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天龍源一郎の女房』

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No.2180


 『天龍源一郎の女房』嶋田まき代/嶋田紋奈著(ワニブックス)を読みました。プロレスラーの家族や私生活について書かれており、さらにはグリーフケアの要素もあって興味深い内容でした。著者は「ミスター・プロレス」と呼ばれた天龍源一郎の妻(故人)と長女です。天龍は、9月に頸髄損傷の手術を行い、現在も入院中です。彼の親友だった三遊亭円楽が9月30日に、ともに昭和プロレスを盛り上げたアントニオ猪木が10月1日に2日連続で亡くなりました。残された天龍の心中を思うと、胸が痛みます。

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本書の帯

 

 本書のカバー表紙には、長女の初宮祝いをする天龍夫妻の写真が使われています。帯には親子3人のスリーショット写真が使われ、「大将を一等賞のレスラーにする」「2022年6月24日、永眠――嶋田まき代が遺したかった想いとは......」「まき代は金も人生も俺に注いでくれたよ」(天龍源一郎)「全日本プロレス、SWS、WAR、ハッスル、天龍プロジェクト......家族で歩み続けた40年間の追憶」と書かれています。

 

 カバー前そでには、「私としては"天龍は、結婚してから奥さんの尻に敷かれている"と思われるのが嫌だったので、たとえそれが最後の1万円札だったとしても、ありったけのお金を握りしめさせて飲みに行かせました。だから天龍源一郎には家庭臭さがまったくなかったと思います」(嶋田まき代)と書かれ、カバー後そでには「嶋田家の精神的な柱を失ってしまいましたが、失ったものよりも、あらためて母の存在がどれほどに素晴らしかったのか、そして、どれほどに楽しく愛情に満ち溢れた人だったのかを実感しています。今、より一層、家族の絆を強固にしてくれているのも母です」(嶋田紋奈)と書かれています。

 

 1982年、全日本プロレスの天龍源一郎と結婚した嶋田まき代氏は、女房として、母として、そして時にはチーフとして天龍源一郎を全力で支えてきました。2020年10月、2度目のがん告知を受けて自らの死期を悟ったまき代氏は、「妻の私が知る天龍源一郎の〝本当〟を世に遺したい」と、自らの人生の集大成に取り組んできましたが、志半ばで天国へと旅立ちました。そして、その想いは娘の紋奈氏へとバトンタッチされたのです。

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本書の帯の裏

 

 本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」

第1章 裕福だった生い立ち

     ~男社会のなかでお転婆に

第2章 天龍源一郎との出会い

     ~私が結婚を決意した理由

第3章 夫、父親としての天龍

     ~誰も知らないその素顔

第4章 プロレスラーの妻として

     ~天龍を絶対に一等賞に!

第5章 全日本退団、

    SWS、WAR終焉まで

     ~いわれなきバッシング

第6章 タフ・ネゴシエーター

     ~あまりにも険し過ぎた道のり

第7章 父の引退と二人の人生

     ~娘が間近で見た寄り添い合う両親

最終章 誰からも愛された母へ

     ~共に過ごした最後の1年7か月

 

 本書は1章から6章までは嶋田まき代氏、第7章は娘・嶋田紋奈氏の口述筆記によるものだそうです。「はじめに」と最終章は紋奈氏が執筆したとのこと。第2章「天龍源一郎の出会い」の「ジュリーがライバル」では、まき代が天龍と初めてお見合いしたときのことについて、「私は水商売をやっていたので、何十万円もするようなスーツを着ていましたが、4か月前にアメリカから帰国したばかりの天龍はウェスタンシャツにウェスタンブーツ。テンガロンハットこそ被っていませんでしたが、まるで昔の西部劇から飛び出してきたようなカウボーイ・スタイルでした。バックルが大きな金属製で、後ろ側に『TENRYU』という焼印がされた太いウェスタンベルトがやけに印象的でした」と述べています。

 

 正直、天龍は自分のタイプではなかったというまき代氏は、「筋骨隆々というのもあまり好きではなかったですし、毎晩のようにホストクラブで男前ばかりを見ていましたから。天龍は相撲界やプロレス界では男前なのかもしれませんが、私の眼は非常に肥えていました。私は色男系のジュリー......沢田研二が好きでしたから、だから天龍は『俺のライバルはジュリーだ!』と言って、今も闘っています(笑)」と述べるのでした。

 

 「関係リセットからのお付き合い開始」では、初のプロレス観戦について、まき代氏は「初めてナマで観たプロレスは......子どもの頃に父の母に対する暴力を見てきたので、いいイメージは持てませんでしたし、ピンと来なかったというのが正直なところです。だから天龍が誰と戦ったのかも覚えていませんが、その日のカードはメインイベントでジャイアント馬場さん、石川隆士さんと組んでスタン・ハンセン、上田馬之助さん、ケリー・キニスキーとの6人タッグマッチだったそうです。試合後には『ご飯はここに行きなさい』『そのあとは、私の知っているこのスナックに連れていきなさい』『そのあとにどこか行くことになったら、ここに......』と、母がすべて段取りしたコースで天龍とデートをすることになっていました」と述べています。

 

 第4章「プロレスラーの妻として」の「ナマ観戦は年間最終試合の1回だけ」では、まき代氏は天龍の試合を観るのが怖いので、引退試合(2015年11月15日、両国国技館=オカダ・カズチカ戦)も試合はナマでは観ていないそうです。観たのは入場と退場だけでだったとか。まき代氏は、「年に一度だけ観るリング上の天龍は、いつもフル回転でした。受けて、受けて、受けて、起き上がって、受けて、受けて、起き上がって......そこまで受けなければいけないんだろうかと思って観ていました」と述べます。一度だけ「何でよけられるのに、よけへんの?」と聞いたことがあるそうですが、「そこが男の美学なんだ。よけるのは、誰でもできる。でも、そこで受けることで、相手も自分も両方が光るんだよ」と答えました。実際、天龍が賞をもらったのは負けた試合がほとんどだそうです。

 

 「円満退社のはずだった全日本退団」では、SWSへの移籍騒動のとき、馬場は天龍に「お前を社長にするから、もう全部仕切ってくれ。社長業とは別に選手としてのギャランティーもちゃんと発生するから」などと引き留めたそうですが、天龍は「ジャンボを差し置いて、俺が飛び越えて社長になるなんていうのは、やっちゃいけないことだ」と言ったとか。馬場とは3回ぐらい話し合いをしましたが、天龍は「引き止められても、馬場さんの性格では関係を修復することはできないだろう」と考えていたとか。アントニオ猪木は経営者としてレスラーを商品だと考え、たとえ不義理をして出て行った長州力でも商品価値があると思えば受け入れますが、馬場夫妻は感情論で動くからです。

 

 天龍は、馬場にも直接、「裏切られたと思っている自分をもう一度、受け入れるのは無理なんじゃないですか?」と言ったそうですが、最終的に「馬場さんには絶対に許せないという気持ちが残るでしょうし、自分も辞めると口にした以上、もう全日本には戻れないので、メガネスーパーが作る新団体と全日本で対抗戦をやって盛り上げましょう」と天龍が提案し、馬場も「じゃあ、お前がそっち側(メガネスーパー)ということで、対抗戦をやってお互いに協力してやっていこう」ということで両者は和解して円満退社のはずでした。しかし、まき代氏は「馬場さんと天龍の間ではちゃんと話が付いていたのですが、元子さんが違う解釈をしてしまい、馬場さんの考えを尊重せずに共同通信に『天龍が裏切って辞めました』とリークしてしまって、『天龍、全日本を退団!』のニュースになったんです」と述べています。

 

 「引き抜き騒動といわれなきバッシング」では、天龍が全日本を退団してSWSの旗揚げに参加したことへのバッシングはすごかったそうで、それもSWSの中で一番の有名選手であった天龍が一身に浴びる形になりました。まき代氏は、「その後、SWSではいろんなことが起こりましたが、天龍が批判と非難を一身に背負ったということに関しては、SWSに来た選手たちみんなが感謝してほしいと今でも思います。後年になって、当時の週刊プロレスのターザン山本編集長が馬場さんからお金をもらって天龍を叩いていたことが本人の著書からも明らかになりました。その後に『あの時は子供だったから、惑わされて週プロが書いていることを本当だと思っていました』とか『初めて真実を知りました。とんでもないことだったんですね』などの声を聞きましたが、当時の天龍の心情を考えると、胸が締めつけられます」と述べます。

 

 しかし、天龍が全日本を退団した後も、まき代氏の父親が亡くなったとき、馬場は葬儀だけでなく四十九日の法要にも花を出してくれたそうです。第6章「タフ・ネゴシエーター」の「復帰した全日本での3年間の想いは」では、馬場の死後、選手の大量離脱が起こった全日本に天龍が電撃復帰したエピソードが綴られます。2000年7月2日、後楽園ホールで天龍は10年ぶりに全日本のリングに立ち、大歓声の中をファンに挨拶しました。天龍は川田利明と組んでスタン・ハンセン、太陽ケア(当時はマウナケア・モスマン)との全日本復帰第1戦(7月23日、日本武道館)を観たというまき代氏は、「天龍がリングに上がった時に、真正面にハンセンが立って、二人が向き合った時にはゾクゾクしました。まだゴング前で、闘っていないのに試合が成り立っていて、これがプロなんだなと思いました。全日本に戻った時には、いのいちばんに『馬場さんにお線香を上げさせてください』と、二人でご自宅に伺いました」と述べます。

 

 最終章「誰からも愛された母へ」の「母と決めた3つのこと」では、天龍夫妻の一人娘である紋奈氏が、まき代氏が最後に入院したときの様子について、「きっと父には聞けない、そして母も父には話せないであろう『延命治療、どうする?』『そんなに長くないってよ。どうしたい?』といった話を二人でしました。人に会いたい。延命はしない。紋奈が大変だから、看取りは家じゃなくていい。この3つを決めました。そして、母はこう言いました。『ごめんね、お父さん残して先に行くけど、あんたに迷惑かけるなぁ』父が面倒なのではないんです。無事にリングを降りた父を、今度は無事に見送って、母と二人で『うちら、お父さんのこと、ちゃんとやり切ったね!』と、一緒に笑い合いたかったんです」と述べています。このくだりを読んで、わたしは泣きました。

 

 2022年6月24日、午前11時13分、嶋田まき代氏は永眠しました。「父からの別れのキス」では、紋奈氏は「コロナ禍で人との心が遠く感じてしまうなかで、人が大好きな、人懐っこい母にふさわしい、温かくて賑やかなお見送りができたと思っています。棺には大好物のパン、コーヒー豆、寿司屋を営んでいた時の板前さんが持ってきてくださった『しま田』の味のいくらのしょうゆ漬けを入れました。そして、父とペアで使っていた香水をたくさん振り、お花が大好きだった母が喜んで仕方がないほど皆様にもお花を入れていただきました」と述べます。出棺のために蓋を閉める間際、天龍は「まきちゃんにキスをしてもいい?」と言って、最後にお別れのキスをしたそうです。

 

 紋奈氏は、「あんなに亭主関白で勝手にやってきたけれど、晩年は本当に二人はつがいだなと感じることが多く、愛情表現もしっかりしていた父です。亡くなった直後も、アンチされている時も......父は事あるごとに、別れを惜しむように、口づけをしていました。それは、天龍源一郎らしくはないけれど、嶋田源一郎らしい行動だと思いました。きっと、恰好つけて後悔したくなかったんだろうなと思います。父は自分の気持ちにとても素直で、その行動は当然であり、必然であったと思います」と述べるのでした。本書を読んで、わたしは夫婦というものについて考えさせられました。わたしと妻も「つがい」として支え合って最後まで生きたいものです。