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ユーザーイリュージョン』

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 No.1080

 

 『ユーザーイリュージョン』トール・ノーレットランダーシュ著、柴田裕之訳(紀伊国屋書店)を再読しました。

 著者は1955年生コペンハーゲン生まれで、現在はスカンジナビアを代表する科学評論家として知られています。代表作である本書はデンマーク語版で500ページを超える大著にもかかわらず、13万部もの空前の売り上げを記録しました。これは人口比で換算すると、日本では250万部に相当するそうです。

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   本書の帯


 本書には「意識という幻想」というサブタイトルがついており、帯には「意識は0.5秒遅れてやってくる。」と大書され、「脳は私たちを欺いていた。意識は錯覚にすぎなかった」「マクスウェルの魔物の話からエントロピー・情報理論、心理学・生理学、複雑系の概念までも駆使して『意識』という存在の欺瞞性を暴いたデンマークのベストセラー、待望の邦訳」とあります。

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   「ユーザーイリュージョンとは」


 カバーの前そでに「ユーザーイリュージョンとは」として、以下のように説明されています。


 「パソコンのモニター画面上には『ごみ箱』『フォルダ』など様々なアイコンと文字が並ぶ。実際は単なる情報のかたまりにすぎないのに、ユーザーはそれをクリックすると仕事をしてくれるので、さも画面の向こうに『ごみ箱』や『フォルダ』があるかのように錯覚する現象を指す」

 続いて、カバー前そでには以下のように書かれています。


 「本書で、著者は『ユーザーイリュージョンは、意識というものを説明するのにふさわしいメタファーと言える。私たちの意識とは、ユーザーイリュージョンなのだ・・・・・・行動の主体として経験される〈私〉だけが錯覚なのではない。私たちが見たり、注意したり、感じたり、経験したりする世界も錯覚なのだ』という」

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   本書の帯の裏


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「本書に寄せられた賛辞」
「序」

第一部   計算

第一章   マックスウェルの魔物
第二章   情報の処分
第三章   無限のアルゴリズム
第四章   複雑性の深さ

第二部   コミュニケーション

第五章   会話の木
第六章   意識の帯域幅
第七章   心理学界の原子爆弾
第八章   内からの眺め

第三部   意識

第九章   0.5秒の遅れ
第十章  マックスウェルの「自分」
第十一章  ユーザーイリュージョン
第十二章  意識の起源

第四部 平静

第十三章  無の内側
第十四章  カオスの縁で
第十五章  非線形の線
第十六章  崇高なるもの


「訳者あとがき」
参考文献と注釈
索引

 「序」で、著者は以下のように述べています。


 「近年、意識という現象の科学的研究を通して明らかになってきたのだが、人間は意識的に知覚するよりもずっと多くを経験している。人は、意識が考えているよりもはるかに多くの影響を、周りの世界やお互いと及ぼし合っている。意識は自分が行動を制御していると感じているが、じつはそれは錯覚にすぎないのだ。西洋文化圏ではこれまで、人間生活の中で意識は多大な役割を担うと思われがちだったが、じつはその役割は、ずっと小さなものだった。歴史を研究してみればわかるとおり、今日私たちが意識と呼んでいる現象が見られるようになってから、せいぜい3000年しか過ぎていない。中枢にあって「経験する者」、意思決定する者、意識ある〈私〉という概念が幅を利かせてきたのは、たかだかここ100世代のことなのだ」

著者はまた、以下のように述べています。


 「1960年代以来、神経生理学者たちは、人間の主観的な報告と、脳で起きている活動の客観的な計測結果とを比較することで、意識を研究してきた。そして、私たちが『現実』と呼ぶものよりも意識が時間的に遅れていることを示す、驚くべき結果を得た。何かを意識するまでには0.5秒かかる」

第11章「ユーザーイリュージョン」には、以下のように書かれています。


 「意識とは、表層として体験される深さだ。
 人はたまに、あるアイデアに出くわしたとたん、なぜかはわからないが直感的に、自分にとってとても重要だと思えることがある。理由はわからないのに、ほんとうに好ましく思える人に出会うときのような感じだ。私にも経験がある。(中略)そのアイデアは、コンピュータの設計に由来している。〈利用者の錯覚〉(ユーザーイリュージョン)と呼ばれる概念で、認識論のうえでそうとうの深さを持っており、先に述べた意識のイメージを非常にうまく象徴している」

 さらに著者は、「ユーザーイリュージョン」について述べます。


 「ユーザーイリュージョンはメタファーであり、実際の0と1など相手にしない。そのかわり、0と1が全体として何ができるかを問題にする。そう考えると、ユーザーイリュージョンは、意識というものを説明するのにふさわしいメタファーと言える。私たちの意識とは、自己と世界のユーザーイリュージョンなのだ。意識は、世界全体や自己全体のユーザーイリュージョンではない。自分が影響をおよぼせる世界の諸側面と、意識が影響をおよぼせる事故の一部の、ユーザーイリュージョンだ。
 このユーザーイリュージョンは、まさに自分独自の自己の地図であり、自分がこの世界に関与する可能性を示している。イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが言うように、『意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自体のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう』

 続けて著者は、以下のように述べています。


 「意識が、私が抱く私自身のユーザーイリュージョンであるならば、意識は、私というこのユーザーこそが、まさしくユーザーなのだと主張せざるをえない。そして、使われる側ではなく、使う側の視野を映し出さなくてはならない。その結果、意識というユーザーイリュージョンは、〈私〉という名のユーザーとともに機能しているわけだ。〈私〉の経験では、行動するのは〈私〉ということになる。感じるのも〈私〉、考えるのも〈私〉だ。だが、実際それをしているのは〈自分〉だ。私は、私自身の、私にとってのユーザーイリュージョンなのだ」

 本書を読んでいて特に興味深く感じたのは「夢」に関するくだりです。著者は、「夢」について以下のように述べています。


 「夢というのは、ユーザーイリュージョンやシミュレーションとの関係で考えた場合、どういう現象なのだろうか。一つ頭に浮かぶのは次のようなことだ。人は夢を見ているとき、シミュレーションをしているようなものではないか。何かを視覚化し、そこにある(しばしば唐突な)つながりを理解する。しかし、体験している最中は、このシミュレーションを使わない。夢を見ている状態のとき、いわゆるレム睡眠のとき、私たちは手足の自由を奪われている。動きを制御する脳の運動野が抑制されているからだ。夢睡眠は、ユーザーがいないのに大量の錯覚がある状態だ。夢睡眠の機能がほとんど説明されていない事実を考えると、夢を一種のシミュレーションの実験場だと言っても的外れではない」

最終章となる第16章「崇高なるもの」の終わりで、著者は述べます。


 「意識はそれほど多くの情報を含んではいない。情報とは他者性であり、予測不能性であるからだ。意識は、それ自体が与えられるより多くの情報を人々が必要としていると認めることによって、平静を得るだろう。人は意識の中にある情報も必要としている。それは、ある土地を歩くのに地図が必要なのと同じだ。だが、ほんとうに大事なのは地図を知ることではなく、その土地を知ることだ。世界は地図で見るよりはるかに豊かだ。私たち自身も、自分自身の地図で見るよりもはるかに豊かだ」

 続けて、著者は以下のように述べています。


 「歓喜や肉体的悦楽や愛、それに聖なるものや崇高なるものは、意識が考えるほど遠い存在ではない。何の束縛も受けずにゲーデルの深みに浮かぶ人間の意識は、他者性におびえて自ら考えるほどの危機的状況にはない。わずか0.5秒前、私は〈自分〉だったのだ。天国は、ほんの0.5秒離れているにすぎない―ただし、反対の方向に」


 そして、著者は次の一文をもって、この大著を締めくくるのでした。


 「『私自身と呼ばれているものによって成されたことは、私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする』とジェームズ・クラーク・マックスウェルは述べた。彼はユーザーイリュージョンとは無縁だった」

 それにしても、著者の該博な知識には感服します。さまざまなジャンルにおける膨大な知識が、<私>と<自分>というテーマを軸として有機的に結びついていくさまは感動さえ覚えます。そして、柴田裕之氏の訳文が素晴らしいことも忘れてはなりません。柴田之氏は、『神々の沈黙』の訳者でもあります。ともに「意識の謎」について大胆な解明をめざした問題作ですが、『神々の沈黙』は632ページ、本書は566ページあります。柴田氏はこんな分厚い本を2冊も訳したわけですが、『神々の沈黙』は1976年に書かれて、2005年に邦訳が出ました。一方の『ユーザーイリュージョン』は1991年に書かれて、2002年に邦訳が出ています。つまり、柴田氏は本書を先に訳してから、次に『神々の沈黙』に取りかかったことになります。いずれにして偉業であると思います。その柴田氏は、「訳者あとがき」で次のように書いています。


 「人間は意識がイリュージョンであることを自覚しなければならない。意識ある〈私〉と無意識の〈自分〉の共存が必要だ。〈私〉が自らの限界と〈自分〉の存在を認め、〈自分〉を信頼し、権限を委ねることが、『平静』のカギとなるというのも、理にかなっている。
 今一つの問題は、意識主導の文明が、予測不能性や異質性を嫌い、秩序と計画性を求めて社会を統制し、人間の情報体験を乏しいものにしてしまいがちなことだ。意識は、ファーストフードに象徴される単純明快な画一品化を招き、利便性の代償として味気ない『直線の文明』を生む。その結果、人間は入力情報が不足していて、退屈し、物足りなさを覚える。人間はまた、人工的な環境で、限られた量の情報の入出力しか経験せずに育つと、感性や想像力が伸びない。テレビやパソコンの画面に張りつく暮らしの弊害は、すでに多くの人の知るところだ。五感を思う存分に活用し、自然や他者との触れ合いによって豊かな「情報」体験をするのが、健全な心身の発育と維持にいいことにも、異論はなかろう」

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   意識の謎に挑んだ『神々の沈黙』『ユーザーイリュージョン』


 本書は、『神々の沈黙』と同じく、何度も読み返すべき本であると思います。読み返すたびに、何か重要な発見をするような気がします。わたしの最新作である『唯葬論』を書く上でも多くのヒントを得ました。