No.2235 芸術・芸能・映画 | 評伝・自伝 『少年タイムカプセル』 錦織一清著(新潮社)

2023.04.29

 故ジャニー喜多川氏の性加害問題でジャニーズ事務所が大揺れです。そんな中、「ジャニー喜多川の最高傑作」と呼ばれた少年隊の錦織一清著『少年タイムカプセル』(新潮社)を読みました。現在は演出家・俳優である著者は、1965年東京都生まれ。85年、「少年隊」としてデビューし、リーダーに。翌86年から、毎夏、東京・青山劇場で上演された少年隊主演のオリジナル・ミュージカル・シリーズ『PLAYZONE(プレゾン)』は、2008年まで23年間続いた演劇界の金字塔。単独でも、88年、ミュージカル『GOLDEN BOY』主演を皮切りに、数多くの舞台に出演。95 年『PLAYZONE’95 KING&JOKER 映画界の夢と情熱』にて初の脚本・演出。99年、舞台『蒲田行進曲』出演を機に、つかこうへい氏の薫陶を受けました。09年頃から舞台演出を積極的に手掛け、現在、俳優業に加え、演出家として活躍中。18年に演出した『よろこびのうた』がAll Aboutミュージカル・アワードのファミリー・ミュージカル賞を受賞。20年末でジャニーズ事務所を退所し、独立。

本書の帯

 カバー表紙には河原のような場所の石段に腰かける著者の写真が使われ、「12歳でジャニーズへ。85年『仮面舞踏会』でデビュー。盟友・植草克秀と東山紀之、時を超える名曲にダンス論、恩師・ジャニー喜多川……」「少年隊のニッキが”仮面”を脱ぎ捨てて語る、初の自叙伝」「『YOUは、天才だよ!』その刹那、少年の人生が大きく動き出した――」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には、「夏のある日、先頭から帰ってくると、今度の日曜日にテレビ朝日に来られないか、という電話があった事を、部屋に入るなりいきなり聞かされました。『……?』なんのことだかさっぱり解らず問いただしてみると、姉が遊び半分で履歴書を送ったということが判明しました。小学生だった私はああだこうだと丸め込まれ、家族4人で六本木という駅を死に物狂いで探し出し、あの夏休み、私の人生を決める事となるリハーサル室へと連れて行かれたのです。(「はじめに――小さな町の小さな家」より)」「それでは、一緒にタイムカプセルを――」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに――小さな町の小さな家」
 第1章 YOU、天才だよ!

 第2章 アイドルで成りあがる

 第3章 東山紀之と植草克秀

 第4章 グシャグシャの日々

 第5章 1985年12月12日

 第6章 それぞれのタイムカプセル

 第7章 『PLAYZONE』

   ――夏の青山の23年

 第8章 1987年の少年隊

 第9章 少年隊は

     俺たちだけじゃない

第10章 この先があるように踊れ

   ――錦織一清のダンス論

第11章 師弟関係

   ――ジャニー喜多川と錦織一清
「おわりに――ひとりで屋台を引いてみたかった」

 本書は錦織一清の著述ではなく、インタビュー集となっています。聞き手は、ノーナ・リーヴスのシンガーであり、バンド以外でも作詞・作曲家、歌手、音楽プロデューサー、小説家、脚本家、MCとして活動している西寺郷太。第4章「グシャグシャの日々」の「3人でのスタート」では、「高校生になってジャニーズに戻って、ドラマやCMに出たり、様々に活動の幅が広がっていきましたが、20歳で少年隊としてデビューするまではまだ時間がありますよね。ジャニーズでも、たのきんトリオに続いて1982年にはシブがき隊がデビューしていますが、その3人とは入所は同期ぐらいですか?」という質問が出ます。

 それに対して、著者は「それがシブがき隊とは全然接点ないのよ。あの3人は合宿所生活じゃなかったから、ほとんど会ってない。一緒になったのって『ザ・ヤングベストテン』(テレビ東京)の時ぐらいかな。シブがき隊が『Aチーム』で、少年隊が『Bチーム』。番組が始まった1981年の時点で少年隊はまだ俺と植草と松原で、東山が松原と交代してその3人になったのは、その翌年1982年の春頃だったかな」と答えています。

「18歳の反骨心とファースト・コンサート」では、「1983年の大晦日には『NHK紅白歌合戦』に近藤真彦さんのバックダンサーとして出演しています。。曲は『ためいきロ・カ・ビ・リー』。この頃は、近藤さんと一緒の仕事が多いんですが、どんな感じだったんですか? 接し方というか。『お前ら、踊りうめえよな』みたいなノリなんですか?」という質問に対して、著者は「そういうのではなかったけど……。マッチは下町の先輩に近い感じかな。『おい、お前よぉ、こうでよぉ』っていう感じだから。ジャニーズ事務所っぽくない。そういう意味では少し親しみはあったかもしれない。匂いというか。マッチも永ちゃんが好きだし」と答えています。

「1984年になって、着々と露出は増えていきます。1月には「デラ」のCMに出演。コマーシャルソングの『感じだね……デラ』も歌っています」という発言に対しては、著者は「これは明治製菓のチョコレートのCM。電通の仕切りで全面協力してくれて、曲まで作った。いかにもバブルに向かう時代の影響だよね。撮影もニューヨークだし」よ答えています。聞き手の西寺氏は、「この『感じだね……デラ』は、2020年12月に発売された少年隊のデビュー35周年のベストアルバムにはフルバージョンが収録されていますが、『最初はCM用の15秒しかなかった』と聞いたように思うんですが?」との質問には、著者は「最初はそうだったね」と答えます。

「YOU、デビューすると大変なんだよ」では、少年隊の代名詞ともなったミュージカル『PLAYZONE』について、著者は「俺もよくジャニーさんとはぶつかったけど。『PLAYZONE』のステージというのは、『デビューしているし、セールスも大事なんだけど、夏のこの時期はじっくりミュージカルをやりなさい』ってことだと思っている。俺たちはそれをやらせてもらったからいいけど、たのきんの3人は、そういったゆとりもなかったと思うから」「毎日毎日『ラジオ番組があります』『アイドル雑誌の取材があります』『歌番組に出ます』『何本撮りかのスタジオに入らなきゃいけません』……トシちゃんなんかもそうだけど、時間的にそういう商業活動に徹しなきゃいけなかったんだよ。トシちゃんもミュージカルは行けたとは思うんだよ。でも、ゆとりの部分だよ。事務所としても単品で売って行かないといけない。トシちゃんにはその時間がなかったんだろうし」と語っています。

「人を楽しませたいだけの人」では、『PLAYZONE』の公演が始まった頃について、「この時期、ジャニーさんの言っていたことで、印象に残っていることってありますか?」という質問に対して、著者は「そうね……。俺が永ちゃんを好きなこともよく知ってた。痛いほど知ってる。実際にビデオを隠されたからね。俺がずっと見ているから。その上でジャニーさんは『彼の歌とかは、ちーっとも面白くない』って言ってた」とけっこう衝撃的なことを言います。また、著者は「永ちゃんが『RUN&RUN』とかで、『ねえ、僕をアメリカへ連れて行って。僕はアメリカで勝負しなきゃ。日本は狭すぎてね、僕の曲はアメリカなのよ』って言うのを、ジャニーさんが『よく言うよこの人は。僕なんかとっくにアメリカで勝負しているんだ。この人は平和だね』って皮肉を込めて言っていたのを覚えてる。

 しかし、ジャニー喜多川は矢沢永吉を認めていないわけではありませんでした。著者は、「ジャニーさんは矢沢永吉の話し方については『カリスマ性がある』『惹きつける何かがある』ってことは認めていた。『この人が話をしたら面白い』って言ってたから。俺の中では、『矢沢永吉的』なものと『ジャニー喜多川的』なものというのは、真逆ではないんだけどね。お互い見せ方が違うだけ。お店屋さんが違うだけ、売っている商品が違うだけだと俺は思っている。共通するのは、舞台に懸けていること。永ちゃんもステージに懸けているでしょう。自分で全部演出して、曲のアレンジまでして、『これをメドレーにした方がいい』とか、そういうの全部自分でやっているじゃないですか。それをファンにも浸透させて、『ルイジアナ!』って叫ぶと、みんながタオル投げるムーブを確立したり。それも永ちゃんの演出力だし、ジャニーさんの舞台に対する想いと俺の中では一緒だと思っている。あの人たちは、そのエネルギーが凄いんだよね」と語っています。

 ジャニー喜多川について、著者は「『人を喜ばせたい』という気持ちにおいては、人後に落ちない。それにスタイルとしては、ごった盛りみたいな、いわゆるビュッフェスタイルが好きなんだね。ジャニーさんはわかっているんだよ。『お子様ランチの中で一番大事なのは旗だ』ってことが」「爪楊枝で作った旗。あれが好き。『子供たちにはあれがないと。あれがいいんだ』っていう。その童心というか、『いつまでも旗を立てなきゃね』っていうね」と言います。聞き手が「いくらハンバーグや唐揚げを並べても、『旗がなきゃ意味がないんだ』ってことですよね」と言うと、著者は「意味がない。ジャニーさんの中では、『そういうサービスの心を忘れるな』ってことじゃないかな。『もう子供じゃねえから、こんな旗なんか要らねえんだよ、味で勝負したいんだよ』っていう態度こそ思い上がりなんだよね。味もよくていいじゃない。一生懸命作ればいいじゃない。『でも、ちゃんと旗を立ててあげよう』って。そういうこだわりがある人なんだよ」と語るのでした。

 第5章「1985年12月12日」の「ワーナー・パイオニアと契約」では、1985年12月12日、ついに少年隊が『仮面舞踏会』でデビューしたことが紹介されます。「1985年の夏と言えば、どうしても8月12日に起きた日航機墜落事故を忘れることができません。以前ちらっとうかがったのですが、錦織さんは事故が起きた日本航空123便に乗る予定があったとか」という聞き手の質問に対して、著者は「実はそうなんだよ。マッチが大阪で舞台『森の石松』に主演していて、その初日が事故の前日だった。ジャニーさんから『応援に行こうよ』と誘われて、最初は事故の日の同じ便に乗る予定だったの。それが急遽ジャニーさんは前日に大阪入りすることになって、俺たちは東京に残った。後から事故を知って……。ジャニーさんに『俺たちが乗るはずの便って、あの時間だったの?』と聞いたら、『そうだよ、夕方だよ。YOU、あれだよ』って。『ああ……』って」と語っています。明石家さんまもこの飛行機に乗るはずが、ちょっとした偶然で新幹線に変更したために命を落とさずに済んだそうですが、こういった出来事は当事者の死生観に大きな影響を与えると思います。

「汗と涙の『仮面舞踏会』」では、少年隊のデビュー曲『仮面舞踏会』は大ヒットを記録しますが、ちあき哲也が作詞を手掛けました。聞き手の「錦織さんが『ちあき哲也さんに詞を書いてほしい』と言ったんですか?」という質問に対して、著者は「そう。それをジャニーさんかメリーさんのどちらに頼んだかは覚えていないんだけど……。なぜちあきさんにお願いしたかったかというと、俺が永ちゃんのファンだから。ちあきさんは『YES MY LOVE』とか『止まらないHa~Ha』とか、永ちゃんの曲の作詞を多く手掛けていて、永ちゃんもその時はワーナーの所属だったので、ならば脈もあるのかなって。言ってみるもんだったね(笑)」と語ります。

 少年隊のデビュー曲にして代表曲ともいえる『仮面舞踏会』は、完成するまでに人知れぬ大変な苦労があったそうです。著者は、「今思うと本当にありがたいことなんだけど、当時はなかなか完成しなくて大変だったんだよ(笑)。ドラムパターンなんかも頻繁に差し替えたし」と語ります。聞き手が「それを3人は何百回も歌ったわけですね。いろいろなバージョンとアレンジで」と言えば、著者は「歌ったよ。デモができるたびに合宿所に持って行って、ジャニーさんに『はい、今日の分』ってカセットを聞かせるの。それでカチャッと再生して、しばらく黙って聞いているんだけど反応がないから、『今、寝てたでしょ?』『寝てない。聞いてたよ』『どう?』『寝ちゃうぐらいつまらなかった』とか言うんだよ」と語ります。

 第6章「それぞれのタイムカプセル」の「ジャニー喜多川のタイムカプセル」では、聞き手の西寺氏が「一般的に少年隊の代表作は『仮面舞踏会』や『君だけに』と言われていて、それに比べると『ダイヤモンド・アイズ』の知名度は低いし、一番好きな曲として推す人もこれまではあまりいなかったと思います。でもだからこそ今、BOXのDVDなどで『ダイヤモンド・アイズ』の動画を見たらそのクオリティに驚くと思うんですよ。BTSの『Dynamite』とかが好きな人は、おそらく『ダイヤモンド・アイズ』にはまると思います」と語っています。確かに、『ダイヤモンド・アイズ』は名曲だとわたしも思います。

 また、西寺氏は「僕はこれまで、楽曲・歌・ダンスが合わさった総合芸術としての少年隊を象徴する曲としては、「『ABC』が最強だ」って思い続けてきたんです。もっと言えば、1987年に発表された『stripe blue』『君だけに』『ABC』。この3曲は完全に打った瞬間にホームランとわかる名曲だし、語り継がなければならないと。だから「少年隊の最高傑作三連打について書きたい」と、『1987年の少年隊』という本を出そうとまで考えていたんです」「『stripe blue』『君だけに』『ABC』この鉄板の3曲と比較すると、『ダイヤモンド・アイズ』は『時代の真芯をとらえていない』と勝手に思っていたのですが、今はこの曲こそ、2022年のスタンドまで飛んで来る場外ホームランだったと、最近はたと理解したんです。『自分の嗜好も変化するし、時を経て、リスナーや受け手の審美眼も上がる』ということを感じるし、『時代のめぐり合わせも大事なんだ』ということを痛感しています」とも述べています。

「錦織一清のタイムカプセル」では、西寺氏の「『飛んだ!』『跳ねた!』『回転した!』って、そればかりで。それを大人になって少年隊のパフォーマンスをあらためてじっくり観た時、『こっちの動きのほうが凄くない?』と気付く。それは僕だけじゃないと思うんです。当時からファンだった人、そうではなかった人も大人になって気付くことがあるだろうし、当時を知らない若い人はもっと新鮮な気持ちで少年隊のパフォーマンスに触れることができる。そうしたことが、ある意味、本当の評価だと思うんです」という発言に対して、著者は「そうだよね。それにその話は俺たちに限ったことでもなくてさ」と言います。それを受けて、西寺氏は「はい。それはマイケル・ジャクソンでもプリンスでもワム!でも、筒美京平さんの作品でもそうです。でも、そのことこそがこの本のタイトルである『タイムカプセル』だと思うんです」と述べるのでした。

 第8章「1987年の少年隊」の「シティポップな『stripe blue』はカラオケで歌いたい」では、西寺氏が「僕は『stripe blue』で3人のボーカルが入れ替わるところが大好きなんです。『錦織スタイル』『東山スタイル』『植草スタイル』と、それぞれのボーカルスタイルが『stripe blue』で完成したんじゃないかと思っています。曲調にしても、その前年にはオメガトライブの『君は1000%』がヒットして、シティポップというかAOR的な要素が好まれる時代にフィットしていたなと。今、また再評価されるべきテイストで、その意味ではメリーさんの感覚の鋭さも伝わってきます」と語っています。聞き手の少年隊への愛が感じられますね。

「『君だけに』が売れたら土下座する」では、少年隊の全盛期である1987年の黄金の三連打の2曲目『君だけに』に言及。「『君だけに』が、メリーさんは不満だったと」という質問に対して、著者は「当初はスローで奇抜な踊りだったからね。跳ねる感じもないし、俺たちがじっとしてるのがメリーさんにとっては不満だったんだろうね。でも、振付を担当した山田卓先生の発案で、そこから動きを足していったの。チップ(註:フィンガースナップのこと)から始まって、後ろでスーッと飛んだりとかして」と言います。聞き手が「結果的にあの『指パッチン』が話題になりましたよね。あれは山田卓さんの発案だったんですか?」と問えば、著者は「そう。そのアイデアもイメージも本当に凄くて」と答え、聞き手は「僕はミュージカルやダンスのことは詳しくないですが、少年隊の『君だけに』のパフォーマンスを見れば、山田卓さんがいかに天才かはわかります。そこも含めてタイムレスな魅力に溢れたマスターピースだと思います」と述べるのでした。

「『流行』『ヒット』『レコード大賞』の功罪」では、聞き手が「1987年というのは少年隊のみならずジャニーズ事務所にとっても一大転機というか、地殻変動が起きた年じゃないか、と。何と言っても、8月に光GENJIがデビューしたことは大きいです。デビュー曲の『STARLIGHT』がいきなり大ヒットして、人気爆発。社会現象にもなりました」と言いますが、その光GENJIは爆発的な人気を得たにもかかわらず、長続きしませんでした。そのことについて、著者は「つまり『流行りすぎる』ってことだから。光GENJIはまさにそうだったのかもしれない」とコメントします。

 それを受けて、聞き手は「難しいですよね。『流行る』=『理解される』ということで、もっと言えば『大衆に理解できるレベル』だという。だからこそヒットする。ヒットするんだけど、同時に『理解できすぎちゃう』ことでもあって。少年隊の場合は、あのダンスの達者さ、3人のアンサンブルの妙というのは当時、実はそこまで正確に理解されていなかったと思います」と述べます。著者は、「こんなことを言うと照れ臭いけど、俺たちのファンは『流行ってるから付いて行く』というタイプじゃなくて、”通”が多いと思うのよ。当時から俺らの踊りを評価していた人は、実際自分でも踊っていたり、踊りを知っている人も多かったから。『重心移動をやっているのが踊りだよ』と言うような人に理解されていたんだよ」と言います。すると、聞き手は「よく『ミュージシャンズ・ミュージシャン』なんて言いますけど、少年隊は玄人筋にも高く評価されていたということですね」と述べるのでした。

「当たり前の最高峰『ABC』」では、聞き手が「1987年11月には『ABC』がリリースされます。作詞は松本隆さんで作曲は筒美京平さん、編曲は船山基紀さんという黄金トリオによるもので、僕は少年隊のみならず、日本ポップ・ミュージック史上最高傑作だと思うほど、大好きな曲です」と発言します。著者は、「1970年代にはブラスセッションを積極的に取り入れたアース・ウィンド・アンド・ファイアーに人気が出て、その後は映画『サタデー・ナイト・フィーバー』があったり、いわゆる『ディスコブーム』があったでしょう。その時代を経て、サウンドが打ち込みのユーロビートに替わっていった。『ABC』はそこに寄り添ってるのよ。そのちょっと前に発売されたバナナラマの『アイ・ハード・ア・ルーマー』にちょっと寄り添った感じがしない」と語っています。

 第10章「この先があるように踊れ――錦織一清のダンス論」の「服を着こなすように踊る」では、聞き手ある西寺氏の「当時の人々はバク転やバク宙といった派手なアクションばかりに目がいっていて、少年隊のダンスのクオリティを正確に理解していたかどうか怪しい、という話をしました。しかし最近になってジャニーズの後輩のみなさんが少年隊の踊りを絶賛したり、少年隊を知った今の10代、20代の若者が『こんなに凄い人がいたのか』と驚くなど、再評価の兆しがあります」と述べています。著者は、「テクニックというより、基本的には踊りをどう捉えるかなんだよね。うーん……例えば、スーツを着るとするじゃない。高級で仕立ての良いスーツを着るのがカッコいいんじゃなくて、たとえ量販店の廉価なスーツでも着こなし次第ではカッコよく映るでしょう。要はその人間の着こなしだと思うんだよね。踊りもそれと同じようなところがあるの」と述べます。

「サイズ感が合っているかどうか」という西寺氏のツッコミに対して、著者は「サイズもそうだし、着こなし方、着こなしの上手さ。気崩れちゃいけないし、スーツに着られてもいけない。どんなに高いブランドのスーツを着ても、全く似合わない人もいるじゃない? それと一緒。踊りって洋服みたいなものだから。その振付を踊りこなせるのか、ということ。そうでなきゃ、ただ踊らされているだけだもの。似合わない、身の丈に合わない振付を踊っているだけということになる。踊り方、回り方もそうだし。目線の使い方ひとつにしてもそう。その”こなし”具合がわかる人は、「ああ、あいつカッコいいな」となる。それが「まるで服を着こなすように踊っているね」ということ。だから一番カッコいいのは、振付があったとしても、それがあたかも自分でやってる仕草のように見えたら最高じゃないかな」と語っています。

「永遠の微調整」では、著者がジャニーズ事務所の先輩である「トシちゃん」こと田原俊彦の影響を受けたことが明かされます。著者が「あ、俺もこういう風にやらなきゃダメなんだな」と身に染みて思ったのは、トシちゃんの練習を見ていたからだそうです。著者は、「あの人もずっと合宿所の鏡の前で練習していたから。西条満先生の振付を一晩中こうやってマイク持ちながら、なんだかんだと言いながら練習してたのよ。その努力たるや凄いもんだよ。その姿を見ていたら、トシちゃんが『今、振付が終わったけど、これを100回ぐらい叩き込まないと、踊りは絶対に自分のものになんないぞ』って俺に言ったの。その言葉がずっと忘れられなくてね」と語っています。これは良い話ですね。わたしは、ジャニーズ事務所の最高傑作はやはり田原俊彦であり、次が錦織一清であると思っています。

「点と線」では、少年隊の盟友であった東山紀之のダンスについて、著者が「東山は、いわゆるフォルムが『スポーン』という感じで。決まった時の『パチッ』という、ポージングの『トンッ』って止まったところに特徴がある。そこは細部にまでこだわるから。『トンッ』って止まった時にカッコ悪い型は嫌なのね。『止まった時は、こうなってるはずだ』という確固たるポリシーがある」と述べます。でも、著者が踊りの中で好きなのは少し違うそうで、「カウントで『ワン・ツー・スリー・フォー』とある中で、『1のここが好き、2が好き、3が好き』じゃなくて、1と2の間の『グルーヴ』が好きなんだよ。腕が下から上に行く間の通過点を意識する。『ここをどういうふうに通るんだろう?』と考えるのが好き」と述べています。

 第11章「師弟関係――ジャニー喜多川と錦織一清」の「陸軍ジャニー学校出身のジョン・ランボー」では、師であるジャニー喜多川について、著者は「俺にとってはジャニーさんが唯一のボスだから。そもそも俺がジャニーさんの兵隊になろうと志願したわけであってさ。「行け!」と言われたら、どれだけケチョンケチョンに言われても行くしかない。どちらかというと、俺は任務遂行型の人間なんだよ。もちろん俺自身の考えというのはちゃんとあるよ。ただ、ジャニーズ事務所にいる限りは、ジャニーさんの命令は絶対だと思ってやってきたから」と述べています。

 聞き手が「実際ジャニーさんが亡くなるまで事務所から離れなかったわけですし」と言えば、著者は「その間に『俺って何?』と自問自答したことが何度もあった。ある日思ったのは、俺は『ジャニーさんが創り上げたランボー』だったと」と言います。聞き手が「映画の『ランボー』ですか。シルベスター・スタローン」と言えば、著者は「そう。それだけジャニーさんに技術を仕込まれたということ。それもかなり特殊なね。だからゲリラ戦には強いよ(笑)。以前からよくジャニーズ事務所を幕末の『松下村塾』にたとえていたけど、『陸軍中野学校』だったかもしれない(笑)。そこで訓練を積んだスパイかもね」と語るのでした。ちなみに、本書で著者はジャニー喜多川の性癖などには一切触れていません。

「理想は沖田総司と牛若丸」では、著者は初めて見たジャニーズ映画はフォーリーブス主演の『急げ!若者』だったことが明かし、「それはヤクザと抗争になって最後はコーちゃん(北公次)が刺されて死んじゃう話。その後釜に郷ひろみさんが入って、最後にみんな歌って大団円という展開。とにかくカタルシスが好きなんだろうね。たのきん映画の『青春グラフィティ スニーカーぶるーす』も、やっぱり最後はトシちゃんが死ぬ(笑)」と述べます。聞き手が「そこは一貫しているんですね」と言えば、著者は「それはずっと変わらなかったよね。新選組でも、ジャニーさんが好きなのは近藤勇でも土方歳三でもなくて沖田総司。最後は病気で死んじゃうでしょう」と述べます。

 沖田総司ほど、ジャニーズ事務所のさまざまなタレントが演じたキャラクターもいません。聞き手がそのことを指摘すると、著者は「トシちゃんも東山もね。とにかくジャニーさんは沖田総司をやらせたがるのよ。たぶん、ひろみさんも演じていたと思う。それだけ好きなんだろうね。俺は大河ドラマ『峠の群像』で吉良上野介の配下である清水一学の役を演じたけど、忠臣蔵の47士でジャニーさんが一番好きなのは大石主税。真田十勇士で一番好きなのは猿飛佐助だと思う。少年隊で『ザ・サスケ』というミュージカルをやったぐらいだから。大石内蔵助にも真田幸村にも興味がない。あとは源義経だね」と言います。聞き手が「滝沢秀明さんが大河ドラマで演じていました」と言えば、著者は「もっと言えば、義経でもなくて牛若丸。出世魚が出世しちゃうと嫌なんだろうか(笑)。いつまでも牛若丸であってほしいのかもしれない」と語っています。このあたり、じつはジャニー喜多川という人物の本質を見事に言い当てている気がするのはわたしだけではありますまい。

「ジャニーズ事務所=円谷プロ説」では、著者と聞き手の間で以下のような興味深い会話が交わされます。「これは俺の分析だけど、ジャニーズ事務所の在り方と円谷プロはそっくりなんだよね。円谷プロは、どの時代になっても『ウルトラマンタロウ』や『ウルトラマンティガ』とか、次々と『ウルトラマン○○』を送り込むじゃない」「たしかに少しずつアップデイトさせながら、その原型はキープしていますよね」「そうでしょう? それが初代ウルトラマンの時代から50年以上続いているんだから」「手を替え、品を替え」「そっくりだよね。次から次に現れるじゃない。売り出し方がそっくりなんだよね」……これを読んで、わたしは唸りました。ジャニー喜多川の本質だけでなく、ジャニーズ事務所の本質までをも見事に言い当てています。どうやら錦織一清という人、ダンスだけでなく、分析力も一流のようですね。

Archives