お探しの書名・著者名・キーワード等を入力して下さい

  • HOME
  • ゆかいな仏教
Title

ゆかいな仏教』

Category

No.0944

 

 『ゆかいな仏教』橋爪大三郎&大澤真幸著(サンガ新書)を読みました。

 この読書館でも紹介した『ふしぎなキリスト教』でキリスト教を論じ合った2人の社会学者が今度は仏教について論じ合います。

 

yukainabuxtukyou1.jpg
   ブッダはキリストと何が違うのか?

 

 

 「ブッダはキリストと何が違うのか?」というサブタイトルがつけられ、帯には寝釈迦像の写真とともに「知っているようでいて、実はよく知らない仏教。『仏教のスピリット』を知れば知るほど、勇気をもって、前向きに、ゆかいに生きられる!」と書かれています。


 また帯の裏には、「仏教よ、お前は何者なのか?」「ソクラテスからカント、ウェーバー、パーフィットまで、時空を軽々と飛翔して、その論点を比較・検討し、仏教にいだいていたイメージを一新する宗教対談」と書かれています。さらには、「本書で話題にのぼる哲学者・宗教者・宗教学者・社会学者・生物学者・政治学者」として、以下の人びとの名が並んでいます。ソクラテス、プラトン、エピキュロス、ルクレティウス、ムハンマド、フランチェスコ、デカルト、ジョン・ロック、バークリー、カント、ウェーバー、ユクスキュル、カッシーラー、ヴィトゲンシュタイン、エリアーデ、バーリン、ドゥルーズ、デリダ、パーフィット・・・・・・


 カバー前そでには、以下のような内容紹介があります。


 「葬式仏教と揶揄されたり、『禅問答』のように、やたら難解なイメージがつきまとったりの、日本の仏教。もともとの仏教はでも、自分の頭で考え、行動し、道を切り拓いていく、
合理的で、前向きで、とても自由な宗教だった! 日本を代表する二人の社会学者が、ジャズさながらに、 抜群のコンビネーションで縦横に論じ合う、仏教の真実の姿。日本人の精神に多大な影響を与えてきた仏教を知れば、混迷のいまを生きるわれわれの、有力な道しるべが手に入る!」


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


「まえがき」 大澤真幸
第一章 はじまりの仏教
第二章 初期の仏教
第三章 大乗教へ
第四章 大乗教という思考
第五章 大乗教から密教まで
結び  いま、仏教を考える
「あとがき」 橋爪大三郎


 「まえがき」の冒頭で、大澤氏は以下のように書いています。


 「人は、生きている間に何度か、宗教的にしか解決できない問題にぶつかる。ここで『宗教的に解決する』というのは、特定の宗教に入信して、その教えに従うということではない。宗教がそうしてきたのと同じような仕方で、人生観や世界観の前提にまで遡る、ということである」


 「すべての問題が宗教的な態度や思考を必要としているわけではない」としながらも、大澤氏は以下のように述べます。


 「好き嫌いや道徳的な善さの前提になっている価値観そのものを問い直さないと解決できそうもない問題もある。『私(たち)は、「これ」に執着しているけれども、ほんとうに「これ」を獲得できたら問題が解決するのだろうか。そもそも、「これ」に執着していること自体に問題があるのではないか」と感じる問題である』


 それは、生き方や態度の抜本的な変更を要求するような問題だといいます。人は「自分自身を変えないと解決できない」と感じさせられる問題に、一生の中で何度かは直面せざるをえなくなるとして、大澤氏は述べます。


 「こうした問題にぶつかったときには、宗教、とりわけ普遍宗教が蓄積してきた知恵が、ヒントや助けを与えてくれる。宗教は、人生や社会や宇宙を理解する上での座標軸を批判し、独自に設定してきたからである。宗教がどう考えてきたかということが、難しい問題を前にして、にっちもさっちも行かなくなっているわれわれに、ブレークスルーをもたらしてくれるのだ」


 第一章「はじまりの仏教」では、「覚りはなぜ空虚にみえる」という問題が取り上げられますが、大澤氏は以下のように述べています。


 「仏教に関してふしぎに思うことは、覚りの内容が、つまり何が覚られたということが不可知のままにされていることです。ブッダが真理に到達したこと、覚ったことは確実だとされている。しかし、その真理が何なのか、覚った内容が何なのかが、ほんとうのところはわからない。自分も覚らなければ、「それ」が何であるかはわからないわけですから。そして、覚ったのは、実質的には、シッダールタだけなのですから」


 しかし、これは「考えてみると、とても変な状態である」と指摘して、大澤氏は以下のように述べます。


 「たとえば、アインシュタインが新しい物理法則を発見し、真理を発見したとします。他の人が、アインシュタインが新たな真理を『覚った』と承認するのは、他の人も、少なくとも他の権威ある物理学者も、その法則を理解し、それがまさしく真理だと理解したときです。他の人が理解したり、納得したりする前に、アインシュタインが新たな真理を覚ったのは確実だ、などとは見なされない。しかし、ブッダの場合には、他の人はまだ覚っておらず、それゆえブッダの見出した『真理』が何であるかをはっきりとつかめていないのに、ブッダが覚ったことだけは確実であるとされる。しかも、ブッダが覚ったことを前提にして、仏教の全運動、全思想が展開していく。するとこの運動と思想のすべての要になっている中心の部分が空虚だ、という感じがします」


 仏教においては「ブッダよりも覚りが大事」であることを指摘する大澤氏は、以下のようにまとめています。


 「まとめると、仏教には、2つのベクトル、2つの対立的な力がせめぎあっているようにみえるわけです。一方で、仏教の理念がもっている、本来だったらシッダールタがどんな人で、どんなふうに覚ったか、最初にどんな説法をしたのか等々の伝記的な事実は、どうでもよい、ほんとうは二次的なものでなければならない。しかし、他方では、この論理は完全には徹底されず、実際の釈尊という人物の、『そのときの覚り』というものの出来事性にかなりこだわってもいる。そのこだわりを抜かせば、仏教の仏教たるゆえんはほとんどなくなってしまうという感じがあります」


 それに対して、「仏教の論理を徹底させるならば、こだわりは必要ありません」という橋爪氏は次のように述べます。


 「仏教に内在した場合、ブッダの「覚り」が大事。ゴータマ・シッダールタ(ブッダ本人)は、それに比べれば、大事ではないのです。だから、実は、仏教も大事でない。すべての人に、『覚り』に至る可能性が開かれている。ゴータマ・ブッダは、そのことを実践してみせた。そのことさえみなにわかれば、仏教が消滅しても、別にかまわないんです。仏教の論理とは、こういうものではないでしょうか」


 続いて橋爪氏は、「神と仏はどこが違うのか」という問題に関連して、次のように述べます。


 「仏(ブッダ)というのは人間なのです、あくまでも。人間が、人間のまま、仏になる。これを、成仏という。知識として、このことは知っているかもしれないが、これをよくよく噛み締めなければならない。このことに集中している仏教は、神に関心がない。神なんかなくていいと思っている。人間は、神の力を借りず、自分の力で完璧になれると思っている。こういう信念なんです。
 このことを確認すると、仏教は、一神教と無関係である。神を拝んでばかりいる。ヒンドゥー教と敵対関係にある。人民は政府がなければ幸せになれないと考えている、儒教とも違う。神と人間が協力して、幸せになろうという神道とも違う。合理的で自立した、個人主義的人間中心主義である。こんなに徹底した合理的で個人主義的な、人間中心主義はないんだと思わなければいけない。ここに仏教の本質と、ブッダの本性があります」


 この橋爪氏の発言を読んで、わたしは「?」と思いました。「人間中心主義」が仏教の本質であり、ブッダの本性というのは納得できません。
『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)にも書きましたが、生命のつながりを洞察したブッダは、人間が浄らかな高い心を得るために、すべての生命の安楽を念じる「慈しみ」の心を最重視しました。そして、すべての人にある「慈しみ」の心を育てるために「慈経」のメッセージを残しました。そこには、「すべての生きとし生けるものは、すこやかであり、危険がなく、心安らかに幸せでありますように」と念じるブッダの願いが満ちています。わたしは『慈経 自由訳』(三五館)を上梓しましたが、「人間中心主義」から最も遠い場所にいた存在こそブッダであると思っています。


 橋爪氏の発言を受けて、大澤氏は次のように述べています。


 「キリストにおいても、ブッダにおいても、『人間=X』という等式が前提になっている。このXのところに、普通の人間を超えた状態が入ります。一見、同じような等式にみえますが、キリスト教と仏教では、この等式がはらんでいるダイナミックな動きのようなものが反対を向いている。仏教の場合には、人間がX(ブッダ)になる。その意味で、人間中心主義です。キリスト教は逆で、X(神)が人間になる。こちらは神中心主義です」


 うーん、なんだかわかったような、わからないような微妙な感じです。でも、どんな問題でも大澤氏が語ると難しく感じてしまうのは、やはりわたしの読解力が足りないせいなのでしょうね。たぶん。


 さて、大澤氏は「仏教はなぜ消えた」という問題を取り上げます。そして、古代インドで発生した仏教がインドの地で消え去った理由について、次のような仮説を立てます。


 「仏教は、徹底した平等主義ですよね。それは、カースト制の厳格な差別に苦しむ人には、たいへんな解放的な効果があったと思います。人のもつ価値は、カーストとは関係がない、とされるわけですから。しかし、やがてインドにイスラム教が入ってきますね。イスラム教は、仏教よりもずっと後に生まれたわけですが、やがてインドにも入ってきます。イスラム教も、平等主義ですね。超越的一神を前提にすると、人間はすべて平等になる。このイスラム教が、かつて仏教が果たしていた機能を担うようになったので、仏教がインドから消え去ったと考えられませんか。仏教徒はインドからほとんどいなくなりましたが、イスラム教徒は、現在でもたくさんいます。イスラム教によって仏教が押し退けられた、ということも考えられます。もっとも、何か実証的証拠があって、このような仮説を言っているわけではありませんし、それに、もしこの仮説の通りだったとしても、どうして、イスラム教のほうが残って仏教のほうが消え去ったのか、その理由が説明されなくてはなりませんが」


 第二章「初期の仏教」では、「一切智と全知」が取り上げられます。ブッダが一切を知っているというときの「一切を知っている」という状態と、一神教の神は全知であるというときの「知っている」という状態。この両者を比較した場合に、どこに違いがあるのかという大澤氏の問いに対して、橋爪氏は次のように述べます。


 「一神教のGodの全知全能。なぜ知っているかと言えば、すべての出来事をひき起こしている張本人だから。Godには眼があって手があって(キリスト教の場合)、大変な情報収集能力もあります。そして奇蹟(ミラクル)を起こします。つまり物質現象に対する直接的支配力がある。奇蹟は、世界に対する主権の別名なんです。なぜGodは全知全能か。それはGodが世界を支配しているから。こういう論理の構造になっています。
 さてブッダが、一切智者だとする。人間はブッダが世界を支配しているからなのか。そうではない。ブッダはただの人間なんです。これは世界の、真部分集合(ほんの一部)です。世界があって、そのあと人間が生まれているんです。だから、後出しジャンケンのようなものなのに、しかしブッダの知識が世界に追いついて、世界を完全の被覆しているんです。これは、世界を支配しているからではなくて、世界を理解しているから、なんです」


 なるほど、「世界支配」と「世界理解」の違いというのはわかりやすい説明ですね。


 また、「苦とはなにか」という問題について、橋爪氏は次のように述べます。


 「『四苦八苦』を仏教の中心に置き、しかも苦を文字通りの意味でネガティブに受け取ると、仏教の本質を消極的なものと見誤ってしまうのではないかと危惧します。ゴータマ・ブッダの教えをひと言で言えば、『勇気をもって、人間として正しく生きてきましょう』。ベタですけれど、仏教の主張はこうだと思うのです」


 一方の大澤氏は、以下のような疑問を呈します。


 「生きていくこと、輪廻の中で何度も繰り返される生をすべて含めてなんですが、生きていくことに対してどこか否定的な意味合いをつけておいて、もしくは、否定的な意味合いを感じることに強い自然さや自明性を覚える感受性があって、その否定的な生からどうやって抜け出していくか、というベクトルで仏教、あるいは、仏教だけではなくて多くの古代インドの思想ができているような感じがするわけです。なぜ、生に対して、そういう否定的な見方になるのか、というところが、もうひとつ腑に落ちない点です」


 この大澤氏の疑問に対して、橋爪氏は以下のように述べます。


 「ひとつの結論は、人生についてあらかじめこうであると考えているから、そうなるわけです。むしろ人生は、客観的な法則によって、なるようになっているだけ。だとすれば、あらかじめこうであるべきだというふうな甘い期待というか、幻想というか、そんなものを端的に持たないようにすれば、100%掛け値なしに、人生をあるがままに享受できる。すべてをプラスと受け取ることができる。こういうことを言っているだけじゃないでしょうか。だからむしろ、ポジティブな考えだと思うんです」


 仏教といえば「慈悲」であり、キリスト教といえば「隣人愛」です。つまるところ「思いやり」という言葉に集約されるとわたしは考えるのですが、」もちろん宗教的にはそんな簡単な問題ではありません。橋爪氏は「隣人愛」について以下のように述べています。


 「なぜ隣人を愛するかと言えば、Godがそう命じるから。命じるから、疑いようもない倫理として、隣人愛は義務づけられる。隣人愛を実践するのが、キリスト教徒とキリスト教徒の相互関係である」


 「慈悲」はこれに似ているようだけれども、きわめてキリスト教の「隣人愛」的な意味合いとして理解されていると指摘します。そして、「大事な点は、慈悲ははじめから、仏教の論理として内蔵されていたと思う。釈尊を信頼し、私も真理をめざそうと思ったひとが仏教者だとして、仏教者と仏教者の相互関係がどうあるかということは、最初からあったはずだ。それは端的に慈悲なのです」と述べます。


 また、橋爪氏は「慈悲」と「愛」は違うとして、次のように述べます。


 「『愛』というのは相手を肯定することなんだけれど、なぜ肯定するかというと、キリスト教の場合、価値がないけれど肯定する。価値があるのはGodだけだから。隣人は価値がないんです。でもGodが、愛せよと言った。だから愛する。『慈悲』の場合には、相手は、覚る可能性があるのです。仏性がある。つまり相手には、ささやかだが、価値がある。この点が異なると思います」


 大澤氏も「隣人愛」と「慈悲」とは対照的だとして、次のように述べます。


 「『慈』というのは、ある意味で、最も近い他者への愛です。いや、『最も近い』というより、距離ゼロの他者への愛といったほうがよい。というのは、橋爪さんが今明快に説明されたように、ブッダは、すでに、自己も他者もない、自己と他者の区別がないという境地に入っていますから、普通に見れば最も縁遠い他者ですらも、ブッダにとっては、自分自身なのですね。その他者は、実は自分自身なのだから、それに対しては『慈』の感情を抱くのでしょう」


 最後に大澤氏は「要約すると、キリスト教の愛は、最も遠く、価値がない他者に向けられる。仏教の慈悲は、距離ゼロの他者、仏性という価値のある他者に向けられる。このような対照性がある、というように僕は理解いたしました」と述べています。わたしは、『隣人の時代』(三五館)で「隣人愛」について、『慈を求めて』(三五館)で「慈悲」について考え、その実践方法について提案しました。ですので、本書で「隣人愛」と「慈悲」の違いが詳しく論じられたことは大変興味深かったです。

 

 第三章「大乗教へ」では、大乗仏教と上座部仏教が取り上げられます。ただし、本書では上座部仏教といわず「小乗仏教」という古臭い表現を使っています。上座部(テーラワーダ)仏教の「知」の巣窟である「サンガ新書」から本書が刊行されていることを考えれば意外な感じがします。小乗仏教というと「未熟な段階」であり、大乗仏教は「より優れた成熟したもの」と理解をされがちです。しかし、橋爪氏は「釈尊は、覚ってからすべての経典をのべているわけだから、未熟であるとは言えない。釈尊が未熟なわけではなくて、聴衆が未熟なのです。対機説法で、聴衆に合わせて語っているから、いろいろな経典がある。これが仏教の論理です」と述べています。


 以下、大澤氏と橋爪氏の対話が続きます。


【大澤】

新約と旧約の場合は、新約において否定されるべきものとしての旧約がなければ新約はありえないので、その2段ロケット性は必然的なものです。それに対して小乗と大乗はこんな感じだと思うんです。相対性理論入門という本があったとして、きっちりやればかなり難しい方程式まで理解できなければいけないんだけれど、まず基本的なことを理解するためには、その部分はかなりはしょって、不正確でも、基本のかたちは説明することができる。相対性理論についての完全な論文やテキストに比べれば、それは劣っているかもしれないけれど、まだ十分な知識や素養がない人にはまずこれから入ったほうがいいのではないかというイメージ。


【橋爪】

そういう言い方で言うならば、ニュートン力学と相対性理論の関係に似ている。


【大澤】

近似的には、ニュートン力学でもいける。だけど、厳密に言うと相対性理論になるんだと。


 第四章「大乗教という思考」では、仏教の最重要思想である「空」が取り上げられます。橋爪氏は「空」というものについて以下のように述べます。


 「『空』という考え方では、何かが確かにほんとうにあるのかということは実に疑わしくなるわけなんだけれど、それでも、そのこと(真理)をわかっている状態(知恵)は確かにある。だからブッダも、確かにいると考えられるのです。そしてそのことだけが、価値がある。そういう意味では、『空』とブッダとは、背中合わせになっている。
 仏教の特徴は、単なる因果的決定論でなくて、それを条件だととらえている点ではないか、と私は思う。宿命論とはちょっと違うんですね。特定の条件下で、私が存在する。特定の条件下で、社会が存在する。その条件を取り替えてみたらどうなるんだろうという想像力がはたらいていると思うわけです。そうすると、条件は、必ず満たされるわけではないので、世界は偶然化する。あるいは、空となる」


 第五章「大乗教から密教まで」では、大澤氏も「空」について語っています。


 「僕が、仏教に対して思うのは、最初から種明かしをしてからことをやらせているようにも見える、ということですね。今の寓話に即していうと、お父さんが、『ほんとうは空なんだが、宝物のつもりでやってくれるとうまくいくんだぞ』というようなことを、息子たちに伝えている、というような感じです。仏教は、『究極的には(つまり第一義諦としては)空なんだが、いちおう世俗の仕事をやれ』と言っている、そんな印象をもつのです」


 結び「いま、仏教を考える」では、大澤氏が「僕のように、仏教徒でもない者が、それでも、あえて仏教について考えたりすることにどんな意味があるのか」という問いを投げかけます。それに対して、橋爪氏は2つの大事な点があるとし、ひとつは、「世界人類が仏教をどう受け継ぐかということ」だと述べます。橋爪氏によれば、仏教の特徴はわれわれにとって、とても大事といいます。そして、その特徴は、だいたい4つあります。以下の通りです。


(1)個人主義的 仏教は個人主義的です。1人ひとりが自分の人生に責任をもち、自分の目標を追求しなさい。ほかの人に言われてやるのではなく、あなた自身がやらなきゃ駄目でしょう、みたいになっている。


(2)自由主義的 仏教は自由主義的です。ドグマがない。何をどうするか、何をどう考えればいいか、どう行動すべきかということは、自分の創意工夫によって発見し、創造していくものであり、それはあくまで自己責任です。「自業自得」は、自己責任ということです。


(3)合理的 仏教は合理的です。なぜ合理的かというと、因果論でできているから。ある結果やある出来事は、原因なしに起こるわけではない。本人の都合で左右できるものでもない。必ずそれを生み出した原因があって、追究していけば理解できるという考え方です。


(4)理想主義的 仏教は理想主義的です。あなた自身はいまの困った状態から、だんだんよい状態に移動していける。1人ひとりがみんなこういうルートをたどれば、社会全体も世界も、だんだんよい状態に移行していけるかもしれない。よい/悪いのベクトルがあり、よい方向に向かうための手段があると考えている点ですね。

 

『ゆかいな仏教』p.370)


 大事な点の2つめは、「日本人の自己理解として大事」ということです。それは、どういうことか。橋爪氏は以下のように述べます。


 「日本人の精神史として大きなものが3つあるとすれば、1番が仏教。2番が儒教、3番目が神道や国学や天皇や日本のカルチャー。この3つが織り交ざったものとして日本社会が形成されている。いっぽう、グローバルスタンダードとなるような思想はあまり入っていない。これで2千年から3千年やってきた。そのほんの表層に、明治以降のいろいろな欧米起源のアイデアが入っている。欧米起源のアイデアをしっかり理解するということも大事なんだけれど、それとそりが悪いかたちで自分たちの無意識のルーツが形成されているということを意識化するということも、それに劣らず大事である。その自己理解の3分の1は、仏教を理解することで果たされる。ゆえに、日本人の自己理解に欠かせない素養・教養として、仏教があると思われます」


 この「日本人の自己理解」として仏教を考えることが大事という考え方には大いに共感できました。そして、改めて思うのは、日本人の「こころ」は仏教だけでなく、神道や儒教にも大きく支えられていること。じつは、ブログ「仏教連合会パネルディスカッション」で紹介したイベントに出演した際、その予習の一環として本書を読んだのですが、実際は想像以上にレベルの低いパネルディスカッションとなってしまったことが残念でした。もう一度、機会があれば、仏教について徹底的に語り合ってみたいです。