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コンパッション都市』

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No.2186


『コンパッション都市』アラン・ケレハー著、竹之内裕文+堀田聡子=監訳(慶應義塾大学出版会)を読みました。「公衆衛生と終末期ケアの融合」というサブタイトルがついています。重要文献の待望の邦訳で、人間に不可避の老い、病、死、そして喪失を受けとめ、支え合うコミュニティである「コンパッション都市」の基本的な思想・理論とともに、実践に向けたモデルを詳しく解説しています。

 

 著者は医療社会学者で、米国バーモント大学臨床教授を務めています。専門は、パブリックヘルスとエンドオブライフケア。オーストラリア・ニューサウスウェールズ大学で社会学の博士号(Ph.D)を取得。同国ラトローブ大学教授、東京大学客員教授、英国バース大学教授、カナダ・ダルハウジー大学教授、英国ミドルセックス大学教授、英国ブラッドフォード大学教授を歴任。英国社会科学アカデミーフェロー(FAcSS)でもあります。

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本書の帯

 

 本書の帯には「老、病、死、喪失を受けとめ、支え合うコミュニティをつくる」と書かれ、島薗進氏(東京大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所元所長)の「死にゆく人のケアやグリーフケアはコミュニティの事柄であり、社会のあり方の問題だ。死生学的なケアは新たな社会構想にもつながるという視野の革新。死に向き合うことが、新たなケアの文化を構築していくことにもなる。健康都市を超えて死に関わるケアにも取り組んでいく社会の具体的構想は示唆に富む」という言葉が紹介されています。

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「コンパッション都市」について語る島薗先生

 

 ブログ「大正大学公開講義」で紹介した宗教学者の島薗進先生の講義で初めて知りました。このときはまだ訳書が出ていませんでしたが、わずか20日後に刊行されたことになります。わたしは貪るように本書を読みました。「コンパッション都市」は、「老、病、死、喪失を受けとめ、支え合うコミュニティ」であり、一言でいえば「悲しみをともにする共同体」です。その概念は、1986年の「健康づくりのためのオタワ憲章」(WHO)の原則を取り上げ、それを人生最終段階ケアに適用し、共同体の責任としたものです。

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社内勉強会で本書を紹介しました

 

 この共同体モデルでは、死にゆく人と非公式の介護者が社会的ネットワークの中心に置かれているという図を見ることができます。都市としては「コンパッション都市」と呼ばれますが、まさに互助会が創造すべきコミュニティのモデルであると思います。英語の「コンパッション」を直訳すると「思いやり」ですが、わたしが多くの著書で述べてきたように、思いやりは「仁」「慈悲」「隣人愛」「利他」「ケア」に通じます。「ハートフル」と「グリーフケア」の間をつなぐ概念も「コンパッション」だと気づきました。ブログ「コンパッションとは何か?」で紹介したように、わたしは社内勉強会である天道塾で「コンパション」および「コンパッション都市」について語りました。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「日本の読者へ」
「はじめに」
「謝辞」
「序」

第一章 死にゆく人に対する組織的なケアの社会的起源

第二章 エンドオブライフケアに対する現在のアプローチ

第三章 コンパッション都市の理論的基礎

第四章 コンパッション都市の政策

第五章 コンパッション都市の社会的性格

第六章 コンパッション都市への脅威

第七章 実装――実現する

第八章 行動戦略

第九章 未来を展望する――第三波のパブリックヘルス?

付録 コンパッション都市憲章

「監訳者解説」
「監訳者あとがき」
「参考文献」
「索引」

 

「日本の読者へ」の冒頭の「コンパッション都市・コミュニティとは」を、著者は以下のように書きだしています。
「生命を脅かす病気、高齢、グリーフ・死別とともに生きる市民がいます。また家庭でケアを担う市民がいます。そんな境遇にあるすべての市民を手助けし、支援するために組織される地域コミュニティ、それがコンパッション都市・コミュニティです。『コンパッション』(compassion)という用語は、たんなる好意や気づかいの感情以上のことを意味します。この用語の中心には、互恵性(reciprocity)と具体的行動(action)という考え方があります。パブリックヘルス(公共の課題としての健康)の視点から『コンパッション』の意味を理解する場合、好意や気づかいは〔たんなる感情にとどまらず〕、一連の互恵的な行動を生み出し、それが保健サービス(health service)とそれを包摂する市民セクターの間、家族と隣近所の間、働く者と雇用者の間、教員と生徒の間、地方自治体とその市民の間に広がってゆく必要があります」

 

 続けて、著者は「またエンドオブライフケア(人生の終わりのケア)の文脈では、コンパッションに導かれた行動は、死の陰のうちに生きるすべての市民――わたしたち全員――のために必要な行動を生み出すでしょう。わたしたちはそれぞれの生活・人生で、現在も日常的な経験を重ねています。その本質的で揺るぎない一部として、人生の終わり――たんに最後の数日間ないし数週間をいうのではありません――の諸経験は公認され、支援されなければなりません。コンパッションコミュニティとは、相互的なケアへ向けて編成されたコミュニティにほかなりません」とも書いています。

 

「原書公刊(2005年)当時の時代背景」では、エンドオブライフケアは、医師、看護師、心理士、ソーシャルワーカーによって提供されるサービスであったとして、著者は「学校、職場、地方自治体だけでなく、隣近所においてさえ、一般市民はいかなる役割も果たしていませんでした。エンドオブライフケアのこうした流儀は、ヘルスケアについての旧式で時代遅れの理解――20世紀初頭に由来する――から導き出されたものです。健康に対する責任は、伝統的に、もっぱら専門職が担うべきものと考えられていたのです」と述べています。

 

「健康を支えるもの」では、「良好な健康」は、2つの重要な考え方を前提にしているとして、著者は「医師たちはそれを認識するようになりました。第一に、医師や病院は、病気、負傷、障害といった危機が現実のものとなって初めて、人びとのために力を尽くすことができます。ただたいていの場合、1年のうちで、人びとが医療的措置を必要とする時間は、たかだか5%未満です。病気、負傷、障害などの問題をあらかじめ回避することこそ、良好な健康を手に入れる最善の道です。だからこそパブリックヘルスの国家戦略において、予防、害悪の低減(harm-reduction)、早期介入が優先事項にならなければならないのです」と述べます。

 

 第二に、予防や害悪の低減のための最善の方法は、健康とウェルビーイング(良好な生の状態)を増進することであるとして、著者は「良好な健康とウェルビーイングを増進すれば、病気、負傷、障害のリスクが低減されます。一般市民が過ごす時間の95%は、医療的措置とかかわりがありません。その時間をわたしたちはひとりで、あるいは家族、友人、近隣住民、職場の同僚、学友とともに、そうでなければテレビ、インターネット、コンパニオン・アニマル〔長い間一緒に暮らしてきた伴侶・家族のような動物〕とともに過ごします。これらはいずれも、健康が増進され、ウェルビーイング(よい生の状態)が促進される時間です。コンパッションコミュニティ・都市をデザインし、実現するにあたって、これらの原理的な事柄を心にとめておく必要があります」と述べます。

 

「エンドオブライフケアへの新しいアプローチ」では、死にゆくこと(dying)は、最期の数日ないし数時間の経験にとどまらないことが述べられます。病院やホスピスでは最期の数日間ないし数時間、エンドオブライフケアが提供されるでしょうが、そこはエンドオブライフケアの主要な舞台ではないと指摘し、著者は「グリーフを抱えること(grieving)は、愛する人の死の直後の数週間に限定された、たんなる個人的な経験ではありません。グリーフは永続します。老いと介護は、数ヶ月や数週間という単位ではなく、数年にわたって進行します。パブリックヘルスの視点を携えてエンドオブライフケアにアプローチすると、次のことが明らかになります。死にゆくこと、グリーフを抱えること、介護をすること、これらの営みの大半はかなり長期にわたり、当人を非常に孤立させることがあります。そのような時間と経験において医療的ケアの果たす役割は、人生の終わりの経験に足場を与えるライフスタイルや毎日の日課に照らせば明らかなように、重要ではあるものの、とても小さいものです」と述べています。

 

 大多数の人びとは、大半の時間を自宅で、あるいは隣近所で、あるいは職場で、あるいは学校で、あるいは商店街の買い物によって、あるいは寺院で、あるいはクラブ活動か他のレクレーション活動の場で過ごすと指摘し、著者は「人びとが訪れる際、これらの場所で支援が得られるのでなければなりません。医師や看護師は、あるいはソーシャルワーカーは、一日中、わたしたちとともにいられるわけではありません。しかしわたしたちの友人、家族、コンパニオン・アニマル、職場の同僚、学友、趣味の仲間は、わたしたちのために、ともにいることができます――いつ、どのように手助けしたらよいのか、知ってさえいれば」と述べています。

 

「コンパッションコミュニティというビジョン」では、生命を脅かす病気や死別の経験とともに生きること、また介護を引き受けて生きること、これらの社会的な帰結は似通っていると指摘し、著者は「社会的孤立、孤独、不安、うつ状態、学校や仕事に出かけられない日々、恥辱やスティグマ(社会的烙印)、財政的困窮、疲労、多発性の病気です。死別経験者や介護者のなかには、消耗、不眠症、うつ状態のほか、胃腸の不調、心臓動悸・不整脈、不安発作、頭痛などの小さな病気に悩まされる人が多くいます」とも述べています。

 

 病気、喪失、介護の問題は、死別後の突然死、場合によっては自殺という、さらに深刻な帰結を招くことがあると指摘し、著者は「隣近所、学校、職場で、適時に、適切な支援が得られるならば、これらの問題はいずれも予防されるか、少なくとも害悪を低減されるでしょう。各人の苦難や危機に備えて方策を練るため、隣近所、学校、職場は学ぶことができます。方策は社会的行動を生み出し、主導します。社会的行動は同僚、近隣住民、生徒に対して、適時の支援や適切な情報を提供します。もし人生の終わりに対するいくらかの責任をすべての人が負うならば、わたしたちは愛、笑い、分かち合い、実際的な支援を授受することができます」と述べます。

 

 そして、著者は以下のように述べるのでした。
「知識が拡充され、適時の包括的な支援が提供され、ケアの連続性が担保され、コミュニケーションが改善され、健康と人生の終わりに関するリテラシーが向上すること、また公式の(formal)ヘルスケア制度と仕事、遊び、家族を核にした日常的な市民組織とが効果的に提携すること、そして健康と死について、よりよい結果がすべての人にもたらされること、コンパッションに基づいて組織されるすべてのコミュニティの約束と希望はここにあります」

 

「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「想像してみよう。コミュニティでは、そのメンバーの健康と社会的ウェルビーイング(良好な生の状態)が気にかけられている。また想像してみよう。その気づかいは、コミュニティの一人ひとりが経験する死にゆくこと(dying)、死(death)、喪失(loss)に及んでいる。さらに想像してみよう。ここで『死』の理解は、たんに身体の死にとどまらず、アイデンティティの死や帰属の死を含んでいる。これらの死は、認知症や性的虐待の後遺症とともに生きる人びと、また所有権を奪われた先住民や難民が経験しているものだ」

 

 ここで想像してみたコミュニティの枠組みは、世界保健機関の「健康都市」(Healthy Cities)プログラムのうちに、部分的に見られます。しかしそこでは、エンドオブライフケア(人生の終わりのケア)の課題は、しばしば手つかずのままであるとして、著者は「本書はエンドオブライフケアの課題を明確にするとともに、コンパッションから共感(empathy)と支え合いが育ち、「健康増進」の新しいかたちが生み出されるプロセスを明らかにする」と述べます。本書で論じられるように、「死」、「喪失」、「コンパッション」を現代のパブリックヘルスの考え方のうちに組み入れることで、パブリックヘルスの限界や批判的な論点が明確になると指摘し、著者は「それを助けに、各国内で、また国際的に、未来のウェルビーイングを実現するための実用的な政策を生み出すことができるだろう」と述べるのでした。

 

「序」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「死と喪失は〔すべての人にかかわるという意味で〕もっとも普遍的な経験であり、人間の日常的な経験である。にもかかわらず、死と喪失は誤解されたままだ。あまりにも長い間、死は、健康の敵とみなされてきた――真相をいえば、本来〔健康の敵という〕その座を占めるのは病気や疾患である。また死はしばしば、パブリックヘルス(公共の課題としての健康)の政策と対策に対する脅威、あるいはそれらの失敗の結果とみなされてきた。しかし、これもまた真実ではない。すべてのヘルスケア(健康医療)はこれまで、早すぎる死や避けられる害悪を予防すること、また治療を促進し、良好な生の状態(well-being)を増進することを目指してきた。ただ死は、死そのものをもたらすというだけでなく、付加的な害悪を生み出すことがある。こうした影響は例外なく、パブリックヘルスのすべての優れた研究と実践の標的とされる」

 

 死は不可避であり、喪失は普遍的です。その事実と意味を理解することが大切です。死と喪失に対して、わたしたちは脆弱な防御を試みます。それが打ち破られたからといって、防御が甘かったと結論すべきではありません。死と喪失という経験を通して、個人の価値と優先順位が明らかにされるとして、著者は「死と喪失の経験にはそのような役割があり、それを理解するように、わたしたちはチャレンジされているのだ。死と喪失の経験とともに、各人に変化が生じる。そこから、ある国における健康の経験・歴史の多様性がどのような道行きをたどるのかが定まる。これらすべてのことは、それぞれのコミュニティで、毎日、この瞬間――あなたがこのページの字句を読むとき――にも進行している。死にゆく歩み、喪失、グリーフは個人的な経験であるが、捉えがたくも強烈に、コミュニティのうちに立ち現れる。あるいはそれらの個人的な経験から、目立たないかたちで生きた歴史が生み出される」と述べます。

 

 もし人生の終わりにコミュニティが再び関与する方途を見つけられないとしたら、自宅の戸口に立ち、わたしたち一人ひとりにサービスを提供する専門職の列は、途絶えることがないだろうと推測し、著者は「地域の保健サービスを利用する以前は、どんな人でも多面的な関係のうちに身をおき、これを享受していたはずだ。しかしコミュニティの関与を欠くと、専門職の関与は、多面的な関係を合理化し、その乏しい代用物になってしまう。これが死の「専門職化」(professionalization)であり、それを継続するための社会・経済的費用は、途方もなく大きい。もし緩和ケアが死に対して、明確に分野横断的な対応をとるならば、グリーフ・喪失の分野は、職業的な膨張の度合いをいくらか弱め、市民の態度に対して、〔従来の〕緩和ケア以上に、広範な影響を及ぼすことができる」と述べます。

 

 人生の終わりのケアに対して切れ目のない社会的支援を提供するためには、どうしたらよいのでしょうか。その任務がどれほど野心的なもので、やっかいなものだとしても、その答えは、コミュニティケアにあるとして、著者は「予防、害悪の最小化、アフターケアの諸問題についても、もっとも満足のゆく答えはコミュニティケアにある。こうしたコミュニティのケア・関与を支えるパブリックヘルスの議論や実践モデルは、いったいどこにあるのか。本書は、コミュニティ形成、健康都市、健康増進型緩和ケアの文献に基づいて、実践を支えるひとつの理論を素描することに力を傾ける。わたしはそれを『コンパッション都市』('Compassionate Cities')と命名し、その輪郭を明らかにする。それとともに、あらゆる種類のエンドオブライフケアにコミュニティが参画することを奨励するパブリックヘルスのモデルが提起されるのである」と述べるのでした。

 

 第一章「死にゆく人に対する組織的なケアの社会的起源」では、わたしたちはこれまで、死にゆく身近な人たちをずっとケアしてきたことを指摘し、著者は「事実、死にゆく人のコミュニティケアは、死にゆく人の専門職ケアの歴史に先立つ。死にゆく人たちに対して、コミュニティは一丸となって、全般的な、また対象を絞りこんだ社会的支援や活動を進めてきた。日常的ケアの強靭さと耐久性の多くは、ここから来ている。生きることと死にゆくことにとってもっとも重要な活動がある。しかしそれが名指されることは、ほとんどない。平穏のうちに生き、死にたいという思いを抱かせるもの、それは薬剤や聖油ではなく、社会的関係性であり、各人の人生の意味である。死の陰の谷を歩んだ旅人たちの歴史は、コミュニティケアと相互扶助の歴史でもあると、認識しておくことが大切だ。死にゆく人に対するフォーマル(公式)なケアは、コミュニティケアの長大な歴史を経て、段階的に登場したのだ」と述べます。

 

「コミュニティケア」では、かつては感染力の強い疾患がじかに認められなければ、聖職者と医師は臨終にも立ち会ったことを紹介し、著者は「ただケアする人と参加者は大勢おり、聖職者と医師は、それらの配役のうちの1つか2つを演じるにすぎなかった。アリエス(Aries1974)マクマナーズ(McManners1985)の見立てによれば、死にゆくことは多分に公共的な儀式だった。医学〔界〕と教会から派遣された人物に加えて、両親、友人、隣人、召使、子ども、これらのすべての関係者が立ち会い、儀式に参加した。これらの大集団、またときに地域コミュニティの群衆に助けられて、死にゆく人は神と、また家族やコミュニティと和解する(making peace with)という社会的責務を果たした。〔死にゆく人と見送る人の〕双務的な責務に基づいて、死にゆく人は、いくつかの演目から構成される大衆道徳劇の舞台に送り出された」と述べます。

 

 著者によれば、家族は仕事と生殖のために組織される基本単位であり、家族の誕生と死に際して、家族の構成員は伝統的に産婆、後見人でした。さらにいえば、ヘルスケアもごく最近まで、公共の制度と組織によって、またこれらを通して正規に提供されるものではなく、むしろ家族の付加的な機能のひとつとみられていたとして、今日でもケア専門職において女性が優勢である主要な文化・歴史的理由のひとつはここにあると指摘します。最後に、誕生、死、結婚という主要なライフイベントは、それらを社会的に管理し調整するための組織的な対応を生み出すとして、著者は「役人によって執行される儀式や慣例を通して、ただしコミュニティや世帯の事情に応じて、それぞれの文化が社会的な管理と調整の機能を方向づける。役人が立ち会うか否かにかかわりなく、家族はこれらの儀礼や慣例を遂行する。コミュニティの対応は、常に、伝統的な決まり事に基づいて整序される」と述べます。

 

「エンドオブライフケア――すべてのコミュニティにとってのチャレンジ」では、著者は「死は不可避であり、喪失は普遍的である。これら2つの重大な人間的経験を、現行の緩和ケアモデルが重層的な表現で言い表すことはできていないことは明らかだ。またこの専門的な保険領域が臨床的ケアと急性期ケアの方法論にとどまるかぎり、今後も言い表すことはないだろう。緩和ケアの社会哲学を補完するためには、また現在の臨床的な定義と限定された場所を超えて、緩和ケアを前進させるためには、認識論・政治・科学的な道具立てが欠かせない。パブリックヘルス・アプローチは、それらを備えた唯一のアプローチである」と述べるのでした。

 

 第二章「エンドオブライフケアに対する現在のアプローチ」の「パブリックヘルスとはなにか?」では、著者は「パブリックヘルスとは、もっとも広範囲の人口集団において、疾患の軽減や健康状態の改善を図るため、政府の主導とコミュニティの実行のもと、しばしば保健機関や他の社会的組織とのパートナーシップにより進められる社会的な取り組みに関与することをいう。これらの取り組みは、教育、社会関係資本の改善とコミュニティ形成、法律の制定、保健サービスや保健専門職とのパートナーシップ、安全で持続可能な社会・物理的環境の創出を通して進められる」と述べています。

 

 コミュニティ形成は、実践的な取り組みを通して、コミュニティメンバーを結束させ、健康と安全に対する信頼や関心を築きます。著者は、「隣近所での見守り、コミュニティガーデン(市民農園)、子どものためのセーフティハウス(安全な避難場所)の活動計画や催し物はすべて、生活する場所に対する帰属の感覚や関心を呼び起こすコミュニティ形成の例である。健康と良好な生(well-being)の実現のために活動し、その実現へ向けてデザインし、支援するため、パートナーシップを構築する必要がある。それはパブリックヘルスへ向かう現代の成功の道に欠かせない。わたしたちは、コミュニティについて取り組む(work on)のでなく、コミュニティと協働する(work with)のだ」と述べます。

 

「心理社会的緩和ケア」では、人は市民として、自助(self-help)の可能性に開かれていることが指摘されます。また死亡を除く他のすべてのライフステージで、コミュニティが備える支援、情報、権限という資源を求め、利用することができます。さらに、コミュニティそのものに目を向ければ、それは多様な政府機関と関係を築き、保健・社会的な諸組織とパートナーシップを構築しているとして、著者は「これらの諸組織は、市民たちの日々の良好な生(well-being)と健康に、それゆえ論理的にいえば、死にゆくことと喪失の諸経験に影響を及ぼす」と述べています。

 

 今日の緩和ケアの臨床サービスの特徴を具体的に説明しようとするならば、(1)自助グループについての当面の理解、(2)心理社会的ケアに対する職務的な対応、(3)現在の緩和ケアが直面する諸課題に対する近年の政策提言に、題材を求めるのがもっともよいとして、著者は「老いることや死にゆくことといった、価値を軽んじられた役割について理解し、問題提起するだけでなく、死、喪失、グリーフという普遍的で規範的な経験〔を共有すること〕を意味する。エンドオブライフケアへのパブリックヘルス・アプローチは、それに対するなんらかの責任をコミュニティが引き受けることができるし、また引き受けるべき正常で普通の経験として、死にゆくこと、死、喪失、ケアに取り組まなければならない」と述べます。

 

 エンドオブライフケアに対する適切なパブリックヘルス・アプローチは、健康増進、コミュニティ形成、パートナーシップに依拠した概念を、戦略の中心に据えなければなりません。これらの概念から引き出される戦略は、予防、政策立案、政府のリーダーシップ、領域を跨ぐ提携というパブリックヘルスの伝統的な実践に力点を置かねばならないと指摘し、著者は「これらの規準ともっともよく合致するアプローチは、世界保健機関(WHO)の健康都市(Healthy City)というアイディアに基づくものだ。人生の終わりに互いにケアし合うコミュニティの健康都市版を、わたしは『コンパッション都市』(Compassionate Cities)と呼んでいる」と述べるのでした。

 

 第三章「コンパッション都市の理論的基礎」の冒頭で、コンパッションに支えられた都市(コンパッション都市)という着想は、あるグローバルなパブリックヘルス・アプローチに由来すると著者は指摘します。それは「健康都市」の名のもと、健康を目指してコミュニティ全体で戦略を練り上げるアプローチであるとして、著者は「健康都市プロジェクトは、健康増進のためのオタワ憲章(1986年)を履行するひとつの方法として、世界保健機関(WHO)によって推進された。その行動戦略は職場、レクリエーションの場や行事、小中高等学校と大学、養護施設や病院など、多様なセクターを横断するかたちで、また教会、地方自治体、各種ボランティア団体において、コミュニティ全体の健康が達成されるようにデザインされている」と述べています。

 

「健康都市とはどのようなものか」では、健康都市を支える定義・概念はコンパッション都市というアイディアの理論的基礎でもあると述べられます。というのは死、障害、喪失という普遍的な問題を無視できるパブリックヘルスの理論など存在しないからです。また、その都市が健康都市であることがそもそも前提されないとしたら、いかなるコンパッション都市の理論も構築されないとして、著者は「いいかえれば、健康と生活の質は、社会・身体・政治的な支援システムとのエコロジカルな関係性に基づいた経験であり、それと同じように、コンパッションという観念もまた、社会的な相互依存性の原理に基づいた考え方・経験と捉えられなければならない」と述べます。

 

「コンパッション都市とはどのようなものか」では、「コンパッション」(compassion)という語は、憐れむこと(pity)、ないし他者の苦しみ(suffering)を分かち合い、慈悲(mercy)や同情(sympathy)を表すことを意味すると紹介し、著者は「『コンパッションに満ちた』(compassionate)という用語は、こうした態度・行動の特質を有していることをいう。それは同情に動かされること(commiseration)、他者と分かち合い同行することである。ファンクとワグネルの『ニュースタンダード英英大辞典』(Funk1963)によれば、「コンパッション」という語は、ラテン語の2つの語根、'cum'(「共に」を意味する)と'patior'(「苦しむ」を意味する)に由来する」と説明しています。

 

'care'という語は、古英語の'carean'、'cearu'、'caru'(哀悼や悲哀を意味する)に由来し、また古サクソン語の'kara'(悲嘆)と同族です。それゆえ「ケアする」という〔英語の〕動詞は、哀悼に重く沈むこと、悩まされること、他者を思うことをいいます。『バーンハート語源辞典』によれば「この語〔'care'〕は、内的なグリーフ〔哀悼〕という主要な意味では、ラテン語の'cura'と同族である」ものの、他者に与えられた痛みや困難の感受という点では「関連をもたない」。ここで、次のように付言する必要があります。'care'(ケア)には、'cure'(治癒)という特別な意味がある。その社会学的な含意はわたしたちを、手助けについての不均等な理解――健全な人が病む人を助ける、「専門職」が素人を助ける、知識を有する人が無知な人を支えることを含む――へ導きます。

 

 社会学的にいえば、これは「コンパッション」でないものを言い表しています。著者は、「死と喪失はわたしたち全員に属している――衝撃の大小や経験の早い遅いという違い、また文字通りの意味での経験と象徴的・精神力学的な意味での経験という違いはあっても。コンパッション、アプローチは、字義通りに、また社会学的に、さらに政策的な意味でも、パートナーシップ・アプローチである。このアプローチは社会的共感(empathy)を支える基盤を提供する」と述べています。

 

 コンパッション都市という着想は、必ずしも新しいものではありません。その歴史は、少なくとも中世ヨーロッパに遡るからです。たとえば、セネットは西洋の都市の発展に関して、医療、政治、社会政策の重要なテーマとして「コンパッション」が成長を遂げた重大な局面について記述しています。著者は、「中世という時代には、教会、国家、経済の間で緊張が高まりつつあった。それは冷徹な商人的価値が台頭し、宗教と社会そのもののまさしく人間的基盤――人間は共感、公正(fairness)、厚意をもって互いに接する必要があること――と衝突するようにみえた時代である。換言すれば、中世では近代的な都市が発展し、ある社会的な緊張が生み出された。すなわち一方に、伝統的な義務から離れて、新しい人間関係を確立しようとする要求があった」と述べます。

 

 この時代には、コンパッションの「自然さ」を引き立て強調しようと試みる多くの宗教的・医学的言説が見られました。十字架のキリストの苦しみが、わたしたち自身や他者の日々の苦しみと並び立てられ、ケアに携わる人びとは次のことを思い起こしました。彼(女)らが抱く社会感情は、十字架のイエスに対する宗教感情に倣うことであるとして、著者は「外傷や疾患に対する身体的な感応反応(sympathetic bodily reaction)――体熱や血流が健康な臓器から損傷した臓器へ流れていくあり方――について医学的な観察・理論が確立された」と述べています。

 

 これらの身体的な感応反応は、罪深い者に対する聖なる者のコンパッションに正確に対応するものでした。コンパッションと利他主義は、魂だけでなく、自然のうちにも基礎を置くものだったのです。著者は、「こうした物語にあって身体は、中世都市をコンパッション都市と受けとめるメタファー(隠喩)であり、処方箋ですらあった。パブリックヘルスの初期の文献や実験のうちに、わたしたちはこの種のコンパッション都市への回帰を目の当たりにしているといってよい」と述べています。

 

 最後に、コンパッションは、喪失の普遍的性格に対する関心を必ず含むと指摘し、著者は「喪失は、終末期疾患(がん、エイズ、運動ニューロン疾患など)の結果としてだけでなく、暴力(犯罪や虐待の犠牲者)により生じることもありうる。自分たちの土地や文化的伝統・アイデンティティからの強制的な隔離(難民、先住民、国際養子縁組)は、当事者が経験する所有の剥奪(dispossession)を、死別に等しいものとしてしまう。これはエンドオブライフケアと同様、コンパッションの関心事になる。こうしてわたしたちは、次のように注意の向きを変える。エンドオブライフケアの『エンド』の語義――『個人の生』の伝記的・物理的な終わり――から、喪失とアイデンティティのより幅広い理解――わたしたち自身の内と外に広がる、より広域のコミュニティとのつながりとその終結――へ」と述べるのでした。

 

 第四章「コンパッション都市の政策」では、喪失について語られます。喪失は、加齢と深刻な病気と同様に、深い悲しみだけでなく、喪失の後に残された遺産を受け入れる新たな決意をももたらしうるとして、著者は「過去の悲劇的な出来事、あるいは友人や親類の死の記憶を受け入れて、多くの人びとは基金を設立して慈善活動を支援したり、当初の喪失を引き起こしたのと同じ悲劇を防止する変革の提唱者になったりする。喪失とともに生きる人びとは、死者との関係を新たな仕方で継続し、その関係に新たな意味を与えながら、その関係を再び結び直すことができる。死者は、その人が生きているときそうであったのと同じように、亡くなった後もロールモデルであり続け、重要な他者であり続けることができる。これらは、自分自身とコミュニティへのポジティブな貢献であり、加齢、病気、そして喪失における、十分に認識されていないポジティブな側面からもたらされるものである」と述べています。

 

 立案されるどの政策も、死と喪失における経験のネガティブな側面およびポジティブな側面を認識することが重要であると指摘し、著者は「悪意のない怠慢や専門家のイデオロギーによって、死と喪失のネガティブな経験のみが戦略的な政策立案の対象となるべきであるとみなす政策は、あってはならない。個人の、死と喪失に対する複雑な遭遇から、ポジティブなアプローチを発展させたり、ポジティブな経験を抽出したりするうえで、人びとは援助を必要とするかもしれない」と述べています。

 

 スポーツと世界のニュースには一般的にそれ自体のセクションがある一方で、死と喪失の影で人生に直面する問題それ自体のセクションはないとして、著者は「これらの問題は常に恐ろしかったり、憂鬱であったり、あるいは哀しかったりするものだ、というのは真実ではない。死と喪失は、人生の他の要素と同じように、しばしばユーモラスであったり、冒険的であったり、奮い立たせるものであったり、あるいはすばらしいものであったりさえする。死と喪失がニュースとなるのは、それはだれにとっても同じものではないからである。死と喪失を考察した作品は、長年にわたってニューヨークタイムズのベストセラーのリストで定番商品であり、思いがけずピューリッツァー賞も受賞しているほどである(たとえば、アーネスト・ベッカー(Ernest Becker)の『死の拒絶』(The Denial of Death)がある)」と述べます。同書については、一条真也の読書館『死の拒絶』で紹介しました。

 

 ほとんどの国には、過去の戦争や紛争で亡くなった人びとの記憶を称える国民の戦没者追悼記念日(Remembrance Day)があります。これらの記念日は、仲間の戦死という喪失を、国をあげて悼むことが目的です。それらはまた、国の自律、自由、独立のすべてまたはそのどれかに関係する事柄を記念する日でもあるとして、著者は「従来は、記念日といえば、国の勝利や建国、あるいは戦友やその勇敢さを強調する日であった。このように、国の記念の日は、ナショナリズムと社会的排除の日となっている」と述べます。

 

 すべての陣営の人びとが戦争で損害を受けるのですから、喪失を悼む戦没者追悼記念日の一部は、喪失を経験したすべての人を含むものであるべきであり、したがって、かつての「敵」も含むべきであるとして、著者は「ナショナリズムは、人を癒やすと同時に分断させる。反対に、コンパッションは、人を癒やすと同時に結びつける。戦没者追悼記念日へのコンパッションに支えられたアプローチは、日々小さく、閉鎖的になっていく世界との結びつきを、地域コミュニティのすべてのメンバーに思い出させることで癒しをもたらす、欠かせないものである」と述べています。

 

 グリーフケアと緩和ケアのサービスを主流にしようとする真剣な試みがないかぎり、コミュニティにおいて、死と喪失は常に異常な社会経験と見なされるだろうという著者は、「この種のサービスが学校と職場にすぐにアクセスできることは不可欠である。それは、グリーフケアと緩和ケアを促進するとともに、学校と職場が死と喪失について情報を得られるよう支援を行うためでもある。職場または校庭で深刻な病気、死、あるいは喪失に取り組む個人および職場の能力を開発すること=社会的・個人的能力開発のために、学校と職場とのパートナーシップをつくり出すことができる。グリーフケアと緩和ケアのサービスとの間に、より強く、より大きな、参加型の関係性を築かないかぎり、それらのサービスへの依存は減るどころか高まり、個人とコミュニティの回復力と支援を増進するわたしたちの能力は最小化してしまう」と述べています。

 

 わたしたちの進展し続ける、現代のあらゆる多様性のなかでコミュニティとして共に生きるという、この一層広い問題に、死と喪失を結びつけることは斬新であるとして、著者は「コンパッションというアイディアを、健康、死と喪失に結びつけること、そして、死と喪失を変化と終わりというより広い経験に再接続することも、多くの人にとって初めて知ることである。これらのすべてのつながりは、エンドオブライフにおけるコミュニティケアの新たな見方、作り方を提示している。コンパッションに支えられた政策、そしてそれが構築する新しい結びつきは、コミュニティ、緩和ケア、そしてパブリックヘルスの新たな課題をまさに表している。世界史という文脈では、それらの政策と結びつきは、未熟なエンドオブライフケア政策の立案に新たな眼差しを与えることを通じて、古い欲望と理想がつくり直され、再認識されていくことを示してもいるのである」と述べるのでした。

 

 第五章「コンパッション都市の社会的性格」の「コンパッション都市との連続性について」では、死と喪失に対するコンパッション都市のアプローチは、次の条件が満たされて初めて、道理にかなったものになると説明されます。それはコンパッションが単に人間的な感傷にとどまらず、社会的な場・システムに接続するホリスティック・エコロジカルな観念であると前提され、この前提に基づいてニーズと問題(および解決法と具体的行動)が特定される場合です。著者は、「コンパッションが健康にとって倫理的な要請〔倫理的に不可欠なもの〕である理由もここにある。共感、協力、互恵性に対するニーズは、健康のためだけでなく、むしろそれを超えて、もっとも悲劇的で痛切な経験、すなわち死と喪失を包摂するように拡張されなければならないからだ。これらは疑いようもなく人間的なニーズであり、人間的な苦悩がもっとも深刻にときに姿を現す。以上の通り、コンパッション都市は、倫理的な要請としてコンパッションを承認する地域保健政策を掲げなければならない」と述べています。

 

 また、「不平等」について、著者はこう述べています。
「不平等の問題――健康にかかわる諸課題を、また老化、生命を脅かす病気、喪失とともに生きる人たちをとり巻いている――は、社会正義とこれらの〔老化、死、喪失という〕社会的カテゴリーに関するわたしたちの理解を深めるうえで、きわめて重要である。ただしそれは、旧来から認知されてきた他の住民集団がさほど重要でないということを意味するのではない。それを踏まえてコンパッション都市は、経済的に不利な立場にある人たちの存在を認識し、必要なものを提供するための計画を練る。こうした人たちのうちには、農村や遠隔地で生活する人たち、先住民、無職者、ホームレスが含まれる。このように前述の〔経済的に不利な〕集団にコミットするにしても、コンパッション都市はなお、高齢者、生命を脅かす病気とともに生きる人たち、喪失とともに生きる人たちの特別なニーズに応えねばならない」

 

「欠落する要素」では、祖国、祖先、伝統、中核的な自己アイデンティティを失うことは死と喪失であり、これらは生物学的な死に関する伝統的な考え方に接合されなければならないとして、著者は「エンドオブライフケアの将来と質のため、次のような認識が組み入れられる必要がある。すなわち、人生の終わりの諸経験のうちには、さらに広範に経験される死と喪失の諸経験が含まれるのだ。死と喪失を、生物学的な死、直接の死別体験と捉える直解主義(literalist)の立場は、緩和ケアには適しているだろうが、パブリックヘルスに基づくエンドオブライフケア――このアプローチのもと、コンパッションに導かれたアイディアと活動がコミュニティのうちで展開される――には適していない。コンパッションはホリスティック・エコロジカルな観念であり、先住民たちとの和解を、またコミュニティにとって重要な別の喪失の記憶との和解を促進し、記念する」と述べます。

 

 ここで「葬祭業」という言葉が登場し、著者は「葬祭業と同じように、グリーフケアと緩和ケアのサービスは、重要ではあるものの、扱いにくいと一般に評価されている。死とともに、気づまりな社会的反応や感情の交錯が呼び起こされる。グリーフケアと緩和ケアのための考案されたサービスは、こういった緊張やストレスの影響を免れない。これらのサービスは、女性の保護施設やホームレスのシェルターと類似の道徳・文化的地位を占める。これらの場所で働くスタッフは、英雄的、無私的、献身的であるが、そこは気の弱い人が訪れることのない場所と広く思われている。こうしたサービスが存在しているのは、ある程度まで、1人の市民の通常・平常的な状況とそれらが織りなすネットワークのもと、適切なケアの仕組み開発するという通常の社会的段取りの不備に基づいている――これはノーマライゼーション理論の提唱者たちが巧みに描き出す社会的な見立てである」と述べるのでした。

 

 第六章「コンパッション都市への脅威」の「メディアの沈黙」では、生命を脅かす病気や喪失とともに生きることは、ときおりメディアでとりあげられることはあるものの、「報道価値」(newsworthy)が低いことが大半であるとして、著者は「映画は定期的にこれらの状況をとりあげてきた。『ある愛の詩』(Love Story)、『ポール・ニューマン 遠い追憶の日々』(The Shadow Box)から『マグノリアの花たち』(Steel Magnolias)、『愛と追憶の日々』(Terms of Endearment)にいたるまで、「死にゆくこと」(dying)は多くの点でひとつの映画ジャンルになっているといえよう」と述べています。

 

 また、著者は「死にゆくこと」だけでなく、「死別」をテーマにした映画にも言及し、「死別を描いた有名作品としては、『ゴースト/ニューヨークの幻』(Ghost)や『愛しい人が眠るまで』(Truly,Madly,Deeply)などがある。こうした描写の問題点は、脚本に不可欠な暴力やユーモア、あるいは主要な役柄を演じる映画スターの人気によって、観る価値のある作品になっていることである。死にゆくことと喪失が日常にありふれていることを、現代の映画のなかに見出すことは難しい」と述べています。

 

「死の否認、タブー、もしくは復興?」では、葬儀業者、ホスピス・緩和ケアや死別ケアの専門家にとっては、死、死にゆくことと喪失について語ることになんら問題はないだろうとしながらも、著者は「他の人たちにもそれが当てはまるとはかぎらない。死について語ること、いや死について思考を巡らせることにさえ、社会的な困難が存在する。多くの人びとは、死、死にゆくことと喪失について語り合うことに気まずさや当惑、気味の悪さを感じているが、そこにはさまざまな個人的・社会的理由がある。いわゆる死の『復興(revival)』は、特定の専門家たちの団体、死になにがしかの関心をもつ聴衆、ある年齢層の人たちや、特定の経験とニーズをもった人たちに限定されるのかもしれない。他の多くの人たちは、そういうニーズ、経験や状況を共有してはおらず、こうした人生の終わりにかかわる事柄に対して関心をもつように促すコミュニティの戦略に抵抗するだろう」と述べるのでした。

 

 第八章「行動戦略」の「ポジティブなグリーフアート展覧会」では、コンパッション都市における具体的なアイデアが「学校やコミュニティに働きかけ、グリーフのポジティブな側面の表現を推奨するようなアート展覧会は、グリーフを体験し、理解しようとする際に感情的・社会的・スピリチュアルなバランスをもたらす上で重要だろう。夢や願望または幻視というかたちをとって、亡くなった人とつながりを感じ続けている人は少なくない。喪失を深く知る人の方が他者に対する繊細な思いやりと、社会的共感力(social empathy)を持ち合わせていることが多い。政治運動、社会的アドボカシーと資金調達は、すべて個人のグリーフから直接もたらされたポジティブな人間らしい遺産と呼べるだろう」と述べられます。個々人の勇気と公の市民のビジョンの多くは各自が身をもって体験した非常につらい出来事から培われ、それはその他の社会的・個人的・スピリチュアルな性質と並べてコミュニティのアート展で強調されるべきであるというのです。

 

「死すべき者たちのネットワーク」では、「葬儀・グリーフや緩和ケアの専門家たちによって構成されたグループが学校、職場、公共施設やスポーツクラブを訪問し、死や死にゆくことや喪失の特定の側面について話をする活動である。これらの専門家は死と喪失にまつわる事実についての貴重な情報を提供できるうえに、それらの話題がしばしば生み出すとらえどころのない不安および率直な不安を話し合える有意義な場づくりに長けているだろう。情報とともに、少し気を楽にするような材料も提供し、興味と敬意を芽生えさせ、ユーモアとサポートを提供することができるだろう」というプランが提案されます。

 

「移動型の死への準備教室」では、移動型の死への準備教室(a mobile death education unit)が紹介されます。これはコミュニティが行動戦略として力を入れ、投資するに適しているもので、「トレーラーやステーションワゴンタイプの車が1台あれば、1~2人の教育担当者が、死、死にゆくことと喪失について具体的な情報を共有するために学校と工場を廻ることができる。具体的にどのような種類の情報をどのようなかたちで提供するのかについては特定し、合意を得る必要があるが、重い病気を抱える人や障害をもつ人をケアする人への情報から、家族を亡くしたばかりの遺族にどのように接するかという情報まで広範囲にわたるだろう。その他に有益だと思われる情報としては、遺言の作成について、葬式の準備またはグリーフが心身に与える影響などもあげられるかもしれない」と述べています。

 

「ご近所見守りパトロール」では、近隣住民の見守りをするパトロール活動が紹介されます。これは多くの地域で取り入れられており、犯罪防止プログラムとして相当な成果を収めています。著者は、「基本的には近隣住民が連帯してお互いの所有物を見守り、疑わしい行為があれば初期の段階で迅速に警察に通報するという仕組みである。このようにコミュニティの住民同士が他者の安全とウェルビーイングに責任をもってかかわるという考え方は、他者の健康とウェルビーイングに関しても容易に当てはめることができるだろう」と説明していますが、これはまさに日本では冠婚葬祭互助会に適した活動であると思います。

 

「年に一度の包摂的な戦没者追悼記念日」では、非難、恨み、差別、そして憎しみはコンパッションの敵であり、こうした態度は喪失の普遍性と対極に位置すると指摘されます。著者は、「戦争においては、どちら側もその愛する人びとを失っている。なぜそのことが起ったのかを突き詰めるのは歴史的、政治的分析であり、コミュニティが喪失を悼むときのテーマではない。愛する人の早すぎる死は防ぎうるべきであるというコミュニティの認識は、すべての追悼記念日に共通する重要で普遍的なコンパッションと平和に関するメッセージであるべきだ。日本人とアメリカ人がそれぞれの死者を悼みながら並んで行進することができるべきではないか。死と強姦が双方にとっての重大な損失として、戦争にかかわったすべての人びとに記憶される必要がある」と述べます。

 

「学校・職場での死と喪失への対応策」では、これまでに紹介したコミュニティ活動は地方自治体、あるいは葬儀会社やグリーフ、緩和ケアに携わる組織が主導することも可能だろうと指摘します。教会もまた、その資金や入手をもって同様の監査を受け持つことで、そのような活動をリードしたり、後押しすることができるだろうとして、著者は「すべての学校と職場の計画において、死と喪失に関する教育的取り組みが含まれていなければならず、かつ、それは必要が差し迫ったときの直接的な支援のみにとどまるべきでもない。繰り返しになるが、コンパッションは危機に直面したときに行われる対処にとどまらないものであり、予防と、早期介入を含み、あらゆる社会的対応の中心に教育を据えるものである」と述べています。

 

「『コンパッション関連書』読書クラブ」では、昨今読書クラブの人気が上昇しているとして、「楽しみつつ興味のある分野の新刊や気になる話題の潮流を追いながら、似た興味をもつ人びとと出会うのによい方法である。始めることが容易なので、職場、教会、趣味つながりなど地域で自分たちの読書クラブを始めているグループも多くある。3、4人の友人グループからはじめ、そのメンバーが都度友人を招いていく。行政や教会がこのような集まりを主催し、いくつかのグループが平行して開催されている場合もある」と書かれています。これは、わが社サンレーが支援するグリーフケアの自助グループであるなどでも行っている試みです。

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月あかりの会」のブック・コーナー

 

 わたしはグリーフケアの目的には「死別の悲嘆に寄り添う」こととともに「死の不安を乗り越える」ことがあると考えており、死生観の涵養が重要であると考えています。そのために必要なのが読書にほかなりません。著者は、「特定の本を選んで購入し、グループの全員が各々定められた期間内に読み進める。定期的に集まり、決めた箇所までの内容について意見交換し、その意見が異なる点や、筋の詳細について議論したり、それを元にまた考えを深めてみたりする。1冊終えたら、また別な本が選ばれ、一連の過程が繰り返される」と説明します。「コンパッション関連書」読書クラブで選ぶ書籍は、コンパッション都市の政策ビジョンすべての領域にかかわるものが適当であるといいます。つまり、死、死にゆくこと、喪失、剥奪、虐待、そして、実存的な省察と議論を伴うスピリチュアルな書籍、世界の宗教、ヒューマニズム、超心理学などを扱う書物です。そして、当然このテーマの詩、小説、そして芸術関連も含まれます。

 

「結論」では、これらの提案はすべて、独自のアイディアを刺激するためのものであり、どれかを選んで状況に合わせてアレンジしたり、さらによい案を考える糧として用いられることを目的としているといいます。バルダネガとジョンソンは、地域の各機関での利用に資する実用的なパンフレットを作ることで、健康都市のアプローチをグリーフと喪失に結びつけることを試みました。著者は、「私がここで行っているのと同様、彼らは、死と喪失の事実は『コミュニティの共有責任』であることを強調している。よい感触のあるもの、価値があると思われるものは試してみることを勧める」と述べるのでした。

 

 第九章「未来を展望する」の「第三派のパブリックヘルス――コンパッションとエンドオブライフケア?」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「身体的な死滅(demise)よりも大きな経験として、アイデンティティや経験に終止符を打つ他の重要な終わりを含むものとして、死を受けとめ、認識することは、「コンパッション」と「死と喪失の普遍的性格」という考え方と並んで、明確で包括的・実践的な前進を新しいパブリックヘルスにもたらす。コンパッションにかかわる諸理念・実践は、新しいパブリックヘルスの現時点での制約とチャレンジを明確にする政策・実践的な基盤であり、パブリックヘルス戦略の「第三の波」が21世紀に到来するための有望な足場を与えるだろう」

 

 これはパブリックヘルスによる包摂(inclusiveness)――たんに「病気」、「疾患」、「健康」という諸状態を表すカテゴリーではなく、苦しみ(suffering)と幸福(wellbeing)という普遍的な人間の経験に基づいた包摂――の強調といってよいだろうとして、著者は「コンパッションという考え方とともに、わたしたちは『健康』と『福祉』という20世紀の古いカテゴリーを乗り越え、無用なものとすることができる。パブリックヘルスによるコンパッションの表明とともに、古いカテゴリーは継ぎ目なく互いに隣接したものに変えられるはずだ」と述べます。

 

「コンパッション都市憲章」では、著者は「死にゆくこと、死、喪失には社会的不平等と周縁化が付きものであり、これらは健康に負の影響を及ぼす。それに対処できるように、住民を直接に支援することで、この憲章は、当の都市がコミュニティの共感を包み込み、健康とウェルビーイング〔良好な生〕について、ある考え方を大切にしていることを、コミットメントとともに表明する」と説明し、都市とは、仕事しサービスを利用するだけの場所ではないと指摘し、「それは学校、職場、礼拝やレクリエーションの場であり、また文化交流や社会的ネットワークを通して、相手と自分が友好な関係を築くことで守られる安全な環境のもと、当の都市の影響の及ぶいたるところで、人生の終わりの日まで、支え合いを享受する場所でもある」と述べるのでした。

 

「監訳者解説 コンパッション都市・コミュニティと日本社会のチャレンジ」の「一.著者について」では、静岡大学未来社会デザイン機構副機構長で同大学の農学部・創造科学技術大学院教授の竹之内裕文氏が、本書の著者であるアラン・ケレハーについて、「グローバルに活躍する医療社会学者である。本書のタイトルと内容にみられるように、死(death)、死にゆくこと(dying)、喪失(loss)、エンドオブライフケア(end-of-life care)、パブリックヘルス(publichealth)に対して、一貫した関心を寄せている。また著者は、本書を理論的な出発点とするコンパッション都市・コミュニティ運動のパイオニアであり、現在も運動を牽引する世界的リーダーである」と紹介しています。

 

「二.コンパッション都市・コミュニティについて」では、「日本の読者」にと題された文章の冒頭で、「コンパッション都市・コミュニティとは何か」という問いに対して、アラン・ケレハーが「生命を脅かす病気、高齢、グリーフや死別とともに生きる市民がいます。また家庭でケアを担う市民がいます。そんな境遇にあるすべての市民を手助けし、支援するために組織される地域コミュニティ、それがコンパッション都市・コミュニティです。『コンパッション都市』の構想は、健康増進のためのオタワ憲章(1986年)に端を発する。この憲章に基づいて『健康都市』の政策プログラムが策定される。その基本的アイディアを批判的に発展させたものが『コンパッション都市』である」と回答したことが紹介されています。

 

 竹之内氏は、「老化を重ねても、病や障害を抱えていても、コミュニティの支えがあれば、人は健康に生きられる。さらに大切な人と死別したとしても、自らの死が迫っていようとも、自然・社会環境が整備されていれば、人は最期まで健やかに生きることができる。わたしたちはだれひとり老病死を免れず、喪失の経験を避けて通ることができない」と述べます。本書には「もっとも普遍的な経験であり、人間の日常的な経験である」と書かれていますが、竹之内氏は「それを度外視することは、人間であることを無視するに等しい」とも述べています。

 

 竹之内氏によれば、著者ケレハーは、死、死にゆくこと、喪失の経験を包摂するように、「健康」をさらに包括的に捉えています。こうした意味での「健康」を実現するためには、コンパッションの働きが欠かせません。死と喪失という人間的な経験は、コンパッションを通して共有されるからです。竹之内氏は、「コンパッションは、共感(empathy)と具体的なアクションを生み出す。これら2つを通して、わたしたちは相手を知り、人間関係を育んでいく。死にゆく人とその家族・友人とつき合うことで、死と喪失に慣れ親しむ機会が与えられる。死、喪失、グリーフに共同で応答することで、絆が深まり、互いに支え合う拠りどころが築かれる。苦難の経験を共有することで、人間としての連帯が育まれる」と述べます。

 

「四.訳出の方針と解題」の「①コンパッション都市」では、竹之内氏は「これまでコンパッション都市・コミュニティの訳語として、『共感都市』(山崎浩司)や『慈悲共同体』(堀江宗正)が提案されてきた。にもかかわらず、本書では『共感』や『慈悲』ではなく、『コンパッション』という訳語が採用される」と述べます。'compassion'という英語は、'compatior'――共に(cum)苦を身に負う(patior)――というラテン語の動詞に遡ります。語源に基づけば、コンパッションは「他者と苦しみを分かち合うこと」「他者の苦しみを耐え忍び、苦しみを担い支えること」を意味します。著者は、コンパッションを「他者の苦難と苦悩に突き動かされる人間的な応答、柔らかな反応」と記述します。

 

「五.本書が照らし出す日本社会の課題」では、「世界でも類を見ない高水準の医療・介護制度」を維持するためには、高齢者1人あたりの医療・介護費用を削減しなければならないとして、竹之内氏は「日本の場合、高度成長期における『病院死』の急増により、他の先進諸国と比較して、『在宅死』の占める割合が極端に低い。国民も自宅で亡くなることを望んでいるのだから、(病院や施設と比べて割安な)『在宅死』の比率を他の先進諸国並に引き上げるべきであり、そのための施策を積極的に講じる必要がある」と述べています。厚生労働省は、2038年までに「在宅死」と「施設死」を合わせた割合を40%まで引き上げるという野心的な目標を掲げています。

 

 しかし、竹之内氏は「その実現は容易ではないだろう。所期の目標が遂げられないと、大量の『看取り難民』(2030年時点で約47万人と予測される)が生み出されてしまう。『看取り』クライシスが喧伝される所以である」と危惧します。また、「だれかが困難を抱え、厄介な課題に直面するとき、コミュニティメンバーで支え合い、学び合うことはできないのか。死にゆく者とつき合い、『死』と向き合うことで、一人ひとりが『死とともに生きる』ことを学ぶ機会に恵まれるだろう。生と死の諸課題を共有することで、かけがえのない出会いが生まれ、コミュニティが再生するだろう」とも述べています。

 

「孤独死」ないし「孤立死」という社会現象は、死生の諸課題を分かち合い、互いに支え合う必要を、より直截に訴えます。OECDの調査によれば、日本社会では「社会的孤立」――日常生活における他者との接触の欠如――の度合いが突出して高い(15.3%)です。世帯構造の変化や人口の高齢化といった要因もあり、社会的孤立とともに孤独死・孤立死が増加しているのです。竹之内氏は、「だれにも看取られず、死亡後に発見される人は、年間3万人に達するといわれる。孤独死・孤立死は高齢者だけではなく、中高年層にも広くみられる。有効な対策を講じなければ、配偶者との別居、離婚、死別、あるいは休職、失業などを機に、社会的に孤立し、死へ追いこまれる人はさらに増えるだろう」と述べます。まさに2010年から叫ばれている「無縁社会」の到来です。

 

 孤独死・孤立死を減らすためには、どうしたらよいのでしょうか。政府は、民生委員や社会福祉協議会による高齢単身世帯の「見守り」を推奨します。しかし担い手の高齢化は著しく、弥縫策の感を否めません。そこで終活支援、安否確認、緊急時の対応、葬儀・墓の手配など、多様なサービスを展開する民間事業者が登場します。竹之内氏は「2021年2月に新設された孤独・孤立対策担当大臣のイニシアティブのもと、官民で共通のビジョンが描かれ、領域(省庁・業界)横断的な新しい政策・施策が進められることを望みたい」と述べるのでした。今こそ、「隣人祭り」やセレモニーホールのコミュニティホール化といった、わが社の試みに光が当たるときが来たように思います。

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「毎日新聞」2022年10月31日朝刊

 

 この記事の冒頭に紹介した大正大学での島薗進先生の特別講義の後、質疑応答の時間がありました。わたしは、挙手して「わが社は、日本の政令指定都市で最も高齢化の進む北九州市でグリーフケア活動などもやっていますが、これがコンパッション都市の原型のように思いますが、いかがでしょうか?」と質問させていただいたところ、島薗先生は「北九州市にはホームレス支援の奥田知志さんもいらっしゃいますし、まさに隣人愛や慈悲の共同体のモデルだと思います。サンレーさんには大いに期待しています!」と言っていただき、恐縮いたしました。これからのサンレーは、「コンパッショナリー・カンパニー」を目指します!

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「ふくおか経済」2022年11月号