No.1113 死生観 | 民俗学・人類学 『琉球の死後の世界』 崎原恒新著(むぎ社)

2015.09.07

 『琉球の死後の世界』崎原恒新著(むぎ社)を紹介します。
 「沖縄その不思議な世界」というサブタイトルがついています。
 わたしが社長を務めるサンレー沖縄は、もう40年以上も沖縄で冠婚葬祭事業を営んでいます。しかしながら、沖縄人に特有の死生観には今でも驚かされることが多く、また感銘を受けることも多いです。本書は奥深い沖縄の文化、豊かな沖縄人の死生観を理解するための最適の一冊です。1943年与那原町板良敷生まれの著者は、沖縄県文化財審議会専門委員、沖縄市文化財調査審議委員などを務めておられます。

   本書の帯

 本書の表紙の下は黒い帯のような装幀になっています。
 そして、そこには以下のように書かれています。

●死後の世界の有無を神学問答ではなく、著者四十数年の調査・研究の成果より読み解く。答えはイエスかノーか?
●沖縄人の考える死後の世界とは?(三途の川、墓。ニライカナイ等々)
●現世と来世の違いはあるのか?(グソーニービチ、子育て幽霊等々)
●幽霊のはなし、178話の中で語られる死後の世界は?
(墓と墓地の幽霊・幽霊屋敷・歌う幽霊・幽霊と喧嘩した人達・幽霊と交わった話・棺から消えた死体・学校の怪談等々)
●火の玉の正体は?(目撃者に見る火の玉の正体)
●動物の怪(犬猫の怪、牛馬の怪、アヒルの怪等々)
●魔よけとなじない(村獅子・フーフダ・年中行事に見る魔よけ等々)
●資料編―文献資料目録

   本書の帯の裏

 本書の「もくじ」は、以下のようになっています。

「はじめに(琉球の異界)」
1 琉球の異界の概況
  一、天人天女伝説を事例に
  二、死後の世界
  三、現世の社会と死後の社会
2 死のまえぶれ
  一、予兆とは
  二、動物による死の予兆
  三、植物による予兆
  四、現象による予兆
3 生き返った話
4 幽霊のはなし
  一、さ迷える魂の出現
  二、多様な個性を持つ幽霊
5 火の玉
6 動物の怪・植物の怪
7 その他の妖怪達
8 道具の怪
9 まよけとまじない
●資料編1 奄美の「ケンモン考資料」
●資料編2 沖縄に見られる妖怪一覧
●資料編3 琉球弧に見られない幽霊・妖怪達
●資料編4 琉球弧幽霊・妖怪文献資料等目録
「あとがきにかえて」

 「はじめに(琉球の異界)」で、著者は次のように述べています。

「死後の社会や異界に対する考え方は、その時代と社会状況によって1つの流れを形成する。しかしまた、同時に地域差や個人、個人による認識の相違も当然あったはずである。死後の社会の存在について否定する者もいつの時代にもいたと考えられる。しかし、そういう人々も、完全に死後の社会を否定することが極めて困難であったことも事実であると思われる。たとえば家族や親族の死に直面したとき、その遺体は単なる骸として処理することはしないし、十六日祭・清明祭・年期法要にも参列し、供養を行なう。知人、友人の死去に際しても、死後の世界が無いとして参加しないことはない。単なる義理や形式だけではすまない側面を持っていると言える」

 また著者は、「死後の社会」について次のようにも述べています。

「私は、死後の社会は人類の創り上げた最大の思想と思っている。死後の社会の創造は、人間社会の生き方に対しても影響を与えている。必ずしも死後の社会のみに限る機能ではない。
 琉球を含め、日本は長い歴史を農耕社会によって築いてきた。その中で形成されたのが、日本の異界に対する思考のありようである。
 しかし、江戸幕府の崩壊以後、日本は農耕社会から次第に離れていった。それと同時に、西洋思想が急速に流入してきた。社会基盤そのものが大きく揺らぎ、変化を生じたのである。その中で、長期にわたる農耕社会で形成された異界に対する思考も変化してきた」

 わたしが特に興味深く読んだのは、4「幽霊のはなし」です。
 「一、 さ迷える魂の出現」の冒頭で、著者は次のように書いています。

「幽霊は沖縄語でユーリーという。マジムンという場合もある。たとえ、人は死んでも霊魂は不滅、そして輪廻すると考えられていた。死後の魂の理想的なあり方は、静かに、安らかに眠りつづけることであった。鎮魂という言葉はこの事と関係している。霊魂が活発に動き回ることは好ましいものではない。喜界島の記録でもある『しつる村物語』に墓参するときは『祖霊は常に眠っているので大きく声をかけ、起こしてお参りをする』とある」

 さて、わたしは『唯葬論』の中に「幽霊論」という一章を設けました。
 そこで、東日本大震災後の被災地に多くの幽霊現象が目撃されていることに言及しました。わたしは、被災地で霊的な現象が頻発しているというよりも、人間とは「幽霊を見るヒト」なのではないかと考えました。「弔うヒト」であると同時に「幽霊を見るヒト」である。残された者に故人への思慕や無念が「幽霊」を作りだしているのではないかと。わたしが言うように「故人への思い、無念さが幽霊をつくり出している」のならば、それは東日本大震災の場合に限りません。70年前の戦争において、筆舌に尽くせない悲劇を生んだ沖縄の地でも多くの幽霊談が語られました。

 「二、 多様な個性を持つ幽霊」の中の「13.沖縄戦と幽霊」において、著者の崎原恒新氏は以下のように書いています。

「十五年戦争の末期、1945年に連合軍が琉球列島に侵攻してきた。1945年3月から9月までが沖縄戦の期間であるが、沖縄戦の特徴として8月15日のポツダム宣言の後も終結していないことと、日本軍と連合軍双方から県民が被害を受けたということにある。特に、味方であるはずの日本軍による住民虐殺は戦場における国民と軍隊との関係がどのようなものかということを端的に示す教訓を残すものであった。
 約20万人という死者を出した沖縄戦。死霊観念からいって幽霊が出ないということはありえないことであった。私の古里は与那原町板原敷であるが、小学校の頃(1950年代)、板原敷の山手の方で、夜になると『突撃! 突撃!』という日本兵の絶叫が続いたりしたという噂があった。通常の死とは違った死を体験した者の魂が、いろんな形で出現している」 

 著者は、以下のような幽霊話が紹介しています。

「八重山の某公共宿泊施設での話である。そこで、学習を兼ねて宿泊していた中学の女生徒が枕を振り回して叫び続けた。窓の方から外の景色が見えるが、その山の方から日本兵が降りてくるのが見えたと言うのである。その一帯は日本兵の作った溜め池が残り、また、その近くで戦死した日本兵を焼いた場所でもあるという。同施設職員によると、前にも同じように叫んだ宿泊者がいたという。(1997年6月10日談)」

「中城村での話である。蚊帳を吊って寝ていると、首の吹っ飛んだ兵隊の幽霊が歩いているのが見えたという、戦後の一時期、夏などは暑くもあるし、その上、戸締りしなくても泥棒の心配がなく、どこでも戸をあけたまま寝るのが多かった時代の話である。(1976年7月13日談)」

「中頭での話である。Aの話。Aが戦後金歯を入れた。当時は闇の歯医者が多かった。資格の無い医者である。それに金歯を入れてもらったのである。しかし、その後、この金歯が抜けてしまった。それでポケットに入れていつも持ち歩いていた。或る日、夢に死者が出て、金歯を返せと言われた。翌朝、都合良くキンバコーナー(金歯を買って歩く人が来たのですぐ売り払った。当時、沖縄戦で亡くなった人たちの頭蓋骨から金歯を抜き取って商売する者達がいるという噂が少なく無かった。金歯の再利用のためである。(1975年9月15日談))」

「糸満市で最後の激戦地となった場所である。そこの住人の話である。この家は戦後、養子がついだ。日頃は那覇で住んでいるが、時々、家の管理もあって泊まりにくるが、その養子の妻の談。今(八〇年代)でも泊まっていると夜になるとうめき声が聞こえる。とても、怖くて泊まれる場所じゃない。(採話1988年7月12日談)」

「沖縄戦が終って七年ほどたってからのことである。A集落のナカジョウ浜で大きなクブシミ(甲イカ)を捕らえ、持ち帰って食べた。その夜、眠りについたとき、完全武装した兵隊が現われ、なぜ自分の食料を取ったかという。それから、毎晩この幽霊が出てとうとうノイローゼ気味になった。易者にみてもらったら、甲イカをとった場所の下に頭蓋骨が一つ埋まっていたという。それで、料理を供え祈願をしたという。しかし、そのためかどうかは解らないが長くはまたずにこの人は亡くなった。(採話1974年7月13日)」

 ここで、わたしはある事実に気づきます。当然といえば当然ですが、重大な事実です。それは「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れないということ。葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式です。葬儀によって、故人は一人前の「死者」となるのです。幽霊は死者ではありません。死者になり損ねた境界的存在です。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけです。沖縄の地で冠婚葬祭業を営むわがサンレー沖縄は、これからの沖縄に新しい幽霊が誕生しないように、しっかりとした葬送儀礼のお手伝い、ならびに、今なお沖縄で浮かばれずにさ迷っている幽霊たちが成仏する供養のお手伝いをさせていただきたいと願っています。

 なお、本書は『唯葬論』 (三五館)でも紹介しました。

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