

「仁は、簡単に云えば、個人的道徳を主とし、主観的な傾向の強い、他者に対する思いやりとしての性格をもつのである。またもっと基本的には、親子兄弟の間に生ずる親愛の情が拡張されたものと見ることができる。礼はこの仁を基本にした、いわば客観的な道徳基準であると云えるであろう。孔子の説く礼が社会に秩序をあらしめるための規範ではありながら、あくまでも人間らしさをうしろだてにしていると云われるのは、礼が仁を前提としているからである」

 また、孔子の死後における「礼」について、著者は以下のように述べます。

 

「孔子の没後、主観的情を中心とする仁の方面を拡張するものと、客観的な礼の方面をうけつぐものとの二派に分かれたと云われる。きわめて形式的に云えば、孟子は前者の流れをくみ、荀子は後者の流れをくんだと云えるであろう。この頃になると、礼に関する書物は、孔子の弟子たちによって、ある程度のものができていたと思われ、『孟子』に、『礼に曰く』の表現が、公孫丑下篇や勝文公下篇に見えているのをはじめ、『荀子』には、勧学篇に、『その数(すべ)すなはち経を誦するに始まり、礼を読むに終る』とあり、喪礼・聘礼などの語も見えるほか、詩・書・礼・楽と連ねて云うものもしばしば見えている。しかしこの頃までに多分存在したであろうこれらの書物は、秦漢の王朝交代の際にいちおう沈んでしまったといわれ、漢王朝の成立とともにいろいろなかたちでさがし求められるようになる」

 漢代の初めには、後に『儀礼(ぎらい)』と呼ぶようになった17篇の礼が注目されました。その内容は、成人式・結婚の礼・郷村の飲酒や競射の会・天子に見え諸侯を訪問する礼・喪に関する規則・喪式・祖先の祭などの儀式の仕方が詳しく説かれ、士の階級に行なわれたものが主体となっています。きわめて形式化された行礼の記述ではありますが、そこには古代中国人の宗教観や倫理観の諸要素を見出すことができます。 また、国政の諸官とその役割・人員などについて述べた『周礼(しゅうらい)』も成立し、理想的な行政の組織を説きました。

 『儀礼』『周礼』は行礼の法や行政の組織を述べたものですが、著者は以下のように述べています。

 

『礼記』はこれらに比すると、きわめて多種多様な内容を持っている。『儀礼』の内容との関連のある解説や、日常生活の礼式など、礼全般にわたる理論や、政治・音楽・学問についての理論などである。したがって、古代中国人の人生観や世界観についての記述が、いろいろな形でつめこまれている、いわば百科事典とでも云えるものである。鄭玄が、これらの価値を認めて注釈して以後、三礼の一として、儒教の精神を伝える経典としての地位が次第に確立されることになる」

 本文の一「曲礼篇」では、以下のように「礼」について述べられます。

 

「夫れ礼なる者は、親疏を定め、嫌疑を決ち、同異を別ち、是非を明にするゆゑんなり。礼は妄りに人を説ばしめず、辞を費さず。礼は節を踰えず、侵し侮らず、好み狎れず。身を脩め言を履む、これを善行といふ。行脩まり言道あるは礼の質なり。礼は人に取らるるを聞けども、人を取るを聞かず。礼は来り学ぶを聞けども、往きて教ふるを聞かず。」

 これを著者は以下のように訳しています。

 

「礼というものは親しい者とうとい者との別を定め、ものごとの似たものと疑わしいものとをはっきりわかち、類の同じものと異なるものとを区別し、ことのよしあしを明らかにするものであって、人がそれらに対してどのようにすべきかを教えるものである。礼というものはこびへつらってむやみに人を悦ばせるようなことはしない。また言行一致を尊ぶから、必要以上に言語を用いることはしない。礼というものは、程よいことを尊んで、何事にも踰えることをしない。人をあなどることをしない。むしろ自らを卑く人を尊くという精神で対するのである。したがってまたなれ近づくこともしない、なれ近づけばつい相手を軽んじ、敬する気持が薄くなるからである。自己を冷静に見つめ、内面を充実させて、言うことは必ず実行する、これを善行という。行ないが正しくおさまって、いうことは程よい理にかなう、これが礼の基本である。礼というものは、学ぶ意志を持つほどに自分を成長させた者が、賢人の所にみずからすすんで行って教えられるものであって、招きよせて教わるようなものではない。学ぶ者はあくまでも自分で学ぶ態度を確立しなければならない。なによりも積極的な意志がなければならないから、教える人のところにみずからやって来て学ぶことが第一義である。教える者がわざわざ出向いて行って教え込むというようなのは理想の教育とは云えない」

 また、「人生と事」が以下のように述べられています。これは「志学、而学、不惑、知命、耳順、従心」という『論語』のライフプランと比べて、非常に現代的であると言えます。なお、「弱冠」という語はここに由来します。

 

「人生まれて十年を幼と曰ふ。学ぶ。二十を弱と曰ふ。冠(せいじん)す。三十を壮と曰ふ。室(つま)あり。四十を強と曰ふ。すなはち仕ふ。五十を艾(がい)と曰ふ。官政に服す。六十を耆(き)と曰ふ。指し使ふ。七十を老と曰ふ。すなはち伝ふ。八十九十を耄(もう)と曰ふ。七年を悼と曰ふ。悼と耄とは、罪ありといへども形を加へず。百年を期と曰ふ。頤(やしな)ふ。」

 これを著者は以下のように訳しています。

 

「人が生れて十年を幼といい、学ぶことを始める。二十を弱といい、冠をつける儀式があり成人になる。三十を壮といい、妻をむかえる。四十を強といい、使えて士となる。五十を艾といい、官職や政務を治めることに従う。六十を耆といい、人を指図し使役する。七十を老といい、家事を子に伝える。八十九十を耄という。気力精神活動ともに衰えてくる。生まれて七年を悼という。愛情をかけ保護してやらねばならない。悼と耄とは罪があっても形を加えない。年幼い者は識慮が浅いのだし、とし老いたる者は尊敬しなければならないからである。百才を期という。よくやしない保護しなければならない」

 八「楽記篇」では、「礼楽」の必要性が以下のように述べられています。

 

「先王の礼楽を制するや、人にしてこれが節をなす。衰麻哭泣(さいまこくきゅう)は喪紀(そうき)を節するゆゑんなり。鐘鼓干戚(しょうこかんせき)は安楽を和するゆゑんなり。昏姻冠笄(こんいんかんげい)は男女を別つゆゑんなり。射郷食饗(しゃきょうしきょう)は交接を正すゆゑんなり。礼は民の心を節し、楽は民の声を和す。政以てこれを行なひ、形以てこれを防ぐ。礼楽刑政四つながら達して悖らざるときは、すなはち王道備はるなり。」

 これを著者は以下のように訳しています。

 

「いにしえの賢王たちは礼楽の制をもうけて、人間が生活行動の上で中和を保っていけるように、節度の規準をつくって与えたのであった。例えば葬儀の際の衰麻とか哭泣とかの儀節は、親族を失なった悲しみを、あまり抑制しすぎないよう、また悲しみの発するままにしないようにとつくられたものである。鐘鼓の音楽や干戚の舞などは、人がほどよく楽しみやわらぐようにするために制定されたのである。また婚姻や男女の成人の礼は、男女の欲が奔放にはしって淫乱に陥らないようにと、男女正しく別あることをおしえたものである。人と人との交際でも、欲のおもむくままにしていると、かえって人間関係にひびが入るような失敗をしやすいものであるから、郷飲酒や郷射の礼・食饗の礼が定められて交際を正したのである。礼というものは人民の心に節度を与え、楽は心を和らげ、政治でもってこれらが正しく行なわれるようにし、刑罰でもってこれらにそむくものを防ぐ役割をするのである。かくて、礼楽刑政の四つの機能が天下によくはたらいてさからうことがなければ、道徳による天下の政治が十分備わったといえるのである」

 また、「音楽と礼」についても以下のように述べられています。

 

「楽は同じくすることをなし、礼は異にすることをなす。同じければすなはちあひ親しみ、異なるときはすなはちあひ敬す。楽勝つときはすなはち流れ、礼勝つときはすなはち離る。情を合せ貌を飾るは礼楽の事なり。礼義立つときはすなはち貴賤等あり。楽文同じくときはすなはち上下和す。好悪著るるときはすなはち、賢 不肖別る。形もて暴を禁じ、爵もて賢を挙ぐるときはすなはち政均し。仁以てこれを愛し、義以てこれを正す。かくのごとくするときはすなはち民治行なはる。」

 これを著者は以下のように訳しています。

 

「楽というものは、いろいろな階級や立場の異なりを越えて、人々の心を同一の楽しみに和合させることをなすものである。礼というものは、なれて乱れる人間関係にけじめを与えるために、おのおのに立場の異なりをはっきりさせるものである。同一の楽しみをともにするときはおのおのあい親しむし、おのおのが自己の位置と他人の立場というものを意識するときは、相手の立場や意見を尊重する気持がおこってくる。しかし楽が度をすごしてそこに礼がないときは、個人の持つおかすべからざるわくまでも無視してのり越え、相手を尊重する気持がなくなってしまうし、あまりに礼が厳しく楽のない場合は、人間関係は味気なくおたがいに離れ去ることになる。礼も楽も社会の中でほどよく用いられることが必要で、ほっておけば一にはなり難い。人と人の情を一に和合すること、また、おのおのが個人の尊厳を保つための威儀を正すことが、礼楽の重要な役割なのである。こうして、礼儀がはっきりするときはおのおのの位置の異なりがはっきりするし、楽が美しく調子をあらわすときはおのおの異なった立場の人間も和合する。善をよしとし悪をにくむことがはっきりすると、立派な人と正しくない人の区別ができてくる。正しくない人を刑で禁止し、立派な人を爵禄で挙げ用いるようにするなら、政治は平らかになる。またその上、為政の任にあるものは、あくまでもおもいやりの心を忘れることなく、道理にかなった判断力をもって世の中のことを正してゆくなら、世の政治はうまくいくのである」

 九「祭義篇」では、「祭の意義」が以下のように述べられます。

 

「祭りはしばしばするを欲せず。しばしばすればすなはち煩し、煩しければすなはち敬せず。祭は疏(おろそか)にするを欲せず。疏にすればすなはち怠る。怠ればすなはち忘る。このゆゑに君子はこれを天道に合せ、春は禘し秋は嘗するなり。」

 これを著者は以下のように訳しています。

 

「祭祀はたびたびすればそれで良いというものではない。たびたびするとかえって煩しさがともなってくるし、煩しさに応じてうるさいという気持がおこり、敬の精神がそこなわれることになるからである。また祭祀はこれをおろそかにとりおこなってはならない。おろそかにするとかならず人の心には怠け心がおこってきて、この怠け心に応じて、敬の精神がそこなわれてしまうからである。こういうわけで君子たるものは、祭祀をおこなうには、規則正しくめぐり来て、時の流れに従って一つ一つをおろそかにせず、すぎていく天道に合せてなされる。春は禘祭をおこない、秋は嘗祭をおこなうというように決められているのはこのためである」

 十三「昏義篇」では、「結婚の意義」が以下のように述べられます。

 

「昏礼は、まさに二姓の好(よしみ)を合せて、上は以て宗廟に事へ、下は以て後世に継がんとするなり。ゆゑに君子これを重んず。ここを以て昏礼には納采、問名・納吉・納徴・請期に、みな主人廟に筵几して拝して門外に迎へ、入りて揖譲して弁り、命を廟に聴く。敬しみ慎しみて昏礼を重んじ正しくするゆゑんなり。」

 これを著者は以下のように訳しています。

 

「昏礼は、二つの姓の友好をむすんで、それで男性側の家は先祖をまつるみたまやの礼を失なわないようにし、後世子々孫々にまでいたる血統を断たぬようにするものである。だから君子は昏礼を重視するのである。こういうわけで昏礼には数々の段階の礼がある。まず納采になじまり、問名、納吉、納徴、請期とすすんで昏礼が行なわれることになる。これらの礼の行ないかたは、女性側の家の主人は廟に筵と几とを設置し、男性側からの使者を廟門の外で拝して迎え、門を入ると階に至るまで三回えしゃくし、階に至ると弁ることを三回譲ってから堂に弁り、廟で男性側の家からの命をきくのである。かくのごとくするのは、心を敬しく慎んで、昏礼を重々しく厳正にするためなのである」

 ここでは、婚礼の意義が述べられています。著者は「男女の結合が個の意志を越えて、祖先から子孫への種の継続をなす存在として固定され社会制度によってぬりつぶされていることがよくわかる。結婚に限らずすべてのことがらが、個を越えて集団を保ち動かせる観念によって彩られるのは古代社会の特色である」と述べています。

 さらに『礼記』の「昏義篇」では、以下のように述べられています。

 

「敬慎重正して后(のち)にこれに親しむは礼の大体なり。しかして男女の別を成して、夫婦の義を立つるゆゑんなり。男女別ありて後に夫婦義あり。夫婦義ありて後に父子親あり。父子親ありて後に君臣正あり。ゆゑに曰く、昏礼は礼の本なりと。それ礼は冠するに始まり、昏に本づき、喪祭に重くし、朝聘に尊くし、射郷に和ぐ。これ礼の大体なり。」

 これを著者は以下のように訳しています。

 

「納采・問名、納吉、納徴、請期というように儀礼が進行して、壻が婦を迎える親迎が行なわれる。婚礼はこのように敬しく慎んで重々しくまちがいなく進められていってそして夫婦が相親しむのである。それは婚礼がすべての礼の根本になる要素を持っているからである。そしてまたこのようにていねいに行なうことによって、男女が互にけじめを守って接するべきものであること、またこれが夫婦の間の義をたてることになることを教えている。そもそも男女の間にけじめがあってこそ夫婦の正しい結びつきは生じるものであり、夫婦の義があってはじめて父子の間にも肉親の愛がめばえるのであり、父子が正しい愛で結ばれていればこそ君臣の関係もこの感情をおし及ぼして正しく成りたつのである。こういうわけで、婚礼こそはすべての礼の本になるものといえるわけである。礼というものは冠礼から始まり、婚礼を本として、喪祭を重んじてその終りを慎むのである。朝聘の礼を尊んで君臣の義を正しく保ち、射郷の礼をほどよく行なうことによって人々の気持をとけあわせなごませるのである。こういうわけで、婚礼こそはすべての礼の最も重要なる根本と云えるわけである」

 

 一般に、儒教では「葬礼」を重視することが知られています。 この読書館でも紹介した『孔子伝』にも書かれているように、儒教を開いた孔子の母親は葬送儀礼にたずさわる巫女でした。私生児であるがゆえに母子家庭に育った孔子は母親の影響のもと、「葬礼ほど人間の尊厳を重んじた価値ある行為はない」と考えていたと想像できます。また、古代儒教グループである「原儒」は葬送儀礼集団として活動しました。 しかしながら、『礼記』では「葬礼」ではなく「婚礼」が礼の最も重要なる根本であると述べています。これは、どういうことでしょうか?

 わたしが考えるに、葬儀を行なうためには家族の存在が必要です。葬儀の当事者は死んでいるわけですから、自分では葬儀を行なうことはできません。その家族をつくるためには夫婦が子どもを授からなければならず、そのためにはまず結婚しなければならないわけです。「卵が先か鶏が先か」ではありませんが、家族を形成するにはまず結婚しなければ始まりません。 礼の精神は天地に基づき、具体的な制度としての礼は男女の婚礼から出発する。このような世界観、宇宙観が古代中国には存在したのです。孤独死、直葬、そして0葬などが話題になる現代日本において、「葬儀を行なうためには、まずは結婚する」という認識が広まることを願ってやみません。