No.2206 プロレス・格闘技・武道 『永遠の闘魂』 瑞佐富郎著(standrds)

2023.01.19

『永遠の闘魂』瑞佐富郎著(standrds)を読みました。2022年10月1日、長い闘病生活の果てに遂に旅立った「燃える闘魂」アントニオ猪木の最後の日々について、本人と関係者の証言で綴った渾身のプロレス・ノンフィクションで、「アントニオ猪木 最後の日々と激闘62年の秘史」というサブタイトルがついています。著者は、著者は愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。シナリオライターとして故・田村孟氏に師事。1993年に行われたフジテレビ「カルトQ・プロレス大会」での優勝を契機に、プロレス取材等に従事したそうです。本名でのテレビ番組企画やプロ野球ものの執筆の傍ら、会場の隅でプロレス取材も敢行しています。著書に『新編 泣けるプロレス』(standards)、一条真也の読書館『平成プロレス30の事件簿』『プロレス鎮魂曲』『さよなら、プロレス』『コメントで見る! プロレスベストバウト』『アントニオ猪木』で紹介した本などがあります。また、一条真也の読書館『証言UWF完全崩壊の真実』『告白 平成プロレス10大事件最後の真実』『証言「プロレス」死の真相』で紹介した本の執筆・構成にも関わっています。本書の帯

 本書のカバー表紙には目を瞑ったアントニオ猪木の横顔の写真が使われ、帯には「猪木は最後に何を語り、何を伝えたかったのか?」と大書され、「病床の本音、好敵手たちの残光、名勝負の記憶……  稀代のプロレスラーは人生の「ファイナルカウントダウン」に何を残そうとしたのか? 晩年の猪木を取材してきた著者が、その生の声から闘魂最後の日々を描く」「知られざる逸話で綴る『燃える闘魂』の真実!」と書かれています。本書の帯の裏

 帯の裏には、「すべてをさらけ出した最後の数年間、猪木は何を考えていたのか?」「本人と関係者の証言で語られる、燃える闘魂ファイナル!」「本人と関係者の証言で綴る、燃える闘魂ファイナル! 」「『元気ですか?』と聞いたけど、反応がなかった」(主治医)「アントンをどんどん、表に出してあげて」(最後の妻・橋本田鶴子)「あの試合に、プロレスのすべてが詰まってる」(棚橋弘至)「彼は……強いですよ!」(モハメッド・アリ)「月に1、2回、夫妻で食事をしてましたね」(藤波辰爾)「恩義が昇華されて、愛に変わっていきました」(猪木)と書かれています。

本書の「目次」は、以下の通りです。
第一部 最後の闘魂 
    アントニオ猪木、
    終局への日々  
「『元気ですか?』と聞いたけど、反応がなかった」
(主治医)~酷かった病状~  
「アントンをどんどん、表に出してあげて」
(最後の妻・橋本田鶴子)~病床の本音~  
「あの試合に、プロレスのすべてが詰まってる」
(棚橋弘至)
 ~アリ、馬場、ベイダー……
  好敵手たちの残像~  
「彼は……強いですよ!」
(モハメッド・アリ)~真の強さを求めて~  
「月に1、2回、夫妻で食事をしてましたね」
(藤波辰爾)~猪木夫妻vs藤波夫妻 晩年の様態~  
「恩義が昇華されて、愛に変わっていきました」
(猪木)~最後の妻との2年間~  
第二部 永遠の闘魂 
    激闘62年の秘史  
#01 vs力道山 
「お前、今、1人か? じゃあ、上がって来い」
(力道山)  
#02 新団体旗揚げ 
「早くやれってんだよ!」(観客)  
#03 世界への挑戦 
「まったく、猪木は”カミカゼ”だ」
(ドリー・ファンク・シニア)  
#04 大物日本人対決 
「すべては、マットの上で終わったんだよ」
(猪木)  
#05 vs病魔
「猪木、左足切断か?」(新聞記事)  
#06 倍賞美津子
「アントンを、頼むわ、お願い」(倍賞美津子)  
#07 語り部
「東京は下町の曇りガラス越しに見た、
 ママレモンのシルエット!」(古舘伊知郎)  
#08 東京ドーム進出 
「恐かった。俺の力も衰えたということだな……」(猪木)
#09 プロレスラー初の国会議員に
「やっぱり、やるからには、当選してほしいからな」
(ジャイアント馬場)  
#10 愛弟子
「藤原でございます! 
  猪木さんに、命、預けます!」(藤原喜明) 
#11 引退 
「文字通り、人柱になった人だったのだと思います」
(前田日明) 
「おわりに~最後の『猪木』コール~」

「はじめに」では、猪木の訃報にあたって「週刊朝日」に投書された「私の中では彼は、良い意味での『山師』」という言葉を紹介し、著者は「猪木自身、『詐欺師って、嫌いになれないんだよな。彼らは一瞬でも、夢を見せてくれるわけだから』という発言がある。だが、しかし。それを超えて現実化するパワーを持っていたのも、結局、猪木そのものではなかったか。元他団体エースとの日本人対決を制し、他の格闘技でトップを極めた選手との一戦に何度も飛び込み、プロレス未開の地でのその実現と披露も次々と果たした。そして、異国の地で日本人がとらわれの身となれば救出に向かい、解放を成し遂げた。いうよりも、本当の夢を見せて来てくれた人生だったように思う」と述べています。

 一条真也の読書館『燃える闘魂 ラストスタンド』で紹介した本は、2021年11月27日にNHK・BSプレミアムで放送(その後、NHK総合でも放送)された番組『燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ』の内容を書籍化したものですが、その番組の制作会社との長き縁があって、著者はこの企画の立ち上げから参画したそうです。そこで、病床の猪木はもちろん、晩節の猪木を彩る、さまざまな周辺人物の言辞を目の当たりにしたといいます。本書は二部構成になっていますが、第一部は、主にそちらで得られた初出しの知見を元に、猪木の終焉を敷衍したものとなっています。進行は、NHKの番組制作の進捗に倣っています。第二部では、主にプロレスラー・猪木の現役期を扱った過去の著書を、今回の訃報にあたって加筆含め、再録したそうです。

 第一部「最後の闘魂 アントニオ猪木、終局への日々」の「『元気ですか?』と聞いたけど、反応がなかった」では、NHKの番組の制作会社(共同テレビジョン)の企画書タイトルの1つが「アントニオ猪木と10人の遺伝子たち~これが最後の闘魂注入だ!~」であったことが明かされます。内容は、猪木が10人の愛弟子たちに、”無茶ぶり指令”を下していくというもの。相手の内訳は、藤波辰爾、長州力、藤原喜明、初代タイガーマスク、前田日明、髙田延彦、武藤敬司、蝶野正洋、小川直也、藤田和之。著者は、「1人ひとりを番組で取り上げていけば、単発でなく、連続化ができるフォーマットだったので、打ち込み先には、大手ネット配信会社の名前があった」とあります。

「アントニオ猪木と10人の遺伝子たち~これが最後の闘魂注入だ!~」の中身ですが、「夫人が料理の本を出している藤波に、『嫁に習って、オレの大好物の辣子鶏(猪木が行きつけの四川料理店『龍門』で常食していたメニューとして有名な一品)を作ってくれ』と指令」、「長州には『車椅子を押して、マサ斎藤の墓参りに連れて行って欲しい』と懇願」、「絵心のある藤原に『俺の似顔絵を描いてくれ』とオーダー」、「ムーンサルトをやらなくなった武藤には、『バンジージャンプをやってみせてくれ』と提案」、「堅物なイメージのある藤田和之には、『絶叫マシンに乗って来い!』と命令」などの企画が並んでいたそうです。実現しなかったのが悔やまれる内容ですね。

「アントンをどんどん、表に出してあげて」では、猪木の病状が急変し、愛弟子との共演など望むべくもなくなったことが書かれています。重篤な状態を鑑み、そのリハビリの様子に張り付き、ドキュメントにするという打ち出しがなされました。いわゆる「闘病記」です。こちらの放送にNHKが手を挙げて、番組はこの路線で進むことになり、撮影に入りました。ところがコロナ禍ということもあって病院側も厳戒態勢となり、5日に1度しか取材できない状況となりました。この時期(2021年3月)の猪木の病状は、数々の合併症もあり、極めて深刻な状態だったそうです。看護日誌には、猪木自身の発言として、「もうお迎えが来ている」「死にたい」「殺してくれ」などの文字が記されていたそうです。

「彼は……強いですよ!」の「橋本―小川戦直前の電話」では、1999年1月4日の東京ドームで小川直也が橋本真也をフリーファイトで一方的に袋叩きにした、世に言う「1・4事変」が取り上げられます。一線を越えた惨事に、業界は震撼しました。その真相について、後年、小川自身が「これは、みんなに話していないことですが、猪木さんに、(試合前)ちょっと来いと言われて。『これは世紀をかけた一戦にするから、お前やってこい』と。『一方的に蹴りまくって、最後は蹴って、リングから出すまでやれ』と、言われたんです。(師匠が)やれってことは、NOとは言えないので、こっちはやってこないといけないわけで」「猪木さんが結局全部、そこ(=世間にインパクトを与える)まで読んで、絵を描いていたんだなと思いました」と、関西テレビの「こやぶるSPORTS超」の2021年8月23日深夜放送分で語っています。

「好物のとんかつを敬遠した理由」では、生前、トンカツが大好きだった猪木が、1990年を境に、めっきり食べなくなったことが紹介されます。著者は、「イラクにおける人質救出のため、自らイスラム教に改宗。豚肉を食すことが御法度となったのだ」と説明します。人質解放を果たしたイラクからの帰国便には、政府から同乗不可の通達が出ましたが、そこで声を上げた人物たちがいました。人質である夫たちに一目会いたいと猪木に懇願し、イラクまでやって来た婦人会の面々でした。彼女たちは「猪木さんを乗せないというのであれば、私たちも乗りません! 日本にも帰りません!」と訴えたそうです。ほどなく外務省から、掌を返したような猪木への低調な同乗願いが出されたといいます。以降、猪木はトンカツを見るたびに、「食べようかなあ……。でも、食べたら、あのときの奥さんたちにも、悪い気がするんだよなぁ……」と言ったとか。著者は、「関係者によると、その様子は、どことなくチャーミングで、嬉し気だったという」と書いています。わたしは、猪木が最後までムスリム(イスラム教徒)だったのなら、葬儀にイスラム教の儀式を取り入れても良かったかもしれないと思いました。

「月に1・2回、夫妻で食事をしてましたね」の「猪木が食べた、今までで一番美味しいもの」では、14歳のときに猪木一家がブラジルに移住して、コーヒー農園で働いたことに言及。必死で働きつつも、猪木がどうしても気になることがありました。それは、コーヒーの味です。飲んだことがなかったのです。兄たちも同様でした。彼らにとってコーヒー豆は商品であり、自分たちが直接手を出してはよい代物ではなかったのです。本書には、「そこであるとき、地べたに堕ちている、収穫の対象にならなかったコーヒー豆を拾い集めた。自分たち用の入れ物などないので、アルミの弁当箱のフタを裏返して入れた。そしてその中に水も入れ、そのまま沸かす。もちろんマグカップなどあるはずがなく、そのまま弁当箱のフタから、飲んでみた」と書かれています。「今まで食べた一番美味しいもの」の話になると、猪木は「あのときのコーヒーの味が、忘れられない。あの味には、その後食べた、どんな美味しいものも、適わない。まず、あれが忘れられないんですよ」と繰り返したそうです。

「訃報後にかかった、『旅姿六人衆』」では、1988年8月8日に横浜文化体育館で行われた猪木と藤波辰爾の最後の一騎打ちが取り上げられます。IWGPヘビー級王者であった藤波の防衛戦として行われたこの一戦は60分ドローとなりましたが、試合後は、猪木を長州が、藤波を越中が肩車。その状態で猪木と藤波がガッチリと握手する模様は感動的でした。しかし、長州は意外にもこの試合に冷めた見方をしたそうで、「この試合、やっぱり藤波さんが勝たなければいけなかったと思う」とも述べています。この試合を間近で観ていた当時のリングアナの田中秀和(現・田中ケロ)は、あのフルタイム戦はショックでした。猪木さんと藤波さんの間に、力の差があり過ぎて。後半はほとんど猪木さんが引っ張ってましたからね」と語っています。確かに60分のタイムアップのゴングが鳴る瞬間も、猪木が藤波の上を取っていました。しかし、その藤波自身は、猪木の全盛期は、日本プロレス時代だったと考えていたそうです。藤波は一条真也の読書館『藤波辰爾自伝~プロレス50年、旅の途上で』で紹介した自伝の中で、「第11回ワールドリーグ戦初優勝を飾った頃の猪木さんは最強だった」「このとき(1980年代後半)の猪木さんは体調面でも、精神面でもコンデションの悪さは隠しようがなかった」「(なんとかして、いい形で猪木さんを楽にしてあげたい……)当時の僕は、そんなことばかりを考えていたように思う」と述べています。

 本書の第二部「永遠の闘魂 激闘62年の歴史」は、著者自身が述べているようにこれまでの原稿を寄せ集めたもので、新鮮さは感じられません。その中では、最後の#11「引退 『文字通り、人柱になった人だったのだと思います』(前田日明)」が読み応えがありました。一条真也の読書館『平成プロレス30の事件簿』で紹介した本に掲載された原稿を再録したものですが、前田日明が新日本プロレスに入門してから、猪木は「今のプロレスはダメだ。本当に実力、技術を持ってないと。そのためには練習をしなきゃダメ。道場破りが来たらやっつける力を持ってないとダメ。プロレスはキング・オブ・スポーツだと。将来的には柔道、ボクシング、キックの人が見に来てもさすがだなと思われる試合をしなきゃダメだ。ガス灯時代のようにプロレスがボクシングと同じように論じられなきゃダメだ」と語っていたそうです。ところが、実際、その話を真面目に聞いていたのは、(前田が言うには)前田、藤原喜明、佐山聡の3人だけだったとか。

 猪木の言葉を信じた前田は練習に没頭しますが、猪木は次々に未知の方面に闘いを広げていきました。著者は、「石畳のように硬いマットの上で投げられまくり、醜態をさらした欧州選手権のローラン・ボック戦(1978年)。極真空手勢と一触即発となったウィリー・ウィリアムス戦(1980年)。時には髪の毛を切られた、はぐれ国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)との対決は、視聴率20%超え。彼らと1対3で戦った試合は、絵面のインパクトもあってか、視聴率25%超えまで達した(1983年2月11日放送分/25.9%)。そして、数年がかりのプロジェクトの、最後の最後に失神KO負けとなったIWGP決勝のハルク・ホーガン戦(1983年)……。同シリーズで、前田は猪木と一騎打ち。ジャーマンスープレックス、ドラゴンスープレックスで追い込んだ。猪木派、すでにこのとき、40歳だったが、前田の顔面が変形するほどに強烈な張り手を見舞うなど、負けじとヒートする攻防。前田側に立てば、同時期の長州、藤波に比べても、最も猪木を追いこんだと言える試合だった」と書いています。

 猪木は”鉄人”ルー・テーズに憧れていましたが、テーズも猪木も前田も、なで肩でした。猪木は数多い弟子の中でも、前田を自身の後継者と考えていたようです。猪木の引退セレモニーに現れた前田は、猪木と固い握手をし、笑顔を交わしました。前田の方から、長々と語りかけました。そして報道陣の前に現れた前田は「長い間、お疲れ様でした。力道山が亡くなって、日本のプロレス界が低迷していた時期、誰も試みなかったことをやって、文字通り、人柱になった人だったのだと思います」と述べ、さらに「自分とはいろいろ、意見の衝突とかあったんですけど、猪木さんのそばにいたからこそであって、自分もいろいろなことを考え、思うことができたと思っています」と述べました。その猪木派、2022年10月1日に心不全で死去。前田はその日のうちに、ツイッターを更新し、「慟哭 いつも黙って背中で語り行動する人でした。猪木寛至と同時代を過ごせたことが幸運でした」と綴っています。

「おわりに~最後の『猪木』コール」では、ブログ「猪木さんらしいお別れ」で紹介したように、2022年10月14日に猪木の告別式が営まれ、358人の関係者が参列し、「燃える闘魂」に最後の別れを告げたことが書かれています。参列した蝶野正洋は、「棺が重くてね……」と語っています。出棺される際、坂口征二、武藤敬司、オカダ・カズチカ、棚橋弘至、中邑真輔、小川直也、藤田和之など、名うてのレスラーたちが棺を持ちましたが、それでも重かったといいます。蝶野は、「誰だか忘れたけど、『会長はここに来て、まだ俺たちに試練を与えようとしているな』と言ってたぐらいだから」とも語りました。遺骨も、驚くほど大きく、壺に入らないものも多かったそうです。

 レスラーたちはファンではないので、猪木コールというものをした経験がありません。でも、霊柩車に乗せられて出発する際、猪木のテーマソングである「炎のファイター」が流れました。その瞬間、「イノキ! イノキ! イノキ! イノキ!」という野太い声が出棺を彩りました。武藤が、蝶野が、棚橋が、中邑が、オカダが、小川が、藤田が、みな「猪木コール」をしていました。蝶野は、「俺自身、最初で最後の、猪木コールだった」とも語っています。そして、著者は「失ったものの大きさは、残してくれたものの大きさ。遺伝子たちの躍動が、記憶の中の猪木を、時に照射して行くことを信じている」と述べるのでした。おそらく猪木逝去にあわせて大急ぎで作られたと思われる本書には誤植も多々ありましたが、最後に記されたレスラーたちの「猪木コール」がすべて浄化してくれたように思います。故人の御冥福をお祈りいたします。合掌。

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