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縄文文明』

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No.2151


 『縄文文明』小名木善行著(ビオ・マガジン)を読みました。サブタイトルは、「世界中の教科書から消された歴史の真実」です。著者は、昭和31年生まれ。信販会社を経て、国史啓蒙に関する執筆活動家として活躍。日本を知るための私塾「倭塾(わじゅく)」を運営。YouTubeの人気チャンネル『むすび大学チャンネル』は、約28万人を記録(2022年4月現在)。さらに、ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。著書に『庶民の日本史』(グッドブックス)、『古事記』『日本建国史』『金融 経済の裏側』(青林堂)、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』(徳間書店)、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』(かざひの文庫)など。

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本書の帯

 

 本書のカバーには有名な遮光器土偶の写真が使われ、「1万7000年前に日本でおこった世界最古の文明」「優れた建築技術と高度な生活水準。何より1万4000年という長い時代の間、武器を持たずに平和を貫いた」「日本人の高い精神性は、縄文へつながる。やっぱりこの国はすごかった!!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には、「世界四大文明(メソポタミア・エジプト・インダス・黄河)よりも、1万3000年も前からあった縄文文明。数々の証拠が、驚異の事実を物語る。世界はなぜこれほどまでに『日本人のルーツ』を隠したがるのか? その真相に迫る」と書かれています。

 

 カバー前そでには、こう書かれています。
「1万4000年も続いた縄文時代。これほどの長期間、平和を維持できた国はありません。しかし、教育現場では縄文時代についてほとんど触れない。その理由は、縄文時代について知れば知るほど、日本人が『本当の強さ』を取り戻してしまうから、なのです」

 

 さらにアマゾンの「内容紹介」には、「縄文時代、日本にはどんな文明があったのか――ほとんど日本人が知らないようですが、それも無理はありません。縄文時代については、学校の教科書でせいぜい次の内容くらいしか教えられていないからです。『縄文時代まで狩猟採集によって生活を行っていましたが、 弥生時代には稲作が始まり、暮らしが豊かになりました』ところがこれがまったくのデタラメです。実は今では縄文時代に優れた文明があったことが出土品などから明らかにされているのです。ところが学校でそれを教えることはありません。あなたも世界中の教科書から消された歴史の真実を知ってください!」とあります。

 

 本書の「もくじ」は、以下の構成になっています。

はじめに「歴史教科書では教えない縄文文明」

第1章 なぜ縄文文明は1万4000年も続いたのか?

第2章 海洋民族だった縄文人

第3章 遺跡から見る縄文と諸外国

第4章 ねずさんの「新・縄文文明」講義

第5章 古事記・日本書紀に見る縄文の面影

おわりに「現代に生きる縄文の叡智」

 

 はじめに「歴史教科書では教えない縄文文明」の「『縄文時代』はいつできた?」では、「縄文時代まで狩猟採集によって生活をしていましたが、弥生時代には稲作が始まり、暮らしが豊かになりました」という常識がまったくのでたらめであり、実は今では縄文時代にすでに優れた文明があったことが、出土品などから明らかにされていることが明かされます。ところが学校でそれを教えることはないとしています。

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縄文展」の看板の前で

 

 著者は、「そもそもこれらの『石器時代』『縄文時代』『弥生時代』という時代区分は、いつ生まれたのでしょうか実はこうした区分は、戦後に突如生まれたものです。では、それまではなんと呼ばれていたのでしょうか。これも学校では教えないことです。戦前では、初代の神武天皇より以前の時代は『神代』とされていました。つまり『神様の時代』とされていたのです。ところが、日本が戦争に敗けると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって神話教育が禁止されてしまいます。その結果、神武天皇以前の神代教育もなくなり、代わりに『縄文時代』や『弥生時代』といった新たな古代の時代区分が生まれることになったのです」と述べています。

 

 著者は、「石器時代」「縄文時代」「弥生時代」という時代区分が戦後に生まれたと述べていますが、じつは時代区分としては既に戦前から用いられており(縄文式時代や弥生式時代など)、学術誌でも用例が確認できます。皇国史観のもとでの教育や、教科書に載せられるだけの研究成果がなかった等の理由から戦前の教科書には採用されていなかったと考えられますが、戦後に突然生まれたとするのは不適切な表現ではないでしょうか。

 

 「日本における『神』の意味」では、「私たちにとっての神様は、自身と血のつながったご先祖の物語なんだ」といった概念のことを「ご先祖を神のほうにさかのぼっていった語り」として「かむがたり」ということが紹介されます。日本人にとっての「神話」とは「神語」のことであるとして、著者は「神話教育の禁止は、まさに自分たちの先祖を否定することでした。だからこそ、GHQは神話教育を禁止することで日本人の精神的支柱にダメージを与えられると考えたわけです。必然的に軍事力は弱体化していきます」と述べています。

 

 また、「日本では世界に先駆けて新石器が使用されていた!」では、「神話教育がなくなったことでにわかに活気づいたのが、考古学会です。昭和21年から26年にかけて、相沢忠洋(1926-1989)というひとりの考古学者が、赤城山の麓の岩宿から石器を発見します。これがなんと現在から3万年前のものだとわかり、大騒ぎになります」と書かれています。

 

 第1章「なぜ縄文文明は1万4000年も続いたのか?」の「武器を持たない縄文人」では、ヨーロッパなどでは、だいたい1万年前くらいを旧石器時代、1万年~3000年くらい前の時代を新石器時代などと呼ぶろして、著者は「ちなみに、旧石器時代というのは、人類が自然石をそのままの状態で使っていた時代であり、新石器時代は人類が自然石を加工して用いた時代のことをいいます。日本の縄文時代というのは、ヨーロッパや中国における旧石器時代後期から新石器時代にかけて栄えた、まったく日本独自の文化の時代です」と述べています。

 

 縄文時代の遺跡は全国で9万531カ所も発見されており、著者は「9万といえば、すごい数です。遺跡では『何が発掘されるのか』が注目されますが、『何が発掘されないか』も当時の文明を解明する手がかりになります。世界の古代遺跡では必ず発見されるのに、わが国の縄文時代の遺跡からは発見されないものがあります。そのひとつが『対人用の武器』です。人が人を殺すための武器が、縄文時代の遺跡からはまったく出土していません」と述べます。

 

 もうひとつ、注目すべきことがあります。遺跡からは、縄文時代の人骨がたくさん発見されていますが、調査の結果、外傷によって亡くなったと思われる人骨は、わずか1.3パーセントだったそうです。著者は、「これは世界の常識からしても、圧倒的に少ない割合です。しかも、少ない外傷例についても、明らかに矢が刺さったような外傷を負った人骨は存在しません。もしかしたら、事故で転んで頭を打っただけかもしれません。縄文時代において、戦いで死んだ人は、ほとんどいなかったと考えられるのです」と述べています。

 

 今から1万6500年前の土器が、青森県の大平山元Ⅰ遺跡で見つかっています。まぎれもなく「世界最古」の土器であるとして、著者は「1万年前といえば、ヨーロッパではまだ旧石器時代です。それより6500年も前に、日本では非常に高度に発達した文化が醸成されていたわけです。その時代、すでに土器を作り、集落を営み、武器を持たずに人と人とが助け合う文化を醸成させていたのです。これはすごいことです」と述べます。

 

 そして、著者は「土器の特徴から見ても、縄文時代に戦いがあったとは考えにくいのです。こうした事実から、1万4000年間という途方もない長い期間にわたって、我々の祖先は、『人が人を殺める』という文化を持っていなかったということがわかりました。日本人が平和を愛するのは、この1万4000年間という途方もなく長い期間にわたって蓄積された、DNAのなせる業なのです」と述べるのでした。

 

 「武器による外傷が存在しない」「人が人を殺める文化を持っていなかった」などというこういう主張は個人的には好きなのですが、よく考えると疑問点があります。近年の研究では明確に他人によって殺傷されたと思われる痕跡を持つ人骨の存在が少数ではありますが確認されており、弥生時代以降の様な集団戦ではないものの、1対多人数での闘争があったであろうことが指摘されています。特に本文中では「矢が刺さったような人骨は存在しません」とありますが、他人による攻撃の主たる手段は矢によるもので、これによって命を落としたと思しき人骨も発見されていますので、当該箇所の記述をどのような根拠に基づいて行っているかには注意が必要でしょう。

 

 「子どもの足形のついた土版から見えてくる愛」では、北海道函館市の垣ノ島A遺跡から「子どもの足形のついた土版」、すなわち「足形付土版」が発見されたことが紹介されます。著者は、「おそらく縄文時代も死産や早世が多かったことでしょう。医療も発達していなかったので、なんとか生まれて来ても、幼いうちに亡くなってしまうことも、今とは比べようのないくらい多かったと思われます。これだけは言えますが、時代が違っても産んだ子どもを失った悲しみや、亡くしたわが子への思いは同じです。だからこそ親たちは、亡くなった子どもの足形を粘土版に残し、大切な思い出としたのです。それが私たちの祖先です」と述べています。

 

 悲しい別れに際し、「ずっとおまえのことを忘れないよ」「ずっとおまえは、お父さんお母さんと一緒にいるんだよ」といった思いを込めて、子どもの足形を粘土で採って、小さな家の中にずっと飾っておいたのかもしれないとして、著者は「写真もない時代ですから、足形を残すくらいしか方法がなかったのでしょう。そうして、子どもへの愛をずっと大切に保とうとしていた......。足形付土版は、その証ではないかといわれています」と述べています。著者の推測が当たっていれば、縄文時代にグリーフケアが存在したことになります。というか、グリーフケアはけっして最近生まれたものではなく、古代から、さまざまな形で存在していたことがわかりますね。

 

 縄文時代の土偶はお腹の大きいデザインのものが目立ち、全体として残っているというより複数の場所にバラバラの破片として残されていることが多いですが、妻が妊娠したときは、同じようにお腹の大きい女性を土偶として作り、その土偶を破壊することによって、身代わりとしてあの世へ逝ってもらう「身代わり人形」だったのではないかという仮説が立て、著者は「つまり先に死後の世界に逝ってもらうのです。バラバラにしたうえで、わざわざ村のあちこちに分散させて埋めたのは、『現世に帰ってこないため』と考えると、筋が通ります。この想像が当たっているかどうかはともかく、土偶はほとんどが妊婦であることから、縄文時代では、女性の妊娠が社会全体で特別視されていたことは確かでしょう」と述べます。

 

 多くの土偶に見られる特徴として、体つきがリアルな割に顔がなかったり、かなりデフォルメされたりしている点が挙げられると指摘し、著者は「身代わりの土偶をあまりにもリアルに作ったら、神様が間違えて本物の母体のほうを連れて行ってしまうかもしれません。ですから顔をなくしたり、デフォルメしたりしたのではないか、と考えられます。そして無事な出産を願って、その土偶を破壊し、神様に捧げ、身代わりにあちらの世界に行っていただく。そうすることで、母体や胎児の安全を図ろうとしたのではないか」と推測しています。

 

 縄文時代の日本を除く中世以前の世界では人身御供や、人柱などという習慣もありました。誰かを守るために、誰かが犠牲になる、誰かが殺される。人類の歴史には、そのようなことも多数あったとして、著者は「けれど縄文の日本人たちは、誰も殺さず、むしろ土偶という身代わりを立てて、神様に捧げました。そういえば古墳時代の埴輪も、古墳の人柱を人形で代用したものといわれています。人の命を何より大切にしてきたのが、日本の古くからの変わらぬ文化です」と述べるのでした。

 

 この埴輪の起源は人柱の代用という説にも疑問点があります。『日本書紀』垂仁紀32年にみえる野見宿禰の埴輪起源伝承にもとづいての記述かと思われますが、これは埴輪の製作を司った土師氏による後世の創作です。埴輪は初期には葬儀用の器や台をいった葬送儀礼に関する形態で、人型の埴輪の出現は古墳時代中期以降となっています。著者の見方は明らかな誤解であると思われます。

 

 「日本古来の『結び』の知恵」では、「結婚したカップルのことを『夫婦』といいますが、実はこれは戦後から使われるようになった言葉です。戦前は『めおと』という言葉を使っていました。『めおと』は漢字で書いたら『妻夫』で、『妻』が先、『夫』が後です。現代でも多くの男性が妻のことを『かみさん』と呼びますが、それは女性が家の神様だからです。なぜ神様なのかは、縄文時代の土偶から推測することができます。子を産む力は、女性にしか備わっていない。命を産み出す力は、まさに神様の力です」と書かれています。

 

 しかし、この記述も疑問点があります。「夫婦」が戦後から使われ出した単語とといいますが、古いものでは『続日本紀』(797年)、近代でも芥川龍之介『馬の脚』(1925年)など少なからぬ用例があります。「かみさん」の語源は神様というのも違うと思います。かみさんの語源は「お上様」で上と神は発音の側面から根本的に異なる単語であり、両者の間に関係は見出せません。(上=神は中世神道などで言われた言説ではあります)また、妻のことを「かみさん」と呼び始めたのは近世頃からで、縄文文化を論じる上では無関係と思われます。

 

 そもそも日本人は対立をあまり好まないとして、著者は「たとえば、縄文時代でも男と女はどちらも不可欠な存在なのだから、互いに協力し合い、共存して、互いのいいところや特徴を活かし合いながら、一緒に未来を築くものとされてきました。これは『対立関係』ではなく、『対等な関係』です。そして『対等』とは、相手をまるごと認めながら、双方ともに共存し、共栄していこうという考え方です」と述べています。これなどは、「互助共生社会」の実現にも通じる素晴らしい考え方であり、現代日本人が学ぶところも多いのではないでしょうか。

 

 女(メス)には子を産む力が備わり、男(オス)には体力があります。縄文時代は女が安心して子を産み育てることができるよう、外で一生懸命働いて、産屋を建て、村の外で食料を得てくるのが男の役割であったと指摘し、著者は「そうすることで愛し合う男女は子をもうけると、今度は子どもたちの未来のために、互いに役割分担して共存し、協力し合って、子どもたちの成長を守り、子孫を繁栄させます実際問題、学者や評論家たちは、ジェンダーフリーだとかいろいろなことをいいますが、現実ではどのご家庭でも、妻と夫が互いに相手の尊厳を認め合い、助け合い、支え合う対等な存在として生きているのではないでしょうか」と述べます。まさに、その通りだと思います。

 

 縄文の女神に象徴されるように、日本人は1万年以上前から、女性にある種の神秘を感じ、女性を大切にしてきたとして、著者は「男女とも互いに対等であり、互いの違いや役割をきちんと踏まえて、お互いにできることを相手のために精一杯こなしていこうとしてきました。日本人は、そうやって家庭や村や国としての共同体を営んできたのです。これが『結び』です。日本人の知恵は、はるかに深くて温かなものなのではないかと思います」と述べるのでした。この「結び」の思想はまさに「産霊」であり、「結婚」の本質でもあります。日本には世界に誇るべき「結び」の思想が存在したという著者の意見には大賛成です。

 

 「イエ・ムラ・ハラ・クニ」では、縄文時代の人々が一定の集落を作って暮らしていたことが、少しずつ明らかになってきたことが紹介されます。國學院大學名誉教授の小林達雄氏によれば、その頃に使用していたと思われる「縄文語」なる言葉もあり、それが「イエ(家)・ムラ(村)・ハラ(原/平野)・クニ(国)」だといいます。「イエ(家)」は家族が住むところで、親戚や兄弟など身内がそこに固まってくると、「ムラ(村)」になります。村のまわりにあるのが「ハラ(原/平野)」で、たくさんの食料がある自然が広がっています。「ハラ」の向こうには山があり、また別の村があることになります。

 

 さらに、著者は以下のように述べています。
「やがて、こんな会話が交わされるようになり、村と村との間で血縁関係が生まれたのでしょう。『ウチの兄貴が結婚したときには、山の向こうの違う村から、お嫁さんをもらったんだよ』『姉ちゃんは、あの山の向こうの村にお嫁に行ったんだよ』そうして血縁関係で村々が結ばれていきます。その結果、『クニ(国)』が形成されていくことになります。つまり、『イエ(家)・ムラ(村)・ハラ(原/平野)・クニ(国)』が、縄文時代には、人々の生活圏だったようです」

 

 「村落の形状から」では、縄文語の「イエ(家)・ムラ(村)・ハラ(原/平野)・クニ(国)」のうち、村落に注目すると、真ん中に墓地があったことがわかっていることが紹介されます。いわゆる共同墓地です。著者は、「当時の人たちは死者との共存を図っていたのでしょう。南アフリカの奥地では、日本の縄文時代と同じような村落が形成されているのですが、興味深いことに、やはり真ん中に共同墓地があります。さらにその真ん中には、バナナの木が植えてあるのです。なぜそんなことをしているのかというと、村に一大事があると、村民が集まって、墓地の真ん中にあるバナナの木のバナナをみんなで食べるのですね。そうすることで、祖先の持っていた勇気、知恵を自分の中に取り入れるという風習があります」と述べています。

 

 「世界四大文明は大嘘だった」では、「教科書で教えられている『世界四大文明』は、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明です。いずれも、だいたい4000年前~5000年前におきたとされています。ところが、先ほどからお伝えしている通り、8000年前にシュメール文明が存在したことがすでに明らかになっています」と書かれています。いわゆる「世界四大文明」は学術的な用語ではなく裏付けもないため、昨今の教科書の記述からは削除される傾向にあります。

 

また、著者は「黄河文明が成立するよりも2000年古い、およそ7300年前に長江(揚子江)の流域で長江文明が存在したこともわかっています。長江文明は、中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称です。証拠は別の答えを出しているのに、教科書ではいまだにシュメール文明にも、長江文明にも触れていません」と述べていますが、こちらは既に2000年代初頭の高校世界史Bの教科書で言及されているものがあり、事実誤認ですね。

 

 現生人類がアフリカからユーラシア大陸に進出したのは、約5万年前だとされており、後期旧石器時代にあたります。そして3万8000年前に日本列島に人類が渡って来たという通説を紹介するのですが、著者は「ところが、2009年に島根県出雲市多伎町の砂原遺跡にて、国内最古の約12万年前とみられる旧石器時代の石器が見つかりました。これは人類発祥よりはるか前に、日本ですでに石器が使われていたということです。『世界で文明が発達するなか、日本では遅れた文明しかなかった』私たちはそんなふうに教えられてきました。はたして、それは本当なのでしょうか。人類が誕生したとされているのが約5万年前で、さらにその倍以上さかのぼる12万年前から日本人が石器を使っていたことを考えると、むしろ、世界に先駆けた文明があったと考えるのが自然でしょう」と述べます。

 

 「世界に広がる『縄文文明』」では、縄文時代は、1万4000年という長い期間にわたり、人々が武器を持って戦うことなく、平和に、かつ豊かに暮らしていたことが紹介されます。これはまさに「持続型社会」にほかならないとして、著者は「人は、おおむね25年で世代が交代するといわれます。これは今も昔もほとんど変わりません。祖父母の代から、父母、自分、そして子が大人になるまで、これが4代100年です。1300年前に『古事記』が書かれてから、約50世代が交代したわけです。さらに縄文時代となると1万7000年前ですから、なんと我々は600世代目になります。だいたい16代(400年)経つと、外観や気質など国民の特徴が固定するのだそうです。ですから、私たちは祖先の武器を持つよりも働くこと、和を尊ぶ文化を大切にする気質を受け継いできているはずです」と述べるのでした。

 

 第2章「海洋民族だった縄文人」では、著者は述べます。
「私たちの祖先である縄文人は海洋民族だったのです。そうして考えたときに、縄文時代には、豊かな大地の高天原文化圏と美しい海の恩恵を受けた小笠原文化圏があり、ともに大きな輪を描きながら、人々は何世代にもわたって暮らしていたのではないか。そんなまったく新しい、私たちの祖先の生活が見えてきます。実際に、この環状の列島で出土する石オノの形はすべて同じです。島から島へと渡り歩いて暮らしながら、何らかの形で文化的な交流があったと見るほうが、自然でしょう」

 

 「『浅瀬に居る姫』とは誰のことか」では、神道の大祓詞には「瀬織津姫」と呼ばれる神様が登場することを紹介し、著者は「当時、女性のことを『姫』といいましたが、舟に乗り島から島へと渡ってグアム島ラインで生活する人々にとって、島で帰りを待つ女性たちは、まさに『浅瀬に居る』神に等しい存在です。女性は子を産み、新しい生命を育む。浅瀬に居る姫たちは、海で漁をして暮らす男性にとって、まさに神そのものであったのかもしれません。それが万年の時を越えて、瀬織津姫として神格化されたのかもしれません」と述べます。この瀬織津姫ですが、天照大神と同一神などとも考えられているようですね。

 

 第3章「遺跡から見る縄文と諸外国」の「朝鮮半島から人が消えた5000年間の謎」では、著者は「実は、朝鮮半島に関しては、1万2000年前~7000年前にかけての遺跡がまったく発見されていません。これが何を意味するのかというと、朝鮮半島にはその5000年の期間、人間が住んでいた痕跡がないということです」と書いています。しかし、旧石器時代の公州石壮里遺跡からは当地の旧石器時代(1万~3万年前)のものと推定される石器が発見されているほか、それに続く新石器時代・櫛目文土器時代の遺跡が発見されており、人類が生活していた痕跡が確認されています。これも明らかな誤解と言えるでしょう。

 

 著者は、エデンの園にも言及し、以下のように述べます。
「エデンの園というのは、サウジアラビアの真ん中あたりに実在したといわれています。緑豊かだったはずのエデンは、人類が火を使う(火=赤=リンゴ)ことによって砂漠化し、いまだにそこは荒涼とした砂漠のままです。朝鮮半島でも同じように、1万2000年前までそこに住んでいた人々は、火を使って半島の山々をはげ山にしてしまい、平野部に洪水が起こったことで、人が住めなくなったのだと思います。緑がないから、狩猟も採取もできません。洪水のある平野部では農作物もできない。必然的に人が住めなくなったのだと思います」

 

 「『和をもって貴しとなす』は日本人の根幹」では、文化は、中国に始まり朝鮮半島を経由して日本に流れてきたという説があることが紹介されます。イギリスの歴史家アーノルド・トインビーの説などがその典型ですが、著者は「しかし、なるほど武器や仏教に関しては、そういうことがいえるかもしれないけれど、少なくとも遺跡を見る限り、中国よりも日本の文明開化のほうがはるかに早い。朝鮮半島など、約5000年の空白時代すらあるのです。日本には、男性が武器を持たず、女性たちが美しく着飾り、和をもって貴しとする人々の和の文化がもともとあり、そうした大和人のDNAは、現代にまでしっかりと受け継がれている。中国や朝鮮から伝播したのは、人殺しのための武器と、争いごと、強盗、性的暴行など、理解しがたいものばかりです」と述べています。

 

 おわりに「現代に生きる縄文の叡智」の冒頭を、著者は「実は江戸時代までの日本には『神話』という日本語が存在していませんでした。幕末に英語の『myth』を日本語訳する際に『神話』という言葉が作られたのです。では、それまではなんと言っていたかといえば、『神語』と呼んでいました」と書きだしています。また、今のイギリスにキリスト教徒であるノルマンディ公が上陸したとき、イギリスの先住民であるケルト人たちが持つ「妖精信仰」を、それは根拠のない作り話(=Myth)であると決めつけたことを紹介し、著者は「けれど、私たち日本人にとって神々の物語は私たちと血のつながった祖先の物語(神語)です。それを『根拠のない作り話(=Myth)』と一緒にされてはかなわない。それであえて『神話』という訳語を作り出したわけです。それくらい、神語というものは、日本人にとって精神的支柱として存在していたのです」と述べています。

 

 そして、著者は「神語は親から子へとつながれていった、「愛情の連鎖」です。そのスタート地点にあるのが『日本の縄文時代』なのです。日本人は縄文時代において、「人が人を殺すことも環境も壊すことなく、みんなで助け合って生きる」、そんな理想的な社会を1万4000年もの長きにわたって実現してきました。一方、わずか5000~6000年の歴史しかない、いわゆる世界の古代文明の地の多くはすべて砂漠化しています」と述べるのでした。この意見には、全面的に賛成です。いくつか文中で指摘したように、本書には、参考文献等が明示されていないために論理の検証が難しい箇所が複数ありました。また、明らかな誤解に基づく点も多く、すべてを鵜呑みにするわけにはいきませんでしたが、日本人の「助け合い」の文化、互助共生社会の原点が縄文時代にあったことを示したことは素晴らしいことと思います。