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岸辺の旅』

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 No.1134

 

 『岸辺の旅』湯本香樹実著(文春文庫)を読みました。

 わたしのブログ記事「岸辺の旅」で紹介した映画の原作小説です。
 著者は東京都出身で、東京音楽大学音楽学部作曲学科を卒業しています。オペラの台本を書いたことから執筆活動が始まり、テレビ・ラジオの脚本家となったそうです。処女小説『夏の庭 The Friends』にて、日本児童文学者協会新人賞、児童文芸新人賞を受賞。同作品は映画化・舞台化されたほか、十数ヵ国で翻訳出版され、海外でもボストン・グローブ=ホーン・ブック賞、ミルドレッド・バチェルダー賞等を受賞しました。また、『くまとやまねこ』で講談社出版文化賞を受賞しています。『西日の町』が第127回芥川賞候補、本書『岸辺の旅』が第27回織田作之助賞候補となっています。

 

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   映画バージョンの表紙カバー


 

 カバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。


「きみが三年の間どうしていたか、話してくれないか―長い間失踪していた夫・優介がある夜ふいに帰ってくる。ただしその身は遠い水底で蟹に喰われたという。彼岸と此岸をたゆたいながら、瑞希は優介とともに死後の軌跡をさかのぼる旅に出る。永久に失われたものへの愛のつよさに心震える、魂の再生の物語。 解説・平松洋子」

 

 突然、幽霊となった夫が帰ってくる。それを当然のように妻が受け入れる。そして二人は旅に出掛ける・・・・・・まことに奇想天外というか摩訶不思議な物語なのですが、これが読んでいて不自然に感じないのです。わたしは、むしろ映画のほうに違和感を覚えました。
 幽霊との旅といっても、怪奇小説やファンタジーといった感じでもなく、むしろ夢幻能に近い世界です。そう、この『岸辺の旅』という小説には幽玄さが漂っているのです。「岸辺」の岸とはもちろん「彼岸」のことでしょう。

 

 「解説」で、エッセイストの平松洋子氏は次のように書いています。


「『岸辺の旅』では、生と死がとても親しい。死は忌むものでも怖ろしいものでもなく、まして対極にあるものでもなく、むしろ混じり合うことを希求するふうに扱われ、描かれる。生は死をなつかしく想い、死は生をなつかしむかのようだ。だからこそ、生者=瑞希、死者=優介は対立する位置に置かれない。ふっつり行方を絶ったあげく、死者になって戻ってきた優介を、瑞希はいともおだやかに迎え入れ、さらにはいっしょに旅に出てしまうのもとうぜんのことだ。ふたりの旅には、死者と生者が融和するために必要な儀式の役目をあたえられているのだから」


 幽霊が登場する小説は多いですが、本書では、生者と死者の境がわからなくなってゆく不思議な感覚があります。もともと幽霊という名は「幽界の霊」という意味ですが、実は幽霊は幽・明両界の境界的存在なのです。それは単に生を奪われ、生きることを断念させられた存在であるだけでなく、死からも疎外された存在なのです。幽霊とは生者でもなく死者でもありません。それは獣でもなく鳥でもないとされた蝙蝠のような境界的存在です。


 ところで、幽霊になっている優介の亡骸が海の底で蟹に喰われました。
 失踪したまま遺体が見つからないので、優介の葬儀が行われていません。
 『唯葬論』(三五館)の「幽霊論」にも書きましたが、「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れません。葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式です。葬儀によって、故人は一人前の「死者」となるのです。幽霊は死者ではありません。死者になり損ねた境界的存在です。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけです。

 

 葬儀の失敗、あるいは葬儀を行わなかったことによって死者になり損ねた幽霊を、完全なる死者とするにはどうするか。そこで登場するのが、仏教説話でもおなじみの「供養」です。わたしは、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションであると考えています。そして、供養においては、まず死者に、現状を理解させることが必要です。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質ではないでしょうか。この小説では、瑞希が優介の無事を祈って「般若心経」の写経を行います。それが100枚溜まった頃、突然優介が帰ってきたのでした。


 ところで、瑞希の前に姿を現した優介が妻の生活を気遣う場面があります。
 それがけっこうリアルで、考えさせられてしまいました。
 以下のような会話が二人の間で交わされます。
 まずは、優介が瑞希に貯金のことを質問します。

「金は? そろそろなくなったろう」
「もうじき働くの。今までは結婚前の貯金があったし」
「結婚前って、俺のを使ってないのか」
「電話代とか光熱費とか、口座から引き落としのものはそのままにしてるけど・・・・・・それ以外、優介のものには手をつけてない。この住まいがあるだけでありがたいと思ってる」
ふうん、というように息を吐き、彼は私を見て言った。
「あのさ、俺の遺体が発見される心配は、百パーセントないよ」
「・・・・・・」
「さっきも言ったように、蟹に喰われてしまったんだから」
「どうしてそんなこと言うの」
「つまり七年たって失踪宣告されるまで、相続の問題が発生する心配はないってこと。俺の遺体が突然見つかったりしたら、面倒なことがいろいろあるには違いないだろう?」
「でも失踪宣告って、こちらが申し出なかったらそのままなんでしょう?」
すると彼の眉がぴりぴり小刻みに動いた。
「とにかくあと四年のうちに、俺のものをうまく処分するなりきみの名義にするなり、しておくんだな」(『岸辺の旅』文春文庫、p.19~20)


 幽霊になってまで未亡人である瑞希の生活を心配する優介の姿は滑稽というよりも哀れでした。こんなことにならないように、生きているうちから自分の死後の配偶者の生活を考えなければなりません。
 仏教は「生老病死」の苦悩を説きました。そして今、人生80年時代を迎え、「老」と「死」の間が長くなっているといえます。長くなった「老」の時間をいかに過ごすか、自分らしい時間を送るか―そのための活動が「終活」です。
 「終活」のテーマとは、おカネのこと、モノのこと、医療・介護のこと、葬儀・お墓のこと、想い・思い出のこと。この5つが大きなテーマになると思います。これを「死ぬ前」と「死んだ後」で考えなければいけません。詳しくは、『決定版 終活入門』(実業之日本社)をお読み下さい。


 映画「岸辺の旅」はほぼこの原作小説を忠実に映画化していますが、中にはところどころ違う場面もあります。中でも、映画と小説で真逆の表現をしている場面がありました。映画では、死者である瑞希の父親が「あちらで(死んだ)母さんと穏やかに暮らしている」と言い、娘を安心させます。しかし、小説では父と母は会えなかったという設定になっています。「むこうで、おかあさんには会えた?」と訊く娘に対して、父は首を振り、「おまえは残念に思うかもしれないが、死んだ者どおしは会えないのだよ」と答えます。なおも「おかあさんとは会えないの?」と食い下がる瑞希に向かって、父は「死者は断絶している、生者が断絶しているように。死者は繋がっている、生者と。生者が死者とつながっているように」
 この瑞希の父親の言葉は、わたしの心に深く残りました。


 それでは、どのようにして死者と生者は繋がっているのでしょうか。
 その答えは書かれていませんが、その代わりにこの小説には満月の場面が何度も何度も登場しました。満月の夜、優介は自分の亡骸を喰った蟹と交信しているとさえ言います。
 『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)にも書きましたが、満月と幽霊には深い関係があります。世界各地で、満月の夜は幽霊が見えやすいという話を聞きます。映画でも幽霊出現の場面では、必ず夜空には満月が上っています。おそらく、満月の光は天然のホログラフィー現象を起こすのでしょう。つまり、自然界に焼きつけられた残像や、目には見えないけれど存在している霊の姿を浮かび上がらせる力が、満月の光にはあるのではないでしょうか。


 加えて、わたしのブログ記事「月を見よ、死を想え」にも書いたように、わたしは月こそは「あの世」ではないかと思っています。地球上の全人類の慰霊塔を月面に建てるプランを温めたり、地上からレーザー(霊座)光線で故人の魂を送る「月への送魂」を行ったりしています。
 9月29日、日本経済新聞電子版「ライフ」に連載中の「一条真也の人生の修め方」にコラム「月を見よ、死を想え」をアップしたところ、全記事中で1位となりました。日経読者の方々に初めて披露させていただいた「月面聖塔」および「月への送魂」の考えが多大な関心を集めたようで、もう20年以上もこれらのプロジェクトに取り組んでいるわたしは感無量でした。

 

 それにしても、今は亡き愛する人がひょっこり帰ってきたら、その喜びはいかばかりでしょうか。現実にはそんなことは起りえないわけですから、実際に死別の悲しみに暮れている人がこの小説を読めば、悲しみはいっそう深くなるかもしれません。むしろ、いま愛し合っている夫婦が読むといいかもしれません。お互いの存在をかけがえなく思うのではないでしょうか。
いずれにしても、こんなに哀しくて美しい小説はありません。