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ふしぎなキリスト教』

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No.0395

 

 『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎&大澤真幸著(講談社現代新書)を読みました。

 

 日本を代表する2人の社会学者がキリスト教について語り合った対談本です。キリスト教をよく知らない人にとって、非常にわかりやすく書かれています。この種の本としては異例のベストセラーになったのも理解できる気がしました。


 本書の目次は、以下のようになっています。


「まえがき」

第1部 一神教を理解する―起源としてのユダヤ教

第2部 イエス・キリストとは何か

第3部 いかに「西洋」をつくったか

「あとがき」


 「まえがき」の冒頭で、大澤真幸氏は次のように述べています。


 「『われわれの社会』を、大きく、最も基本的な部分でとらえれば、それは、『近代社会』ということになる。それならば、近代あるいは近代社会とは何か。近代というのは、ざっくり言ってしまえば西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。したがって、その西洋とは何かということを考えなければ、現在のわれわれの社会がどういうものかということもわからないし、また現在ぶつかっている基本的な困難が何であるかもわからない。

 それならば、近代の根拠になっている西洋とは何か。もちろん、西洋の文明的なアイデンティティを基礎づけるような特徴や歴史的条件はいろいろある。だが、その中核にあるのがキリスト教であることは、誰も否定できまい」


 こうして「近代社会」の基になっている西洋文明の中核にあるキリスト教が、さまざまな視点から語られていきます。本書では、大澤氏が質問者となり、橋爪氏が答えていくというスタイルが取られています。


 橋爪氏のキリスト教に対する造詣の深さはハンパではありません。それもそのはず、橋爪氏の師匠は、「知のモンスター」である小室直樹氏なのです。小室氏は在野の学者として一世を風靡しましたが、著書『日本人のための宗教原論』および『日本人のためのイスラム原論』は大変な名著でした。


 わたしは、これらの本を読んで一神教の本質を理解することができました。その後、『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)を書いたときにも大いに参考にさせていただきました。ですから、その小室氏の弟子である橋爪氏の宗教観は、わたしにはとても馴染みのあるものでした。


 橋爪氏には一度お会いしたことがあります。宗教専門の出版社である法蔵館のパーティーで、鎌田東二先生に紹介していただいたのです。そのときは、養老孟司、カール・ベッカー、上田紀行、そして島田裕巳といった方々も紹介していただきました。橋爪氏は非常に穏やかで上品な紳士だったと記憶しています。


 さて、大澤氏は橋爪氏との対談にあたって心がけたことを次のように書いています。


 「私たちは、この対談に2つの背反する条件を課した。一方では、基礎を何も知らない人にもわかってもらえるものにした。かつ、他方で、キリスト教や近代社会についてすでに多くの知識をもち、いろんなことを考えてきた人にとっても「それは本質的な問題だ」と思ってもらえるものにした。一見背反しているように見える、こうした両面が欲しい。その両面を一挙に獲得するにはポイントがある。キリスト教に限らず、どんな知的主題に関しても言えることだが、ある意味で最も素朴で基本的な質問が一番重要である。そういう質問は、初学者にとっての最初の疑問であると同時に最後まで残る一番しぶとい重要な謎である」


 対談の最初に取り上げられるのは、ユダヤ教とキリスト教の違いです。キリスト教理解のポイントは、その前にユダヤ教があり、そこからキリスト教が出てきたことだとして、大澤氏は「ユダヤ教を一方で否定しつつ、他方で保存し、その上にキリスト教がある。つまり、キリスト教は2段ロケットのような構造になっています」と述べます。


 また、「イエスが登場したとき、彼はキリスト教という新しい宗教をつくろうとしたのではない。ユダヤ教の宗教改革みたいな感じで出てきたんだと思います。だからまず、キリスト教は、ユダヤ教との関係で理解することが必要です」と述べています。


 いっぽう、橋爪氏はユダヤ教とキリスト教について「ほとんど同じ」と断言し、「たったひとつだけ違う点があるとすると、イエス・キリストがいるかどうか。そこだけが違う、と考えてください」と述べます。さらに、橋爪氏は以下のように補足します。


 「このふたつは、どこが同じか。『一神教』である。しかも、同じ神をあがめている。ユダヤ教の神は、ヤハウェ(エホバともいう)。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれど、その父なる神は、ヤハウェなんです。それを『父』とか『主』とか『God』とか言っている。ユダヤ教とキリスト教に、別々の神がいると考えてはいけません(ちなみにイスラム教のアッラーも同一の神です)。違うのは、この『神に対する、人びとの対し方』です」


 この橋爪氏の見方は、わたしもまったく同じです。ルーツである小室氏も、「ヤハウェ」と「God」と「アッラー」は同じ神だと述べていました。


 ところが、こういった見方を否定する人もいます。たとえば、元外務省主任分析官の佐藤優氏などもその1人です。自らがプロテスタント信者なだけに佐藤氏のキリスト教理解の深さはハンパではありませんが、「ヤハウェ」と「God」と「アッラー」は同じではないと主張しています。自身が特定の宗教を信仰している場合は、特別な考え方をするのかもしれません。わたしは、小室氏や橋爪氏の立場と一緒で、「ヤハウェ」と「God」と「アッラー」は基本的に同じ存在であると思っています。


 さらにキリスト教の「God」について橋爪氏は、次のように述べます。


 「Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。これって、エイリアンみたいだと思う。だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから」


 Godは地球もつくったぐらいだから、地球外生命体であるというのです。なるほど、これには納得してしまいました。橋爪氏はさらに「結論は、Godは怖い、です。怒られて、滅ぼされてしまっても当然なんです」と言います。


 さて、ユダヤ教の律法についての橋爪氏の考え方が非常に面白かったです。

 

 橋爪氏は、ユダヤ教の律法を「厳密ルール主義」と呼びます。ユダヤ教では、ユダヤ民族の生活のルールをひとつ残らず列挙します。そして、それを神との契約、すなわちヤハウェの命令だとします。衣食住、生活暦、刑法や民法や商法や家族法・・・・・日常生活のすべてが法律であるわけで、なかなか日本人には理解しにくいと感じますね。しかし、これについて橋爪氏は次のように述べます。


 「もしも日本がどこかの国に占領されて、みながニューヨークみたいなところに拉致されるとする。100年経っても子孫が、日本人のままでいるにはどうしたらいいか。それには、日本人の風俗習慣を、なるべくたくさん列挙する。そして、法律にしてしまえばいいんです。正月にはお雑煮を食べなさい。お餅はこう切って、鶏肉と里イモとほうれん草を入れること。夏には浴衣を着て、花火大会を見物に行くこと。・・・・・・みたいなことが、ぎっしり書いてある本をつくる。そしてそれを、天照大神との契約にする。これを守って暮らせば100年経っても、いや1000年経っても、日本人のままでいられるのではないか。こういう考えで、法律はできているんですね」


 このへんの説明の仕方は、「うーん、うまいなあ!」と思わず唸ってしまいました。そして、橋爪氏は一神教の核心を次のようにズバリと指摘します。


 「一神教は、たった1人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を視るということなんです。たった1人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです」


 では、多神教はどうなのか。橋爪氏は述べます。


 「多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になります」


 これも非常に明快な説明であると思いました。


 本書の質問者である大澤氏も、キリスト教には詳しい人です。大澤氏はツッコミ役というか、『聖書』の矛盾点や理不尽な点を遠慮なくバンバン突っ込んでいきます。


 そのツッコミの基本を一言でいうなら、「神が万能なら、なぜこの世界を不完全に創ったのか」という疑問に尽きるのですが、その問いに対して橋爪氏は、「この世界が不完全なのは、楽園ではないから。そして、人間に与えられた罰だから、なのです。そういう不完全な世界を、神様の意思に反しないように、正しく生きていくのが、人間のつとめです。これが『創世記』の説明。世界が不完全なのは神の本意では必ずしもなく、その点を神は気づかっている。それは、神に背いた人間のせいでもあるのです」と答えます。


 もともと完全な世界であったエデンの園。そこに住んでいたアダムとイヴが禁断の果実を食べたために楽園から追放され、不完全な世界が人間の住処になったわけです。


 すべてこの世界は有限で罪深くて不完全な人間の営みだけれど、その背後には完全な能力と意思と知識をもったGodという人格がいるのです。そのGodの導きによって人間は生きていると考えるわけですが、橋爪氏は次のように述べています。


 「そこで人間は、『神様、この世界はなぜこんなに不完全なんですか』と、Godにいつも語りかけ、対話をしながら日々を送ることになる。対話をやめてはいけないんです、この世界が完全だろうと不完全だろうと。むしろ、この世界が自分にとって厳しく不合理にみえるときほど、対話は重要になる」


 橋爪氏は、これが「試練」ということの意味であるとして、次のように続けます。


 「試練とは現在を、将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きるということなんです。信仰は、そういう態度を意味する。


 信仰は、不合理なことを、あくまで合理的に、つまりGodとの関係によって、解釈していくという決意です。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事もいろいろ起こるけれども、それを合理的に解釈していくと決意する。こういうものなんですね。いわゆる『ご利益』では全然ない」


 さらに、「なぜ偶像を崇拝してはいけないのか」という問いを受けて、橋爪氏は一神教の本質に迫り、次のように述べます。


 「神々を否定し、放逐してしまうという点で、一神教と、仏教、儒教はよく似ている。そして、日本と正反対なんです。この根本を、日本人はよく理解する必要がある。神道は多神教で、多神教は世界にいっぱいあるじゃないか、なんて思わないほうがいい。

 神々は放逐された。だから、仏教、儒教、一神教がある。世界の標準はこっちです。世界は一度壊れた。そして、再建された。再建したのは、宗教です。それが文明をつくり、いまの世界をつくった。こう考えてください。

 偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なので、もう1回確認しておきます。偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です」


 また、科学と宗教の関係についての箇所も興味深かったです。


 日本人は、『聖書』を読むと荒唐無稽だと感じたり、科学万能の時代にキリスト教なんてナンセンスだという印象をもったりします。しかし橋爪氏は、「科学と宗教が対立する、と考えることのほうがナンセンスです」と喝破し、次のように述べます。


 「科学はもともと、神の計画を明らかにしようと、自然の解明に取り組んだ結果うまれたもの。宗教の副産物です。でもその結果、聖書に書いてあることと違った結論になった。そこで多数派の人びとは、『科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える』ことにした。こうすれば、科学も宗教も、矛盾なく信じることができます。天動説や進化論やビッグバンセオリーは、こうしてキリスト教文明の一部に組み込まれた」


 大澤氏の発言では、イエスの禁欲的なイメージには疑問が残るという話が面白かったです。大澤氏は、以下のように述べています。


 「福音書にも、人びとが『人の子(つまりイエス)』のことを『大食漢』『大酒飲み』と批判しているという話が出てきます(マタイ11章19節、ルカ7章34節)。それから、イエスは、たしか『神の国』を婚礼の場にたとえて、『花婿がいるとき、断食するやつがいるか?』というようなことも言っています(マルコ2章19節、ルカ5章34節など)。『花婿』、つまり『人の子』がいるときには、結婚式の宴会のように飲み食いして楽しんだっていいじゃないかというニュアンスです。ぼくはこうしたイエスの言動に、微妙に享楽的な雰囲気を感じることがあるのですが、このイメージは間違いですか?」


 特に、「神の国」が婚礼の場にたとえられたということが、冠婚葬祭屋のわたしとしては印象的でした。現在、チャペル・ウエディングが全盛ですが、もともとキリスト教は結婚式と相性が良いのでしょう。


 また大澤氏は、キリスト教における「愛と律法の関係」に注目します。イエスはユダヤ教の厳格な「律法」を廃棄して、それを「愛」に置き換えました。律法を単純に否定して排除したというより、むしろ、愛こそが律法の成就だととらえたわけです。大澤氏は、これは弁証法でいう「止揚」に似ているとし、「法律のゲームから愛のゲームへの転換が、新約とともに実現する」と述べます。さらに大澤氏は、イエスの求めた愛について次のように語ります。


 「その愛のことを、『隣人愛』という。『隣人』と聞くと、身近で親しい人のことだと思うかもしれませんが、そうではない。罪深い人とかダメな人とかよそ者とか嫌な奴、そういう者こそが、『隣人』の典型として念頭におかれていて、彼らをこそ愛さなくてはならない。だから、イエスは、自分についてくる者は、父や母や妻や自分の命までも憎まなくてはならない、とまで言っています(ルカ14章26節)。身近な人を赤の他人より優先することは、ほんとうの隣人愛ではない」


 この大澤氏の隣人愛についての考え方は、隣人祭りの開催に励むわたしにとって非常に参考になりました。


 第3部では、キリスト教がいかに「西洋」をつくったかが検証されます。キリスト教が西洋の歴史に与えた影響力の大きさについては、今さら言うまでもありませんが、どうしてもカトリック中心の見方になりがちです。しかし、カトリックとは別に正教というものがあることを忘れてはなりません。どうして、キリスト教はローマ・カトリックと東方正教に分かれたのか。これについて、橋爪氏は次のように述べています。


 「キリスト教には、相反する2つの組織原理があるんですね。

 ひとつは、みな平等だという考え方です。

 神の前でみな平等なんですから、人間は互いに平等なんです。

 そこで、組織のなかの上下関係(ヒエラルキー)をなるべくつくるまいとする傾向がある。

 もうひとつ、これと逆の論理は、統一を重視する。

 そのため、ヒエラルキーのある組織をつくる。

 どちらも行き過ぎると、キリスト教的でなくなるので、両方を巧妙に組み合わせる」


 キリスト教が発展していく上で、宗教的権力だけでなく、政治的権力という世俗の世界に介入していきます。そして、結婚にも介入することになります。現在では、キリスト教と結婚はストレートにイメージが結びつきますが、かつてはそうではありませんでした。橋爪氏は述べます。


 「結婚は本来、世俗のことがらで、キリスト教と関係なかったんですけども、教会は何百年もの長い時間をかけて、それを秘蹟(サクラメント)だということにした。教会が認める結婚が、正式な結婚になった。主権者である神の許可によって、結婚できるというわけです。どういうふうにこれが政治力になるかというと、封建領主の権力基盤は土地で、それを相続するでしょう。相続権は、正しい結婚から生まれた子どもに与えられることになっていったから、教会の協力がないと、封建勢力はみずからを再生産できない。世代交代のたびに、教会にあいさつが必要になる。王位継承や土地相続のたびに、教会に介入のチャンスが生まれる。これが政治的パワーになった」


 そして、キリスト教の歴史を大きく揺るがす「宗教改革」が起ります。カトリックを否定するプロテスタントという一大勢力が誕生しました。橋爪氏は「宗教改革の主題をひとことで言うなら、神からのものと人間のものを分けること。それによって、神と人間との関係を正しくすること」と明確にした上で、次のように述べます。


 「このため、神からのものだと証明できないなら、神からのものと認めない。証明できなくたって神からのものかもしれないのですが、神からのものでなかったら偶像崇拝になってしまうから、拒否する。このやり方を厳格に推し進めた」


 これもまた、非常にわかりやすい説明であると思います。そして、本書は日本人の宗教心について語り合われます。「無心論者は本当に無心論者か?」というテーマで、橋爪氏は次のように述べます。


 「日本人の考える無神論は、神に支配されたくないという感情なんです。『はまると怖い』とかも、だいたいそう。それは大多数の人びとの共通感覚だから、もしそれを無神論というなら、日本人は無神論が大好きです。

 でも、これは、一神教の想定する無神論とはだいぶ違う。

 日本人が神に支配されたくないのは、そのぶん自分の主体性を奪われるから。日本人は主体性が大好きで、努力が大好きで、努力でよりよい結果を実現しようとする。その努力をしない怠け者が大嫌いで、神まかせも大嫌い。と考える人びとなのです。だからカミが大勢いる。カミが大勢いれば、カミひとりの勢力はそのぶん殺がれる。人間の主体性が発揮しやすい」


 本書の最後では、大澤氏が次のようにまとめています。


 「いわゆるグローバリゼーションというのは、ぼくらがここまで論じてきた『ふしぎなキリスト教』に由来する西洋文明が、それとは異なった宗教的な伝統を受け継ぐ文明や文化と、これまでになく深いレベルで交流したり、混じり合ったりするということです。

 ここで、これまでの西洋化と異なっているのは、『西洋』に由来する『近代』にも限界や問題があることが、西洋自身によっても、その外部にあって西洋を受け入れてきた人たちによっても、明確に自覚されていることではないかと思いますね。環境問題やエネルギー問題にしても、あるいは民族や宗教の間の深刻な紛争や戦争にしても、あるいは資本主義が生み出した格差の問題にしても、西洋=近代の限界を示唆している。だから『ポスト』近代なんていうことも言われるようになってきたわけです。

 そういう中で、キリスト教に下支えされてきた文明がどのように変容していくか。あるいはどのように自分を乗り越えていかなければならないのか。それが次の主題ですね」


 本書は、まさに「ふしぎなキリスト教」の謎を次々に解き明かしてくれました。最初に述べたように、そのベースには小室直樹氏の宗教観がありますが、それを一般読者にも面白く読ませることに成功しています。わたしも、『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』を書いた頃のことを思い出しました。


 そして、いつかまた一神教について書いてみたいと思いました。次の主題について橋爪氏と大澤氏が語り合う第二弾にも大いに期待したいと思います。