No.0821 読書論・読書術 『だから人は本を読む』 福原義春著(東洋経済新報社)

2013.11.06

 『だから人は本を読む』福原義春著(東洋経済新報社)を再読しました。
 2009年に出版された本で、すでに刊行直後に読んでいます。しかし、著者の最新作である『本よむ幸せ』(求龍堂)を最近読み、本書をもう一度読み返してみたくなったのです。本書の帯には「私という人間は、今までに読んだ本に編集されてでき上がっているのかもしれない。」「文字・活字文化の継承に向けた、経済界随一の読書家からの提言」と書かれています。

 著者は、資生堂の名誉会長です。1931年東京生まれで、53年に慶応義塾大学経済学部卒業後、資生堂入社。米国法人社長を経て、商品開発部長、取締役外国部長。フランス、ドイツに現地法人を設立、中国に進出するなど海外市場拡大戦略を推進しました。87年に資生堂の第10代社長、97年に会長、2001年に名誉会長に就任しています。東京都写真美術館館長、文字・活字文化推進機構会長、企業メセナ協議会会長、日仏経済人クラブ日本側議長、日伊ビジネスグループ日本側議長、東京芸術文化評議会会長といった公職も多く務め、経済界きっての読書家であり教養人として知られています。

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「はしがき」
第一章:私の読書体験
第二章:読書と教養
第三章:仕事は読書によって磨かれる
第四章:私が影響を受けてきた本
第五章:読書と日本人
第六章:出版・活字文化の大いなる課題
「あとがき」

 「はじめに」の冒頭で、著者は「人が本を読まなくなったのだという。それでいいのだろうかと怪しむ」と書いています。そして忙しいから本が読む時間がないというのなら、そんなに忙しければ、朝は顔を洗わず、夜は晩飯を抜いたらどうかと提言します。それは困るというなら、どうして本を読むことだけをやめてしまうのかと問いつつ、次のように述べます。

 「地球の歴史46億年に比べると、人類は何万年か前に言葉を作り、文字を使うようになってからもたかが数千年しか生きていない生物だ。それが一瞬といっていい程の時間に知的な成長をしてしまった。それは人が知識の蓄積を次の代に伝えることができたからである。人は言語を操り、文字を作り、板や羊皮紙やパピルスにそれを誌してずっと後の世代まで伝えることをしてきた」

 また、著者は韓国や中国などのアジアの国々が早くから木版や銅版での印刷に取り組み、欧州ではグーテンベルクの活字版によって資料や本が半永久的に伝わるようになったことを示して、次のように述べます。

 「私たちは今、本によって古い時代から人がどう生きてきたか、それによって積み重ねられた知識を学び、どんな体験を持っていたか、さらに同時代の多くの人たちがいかに多様な思想を持つか、いかに想像や創造の能力を持つかなどのすべてを知ることができるのだ。
 デフォーが『ロビンソン・クルーソー漂流記』を書いたからこそ、私たちは人間が1人で暮らすことが現実にはいかに難しいかを学ぶのだ。
 だから本を読むことは、私たちの世代とともに先人たちの考えを学ぶことであるし、同時に読む人にとっては楽しみであるはずである。どうして本を大学や図書館や書店の店頭に積み上げたままにしておくのか。それは人生にとっての”偉大な損失”ではないだろうか。読書は人の生存にとっての必需品ではないが、人生の必需品なのだ」

 さらには、画家ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか」「われわれは何者か」「われわれはどこへ行くのか」という人間にとって最終の問いを紹介し、次のように述べるのです。

 「今、会社がとても忙しい。良い本はとりあえず買っておいて、定年になったらゆっくり読もうという人がいる。ところが残念なことにのんびりする頃にはたぶん体力や視力や感受性も衰えている。忙しい時期にこそ1日10分でも本を読んで、吸収した栄養をその時からの人生に、仕事に役立てるべきなのだ。本にも旬があり、人が本を読むにも旬が大切だ」

 第二章「読書と教養」では、本を読むということに対する著者の熱い想いが綴られ、その冒頭では次のように述べられています。

 「私は『生きることは学ぶことだ』、つまり、人というのは生きている間中、学んでいるのだと一貫して思ってきた。ただ、その時の『学ぶ』とは、『覚える』ことではなく『知る』ことだ。しかも、子どものころ学校で学んでそれで十分ということでは決してなく、むしろその先で学ぶことのほうが多いはずだ。社会に出た後は、『覚える』よりも『知る』ことが大きいのではないだろうか」

 なぜ、人は本を読むのか。読書とは、何のためにあるのか。その答えを、著者は以下のように明快に示しています。

 「私たちの人生というのは、かつては50年、60年であったのが、今や70年、80年の時代になった。けれども、しょせんは人間の一生なんて100年に届くか届かないかの短いもので、その間、子どもから老人になるまでの間に経験することは、1人が一生かかってもたいしたことはない。人間は数千年前から、その営みをたくさんの人たちが繰り返してきたのである。それらを継承する術がなければ、1人が死ぬと、そこで成功の経験も失敗の経験も終わってしまう。どれほど大勢の人が生まれても、必ず死によって終わってしまうわけだ。それではまるで、毎回砂山を作っては崩しているようなもので、ただ一歩の進歩も生み出すことはできない」

 著者のいうように、人間の営みを継承する術がなければ、人類は一歩も前進することができません。しかし、実際にはその経験や思想の一部が文字になって残っています。そして活字となり、本になって残っているわけです。著者は、次のように述べています。

 「われわれの先祖である膨大な数の人たちが考えたり、人生体験をしたり、冒険をしたり、あるいは一生かかって思想を作ったりしたのだから、本を読むということは何かと突き詰めて考えていくと、数多くの先人たちの体験や考えかたなどを、私たちが比較的容易にいくらでも吸収することが可能であるということである。ソクラテスが何十年もかけてようやく到達した思想が、本を読むだけでわかるのだから、読まないのは何ともったいないことか。自由に使える知の金庫があって『さぁ、お入りなさい』と扉が開いているのに面倒くさがって入らないのと同じことで、そう思うと読まずにいられなくならないだろうか」

 本書では、とにかく古典を読むことが推奨されます。「知は古典によって得られる」と確信する著者は、次のように述べます。

 「私はハウツー本も時には役に立つと思っているが、それはポテトチップスやチョコレートのようにおいしいけれど、あくまでも副食やスナックであって、やはり主食であるご飯をきちんと食べないと健康な体は作れないと考えている。主食にあたるのはもちろん先人が深い考えで書いた古典、あるいは人間や物事の本質を見極めようとする本といえる」

 そのような主食としての古典は、著者にとってはどういう本なのでしょうか。それは、「なかなか難しいが『老子』かもしれない」と書いています。
 また、著者は「教養とは人間の本質に迫ること」だとして、次のように述べます。

 「私は、教養とは、情報(データ)や知識(インフォメーション)が元の形のまま集積したものではなく、人間という入れ物の中で知性(インテリジェンス)に変換された人間性の一部ではないかと考える。では、人間の本質を見極めることがなぜ必要なのか。それは自分の中に、ぶれない軸を作る必要があるからだ。目の前の現象を追うばかりでふりまわされてしまうことなく、しっかりとした判断の基準を培って、より良く生きるためなのである」

 そして著者は「読書によって類推する力を身に付ける」ことの重要性を訴え、次のように述べます。

 「人間は未知の世界へ進んでいく怖さをいつも持っている。それは見知らぬ世界だったり、未来だったりするのだが、それでも本から得た『知』は、私たちが事態を類推する灯りとなり得るのではないだろうか。それは、本がかつての人間の足跡を教えてくれるからである」

 著者は「人間はあらゆる情報の編集でできている」と考えている人で、『私』というものは『編集された私』であると読者に説きます。そして、「本の選択とは、自分が何を読むかを編集することだ。そして、本を読んでしまえば、やがてそれらの本によって編集された自分が出てくるのである」と述べます。

 第三章「仕事は読書によって磨かれる」は、大変参考になりました。著者は「経済界随一の読書家」と呼ばれていますが、そんな著者にも先達たちがいました。平岩外四(東京電力元会長)、鈴木治雄(昭和電工元会長)、山下俊彦(松下電器元社長)といった経済界の読書の達人たちです。「企業人の読書」について、著者は次のように述べます。

 「企業人には食わず嫌いをなるべくしないで読書することをすすめたい。業務に関係のあるビジネス書を読むことで精いっぱい、と決めてかからないことだ。私は、仕事で行き詰まり、どうしても結論を出せなくて考えあぐねていた時に、ふと趣味の世界の考え方を当てはめてみたら、霧が晴れるように答えを見出せたりしたことがあった。それも一度や二度ではなかったのである」

 さて、『老子』を座右の書としているという著者は、当然のことか、『論語』には良い印象を抱いていないようですね。もともと学生時代から教条的でなじめないという思いがしたそうですが、『論語』の言葉が戦争や全体主義に利用されたことに対する反撥もあるようです。昨今の『論語』を企業人の拠りどころとして学ぼうという風潮にも違和感を覚える著者は、次のように述べています。

 「もちろん『論語』を否定する気は毛頭ない。かつてミシガン州立大学で『マーケティング』の講義をされていたウィリアム・レーザー教授が、経営のいちばん基礎の部分にフィロソフィー(哲学)、その上にプリンシプル(思考・行動の原理)、さらに上に載っているのがストラテジー(戦略)だとおっしゃっている。孔子の言葉『論語』は秩序を重んじ、非常に規範的であり、かつ自己充実的で、良くいえば建設的である。これはプリンシプルに近く、それに比べて荘子がいっているのはフィロソフィー、つまり根源的な哲学なのだと思う。だから、少なくとも孔子を唯一の規範として頼り切ってしまうというのは、物事のある一面的な見方であり、人間の本質に迫りきれないのではないだろうか。だからこそ、老子・荘子を読むことにも挑んで、ものの考え方、人生のとらえ方には、さまざまあることを知ったほうが良いと思うのだ」

 わたしは、孔子の思想が戦争や全体主義に利用されやすいという見方には反対です。なぜなら、孔子の説いた「礼」こそは究極の平和思想だからです。でも、人間の本質に迫るには多面的な見方が考え方が必要というのは賛成です。拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)にも書いたように、わたし自身、孔子も老子もともにリスペクトしいていますし、何よりも「なんでもあり」、「ええとこどり」の心学の精神を大切にしています。著者は、次のように述べます。

 「老子・荘子の考えに触れるにつれて、今の世の中に通用するのは老子であり、近未来の社会に通用するのは荘子ではないか、と考えるに至ったのは、かなり以前のことになる。老子の言葉の多くは、孔子の金言に対する裏読みであり、皮肉であり、逆説であり、また逆転思考・水平思考の混合であるといえる。だから孔子が勉強に努めなさいといえば、老子はものを識っていても、ひけらかしてはいけないと論すのだ。孔子が成功の道を説けば、成功におごって安住してはいけないよと、説くのである」

 本書を読んで最も印象深かったのは、著者が資生堂の全社員に絵本を配ったという以下のくだりでした。

 「1992年、資生堂が創業120年記念の年を迎えるにあたって、その前年に、何で祝おうかという相談をした。提案をしてくれた社員があって、その記念にジャン・ジオノの『木を植えた人』(こぐま社)を全社員に配ることになったのである。この本は世界中の主要言語に翻訳されているから、全社員に同じものを読んでもらうことができる。この本を通じて、私の仕事に対する思想も伝わるのではないかと考えたのだ」

 以前、わたしも書評を書いたことがありますが、『木を植えた人』はフランスの山岳地帯に1人とどまり、何十年もの間、荒れ果てた山にドングリを埋め、木を植え続け、ついには森を甦らせたエルゼアール・ブフィェという羊飼いの物語です。じつはこのブフィェは架空の存在で、ジャン・ジオノの心の中のイメージなのですが、この物語は世界的なベストセラーになりました。

 なぜ、この本に惹かれたのかを著者は次のように述べます。

 「私がこの本に打たれたのは、1つの目的に向かって急がずに絶えざる努力を続ければ、思いがけぬような立派な結果が得られるということだ。
 人はややもすると場当たり的に面白そうなテーマに取り組んでは、成果を待たずにやめてしまうことが多いものだ。それに反して、羊飼いのブフィェは毎夜きっかり百粒のどんぐりの実を選び、それを何十年にもわたって木のない山に植え続けたのであった」

 著者はこの『木を植えた人』を創業120年を祝う手紙とともに世界中の社員に届けたそうです。それは日本だけでも5000人以上、世界では2万人以上の人々への本のプレゼントでした。フランスではフランス語版を、アメリカでは英語版を、香港では中国語版の『木を植えた人』が贈られました。著者が書いた「言葉は心を運ぶ。私はこの本を借りて皆さんに私の心を贈りたい。まず会社の中に木を植え、会社の働きを通じて社会に木を植えたい」という手紙を添えて。

 社員からはさまざまな反応があったそうですが、フランスのジアン工場の社員からはたくさんの手紙が来たそうです。その1つには「私は今までいくつかの会社に勤めたが、社長から本を贈られたのは初めてで感激した」とあり、かえって著者のほうが感激してしまったそうです。とても素敵な話ですね。2万以上の社員に各国の言葉で書かれた『木を植えた人』を贈った著者は、次のように述べています。

 「社長であった私が、個人の企業人として考える仕事観は、おそらく社員1人ひとりの心の中にも多かれ少なかれ存在しているものだと思う。たとえわずかでもその共通の価値観が通じ合い、個人が成長していけば企業も成長できるのである。そしてその先には社会への貢献がある。忙しさに振りまわされたり、今進めている仕事に失敗したりすることがあっても、「急がず絶えざる努力」という『木を植えた人』の仕事観が、頭の片隅にあれば何かの支えになるかもしれない。それが言葉の力である」

 この一文には、わたしも言葉の力を信じる1人の経営者として感動しました。

 第四章「私が影響を受けてきた本」では、著者が愛読する14冊の本が紹介されています。その本とは、以下の通りです。

ラ・ロシュフコー『ラ・ロシュフコー箴言集』
カエサル『ガリア戦記』
鴨長明『方丈記』
リチャード・ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』
寺田寅彦『電車の混雑について』
司馬遷『史記』
アゴタ・クリストフ『悪童日記』
川喜田二郎『パーティー学』
ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』
萩原朔太郎『猫町』
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
アルチュール・ランボー『地獄の季節』
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』

 じつにバラエティ豊かというか、渋いラインナップですが、これらの本についての詳しい感想は、新刊「本よむ幸せ」に綴られています。

 それにしても、著者のような良書を読む経営者が増えれば、いろいろな意味で日本の経済界ももっと良くなる気がします。アベノミックスで異常な好業績を出す企業が相次いでいますが、この先はどうなるかわかりません。「一寸先は闇」の世界を生き延びるには、何よりも真に教養あるリーダーの存在が求められます。

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