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日本国家の神髄』

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No.1150


  『日本国家の神髄』佐藤優著(扶桑社新書)を読みました。

 「~禁書『国体の本義』を読み解く~」というサブタイトルがついています。「知の怪物」と呼ばれる著書が、戦後GHQによって禁書とされた『国体の本義』を懇切丁寧に読み解き、「国体」を明確に呈示した本です。著者によれば、日本国家を成り立たせる根本原理たる「国体」に関する認識が失われているからこそ、中韓ともギクシャクするといいます。現下、われわれにとって重要なことは、わが「国体」を再発見することであるというのです。

 

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   著者の顔写真入りの本書の帯


 

 本書の帯には、いつものように険しい視線を投げつける著者の写真とともに、「そもそも祖国日本とはどのような国なのか?」「『国体の本義』が解れば外交姿勢も自ずと定まる!」「中韓とギクシャクしている今こそ必読の書!」と書かれています。

 

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   本書の帯の裏


 

 アマゾン「内容紹介」に書かれている主な内容は以下の通りです。


*「国体」は構築できない
*「日本神話」再確認の必要性
*「教育勅語」の根本とは
*われわれの抱く「天の感覚」
*日本は敵対者をいかに統合していったか
*ナショナリズムを超克する日本の愛国精神
*「大和」とは何か
*なぜファシズムはわが国体と合致しないのか
*出自同じくする日本人と日本の国土
*祭政教一致の日本
*超越性における欧米人との差異
*外来思想、知的遺産の土着化

 

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「新書版まえがき」
「まえがき」
序章  忘れられたテキスト
第一章 日本がつくる世界史
第二章 永遠の今?
第三章 高天原の斎庭の稲穂
第四章 「海行かば」と超越性
第五章 まこと
第六章 神の国である日本
第七章 敷島の大和心
第八章 没我帰一
第九章 国民文化
第十章 君民共治
終章  普遍主義の幻想から国体の再発見へ
「あとがき」

 

 本書のテーマが「国体」であることは言うまでもありません。
 では、「国体」とは何か。「まえがき」で著者は述べています。


「国体とは、日本固有の現象ではない。国体とは、国家を成り立たせる根本原理のことである。目に見える成文憲法の背景にある目に見えない憲法と言い換えてもいい。私が理想とするのは、いつの日か、日本に成文憲法がなくなることである。日本国民すべてが、国家の基本原理を体得している状態になれば、成文憲法は必要なくなる。これは決して夢想ではない」

 

 続いて、著者は以下のように述べます。


「現在も、成文憲法がない国家が2つある。1つはよく知られているが、イギリスだ。ピューリタン革命による流血、その後の名誉革命を経てイギリスは近代化したのであるが、イギリス人は成文憲法をつくる必要性を感じなかった。それは、慣習法の伝統が定着しているイギリスにおいて、成文憲法をつくらなくても、イギリス国民が国家を成り立たせる根本原理について、認識を共有しているからだ」

 

 さらに続いて、著者は以下のように述べます。


「成文憲法をもたないもう1つの国はイスラエルだ。イスラエルは、パレスチナへのユダヤ人の帰還を目的とするシオニズム運動によってつくられた国だ。イスラエルは世俗国家であるが、祭政一致を志向する勢力も強い。これらのユダヤ人をすべて満足させる法的言語を見出すことはできないので、イスラエルには成文憲法が存在しない。同時に、イスラエル人は、強い国家意識とイスラエル国籍の有無をとわず、全世界に離散するユダヤ人を保護するという強い同胞意識をもっている。帰還法では、ユダヤ教徒もしくは、母親がユダヤ人である人にイスラエル国籍が付与されることが規定されている。この規定だけで、イスラエル国家を維持していくことができるほど強い国体観をイスラエル人はもっているのである」

 

 序章「忘れられたテキスト」の冒頭でも、「国体」について以下のように述べられます。


「『国体』とは日本国家を成り立たせる根本原理である。愛国心に関する議論も、憲法改正問題も、わが国体に関する認識を欠いて行われるならば、机上の空論で、時間の無駄だ。北朝鮮による日本人拉致問題、北方領土問題、竹島問題、中国産毒入り餃子問題などの外交案件を、日本政府がきちんと処理できないのも、政治家と外務官僚がきちんとした国体観を持っていないからであるというのが私の認識だ。現下、日本の有識者にとって重要なことは、わが国体を再発見することである」

 

 「『国体』を構築することはできない」として、著者は述べます。


「ここで一言述べておきたいことがある。それは、国体は発見するものであるということだ。国体を構築することはできない。この基本を押さえていない憲法改正論議はきわめて危険だ。日本の伝統において『目に見えない憲法』が存在している。この『目に見えない憲法』こそが国体なのである。この国体を、所与の歴史的条件の下で、文字にしなくてはならない部分だけを、文字にする作業が憲法制定であり、憲法改正である」

 

 また著者は「親米保守」というステレオタイプからの脱却を訴え、以下のように述べています。


「わが国体が皇統によって担保されていることは明白である。皇統によって、日本人と日本国家を成り立たせるところの権威が保たれている。いかなる政治権力者であっても、権威まで独占することはできない。これがわが国体の根本である。それ故に、日本は覇権を追求する普遍主義(共産主義、新自由主義、コスモポリタニズム)に陥ることがなく、寛容と多元性を担保する国家としてとどまることができるのだ」

 

 皇統について論ずる場合、著者は極力「天皇制」という言葉は用いないようにしているそうです。天皇制というのは、コミンテルン(共産主義インターナショナル=国際共産党)によってつくられた単語だからです。著者は以下のように述べます。


「『天皇制』という単語では、わが国体を説明することはできない。制度は廃止することが可能であるが、国体の根幹である皇統を廃止することはできないからである。共和主義者、共産主義者が『天皇制廃止』というスローガンを揚げることは可能だ。それはこの人たちからすれば、皇統が『制度』に見えるからだ。しかし、国体護持を揚げる右翼陣営が『天皇制擁護』などというスローガンを揚げるようなことはあってはならない。『天皇制』を『天皇制度』と言い換えても、問題の本質は一緒である。天皇は、廃止することができないので、制度ではない。それは、ユダヤ・キリスト教の自己理解において、神が制度でないのと同じだ」

 

 さて、『国体の本義』を読み解く意味について、著者は次のように述べています。


「『国体の本義』を、国体明徴運動の結果生まれた非合理的な神憑り的テキストで、このような極端な思想によって、日本は戦争への道を歩み、破滅したという見方は間違いである。『国体の本義』は、国体明徴運動の結果生まれかねない非合理的、神憑り的な観念論を阻止するために、欧米思想と科学技術の成果を日本が取り入れることを大前提に、現代国際世界で日本国家と日本人が生き残ることを考えた当時の日本の英知の結集であるというのが私の理解だ。現実から遊離した観念論を弄び、近代科学技術の成果を否定し去ってしまうと戦艦大和も、海軍零式艦上戦闘機、陸軍一式戦闘機『隼』などの最新兵器をつくることが不可能になる。近代科学技術には、それを成り立たせる思想がある。このことを『国体の本義』を執筆した人々は正確に理解していた」

 

 第一章「日本がつくる世界史」では、『国体の本義』には『古事記』『日本書紀』における建国神話が要領よくまとめられていることを紹介しつつ、著者は「ここで忘れてはならないことがある。建国の物語は、遠い過去のことではなく、現在のこの瞬間においても行われていることだ」と述べています。
 また建国神話について、著者は以下のようにも述べています。


「平田篤胤の復古神道を媒介としているから、日本人は大きな違和感をもたずにキリスト教の創造神話を理解したのである。裏返して言うならば、日本にキリスト教が浸透しないのは、神道の創造神話があるため、キリスト教に依存しなくても、欧米キリスト教文明圏の力の源泉である『無からの創造』と同じ思想的構えを日本人がもつことができたからかもしれない。このような建国神話をもっていることを、われわれは感謝して受け止めなくてはならない」

 

 『国体の本義』のキーワードは「永遠の今」というものです。
 『国体の本義』には、以下のような記述があります。


「こゝに天皇の御本質を明らかにし、我が国体を一層明徴にするために、神勅の中にうかゞはれる天壌無窮・万世一系の皇位・三種の神器等についてその意義を闡明しなければならぬ。
 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる」

 

 第二章「永遠の今」では、著者は以下のように述べています。


「基点は社会に置かれるべきである。
 アトム的な個人ではなく、共同体意識をもった、自己の能力を自分のためだけではなく、他者のためにも用いるという気構えがある個人を強化するのである。社会的意識から出発する必要がある。
 そのためには、われわれを結びつける共通の神話が必要になる。われわれの存在は、われわれの伝統によって制約されている。どの民族もその伝統を最後まで突き詰めていくならば、かならず神話に行き着く。日本の場合、『古事記』と『日本書紀』で集大成された天地開闢、天孫降臨に対する感覚をわれわれ日本人が取り戻すことが重要だ。『国体の本義』は、1930年代に、われわれが日本の神話を再確認しようとした試みなのである。
 それだから、この遺産を21世紀にもう一度甦らせる必要があると私は考えている。神話を回復すれば、われわれは死を克服することができる」

 

 続いて、著者は以下のように述べています。


「人はかならず死ぬ。個々人の生命は有限だ。われわれはこの世界に投げ出されているのである。誰も人生の持ち時間を正確に知ることはできない。もっとも人間は、自死という形で、自らの意志で生命を絶つ、すなわち人生の終結時を定めることはできる。長く生きるということが重要なのでなく、よく生きるということが重要なのだ。共同体に属する個人が、その共同体のために命を捧げるということは、崇高な行為である」


 この著者の考え方は、拙著『決定版 終活入門』(実業之日本社)あるいは『永遠葬』((現代書林)などのメッセージに通じていると思います。


 著者は、わが日本の本質は祭祀共同体なのであるとして、「究極的に天皇の祈りによって日本国家も日本人も支えられているのだ。この祈りが天地開闢のときから断絶せずに行われていることを、われわれは感謝して受け止めることだ」と述べます。
 さらに、祭祀共同体に生きる日本人について次のように述べています。


「高天原の神々につらなるわれわれ日本人は神格を有することになる。それ故に、天(高天原)との関係において、他の民族に属する人々と異なる道義性が要請されるのである。祭祀の意味を探求することによって、われわれの道義性が明らかになる」

 

 そして、祭祀共同体である日本では「和」が重んじられました。
 著者は第五章「まこと」の中で次のように述べています。


「自然も人間も高天原に起源をもつ。自然は、人間が改変し、征服する対象ではなく、高天原におけるわれわれの生活を想起する存在なのである。高天原において、人間と自然は調和していた。このことを想起するのだ。人間と自然が調和するということは、生態系を維持しながら、人間が自然に働きかけ、ある限度までの間で自然を改変し、その成果を人間生活に生かすことを否定するものではない。ここが重要なポイントである」

 

 続いて、著者は「和の思想」について以下のように述べます。


「和の思想は、欧米の科学技術の成果を包み込むことができるのだ。和は、人間が究極的に自然に服従すべきであるという極端なエコロジー思想を拒否する。和の思想は、戦艦大和、零戦、隼など、当時の最先端兵器を開発することを可能とするのである。『国体の本義』の目的は、欧米思想、特に尖端の科学技術を生み出す思想を忌避することに設定されているのではない。欧米の科学技術の思想を吸収し、和の思想によって超克することが目的なのである」

 

 著者は、祭祀共同体としての日本を「神話共同体」であると定義します。
 第七章「敷島の大和心」において、著者は次のように述べています。


「日本人とは、神話共同体なのである。日本にも対立はあるが、それが国家体制を崩壊させたり、日本人の紐帯を断ち切ることにはならないのである。これが神話を基礎とするわが国体の特徴なのである。神話共同体であるから、政治制度、社会制度が変化しても、『日本人を日本人として成り立たしめる原理』すなわち、国体の本義(原理)が存在するのである」


 この「神話共同体」という言葉は強く印象に残りました。
 たしかに、わたしも、日本は神話共同体であると思います。

 

 日本人の特性は「超越性」にあります。
 それは「教育勅語」にも表れています。
 第八章「没我帰一」で、著者は「教育勅語」について述べています。


「教育勅語は、人間がつくったものではない。神々から伝えられてきた言葉を、われわれが明治時代に再発見し、それを文章化したものなのである。従って、教育勅語の究極的根拠は、神々の世界、すなわち高天原に置かれているのだ。神憑り文書であることが、教育勅語の強さなのである」


 本書では、さまざまな視点から「国体」について述べられています。
 かつての日本には、「国体」を研究する学問が存在しました。国学です。
 すなわち「日本人とは何か」を追求した学問で、契沖、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが活躍しました。わたしの実家の書庫には彼らの全集が揃っており、わたしは高校時代から国学に関心を抱いていた。そして、「日本人とは何か」という国学の問題意識を継承したのが、「新国学」としての日本民俗学です。実家の書庫には、柳田・折口の全集をはじめとする民俗学の本もずらりと並んでいました。「無縁社会」とか「葬式は、要らない」などといった言葉が登場した現在、日本人の原点を見直す意味でも日本民俗学の再評価が必要ではないでしょうか。

 

 わたしは現在、冠婚葬祭互助会の全国団体の会長を務めています。
 互助会の使命とは、日本人の原点を見つめ、日本人を原点に戻すこと、そして日本人を幸せにすることです。
 結婚式や葬儀の二大儀礼をはじめ、宮参り、七五三、成人式、長寿祝いなどの「冠婚葬祭」、そして正月や節句や盆に代表される「年中行事」・・・・・・これらの文化の中には、「日本人とは何か」という問いの答が詰まっています。これからも、わたしは日本人を幸せにするお手伝いがしたいです。最後に、わたしは『和を求めて』(三五館)を上梓しましたが、『国体の本義』の内容に触れて、「和の思想」が世界を救いうる思想であると再認識しました。