No.0933 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『芦原英幸正伝』 小島一志&小島大志著(新潮社)

2014.05.27

 『芦原英幸正伝』小島一志&小島大志著(新潮社)を読みました。
 この読書館でもご紹介したノンフィクション『大山倍達正伝』『大山倍達の遺言』の続編ともいえる内容です。本書をあわせて、「空手三部作」と呼んでもいいでしょう。これまで小島一志氏と塚本佳子氏との共著という形でしたが、本書は小島一志氏とその長男である小島大志氏との父子共著です 。

   「”魂の評伝”ついに完成!」と書かれた帯

 本書の帯には以下のように書かれています。

 「伝説の天才空手家から生前、唯一人だけ取材を許された著者が、その濃密なる10年の交流を元に執筆した”魂の評伝”遂に完成!」

   帯の裏には内容紹介が・・・・・・

 また、帯の裏には以下のような内容紹介があります。

 「大山倍達が震えた最後の支部長会議、拳銃の刺客返り討ち事件、正道会館によるクーデターの真相、知られざる究極のサバキとは・・・・・・他。
  誰よりも強く、破天荒で、そして優しかった天才空手家の真の姿がとうとう描き出された!」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「はじめに」(小島一志)
第一部 芦原英幸回顧録(小島一志)
序 章 尊厳
第一章 破門
第二章 孤立
第三章 反逆
第四章 刺客
第二部 芦原英幸探究録(小島大志)
第一章 東京・伝説の原点
第二章 野村・単身四国へ
第三章 八幡浜・芦原道場の息吹
第四章 松山・サバキの背景
第五章 江田島・生誕の地
第三部 芦原英幸回顧録・2(小島一志)
第一章 最強
第二章 人情
第三章 神業
第四章 決別
終 章 永遠
付記(小島一志)
おわりに(小島大志)
参考資料・文献

 本書の主人公である芦原英幸とは、1944年(昭和19年)、広島県佐伯郡能美町(現・江田島市)出身の空手家で、愛媛県松山市に本部を置く「新国際空手道連盟芦原会館」の創始者です。もともと極真会館四国(愛媛)支部長を務め、梶原一騎原作の「空手バカ一代」では大山倍達に次ぐ準主役として登場、「ケンカ十段」の異名で人気者となりました。
 しかしながら、1980年に極真会館総帥・大山倍達との確執で極真を除名されます。同年、芦原会館を設立し、空手界に一時代を築きました。相手の攻撃を受け流して側面・背後から反撃を加える「サバキ(捌き)」と呼ばれる技術を体系化し、「誰にもできるカラテ」を提唱したことで知られています。積極的な展開で、芦原会館は国際的な空手会派に成長しましたが、1992年(平成4年)に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、2年以上の闘病生活の末、その生涯を閉じています。

 「はじめに」の冒頭で、小島一志氏は次のように書いています。

 「芦原英幸という人物は、私にとって極めて特別な存在だった。極言するならば、現在の私がこうしてのうのうと生きていられるのも、もちろん物書きのはしくれとして生活していられるのも全て芦原英幸という存在あってこそだと信じている。格技・武道・空手の世界は一見広いようで実に狭い。芦原には多くの敵がいた。そして芦原について書くことは、私もまたより多くの敵を作ることを意味している。『この世界』で自らの意志を公然と表すこと自体、敵を作る行為と言ってもいい。実際、私は『この世界』に関わることで相当な憎まれ役を買ってきた」
 しかし、著者は生前の芦原から「いつの日かワシの本当の姿を書いてくれ」と何度も言われてきたそうで、その約束を果たすべく、1人の「漢(おとこ)」として徹頭徹尾、真っ直ぐに生きてきた芦原の真の生きざまを形にして残したいと決心したといいます。

 第一部「芦原英幸回顧録」の序章「尊厳」で、小島一志氏は次のように書いています。

 「小学校の高学年、私はある更生施設で柔道のイロハを学んだ。その後、中・高と柔道部に所属。半端ながらボクシング・徒手格闘技に触れた後、20歳で極真会館に入門した。それ以降、時には道場生として、末席の選手として、さらには編集記者、物書きとして、所謂『格闘技界(この言葉を私は好きではないが・・・・・・)』つまり武道・格技の世界と現在まで関わり続けてきた」

 小島一志氏は、氏の人生において唯一無二、最大の「恩人」であり、究極最強の「武道家」、かつ「尊敬」するに足る人間は芦原英幸しかいないとまで述べ、次のように書いています。
「芦原は、素手による闘争の強さはもちろん、武器術においても最高のレベルを維持し、なおかつその他、金銭、名誉、あらゆる強さを身に付けていた。実に希有な存在と言える。そして、自分自身を恥じることもなく、躊躇うこともなく、如何なる時でも自然な素顔を周囲に晒していた。私にはそんな、一見無防備過ぎるほど自らに対する他人の目を一顧だにしない芦原の強さに、とてつもない眩しさを感じたものである」

 芦原英幸は、師である大山倍達に次いで有名な空手家です。なぜか。本書には、次のように書かれています。

 「芦原英幸と言えば、梶原一騎原作による劇画『空手バカ一代』(作画はつのだじろう、後編は影丸譲也)を通してあまりにも有名だった。ちなみに、『空手バカ一代』は1971~77年にわたって『週刊少年マガジン』(講談社)に連載され、当時のブルース・リーによるカンフーブームと相まって、驚異的な『極真空手』人気の引き金となった。この劇画の主人公は極真会館を創設した大山倍達であり、それまで一般的には無名に等しかった大山の名は、在りし日のヒーロー・力道山を凌ぐほどに知れ渡ることになる。漫画雑誌を中心とした『極真空手』人気は、全国ネットで放映されたテレビアニメ版によって、さらに勢い付くことになる」

 「『空手バカ一代』は幼少時代から現在に至るまでの大山倍達の半生を描ききった段階で、本来ならば完結しているはずだった。ところが、予想を遥かに超えた人気のため、連載の終了は無期限状態に先延ばしにされた。大山を描ききった後、次なるスター、つまり『第二の主人公』として劇画に登場するのが芦原英幸である(ついでに言えば、芦原の跡を引き継いだのが『極真の猛虎』と異名をとった添野義二だ)」

 しかし、『空手バカ一代』に登場することによって人気者になったがゆえに、芦原英幸は師である大山倍達との軋轢を生み、ついには支部長会議において極真会館を除名されます。芦原以外のすべての支部長が彼の除名を知っていたという異様な会議で、芦原が議長である大山倍達館長に向かって吐いた啖呵が凄いです。以下のようなセリフでした。

 「何を最初から茶番やっとるんよ。面倒くさいことタラタラ続けよって。最初から目的は決まっとったんやろ。館長、そうでしょう。この芦原を破門にするため、何もかもあんたが企んどったことは分かっちょったわ。館長、こんだけの人間集めて芦原を脅かそうとかビビらせようなんて考えちょったら甘いですけん」

 「ワシが邪魔やと言うんなら、館長これだけの支部長がおりますけん、ここで芦原を殺してくださいよ。このデカいガラス窓を蹴破って一人ひとり窓の外に放り投げてやってもいいんですよ。ほらお前ら、黙っちょらんで向かって来いや。何が極真の支部長や、誰一人戦えるもんなどおらんやないけえ」

 「館長、ワシがこの窓蹴破ると言っちょるんです。こんな腰抜け支部長は置いといて、館長が芦原を外に放り出してくださいよ。アンタ『牛殺しの大山』と言われちょるんでしょ。何頭もの牛を殺したんでしょ。熊も退治したって聞いてますけん、ワシみたいなヒヨっ子潰すのなんて簡単やないんですか。破門だ除名だ手回しのいいことせんでも、今ここで決着つけてくださいよ」

 このとき、居並ぶ極真会館の支部長たちは芦原の殺気の前で一言もなかったといいます。ゴッドハンド・大山倍達のみならず、多くの支部長を前にして1人でケンカを売った芦原には驚く他ありませんが、それほど彼の強さは極真の中では伝説と化していました。

 第二部「芦原英幸探究録」の第三章「八幡浜・芦原道場の息吹」において、小島大志氏は以下のように書いています。

 「1969年9月20日、極真会館主催による第一回全日本選手権が東京都体育館にて開催された。この年の春から夏に向けて、大会に出場する多くの後輩たちが八幡浜に集結した。芦原の指導を請うのが目的だったのは言うまでもない。添野義二、山崎照朝、長谷川一幸、三浦美幸、高木薫・・・・・・また芦原道場からは二宮博昭と浜本紀義の出場も決まっていた。彼らのなかには、当時高校生だった二宮城光や中元憲義も加わっていた」

 後にキックボクサーとしても活躍した山崎照朝選手は、こう語ったそうです。

 「そもそも、後に極真では当たり前になる技、背足の中段回し蹴りや後ろ蹴り、後ろ回し蹴り、これらはみんな芦原が使い出して一般的になったんです。下段蹴りもキック(ボクシング)の蹴りより多彩な蹴り方を、芦原はみんなに教えてくれた。あの頃、選手全員が芦原に向かっていっても勝てなかったと思う。俺もそうだけど、添野なんて何度KOされていたか数え切れないな」

 山崎選手も添野選手も『空手バカ一代』で活躍するほどの強豪でしたが、その彼らをまったく寄せつけなかった芦原英幸の強さは想像もつきません。

 芦原英幸のファイティング・スピリットというかケンカ魂は常識を超えていました。彼は「人は強くなければならんのよ」といつも言っていたそうですが、第三部「芦原英幸回顧録2」の第一章「最強」には、小島一志氏に語ったという芦原のセリフが次のように紹介されています。

 「原則的には喧嘩になったら最後のトドメを刺さんといかん。例えば道場破りがやって来たとする。一見して弱っちい奴やと分かった。だからと言って挑戦を受けず、まあまあって帰しでもしたなら、相手は『道場破りに行ったら、ビビりよって頭を下げてきた』と言い触らす。それなら軽く痛め付けて、試合なら『一本』を2、3回とって帰せば、奴は『まあまあ互角やった』と虚勢を張るんです。今度はアバラの2、3本折って目に赤タン青タン作って帰しても、『こっちも随分反撃されたけん、相手はそれ以上のけがをしちょる』と嘘をつくんよ。やるからには完全にトドメを刺す。二度と挑戦する気も起こらん。こっちの顔を思い出すだけで体が震えるまで・・・・・・。昔なら殺す、今ならば再起不能にせんといかん。ただ最終的に潰したらいかん相手との喧嘩となると話は変わってくる。ビジネスの喧嘩が良い例や。そういう時は、徹底的に相手を追い込んで、土下座させる寸前まで追い込んで、最後に土下座はさせずに『すんませんでした』とこっちが謝るんよ。実際の喧嘩では完全にこっちの勝ちに持っていく。じゃけん、最後の最後、相手のメンツを潰さんようにこっちが下手に出る。これも喧嘩の大事なテクニックじゃけん。洋は芦原のサバキと同じ要領よ」

 「サバキ」は芦原空手の代名詞でもあります。もともと、芦原が少林寺拳法などを参考にして作り上げた技術体系ですが、相手の攻撃を受け流して死角に入り込み、時には投げなどを使って敵の体を崩しながら打撃を加えて倒したり、制圧したりします。要するに、実戦を意識した攻防一致のスタイルなのですが、稽古においては二人一組での約束組手を通じ、さまざまなサバキを体得することを目標としています。なお、芦原空手は、自衛隊の警務科部隊で訓練されている「自衛隊逮捕術」に影響を与えました。

 極真の関係者はみな芦原の強さを認めていましたが、例外が2人だけいました。館長の大山倍達と、師範だった黒崎健時です。黒崎はキックボクシングの目白ジム会長として、かの藤原敏夫を育てた人物で、後に新格闘術を創設しました。大山館長は「芦原は弱い者しか相手にしなかった」「芦原の空手は、空手ではなく喧嘩だ」「あいつは卑怯なことしかしない」「針小棒大、嘘を言いふらして自分を大きく見せてきた」などと語ったそうですが、小島一志氏は「これらの大山の言葉について、全て大山自身に当てはまると思うのは私だけだろうか」と書いています。

 その大山倍達は、最後の支部長会議で芦原から啖呵を切られ、大恥をかいています。このときの大山の暗い感情が、その後、芦原に大きな禍をもたらしたというのが本書の見解です。すんわち、芦原英幸の弟子であった石井和義が芦原会館から独立し、正道会館を起こしたことです。正道会館は瞬く間に勢力を拡大し、ついにはプロ格闘技である「K-1」を生んで、一大ブームを巻き起こしました。小島一志氏は以下のように書いています。

 「生前の芦原は、石井や正道会館を、決して許すことができないと幾度も幾度も口にしていた。正道会館が作られていく経緯については全く口にしない芦原だったが、彼の側に立って見るならば、石井が主導した正道会館は『裏切り者』以外の何ものでもなかったのは当然だ。ただ、この『芦原門下生クーデター騒動』が極真会館による芦原への永久除名処分を引き金にしているという事実は、あまりにも皮肉に思えてならない。つまり芦原は大山倍達にとって許されざる裏切り者であり、その芦原を石井和義はじめ、多くの支部長や道場生が裏切り、彼らをまた『暗』の部分で大山が裏切ったという構図――。人間が生まれながらに持つ宿痾の醜さを垣間見た思いにとらわれるのは、決して私だけではないだろう」

 しかし、正道会館は紛れもなく、芦原会館の流れを汲む組織でした。終章「永遠」において、小島一志氏は次のように書いています。

 「正道会館には一貫して本家・極真会館の稽古体系と並行するように、芦原英幸が体系立てたサバキが両輪となりながら、生き続けてきた事実を無視してはいけない。さらに、正道会館とK-1運営団体が明確に区別されて以来、現在まで館長代行として正道会館のトップに立った中本直樹は、大学時代に学んだ合気道の経験を生かし、再び正道空手にサバキのエッセンスを甦らせる研究に勤しんでいる。それはまさに、芦原英幸が遺したサバキの継承に行き着くと言っても過言ではない」

 かつて全盛時の極真会館で芦原と並んで「天才」の異名をとった大山泰彦は、「芦原は天才だった。芦原のサバキは芦原の前になく後にもない」と語ったそうです。ハードカバーで440ページある本書を一気に通読して、芦原英幸という空手家の強さはよく理解できたつもりです。それとともに、彼が原爆投下の1年前の広島に生まれたこと、超能力としか思えないようなオカルトめいた行いを残したこと、さらにはALSという難病でこの世を去ったことなど、「人間・芦原英幸」にも大いに興味を抱きました。前作の『大山倍達の遺言』同様に登場人物の多くが存命であり、書かれてある内容に関しても評価の分かれる本書ですが、わたしは興味深く読みました。

 それにしても、芦原英幸という人は『空手バカ一代』という劇画に運命を翻弄されたように思えてなりません。最後に、『空手バカ一代』についての彼の発言を紹介して終わりたいと思います。

 「まぁワシもひょんなことから空手始めて、知らないうちにただの喧嘩屋が『ケンカ十段』て持ち上げられ、いつの間にかワシと同じ名前の人間が、漫画の主人公やっとるんよ。ワシとおんなじ・・・・・・。けど一方は紙のなかでスーパーマン演じとるんよ。この世に芦原英幸が2人存在しよった。尤も漫画は『あしわら』じゃけん、全国で何百万部も売れている週刊誌に書かれるっちゅうのはとんでもないことなんよ。生活が180度変わる。どっちの人間も演じんといけんけえ、多重人格者になるんよ。ワシは寸前で逃げた。芦原はワシ1人や。漫画の芦原はインチキか物真似芸人に過ぎん。こうして逃げた途端、今度は本物の芦原を攻撃してくるんよ」

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