No.2204 プロレス・格闘技・武道 『プロレス喧嘩マッチ伝説』 ジャスト日本著(彩図社)

2023.01.07

『プロレス喧嘩マッチ伝説』ジャスト日本著(彩図社)を読みました。「あの不穏試合はなぜ生まれたのか?」というサブタイトルがついています。プロレス史に残る65の不穏試合を紹介・検証した本で、興味深かったです。本書の帯

 カバー表紙には、1999年1月4日に東京ドームで開催された小川直也vs橋本真也の「1・4事変」後に場外でもみ合うセコンド陣の写真が使われ、帯には「日本プロレス界の父、力道山は言った。『プロレスはルールのある喧嘩である』と。」「前田vsアンドレ、小川vs橋本、猪木vsウィリー、髙田vs北尾・・・伝説の喧嘩マッチの真相」「あの試合を当事者が語る特別インタビュー!! 北原光騎、齋藤彰俊、鈴木秀樹」と書かれています。本書の帯の裏

 帯の裏には、「プロレス史に残る衝撃の65試合を収録!」として、「力道山vs木村政彦/ウィレム・ルスカvsイワン・ゴメス/大木金太郎vs坂口征二/アントニオ猪木vsアクラム・ペールワン/ダイナマイト・キッドvs星野勘太郎/前田日明vsスーパー・タイガー/前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント/ブルーザー・ブロディ&スタン・ハンセンvsマスカラス・ブラザーズ/ジャッキー佐藤vs神取しのぶ/スタン・ハンセンvsビッグバン・ベイダー/ジャンボ鶴田vs川田利明/藤原喜明vs石沢常光/小林邦昭vs齋藤彰俊…など」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
【はじめに】プロレスには筋書にはないドラマがある

第一章 1950~70年代の喧嘩マッチ

第二章 1980年代の喧嘩マッチ

第三章 1990年代の喧嘩マッチ その1

第四章 1990年代の喧嘩マッチ その2

第五章 2000年代の喧嘩マッチ

第六章 2010年代以降の喧嘩マッチ
「主要参考文献」

「【はじめに】プロレスには筋書にはないドラマがある」では、「プロレスはショーであり、エンターテインメント」と定義する際に「八百長」といった単語が飛び出すことがあるとして、著者は「八百長とは、真剣な勝負事と見せかけて、一方が故意に負けるうわべだけの勝負をすること。またこの行為には金銭や賭け、賭博が発生するケースが多い。『プロレスは八百長である』と蔑む人もいるかもしれないが、そもそもプロレスが賭けの対象になったという話を筆者は知らないので、この理論は現時点では成立しないと考えている」と述べています。

 プロレスは八百長ではありませんが、「流れ」というものはあるのではないかと考える著者は、本書で「ストーリーライン」という言葉を使って何度も表現しています。「ストーリーライン」とは物語全体の流れという意味で、何らかの形で始まったドラマが落とし所としてのひとつの結論に向かって進む流れというものが、プロレスにはあるのではないかというのが著者の考えです。しかし、プロレスには時にはその枠組みからはみ出してしまう事例があります。その中の1つが不穏試合、シュートマッチと呼ばれるものです。

 不穏試合とは、「ストーリーライン」の流れとは離れた異常な展開をたどった試合のことです。シュートマッチは、プロレス界では隠語となっている「シュート」がリング上で発生した試合のことです。著者は、橋本真也vs小川直也(1999年1月4日、東京ドーム/新日本プロレス)、前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント(1986年4月29日、津市体育館/新日本プロレス)は有名な不穏試合、シュートマッチであるといいます。

 その一方で、プロレスでは喧嘩マッチと評される試合もあると指摘し、著者は「喧嘩マッチと不穏試合及びシュートマッチは混同されることがあるが、筆者個人の見解として、喧嘩マッチは不穏ではなくプロレスの1ジャンルではないかと考えている。力道山の名言で『プロレスはルールのある喧嘩』という言葉があるが、これを実践している試合と言えるだろう。プロレスという枠組みの中で、プロ同士がプロレスを喧嘩というかたちに昇華して行うのが喧嘩マッチだ」と述べています。

 また、不穏試合、シュートマッチ、喧嘩マッチもその種類や過程やドラマはさまざまであるとして、著者は「最初は通常のプロレスだったが、後半になるに従い、不穏になっていくケース。どうにかプロレスに戻そうとするが、最後まで不穏になるケース。互いが申し合わせてシュートになるケース。試合は最後まで通常のプロレスだったが、試合後に不穏になるケース、凶器を使って乱戦になる喧嘩マッチ、ただ相手を殴り合う喧嘩マッチ、肉体と肉体が正面衝突する喧嘩マッチ……。プロレスは答えがないジャンルであり、その答えを各々が探すのがプロレスの醍醐味のひとつである。プロレスとは興行や試合全体の流れという空気に基づいた真剣勝負なのだ」と述べます。

 プロレスにおける真剣勝負を考える上で、シュートが強いという都市伝説を持っていた大悪党レスラーの上田馬之助は「筋書きだけがよくても、選手の力量が伴わなければ、決してお客様を満足させることはできない。そしてストーリーがあっても、プロレスというスポーツはライブであり、お客さんの反応によって左右される。だからストーリーどおりにいかないこともある。そのときは、トップのレスラー同士が、お互いに盛り上げ方を考えながら試合を作っていく。そこで『筋書きにはない』ドラマが生まれるんだ」という言葉を晩年に残しています。「上田のこの名言にプロレスの素晴らしさや奥深さが詰まっているように思う」と述べるのでした。本書には65のプロレスの試合が取り上げられていますが、その中で特に印象深かったものを紹介したいと思います。

 まずは、第一章「1950~70年代の喧嘩マッチ」のアントニオ猪木vsザ・モンスターマン(1977年8月2日)から。プロ空手世界スーパーヘビー級王者として日本に登場したモンスターマンは、モハメド・アリとの再戦を訴える猪木に送られたアリからの刺客という触れ込みでした。試合はグラップラーvsストライカーの他流試合として最高の内容でした。猪木は後年、ザ・モンスターマン戦について「コイツのハイキックは振りが速くて見えないんです。しかも二段蹴りというか、上下でトントーンと蹴ってくるのでかわし切れない。飛び蹴りにしても、絶対届かないだろうと思える距離からシューンと伸びてくるんです。こいつは怖かった」と発言しています。著者は、「猪木と新日本が仕掛けた異種格闘技戦シリーズが総合格闘技(MMA)の源流とするなら、この猪木vsザ・モンスターマンがなければ総合格闘技の誕生や発展はなかった。そう考えるとこの試合はプロレスと格闘技の歴史を変えた一戦だったのだ」と述べています。

 次は、第二章「1980年代の喧嘩マッチ」のダイナマイト・キッドvs星野勘太郎(1982年1月15日)です。両者ともに気の強さで知られていますが、著者は「両者は離れると至近距離から拳で殴り合う。急所へのトーキックを見舞うキッド。星野も応戦し、急所へのトーキックをお返しする。両者がつかみ合うと、柴田勝久レフェリーが分ける。キッドの片足タックルを星野は防ぎ、上から覆いかぶさる。パーテレポジションから『ゴッチ直伝の拷問技』尻の穴に指を入れようとすると、キッドが星野の左手首に噛みついて逃れる。ロープに振ったキッドは星のを抱えようとする。しかし、星野はまたも技を受けるのを拒否。意固地に攻撃を受けない星野だったが、キッドは強引にボディスラムの体勢から脳天を落とすつーむすとん・パイルドライバー。これは初代ブラックタイガーが得意にしている暗闇脳天だ。ピクリとも動かない星野にキッドが得意技のダイビング・ヘッドバットを決めて3カウントを奪った」と書いています。

 不穏試合といえば新日本プロレスの専売特許のようですが、全日本プロレスのリング上でも行われました。スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディvsミル・マスカラス&ドス・カラス(1983年12月5日)もその1つです。トップレスラーであったブロディとマスカラスの2人は、絶対に相手に付き合わない頑固者としても知られていました。著者は、「とにかくこの試合で印象に残ったのがブロディの『お前の技なんか受けねぇよ』という拒絶反応と、それを敏感に察したマスカラスの『俺を舐めるな』というプライドだった」と書いています。後にマスカラスは、このブロディとの絡みについて、「日本でも縄張り意識の強さ、そして私の人気を嫉んでのことだろう。そういう自我の強さから試合中に仕掛けてくる奴は過去にもたくさんいたから、私は火の粉を払うだけだよ。彼はパワーも身体能力もあり、馬場のような計算された試合のできる選手だと思っていたが、ワガママで自らをコントロールできない面もある」とコメントしています。

 前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント(1986年4月29日)は、あまりにも有名な不穏試合です。前田をセメントで潰そうとしたアンドレが、前田のローキックや膝関節への正面蹴りを受けて立ちなくなり、戦意喪失で寝転んだまま無効試合となりました。この試合の真相については諸説が飛び交っていますが、著者は「猪木が次期エース、自身の後継者として期待していた前田に対して、アンドレとのセメントマッチでどこまでできるのかを査定したという説もある。2019年7月15日に東京・新宿区サンパークホールでキラー・カーンとトークショーを行った前田は、『(試合後に)シャワールームで猪木さんから「お前、よくやったじゃないか。なめられたことしたら、あれでいいんだよ」って言ってくれたんですよね。と語っている。このアンドレ戦を通じて、猪木が前田の実力を見直したという可能性は高いだろう』と述べています。この見方には、目から鱗が落ちました。わたしも、その通りではないかと思います。

 そんな前田日明がUWF時代に最も危機感を抱いたのが、当時の全日本プロレスで天龍源一郎が輪島大士の顔面に容赦なく蹴りを入れるような激しい攻撃をしていることでした。天龍源一郎vs輪島大士(1987年11月7日)は、ともに大相撲出身である2人が一度だけ後楽園ホールでシングルマッチで対戦した試合です。著者は、「天龍と輪島がタッグマッチで激突すると、毎回感情むき出しの喧嘩マッチとなった。角界時代は格下だった天龍からえげつないチョップ、ラリアット、顔面への蹴りを食らうと、元横綱のプライドを爆発させて仁王立ちし、反撃する輪島。プロレスが下手でぎこちないなどと酷評する声もあったが、デビュー1年でここまで食らいつくことができる輪島というプロレスラーは本当は凄いのだ」と書いています。たった1度のシングルマッチをリングアウトで勝利した天龍は、後に「俺は激しい攻めをすることで輪島大士の強さを世間に知らしめたかったが、実際は輪島さんの太陽の光を吸収してしまった俺が、逆に満月のように輝いてしまった。ある意味で天龍革命のインパクトは輪島大士によってできたと思うし、嫌がらずに向かってきてくれたことに感謝の気持ちすらある」と語っています。

 第三章「1990年代の喧嘩マッチ その1」の最初に登場するのが、ビッグバン・ベイダーvsスタン・ハンセン(1990年2月10日)です。皇帝戦士と不沈艦の怪獣大戦争は壮絶な喧嘩マッチとなり、ベイダーは目に失明寸前の大ケガを負いしました。著者は、「ベイダーはハンセンを恩人だと語る。ベイダーが新人時代にタイトルマッチで何度も対戦して胸を貸したハンセン。1990年からWCWに参戦した際、ゲスト扱いからなかなか脱皮できなかったベイダーを、壮絶な喧嘩マッチでWCWのトップレスラーになるまでに引き上げたのもハンセンだった。そして、ハンセンはベイダーが全日本に参戦したときもサポートしている。2人が組んだ”不沈皇帝コンビ”は1998年のプロレス大賞最優秀タッグチーム賞を受賞するほどのインパクトを残した」と書いています。

 髙田延彦vs北尾光司(1992年10月23日)も取り上げられています。新日本プロレスおよびSWSから追放されたプロレス界の問題児・北尾を髙田がハイキックで倒した試合ですが、著者は「高田vs北尾はUインター史上最高のベストバウトであり、この大一番を制したことにより、髙田はUインターが団体旗揚げ当初から計画してた『平成のアントニオ猪木』になることに成功する。その青写真を描いていたのが団体の頭脳である宮戸優光だった。宮戸はこの問題児・北尾をリング上の試合で正々堂々と成敗することで、髙田をプロレス界のヒーローに仕立てることを目論見、さまざまな困難の末に成就させたのである」と書いています。

 船木誠勝vs鈴木みのる(1994年10月15日)は、前年9月21日に旗揚げしてプロレス界・格闘技界に大きな衝撃を与えた「パンクラス」の頂上決戦です。試合は、1分51秒、スリーパーホールドで船木が勝ちました。試合後、船木はずっと泣き続け、敗れた鈴木も控室で泣いていたそうです。著者は、「常に強さを追い求めた2人の戦士による『理想のナチュラルスタイル』はプロレス史上に残る名勝負となった。そして船木と鈴木が創立したパンクラスはプロレス団体から総合格闘技団体にシフトチェンジし、日本格闘技界を支える存在になっていく。だがパンクラス黎明期の看板レスラーだった船木と鈴木は、強さを追い求めた末に、自らの源流であるプロレスへと回帰していくことになるのだ」と書いています。

 第四章「1990年代の喧嘩マッチ その2」では、田村潔司vsゲーリー・オブライト(1995年6月18日)が取り上げられます。混沌のUインターで発生した頑固者と赤鬼の不穏試合です。著者は、「ダウンしたオブライトは両手を頭の後ろで組んだ。その姿は、まるで1986年に行われた前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアントのようであった。先に潰しにいこうと仕掛けたのがアンドレであり、オブライトであった。だが前田と田村は潰されなかった。やがて消耗すると無気力ファイトになったアンドレとオブライト。伝説の昭和の不穏試合が平成になって甦ったかのようだ。ダウンから立ち上がったオブライトを田村は打撃で追い込むと、バックマウントからのスリーパーホールドで絞め上げる。オブライトはすぐにギブアップ。不穏試合は田村が制した」と書いています。

 20世紀最大にして最後の不穏試合が、橋本真也vs小川直也(1999年1月4日)です。小川が橋本にセメントを仕掛け、体調の優れなかった橋本はなすすべもありませんでした。この試合の真相についても諸説ありますが、著者は「小川は橋本戦でその強さが注目され、総合格闘技PRIDEに参戦、暴走王と呼ばれ時代の申し子となる。一方の橋本はその後、小川戦連敗により引退に追い込まれる。ファンの後押しもあり復帰するも、新日本を離脱。2001年に新団体ZERO‐ONEを旗揚げする。深い因縁のあった2人だが2001年12月にOH砲を結成」と書いています。小川には内心、「橋本にセメントを仕掛けたことに対する大きな後悔」があり、すべてを受け止めてくれた橋本に対して「一生裏切れない」という思いを持っていたようです。

 小川vs橋本の歴史に残る「1・4事変」の黒幕は、アントニオ猪木だったことは今ではよく知られています。その猪木が21世紀に仕掛けた最大の失敗が、第六章「2010年代以降の喧嘩マッチ」の小川直也vs藤田和之(2012年12月31日)でした。「1・4事変」を橋本サイドのセコンドにいた藤田は、小川の凶行が許せませんでした。橋本の付き人も務めたことのある藤田は、「俺がどんな手をつかっても小川とやってやる!」と決意したそうです。そして、10年遅い闘魂継承者決定戦として行われたこの試合。8分27秒、藤田がTKO勝ちを収めましたが、じつに不透明な内容で、観客の怒りを買いました。著者は、「橋本vs小川から13年後の2012年、猪木が設立したIGFで『1・4事変』のオマージュを試みると、藤田が激怒、猪木が逆ギレ、観客は大ブーイング、そして小川も怒っている(?)ように思えた驚愕の茶番劇となった。ブーイングや罵声が飛んでいた『1・4事変』とは明らかに質が違う。小川vs藤田に関してはただ『しょっぱい』という匂いが漂っていた」と書くのでした。

 プロレス本はたいてい読み尽くしてきたわたしですが、本書には知らなかった情報もいくつか書かれており、興味深かったです。名勝負ではなく、不穏試合がテーマなので、アントニオ猪木vs大木金太郎ではなく、坂口征二vs大木金太郎。アントニオ猪木vsウィレム・ルスカではなく、ウィレム・ルスカvsイワン・ゴメス。タイガーマスクvsダイナマイト・キッドではなく、星野勘太郎vsダイナマイト・キッド……こういった試合のチョイスも、じつにナイスでした。カバー表紙の写真が小川vs橋本の「1・4事変」の試合そのものではなく、場外でもみ合うセコンド陣の写真なのもセンスがいいですね。

 20世紀に入ってからは、プロレスの質が変わってしまったのと、わたしが知らないレスラーが増えてきたこともあって、なかなか興味を抱くような試合がありませんでした。唯一、取り上げた小川vs藤田は、猪木の仕掛けがスベって茶番劇となってしまいましたが、猪木は「プロレスはルールのある喧嘩である」という師匠・力道山の考えを具現化したかったのではないでしょうか。今のわたしたちが殺気を感じるのが素人の喧嘩である「ブレイキングダウン」だけというのは、あまりにも寂し過ぎるではありませんか。現代のプロレスに喧嘩マッチの殺気が戻ることを切に望んでいるのは、わたしだけではありますまい。

Archives